禁煙クリスマス

K

禁煙クリスマス

 嘆きは花の色、喜びは空の青。


 かつての盛況ぶりは見る影もない、倒産して久しいデパートの廃ビルを見上げ、私は一服しようと思ったのだが、咥え煙草に火を灯すというのはなかなかどうして難しく、左の親指を添えてようやく点火した矢先、まるで喫煙を禁じるかのように風が吹いて、炎を消し飛ばされてしまった。


 その風を恨めしく思って顔を上げると、見るつもりはなかったのに、斜向かいの電柱の下の花束を見てしまう。


 元カレ、とはあまり言いたくはないが、地元ではそちらの方が通りが良い。私にとっての最初の男は根っからのバイク好きで、ちょうど三年前の今頃、クリスマスを前にまさにその電柱に激突して愛車と心中してしまったのだ。もっとも関係は二週間足らずで終わったし、何かと都合がつかなくてただ彼の訃報だけを聞いていた。


 私も暇でなければ、今時は高級品になりつつある煙草を線香代わりに供えてやろうなんて思ったわけでもない。


 ただ、あの花束はきっと彼を偲んでのものだなと感慨にふけっていたからいけない。煙草のフィルターがふやけてしまった。


「ち。死ねよ。……や。死んでるか」


 誰に言うでもない悪態をつく事でしか、切り替えられないのは悪い癖だ。今の彼氏にも口の悪さを注意されているし、なんなら煙草もやめろと言われている。


 だが私にも言い分はあって、タールとニコチンの濃い銘柄から、薔薇の香りのロングタイプの銘柄に変えてやったし、本数だって日に三本も吸えば多すぎるくらいだったのに、まったくアレと付き合ってからというもの、次々と私の支えが奪われていく。


 そのうち殺されるんだろうなと思うと、笑ってしまった。


 また風が吹いてきた。

 いかにも女って感じの赤と淡いピンクのボックスから薔薇の香りがフワッと香る。


 ──あ。悪くないじゃない。いや悪いわ。これは違う。こういう香りが似合うような綺麗な生き方をしてきた女じゃないし。 


「で。あのバカ、まだなの?」


 地元は愛せど、何にもない。

 スーパーの惣菜で昼食を済ませようと行ったら彼と鉢合わせしてしまい、そこからそのままデートしようという話になって、私はもうそっちに夢中だったから栄養ゼリーを買って流し込んで、大急ぎで身なりを整え、そのままスーパーの化粧室で化粧を直した。


 スマホが鳴り、ロックを外した。


「もしもし? いま、どこ?」

「ごめん。車さ、車検に出してて分からないよね」

「は? もう着いて……あ、ハザード。あれね。いや、こっち回ってきてよ!」

「代車だから乗りにくいんだ」

「もう! なんでこう、段取り悪いかなぁ!」


 信号の無い横断歩道なんてザラにある。例の電柱の傍らに私は立って、タイミングを見計らって飛び出した。と言っても、そこまで車の往来があるわけでなく、早足なのは一刻も早く、彼に会いたかったから。


 助手席のドアを乱暴に閉めると、やはり彼が睨んできた。


「ドアは静かに閉めなよ」 


 私は生返事だけして、ルームミラーで化粧が崩れていないかを確かめると、彼は大義そうにその角度を直し、後部座席から茶色の紙袋を持ち出してきた。


 香ばしい揚げ物の匂いと、ケチャップの匂いがして、急に唾が出てきた。


 そこから差し出されたオレンジの包み紙を受け取ると、出来たてらしいハンバーガーの熱が手のひらに染み込むようで、なんだかホッとした。


 行き先は走りながら決める、いつもそう。


 代替車のダッシュボードにスマホを置いて、ドライブ用のプレイリストをシャッフル再生すれば、いつも通りの車内だ。


 私は時折、運転中の彼の口にフライドポテトを運びながら、ハンバーガーを頬張った。


「んで、あんたは食べてきたの?」

「というか、スーパー行く前に食べたよ」

「なにを?」

「チャーハン」

「どこの?」

「どこのって、俺なりのチャーハンだよ。自炊してるし」

「真面目だねぇ。ほれ、ポテト食えよ」

「いや短いって。おい、口に指入れようとすんな」

「いいじゃん。指ごと食べな」


 彼はなんだかんだで私の指から舐め取るようにしてフライドポテトの欠片を食べる。その舌が快感で、犬に手から餌をあげる感じに近い。彼のクソが付くほどの真面目っぷりはつまらないけれど、押せば従うところが面白い。


 私は次に甘噛みしてしまった大嫌いなピクルスを、


「ポテト食えよ」


 と、白々しく持っていったが、見慣れない代替車からの景色と運転に集中していた彼は、黙って口を開けた。私も努めて平静を装ってピクルスを食べさせる。ペロッと当たる舌が気持ち良くて、つい笑ってしまった。


「あ、すっぱ。ケチャップつけ……いや、ピクルス! いらないわ、これだけって食べないよ」

「嫌い」

「ピクルスが? 俺が?」

「ピクルスよりは好き」

「上手いこと言うね」


 こいつにお笑い芸人みたいな返しを期待しても無駄なのだと知っているから、薔薇の煙草のボックスをコッコッと指で弾きながら、


「吸っていい?」

「我慢できない?」

「したくないんよねぇ」

「またユーフォー行く?」


 ユーフォーとは個人経営のカラオケ店だった。部屋数こそ無いが、今どき珍しく禁煙じゃないし、最新機種も置いてある。でもハンバーガーとフライドポテトで塩辛くなった口に、冷たいお茶はスッキリするけど、甘味が欲しくなった。


「え〜。あそこジュース少ないじゃん」

「煙草吸わないならサイダックスとか、テキサスとか、かぶと虫パークとか」

「ソフトクリーム食べ放題のところ」

「かぶと虫ね」


 彼がハンドルを切る時は、なんとなくルームミラーを見てしまう。ぱっと見、女子とそう変わらない手に筋が浮かんで、キュッと引き締まるのを見ていると、彼に力強く握られるハンドルに嫉妬してしまうから。


「歌上手いんだからさ、煙草やめたら?」

「下手だよばか。いいところ八十五点くらいしか取れんし。上手い子は九十超えてるし」

「上手いと思うんだけどな、俺は。ほら、あのアニメの歌とかさ、なんだっけ──」


 と、彼が調子の外れた鼻歌を歌い出すものだから、私は好きなアニメというのもあって、ムキになって車内でそのサビを熱唱してしまった。


「おぉ、マジか。やっぱり上手いよ、すごい」


 彼の嬉しそうな顔。バカみたいに心底喜んでるのが分かるから、なんだかこっちが恥ずかしくなってきて、私はストローを咥えて残り少ないお茶をすすった。


 その氷の音の方が綺麗に思えた。

 マイク代わりに握ってしまった薔薇の煙草のボックスは、角が少しだけ凹んでいた。


 店内はクリスマスムード一色。

 受付係の店員もサンタの格好をして、傍らにはクリスマスツリーが輝いている。


「いらっしゃいませ。何名様、ご利用でしょうか?」

「二人で。えーと、今からだとフリータイムの方が安いですかね?」

「えぇ、ご利用時間はどれくらい?」


 私はこういうのはいろいろ面倒臭いと感じてしまうので、さも初めて来ました連れて来られて右も左も分かりませんというような顔をしておく。


 やがて手続きが終わり、部屋に向かった。

 どういう神経かしらんけれど、なぜだか彼は部屋までの廊下を歩く時は手をつないでくれる。たぶん、その理由なんて何という事もないだろうけど、男の支配欲だとか周囲への彼女ですアピールだとか心理学で説明が付けられるのかもしれない。帰宅したら男性心理で検索してみようと思った。


 それから、ひとしきり歌った。

 私が三杯目のソフトクリームを入れて部屋に戻ると、彼は失礼にも目を白黒させて、


「やけ食い? なんかあったの?」

「ないよ。食べたいだけ」

「でも、女はストレスが溜まるとたくさん食べるって聞いたよ」

「煙草吸ってないからかもね。太ったら責任取れな。……よいしょ」


 と、彼の膝の上に座る。

 何もかも嘘八百なんだけど、煙草の話になると彼はムキになる──と思ったら、


「いや。すでに重い。どいてくれ」

「は? なに言ってんの?」


 結局、彼の足の間に座らされるとしても、横抱きになるように片腕で背もたれを作ってもらい、私は私だけの特等席で大量のソフトクリームを乗せたスプーンを彼の口に持っていく。


「やめろ。一度にその量は腹が冷える」


 ならばと私は上半分だけ食べて、残りを差し出した。彼は嫌そうな、でも幸せそうに残りを口にした。


「美味しい?」

「冷たい」


 なんでだろう、彼は私がソフトクリームを食べ終わるまで、両手の指を組んで輪を作るようにして、私の為の特等席を保ってくれた。その間、私は時折、けれど何度もキスをして、好きと言う事ができた。同じ数だけ、彼も私に好きだと言ってくれた。


「帰りたくないな」

「……う、るっせぇよ。ばか」


 可もなく不可もない胸に顔を埋めた。ほんの一瞬でもニヤけた顔は見られたくなくて。でも私の火照った耳ばかりはきっと見られているだろうが、もう構わない。


 私の背中をさすりながら、彼は言った。


「ゆっくりでいいよ。煙草も、口の悪いのも」

「直らないって言ったら?」


 彼は言葉を考えているらしく、すぐに答えなかった。だが、やっぱり答えが出なかった、算数の分からない子供みたいな声音で、


「それは困るなぁ、少し」


 困るだけなんだ。それも少しだけなんだ。この人、別れるって想像すら出来ないくらいには私の事、好きなんだ──彼の心音と深い溜息を聞いて私はもう、どうにかなりそうで、とっくにどうかしていたのかもしれない。


「直るまで言う? 煙草やめろ、口悪いの直せって言う?」

「言うよ! えっ、なにその俺が悪いみたいな言い方は」


 私は笑いが止まらなかった。毒キノコを食べてもきっとこんなには笑えないってくらい、大笑いした。だから彼も笑えばいいのに、クソ真面目だから、眉根を寄せるばかり。


「あぁ、腹いてぇ! あはははっ! あんた、ほんとその、ふふふっ、まじ……もう!」

「いや意味が分からないんだけど」

「うるせぇばか。ギュッとしろ!」


 むしろ私が膝立ちになって、彼の顔を自らの胸に抱きしめていた。ただただ嬉しくて、幸せで、温かくて、ばかみたい。


 カラオケの画面から流れてくる定番のクリスマスソング。死んでも直りそうにないクソ真面目の彼氏。ソフトクリームのバニラの匂い。

 嘆きは遠く、喜びは、あぁ雪のように降り注ぎ、これから積もるのだと私は思った。


fin.

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