2ー2章 三河大争乱

116話:兵たちの拍動

 凱旋は大勝利の喧伝のもとに行われた。その場で長持からの降伏の知らせを受け取った忠康たちはそれを受け入れ、鵜殿氏を松平の傘下とすることを決定。そしてその証拠として長持の嫡男、鵜殿長照うどのながてると後2、3人の鵜殿一族を人質とした。

 駿府城に預けた人質も居るらしいが、彼らは良くて幽閉悪くて処刑といったところだろうか。しかしそれらを憂いた所で何も変わらない。かくして松平忠康は岡崎へと勝利の報を届けたのである。


 「父上!」

 岡崎城の門をくぐって直ぐに、広忠は穏やかな表情を浮かべて立っていた。それに気づいた忠康も笑顔で応じる。実に数日ぶりの再会である。

 「よくやった、忠康。これでお前も一人前の将だ」

 「ありがとうございます! 私も自ら刀を振るって敵と戦ったんですよ」

 「そうかそうか、本当に良かった」

 広忠の安堵を、子の無事を喜ぶ父親として周りは温かい目を向けていた。ただ事情を知っている数人は違う。勿論皆が思うような気持ちはある。しかしこの広忠の、心の底からの喜びは自身の後継者を無事育てあげたことに対する喜びなのだ。つまり最悪今自分が逝っても松平を繋いでいける、そういう思いがこもっていた。

 「さあ、今宵は宴だ! 是非この幸せを祝おうぞ」

 広忠の提案に酒肴を飲める贅沢を味わいたいと、多くの家臣が城に殺到した。


 「うっ……」

 口に含んだだけで舌の奥に張り付いてくるような痛みに思わず顔を歪めた。ええい、と飲み込んでみると弾けるような口当たりが出てくる。形容しがたい感触に不快感を感じる。少なくとも、飲めたもんでは無いなというのが感想だった。

 「父上、無理です」

 「はっはっ! 忠康にはまだ酒は早いか!」

 一層と顔を赤くした広忠やその他家臣たちがどんどんと酒を飲んでいくのを見ながら、忠康は内心「これは飲めない」と悟った。早かった、そう思うようにしよう。


 最近の広忠は昼間でも酒を飲んでいる。忠康がもう少し小さかった時も同じように広忠が酒にハマっていた時期があった。酒を飲めるようになれば一つ大人になれるとも思ったが、勘違いだと感じることにした。


 それはそうと、宴会の場でも雑談として情勢の話はされる。

 「鵜殿は西三河と東三河を繋ぐ要衝だ、そこを支配出来たのは相当大きい。忠康もだが忠員ただかずもよくやってくれたらしいな」

 忠員や忠次、忠吉ら皆がいる前で楽しそうに広忠は発言する。

 「しかし怖いのが今川の反応ですなあ。一体何をしてくるか」

 忠吉は身震いするように反応する。確かに、それは一番懸念されることだった。

 「間違いなく、何らかの行動は起こしてくるだろうな」

 「その時は織田や水野に頼らないといけなくなるか」


 今川が何をしてくるのか、少し読めない。これまでも幾回か今川軍は軍勢を差し向けてきたが、三河の地勢を生かした効果的な作戦で追いやってきた。しかし今川が攻撃の手を緩めることはありえないだろう。そもそもの話で言えば、尾張というのは元々今川の旧領だった部分もある。今川氏の三河侵攻には失地回復という名目も含まれていると、そう広忠は推測しているのだ。


 「暗いことは言うな! ただ義元は北条とも武田とも盟約を結んでいる故、侵攻方向はこの三河以外にない。こちらに来ることは間違いないんだ、我々が出来るのはそれを迎え撃つのみだ!」

 広忠の鼓舞におーう、と酔った男たちが呼応する。

 


 岡崎とは縁もゆかりも無い場所、甲斐国でまた広忠の名前が話題に上がっていた。その内容とは専ら今川と松平の争いについてのことである。外は雨が降っており、普段は少し乾燥するこの土地も湿気に満ちていた。

 「さてこの文に関することであるが」

 ぎらりとした目を携え、軍議に参加する家臣たちを見渡す。"文"はまるで掲げるように家臣らの中心に置かれ、部屋には緊張感が走っている。


 「まあ、皆に内容は既に行き渡っておると思うが……一応説明を。源左衛門」

 「はっ」

 源左衛門と呼ばれた男――工藤源左衛門は男の命令に応じて状況の説明を始める。


 「先日、駿河の今川義元殿から文が届きました。要件は2つ、太原雪斎の死亡と三河国の状況について」

 雪斎が死んだことを、義元は一切隠さなかった。安易に隠すと逆に不利になると考えたからだ。これは氏真の案であった。確かに彼は今川に大きく貢献したが、だが彼だけで今川家が回っている……そんな風に近隣諸国に思われたら終わりだ。今川の権威は失墜してしまう。雪斎がこれまで務めていた役職は各人に振り分けられることになった。

 「我々への外交を取り次ぐのは義元嫡男の氏真殿となるようです」

 これ自体は特に関心を寄せる程の知らせではなかった。雪斎の死は、確かに勿体無いと思われるがそんなことで今川家は終わらない。そんなことを自他ともに分かっていたからこそ、氏真も死を公表した。


 「三河国に今川家は大侵攻を仕掛けるとのことです」

 「うむ」

 今川は『戦の時には援軍を寄越してくれ』と言う要求も出してきたのだ。これは家臣たちにも関わってくる問題であり、周りの勢力との関係も見ながらやっていかねばならないことだった。

 「しかし我々は現在信濃国しなののくに下伊那しもいな木曽きそ郡の平定をしようという方針だったはずだ」

 真っ先にそう声を上げたのは穴山信友あなやまのぶともだ。もうすぐ50を迎えようとする老体で、今川家との外交交渉も任されている。老将と言ったところだ。


 「そうだ、そもそも今川の不手際を我々が回収するというのはどうなんだ」

 「そんなことを言っていつまでも松平を平らげられてないじゃないか」

 「我々は信濃国平定を優先するべきだ」


 やあやあ、と軍議の大広間が騒がしくなる。議論の声が激しくなり、少し怒気が混ざったような声も含まれるようになった。

 「静まれ、皆の者!」

 その中のよく通る低い声に一同は黙りこくった。ずっと大広間の奥で相槌を繰り返していた男だ。名を、武田晴信たけだはるのぶと言う。現代でも有名な後の武田信玄たけだしんげんである。

 「この情勢において、『今川の支援をする』と『下伊那・木曽を平定する』のふたつを同時に制する妙案を持つ者は居るか?」


 先程とは打って変わってしん、とした空気が大広間に張り付いた。その中で一つ、伸びる手があった。晴信とそこまで歳の差がない弟、武田信繁のぶしげである。

 「一つ考えが」

 「言ってみろ、信繁」


 晴信の少し期待したような目に頷いた信繁は話し始める。

 「皆々お忘れかと存ずるが、下伊那と木曽を平定することになれば美濃と国境を接することになる。美濃には誰がいると?」

 「……道三だ」

 誰かがそう言った。

 現在は義龍へと代替わりしているが、美濃の国主といえば道三という認識は近隣諸国に広がっていた。


 「そして美濃国東部……信濃国と接する場所には遠山とおやま氏という豪族がいる。彼らは斎藤側の人間として動いているが、彼らを掌握することは容易いと考えている」

 遠山氏自体はそこまで大きい勢力でない。武力で少し脅せばすぐに開城へと至るだろう。


 「遠山氏を味方につけることで、斎藤の目を我らに向けるわけですな」

 そう信繁は締めくくった。それを聞いた家臣団の反応も概ね好意的であった。

 「そんなことをしている間に長尾が攻めてきたらどうする」

 そんな声も上がってきた。発言主は武田義信よしのぶ、晴信嫡男だ。

 「長尾ながおから武田に内通してきた者が居たと存じます。彼に謀反を起こさせて、その間隙に……と言ったところでどうでしょう」

 「なるほど」

 納得した様子ですぐに退いた。これで信繁に意見を言う者は誰もいなくなる。皆の目が晴信に向いた。

 「これに異見がある者は遠慮なく言ってみろ」


 場に沈黙が訪れた。

 

 「それで行こう。今川義元が我に援軍を求めてきたように、松平は織田に、織田は斎藤に援軍を求めていくはずだ。そのままやったら大戦になりすぎて統率が取れなくなる。敵勢力を分断していくのは良い判断だな」

 晴信の理解も得られ、場の空気が弛緩する。躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたで行われた軍議で、武田家では今川家についてそのような対応で固まった。

 



 また場面は少し東に移り、活気のある城下。関東の相模国さがみのくにでも今川と松平の関係性について協議する姿があった。評定衆ひょうじょうしゅうと呼ばれる機構である。そこには、晴信とは少し異なって熱心に家臣と議論するのが見える。場所は歴史の舞台としても名高い小田原城おだわらじょうである。


 「義元からの手紙だが、ぜひ大軍で協力したいと思っている。異論はないか」

 そう言ったのは後北条ごほうじょう氏の第3代当主、北条氏康ほうじょううじやす。史実で見ると様々な勢力と干戈を交え、政治上の駆け引きを多く行ってきた。後北条全盛期への礎を築いた立役者だ。


 ちなみに"後"北条と言われるのは、鎌倉幕府執権を独占した北条氏と区別するためである。何故わざわざそんな紛らわしい姓をつけてるのかと聞かれれば、彼の父親の北条氏綱ほうじょううじつなが当時の情勢を鑑みて付けたのだが、取り敢えずそこを深く考える必要は無い。

 

 「うむ。この三国同盟を続けさせるためにも、良い関係を保っておかなければならん。心証を悪くしては元も子もない」

 氏康の主張に強く頷いたのは清水吉政しみずよしまさ。北条に古くから仕えてきた老臣で氏康の補佐となるともう数十年とお手の物である。


 現在行われているのは評定衆というグループで行われる会議である。月に2回という定期的な頻度で開かれ、北条当主を中心とした合議制の会議だ。担当は回り持ちになっており、時期によって構成員が異なる。ここで家臣たちは様々な問題を議論し、結束力を高める。謀反や裏切りと言ったことが他勢力と比べて少ない後北条氏の、基礎を築いた機構だと言えよう。


 「いや、出陣は迂闊かと思われます」

 古株の家臣と当主。二人が同じ結論に至ったことで簡単に議論が纏まりかけていた時、待ったをかける声が出てくる。石巻家貞いしまきいえさだ、もちろん評定衆のメンバーの一人である。

 「理由を」

 「晴氏殿に関することでございます」

 晴氏……足利晴氏あしかがはるうじのことである。実は現在、氏康はとある問題を抱えていた。足利家の分家で古河城こがじょうを主に中心として活動する足利家、通称古河公方こがくぼう。元古河公方の足利晴氏が氏康と対立しており、その関係で内紛が起こりそうになっている。


 これは長年の対立、とかそういう問題ではなくつい最近出てきたものだ。経緯は省くがともかく晴氏と氏康は対立し、つい一週間前には晴氏が葛西城かさいじょうから脱出する一件も起こっている。葛西城というのは現在の古河公方の本拠であるが、そこから晴氏が居なくなった為に彼は行方不明状態だ。


 「晴氏殿がどのような動きをしてくるのが分からない故、今川の戦を全面支援……というのは難しい形になるかと」

 「家貞殿の話を聞くと、確かにそうですな」

 そう狩野泰光かのうやすみつも賛同した。それを聞いた氏康は少し納得出来ない様子だ。


 「かと言って兵が出せない訳ではあるまい」

 「まあ確かにそうですが、最小限に抑えるべきです。最近は長尾景虎ながおかげとらの動きも少々怪しい」

 「景虎か……」

 景虎……よく知られている所の名前で言うと上杉謙信うえすぎけんしん。その名前を出されると心当たりがあり、氏康も強くは出れなかった。しかも晴氏の挙動がよく分からない状態にあるのは事実であり反論も特にない。

 

 「ただ、少しも兵を出さないというのは不義理だ。それは良いと思うか」

 氏康はまだ知らないが晴信は全力の支援を確約している。氏康の考えも尤もだ。

 

 「多少ならば良いと思うが」

 泰光の思案する声が上がってくる。

 「うむ……兵数については今後、いざ出陣となった時に話し合うことにしよう。では次は――郡の諸税については――」

 議論は次の議題に移った。北条の出せる兵力は、今後の晴氏の動きにも依存すると考えたからで今決めても今後変わっていく可能性も高い。わざわざ決める必要性は無かったからだ。

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