第9話 惨めになったり、酷く惨めになったりする

 朝食は、味噌汁と焼き魚、そして壺に入った漬物だった。漬物以外は、俺が岬に教わりながら作ったものである。


 漬物は、岬の家で漬けた自家製らしい。酸味を含んだ味わいが、どこか優しくてホッとする。


 献立自体は、取り立てて特別なところもない。しかし、それでも作るとなったら苦労した。料理なんて、ほとんどしたことがない。包丁を握ったことなんて、それこそ数えるぐらいだろう。


 玉ねぎは切ろうとして、床に転がすし。


 豆腐をパックから取り出そうとしたら、力を入れすぎてぐちゃぐちゃに潰してしまうし。


 魚は火加減を上手く調節できずに、端っこを焦がしてしまったし。換気扇をつけ忘れて煙がこもるし。臭いし。目に染みるし。


 味噌だか水だかの分量を間違えたのか、味噌汁の味は微妙に薄い。


「……すまん。せっかく教えてくれたのに」


「いえ、こちらこそもっと上手に教えられたら良かったです。人に教えるのは初めてだったので、私にも至らないところがあったと思います」


「いや、お前は悪くねえよ。俺が全然、こういうのが分からないのがいけないんだ」


「できないことや、知らないことは、仕方のないことです。それは、これから覚えていけるということでもあります。それに……」


 と、柔らかな笑顔を岬が浮かべる。


「実は私も、最初の頃はけっこう失敗してました。今でもまだまだ、お母さんのようにお料理することもできませんし」


「それは美汐さんがすごすぎるだけだって。岬だって、じゅうぶん料理はできるだろ?」


「ですが、できればもっと上手になれたらと思っています。おいしく作れたら、お料理は楽しいですから」


 言いながら岬が、俺の作った飯を食べ進める。自分で言うのもなんだが、まずくはないが美味くもない飯だ。


「……味の方はどうだ?」


 やめときゃいいのに、そんな質問を投げかけてしまった。


「頑張ってくれた味がしますね」


 嘘をつけない岬は、正直な感想をノータイムで口にする。


 ……これでも、だいぶ甘めに配点してくれたのだろう。ちょっと悔しいと感じてしまう自分が意外だった。


 そんな感じに、温かい(が美味しくはない)食事を終えたら、二人で洗い物。これも岬が、隣に立って細かい部分に口出しをしてきてくれた。


「今日のお手伝いはお節介だったかもしれませんが、いつか自立した時に、自分でできることはひとつでも多い方がいいと思うんです」


 洗い物を終えた後、岬がそんなことを言う。


「別に、覚えたことを全部やる必要はないとも思うんです。それでも、できないからやらないのと、できるけどやらないのとでは、似ているようで違いますから」


「どっちも、やらないことに変わりはないのに?」


「それが必要になった時に、できなかったら困るということですよ」


 それは……確かに、納得できなくはない話だった。


「さて。こんな時間ですし、そろそろ学校に行きましょう」


 飯を作って、食って、洗っている間に、だいぶ時間も過ぎていた。


 気づけば、八時にもう近い。ここまで見越して、岬は早い時間からうちを訪れたのだろう。


 つくづく、細かいところまで気の回る女だと俺は思った。


  ***


「学校は別々に行こうぜ」


 家を出たところでそう言ってみる。


 岬を突き放す作戦・その2の発動だ。これまでは彼女と一緒に登校していたが、今日からはその習慣を変えるのだ。


 そうすればおのずと、岬は一人で学校に行くことになるだろう。実は彼女は、その優れた容姿や人の好さに反して、友達がそれほど多くない。というか、むしろ、いない。


 どちらかというと、岬は生真面目な性格なのだ。嘘をつくのも、人に合わせるのも、上手くない。他の女子生徒たちとは会話のテンポもなかなか合わず、結果として少し孤立したような感じになってしまうのが常だ。


 そんな状態で俺との距離が離れれば、彼女と積極的に関わり合う人間はレオだけになる。そうすれば必然的に、岬とレオの関係だって急速に深まっていくことだろう。


 そう思って、俺は二人別々の登校を申し出たのだが。


「え、なんでですか?」


 と、岬は首を傾げてみせた。


「これまで一緒に行ってたじゃないですか。いきなりそんなこと言い出すなんて、透夜くん、なんか変です」


 おまけに、そんなことまで言ってくる。


「別に……いいだろ、理由なんてなんだって」


「なんだってよくありません。もし、ちゃんとした理由があるのなら、話してくれないと私だって分からないです」


「……」


「それがもし、言いたくないことなら、私も無理に聞かないですけど。でも、なにも言ってくれないのは寂しいです」


「それは……」


「はい」


「お前と、いるのが……嫌になったからだ」


 血を吐く思いで、そう告げた。


 思ってもいない言葉を口にするのは、どうしたって心が軋む。発言したその直後には、弁解したい気持ちでいっぱいだった。嘘だよ、そんなことは思ってもいないよ、嫌になんかなるわけないだろと、そんな風に己の発言をなかったことにしたくなる。


 だけどそれは、してはいけない。


 嫌われたって構わない。失望させたって、それでもいい。


「お前といると……最近俺は、惨めになるんだ」


「どうしてですか?」


「……それこそ、どうだっていいことだろ。岬には関係のないことだ」


「関係あります。私、透夜くんを傷つけてしまっていたんですか?」


「……ああ」


「だから、私と一緒に学校に行きたくないんですか?


「そうだよ」


「……私は、どんな風に、あなたを傷つけてしまっていたんですか?」


「……言っても、きっと分からない」


 彼女はいつだって優しくて。


 温かくて、思いやりに溢れていて、その居心地の良さに俺は癒されて。


 ……癒されてばかりで。


 岬の優しさを搾取するばかりで、なにも返せていないことに、不意に気づいてしまう瞬間があるのだ。


「とにかく……俺なんかといない方が、お前にとってもいいはずだろ」


「そんなこと、私、言ったことありますか?」


「なくても分かる。とにかく、もう、一緒にいるのはうんざりなんだよ。……学校でも、話しかけるなよ」


「あ……」


 背後に岬を置いたまま、俺は速足で道を歩き始める。


「あの、透夜くん……っ」


 そう言って彼女も追いかけてくるが、足の速さの違いですぐに岬は遅れがちになった。


 そのまま、俺たちの距離はどんどん離れていく。それでも途中までは必死で彼女は追いついてきたが、踏切を渡った時に遮断機で分断されてしまえばそれまでだ。


 警報機の鳴り響く中、「透夜くん、話を……っ」と叫ぶ岬の姿は、横切る電車の向こう側に消えてすぐに見えなくなる。


「……っ」


 彼女を、俺は、傷つけてしまっただろうか。そんな苦い感情を覚えながらも、走ってその場から立ち去った。


 電車が通り過ぎた後に、岬が俺の姿を見ることはないだろう。


 だけど、それでもいい。岬は、俺みたいなろくでもないやつなんかには目もくれずに生きていくべきなんだ。

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