第7話 何者にもなれない男

 買い出しに付き合った後、岬の家まで荷物を届けてから彼女と別れる。


 この時点でもうだいぶ遅い時間になってしまっていたが、自宅に帰る気にもなれない。父親と顔を合わせることは、どうにも億劫で仕方がなかった。


 かといって、岬の家を除けば行けるような場所もない。この時間はレオだって、ジムで練習の真っ最中だろう。


「……適当に、立ち読みでもしてるか」


 そう呟いて、書店へと向かう。


 本を読むのは嫌いではなかった。漫画も小説も好きだ。二、三時間程度の時間を潰すのに、これほど好都合なものもない。


 そう思いながら、新刊の棚を覗いていると、だ。


「おっ? 奇遇だね、少年じゃないか」


 と、不意に声がかけられた。


 振り返ってみれば、そこにいたのはボーイッシュな印象を受ける短髪な女性であった。素っ気ないシャツにズボンという、色気をかなぐり捨てて機能性を重視したような服装をしているが、体つきも顔立ちも端正だ。


 年の頃は、二十歳前後といったところ。名前は――、


「ほんと、奇遇っすね。モカさんじゃないですか」


 ――冴島萌香もか。レオの通っている冴島ジムのトレーナーで、会長の一人娘であった。


「なんでこんなとこにいるんすか? 一応言っときますけど、広辞苑はダンベルじゃないですからね?」


「やかましいわボケカス。テメ、相変わらずナメた口利きやがるな」


「そういう性分なんすよ。慣れてください」


「口先だけ丁寧語使っても、むしろ厭味なノリが増すだけだからな? そこんとこ分かってるか?」


「モカさんの、そういう親しみやすいとこ、俺、嫌いじゃないっすよ」


「あたしゃ、少年のそういう図々しいとこ、割と面倒だけどな」


 言いながら、やれやれと肩を竦めてみせるモカさん。どうやら呆れさせてしまったらしかった。


「んで。話は戻りますけど、モカさん本とか読むんですか?」


「んー? ああ、まあ、ちょっとな。これ買いに」


 と、言ってモカさんが手に持った冊子の表紙を向けてくる。


 そこにあったのは、季刊で発行されている格闘技の専門誌であった。あとは他にも、スポーツ科学関連の本が数冊ほど。


「一応、これでも大学じゃスポーツ科学を専攻してっからな。家の仕事柄、こういう方面の勉強は欠かせな――」


 と、モカさんが話している最中、するりと一冊の本が床に落ちる。


 雑誌の裏に隠すようにして持っていたらしい。どうやら漫画本らしく、表紙にはでかでかとこんなタイトルが刻まれていた。


『誘惑彼氏~お前、今夜オレの部屋に来いよ~』


 で、表紙のイラストは、サドっ気交じりな笑みを浮かべたキザな男が女の子を無理やり抱き締めているような感じ。


 俺はその表紙とモカさんの顔との間で、何度か視線を往復させた。ほんの少しだけ、モカさんの頬が赤くなっている。


「あの……」


「……」


「……頑張ってください」


「やかましい!」


 めっちゃ怒鳴られた。


「すみません、他のお客様のご迷惑となりますので、あまり騒がれるのは……」


 通りすがりの店員に注意もされていた。


「す、すみません……失礼しました」


 平謝りにモカさんが頭を下げながら、床に落とした漫画本を回収する。先ほどの威勢も台無しであった。


 それから、「コホン」と咳払いすると、


「ま、まあ……あたしだって女だ。これでも結構な乙女なんだぞ? 本当だぞ?」


「えーと、まあ、念ずれば通ずという言葉もありますし……」


「どういう意味だよ……」


 半眼で睨まれてしまう。


 どうやら、からかいすぎてしまったらしい。モカさんの乙女領域デリケートゾーンに触れるのは、なるべく控えておいた方が良さそうだった。


「そういえば、レオは今日も練習っすよね?」


 本格的に怒らせてしまう前に、話題を転ずることとする。


「ん? ああ、そのはずだと思うよ。今ごろ、スパーしてるか、サンドバッグ叩いたりしてるかしてんじゃないかな?」


「実際のとこ、どうなんすか、あいつ」


「どう、っていうと?」


「モカさんの目から見て、格闘技が向いてるかどうか……みたいな」


「あー……そうねえ」


 少し、考え込む様子を見せた。


 それから、思考を整理するかのような感じで話し出す。


「そうだな。端的に言えば、悪くはない。というか、むしろ、良いんじゃないかな? とりあえず、熱意は迸ってるよね。あいつ、うちに下宿してるから知ってるんだけどさ。毎朝ジムの掃除してからロードワーク行って、放課後も最後まで残って練習して、ジムの掃除して、って生活を毎日送ってるから。練習の濃度は、すごい高いよね」


「それは……まあ、昔からそういうやつでしたから」


「そうね。しかも、その『努力』を篠原は楽しんでやってるのが見てて分かる。気持ちいいぐらいに模範的な優等生だよ。今どき、あんな暑苦しい根性の持ち主もなかなかいない」


 根性。


 なるほど、確かにレオにはお似合いの言葉だと思った。


「で、肝心な実力の方だけど……まあ、成績だって残してるよね。アマチュアの大会でも上位に食い込めるぐらい、メキメキと強くなってるし。何より身体能力に恵まれてる」


「知ってます。あいつは昔から体が強かった」


「ああ。力こそパワーを地で行ってる。筋力が強い。腕力も脚力も強い。体幹がしっかりとしていて、だから全身の力が強い。だから、どんな局面でも当たり前のように強い。筋肉が強いから強靭性タフネスもある。おかげで殴り合いでも競り勝てる」


「……」


「全部受けきって真正面から殴り倒す。まあ、典型的なパワーファイターだ。実際、そういう練習の仕方をあいつ自身もしてるしな。篠原の言葉を借りるなら、『真正面からぶつかって勝った方が気持ちいい』からってことらしいが」


 いかにもレオらしい言い分だ。


 小細工を好まない。できてもやらない・・・・・・・・。やれない、のではなく、したくない。


「総括するなら……うん、才能のある、将来有望な選手かな。会長の娘としては、うちに来てくれてありがたいぐらいに。彼自身、性格に変な癖がついていたりもしないしな。人間としても礼儀正しいし、好感持てるね」


 そんな言葉で、モカさんはレオの評価をまとめた。


「そう、ですか。聞かせてくれて、ありがとうございます」


「いやいや。こういう言語化ってのは大事なんだ。こちらとしても、レオについて言葉にしてまとめ直すことができてよかったよ」


「そーすか。あ、ところで」


「あん?」


「仮にレオから、『お前、今夜オレの部屋に来いよ』とか言われたらどうします?」


「お前ちょっと表出ろ。その生意気な顔をフッ飛ばしてやる」


  ***


 モカさんに顔をフッ飛ばされるのは御免だったため、俺は書店を後にした。


 もっとも、彼女とて本気で言ったわけではないだろうが。とりあえず別れ際の、「テメェ、次会った時は覚えてやがれよッ!?」という言葉は聞かなかったことにする。


 これ以上街をぶらつくという気分にもなれなかったため、そのまま家に帰ることにした。


「……」


 表から見る家の中は、すでに電気が点いている。ということは、多分、親父が帰ってきている。


 息をひそめて、玄関を上がった。


 明かりのついている居間からは、いびきの音が聞こえてくる。声をかけようかどうか、一瞬迷った。


 だけど、俺は結局、今を素通りして自分の部屋へと向かう。


 そうして入った自室の扉を閉めるなり、脱いだ制服を壁に投げつける。勢いのままに、ワイシャツも、スラックスも、脱いだ端から叩きつけるようにして放り捨てた。


「……ッ、フーッ」


 叫びだしそうになる声を抑え込もうとして、荒々しい息を吐き出す。


 もう、あいつとは随分と会話を交わしてはいない。話すことから、互いと向き合うことから、ずっと逃げ続けてしまっている。


 ――いつかの、あの男との会話を思い出す。


「いいかい。君、努力なんてね、無駄なんだよ」


 画家崩れの酒飲みは、そう語った。


「努力を重ねて、積み上げて、ひたすらにひたすらに必死になったところで……才能が全部攫っていく」


 男は若くして結婚し、子をもうけ、そして嫁に逃げられて。


「芸術は金にならない。努力は実を結ばない。凡人は何者にもなれない」


 今では派遣労働者。厄介者おれを抱えて、管を巻く。


「いいかい。僕も君も負け組なんだ。しょせんは何者にもなれやしないさ」


 厄介者と……俺を見る。


「それでも君さえいなければ、僕なんかでもまだ筆を取れていたのになあ……」


 妄執を酒で濁らせて、澱んだ瞳を俺に向ける。


「なんで……君なんか作っちゃったんだろうね」


 そして最後には、すべてを忘れたかのような面構えで眠りに就く。


 すべての現実から目を背けるようにして。


 ……きっと俺も、いずれはそうなるのだろう。ろくでなしのガキとして生まれ、ろくでなしな教育を受け、何者にもなれずに終わっていく。


 実際、今だって俺はなにもできていない。負け組だと、親父にそう決めつけられた時だって、なにも言い返すことはできなかった。


 最後には、どうせ敗北だけが残されている未来。


 そんな人生に誰かを付き合わせるなんてことはできるはずもなくて。


 そんな自分なんかに、誰かを護る資格などあるようには思えなくて。


(才能のある、将来有望な選手……ね)


 モカさんの言葉を思い返す。


 レオならきっと、何者にでもなれる。誰からも期待されるような男になれる。なにかを、誰かを、護り支えていけるような人間になれる。


 俺の成し遂げたいこと全部、あいつなら全部やってくれる。


 明日から俺は、岬の家にはもう行かない。だけどそれでも、問題ない。


 俺みたいなちっぽけな存在なんて、いてもいなくてもきっと変わらない。


  ***


 なんて、思っていたのだが。


「あ、おはようございます、透夜くん」


「……」


「あれ、透夜くん? 寝ぼけてますか? お返事、ないですか?」


「……」


「透夜くん? あ、あの、聞こえてますか? 勝手に家にお上がりしたのは申し訳ないんですけど……その……え、えーと……」


 なぜ、お前がここにいる、本谷岬。


 そしてどうして、俺の制服にアイロンをかけている。


 あと部屋の片隅に、買った覚えのないスーパーの袋があるのも妙だった。味噌とか玉ねぎとかがちらちらと袋の隙間から見えている。


 ……幸せを願ってフェードアウトしようとしたその相手が、気づけば俺の部屋にいたんだが。


「透夜くん……? あのー、聞こえていますかー……?」

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