ミナ・ラカスタン・シヌア


『なぜ、カラオケボックスなの?』


 脳内のルミがおれに訊いた。


「いや、まぁ、ここなら大声でののしられても大丈夫かと思って…」


 家族との一件の後、おれはすぐに元彼女に連絡をした。


《渡したいものがある。30分だけ時間をくれないか?》


 そう、メッセージを送った。


《どこで?》


 とだけ、返って来たので。


《あのカラオケ屋で…どうだろ》


 と送った。

 そうしたら——


《昼の1時からならいいよ。その後、デートだから》


 と、返信があり今に至る。


「ふぅ…」

『やっぱり緊張する?』

「まぁな…」

『話すことは決まってる?』


 つい昨日、別れ話をしたばかりの元彼女の笑顔を見るために——なにを話せばいいのだろう。笑いをとりにいくとか、きっとそういう話ではない。彼女——リカが、つまり…おれと別れてよかった、と心から思えば笑顔になるのではないだろうか。


『ね、来たわよ』


 カラオケの防音ドアが開いた。

 見慣れないコート。

 見慣れない髪型。

 れない香水。

 新しいブーツ。

 全部、高級品。

 ことごとく、思い知らされた。



 リカは——おれなんかとは経済力けいざいりょくが全く違う男と今、一緒になっている。



「手短に、お願い」


 L字型のソファのはし。おれの座る場所から一番遠いところにリカは座った。カラオケ屋のせまい一室が、広大な砂漠のように広く、遠く、救いのない、居心地の悪い空間に感じられる。ルミは脳内で『うわ…わたし、ごめん、この人苦手…』とこぼした。昔のリカはこんなにトゲのある人では無かった。


「ごめん…呼び出したりして…」

「なに? 渡したいもの」


 ここですぐにアレを渡すわけにはいかない。なにも言わずに受け取って、すぐに帰られてしまいそうだ。そうなれば、おれは明日、死ぬ。


「………」

「………」

『大丈夫? ねぇ…』


 ルミだけが声を発した。


「えと…。あの…」

「早くして。時間がないの」


 リカは腕時計に目をやった。いつか、あんな高いもの買えたらいいな——そう夢見心地ゆめみごこちに言っていた高級腕時計を当たり前のように身につけている。まるでおれという人間、人生、仕事——全てを否定されたような気持ちがいてきた。逃げ出したくなった。心臓がめ付けられる。——苦しい。


「リカ…」

「………」


 おれは息を吸った。

 言うべき言葉は、決まっている。


「…ありがとう」

「……は?」


 こわい。

 すごく、こわい顔だ。


「今まで一緒にいてくれて…ありがとう」


 リカは目をらす。

 部屋は暗くてわからないが、

 うっすら、涙をめているようにも——

 いや、気のせいだ。

 おれがそう思いたいだけだ。


「はい、どうも。こちらこそ」


 冷たい口調。


「おれ、ちゃんと、前に進めてる…」


 なに言ってんだ…クソ…違う。


「そうですか。それは何よりです」


 ほら——!

 間違えた…っ!

 今のは絶対に言ってはいけないやつ…。


『落ち着け! 大丈夫だから』


 そう。

 大丈夫。

 もう一度、

 深呼吸。


「帰る」


 リカは立ち上がった。


「——! 待って!」


 ドアノブに手をかけられた。

 やばい、本当に帰られる。


「なに?」


 思わずリカの腕をつかんだ。


「まだ…渡してない…」

「いらないから。どうせ、安いものでしょ?」


『もう! なに、この女! 本当に嫌い!』


「頼む、もう一回、座ってくれ。ちゃんと渡す」

「はぁ…。はいはい、座ればいいんでしょ、座れば。私があなたの家に置いていった服とか日用品とか、全部処分してくれて構わないから」


 これは経済力からくる余裕だろう。

 しかしひとまずセーフ。

 危ない。

 言葉を選ばないと。

 おれ、本当に死ぬかもしれない。


『くすぐって笑わせちゃえばいいんだよ。ベーだ!』


 ルミはリカのことを相当、嫌ったようだ。


「リカ…」


 さぁ。

 しっかり。

 言おう。

 大丈夫。

 結果がわかっているから。

 結末がわかるから。

 もうすでに、砕けているから。

 当たる前から、砕けているから。

 言える。


「おれのかせぎが少ないから…背伸びして一戸建いっこだての家を借りるくらいしかできないような男だから…狭いアパートで二人で暮らしてる時も、本当に、本当に、苦労ばっかりかけてごめん。金がなくても、おれとリカの間にはいつも笑顔があった…そう、思ってる。おれは料理が得意で、リカは掃除が得意で…小さな、狭い部屋だったけど、おれにとっては——かけがえのない、大切な居場所だった」


 まだ座ってくれている。

 全部、言おう。


「いつの間にか、れ合いのような関係になっていた。いつの間にか、そこにいるのが当たり前のような関係になっていた。だんだんと、喧嘩けんかが増えた。わかってる。おれが全部悪い。お金の事ばっかり考えていたのは、おれの方だ。お金よりも、高級品よりも、大切なもの——見失っていたのは、おれの方だ」


 くそ、泣くな。

 ふんばれ!

 しっかりしろ!


「いつしか、おれの方が高い車がほしいだとか、いい家に住みたいだとか、その——今リカがつけている時計を買ってやるだとか、そんな事ばっかり言っていた。今ある幸せを無視して。今、リカがそばにいてくれるって、何よりも、何よりも、幸せな事実を無視して…。金で買えるようなものばかりに目がいって、リカの笑顔を…見ようともしなかった。おれから離れていこうとしていたリカの心を、おれは、金で繋ぎ止めようとしていた。手元にありもしない金で…つなごうとしていた…」


 リカも泣いている。

 これは、いやでもわかる。

 泣く時、

 顔をうつむかせ、

 長めの髪で顔を隠すから。

 ストレートだった髪は今——

 カールがかかっているけど。

 それは、新しい男の好みかな。


「リカ」


 おれはポケットから、小さな箱を取り出した。


「今日は…あなたに…プロポーズをさせてください。答えは、なくていい。ただ、今までの、5年間の、ありがとうと…今の想いを、伝えさせてほしい」



 愛してる。

 ずっと。

 離れていても。

 あなたの幸せを。

 祈っています。



    *



 どれだけ、泣いたのだろう。

 30分はとうに過ぎていた。

 二人分の鼻をすする音。

 脳内の音を足せば、三人分。


 カラオケボックスがこんなに静かに感じたことはない。たまに——どこからか音痴おんちなウィンターソングが聴こえてきたが、それは、それだ。


「ここ、覚えてる?」


 リカが言った。


「ん? あぁ。もちろん、覚えてる」

「ここで、この部屋で。あんた、わたしに告白したんだよ」

「そう…だね。別に、選んだわけではないんだけど…」

「面白いね、運命って」

「…告白した部屋で必ず失敗するプロポーズをする…悲惨ひさんな運命だよ」


 おれは微笑んだ。

 無理に微笑んだわけではない。

 自然と、みがこぼれた。


「わたし、お腹に子供、いるの」


 ——え!?


「彼の…子供…」


 そっか、そっか——


「そっか…そうなんだ。なんて言えばいいんだろ、こうゆう時…」


『昨日、あなたと別れたのに今、別の男の子供って…。別れる前からその男とよく会ってたってことでしょ? ちょっと…いくらなんでも、ひどいよ…』


「わたしも…謝らないといけない。あなたに。ずっと、浮気してたこと…」


 そりゃ、してただろうね…。


「あ、いや、いいんだよ。今となっては…。おれもリカのこと、ちゃんと大事にしなかったから。おれの方が悪いに決まってる」


 リカは、ねぇ、と言っておれの方を向いた。


「ん?」

「それ、開けてよ、箱」

「あ、これ…?」

「指輪でしょ」

「あ、あぁ…渡すはずだった、指輪」


「つけて、わたしの指に」


「え?」

「いいから」


 リカは微笑んだ。

 無邪気むじゃきな笑顔だ。

 見覚えがある。

 ここで告白した時と、

 同じ笑顔。

 目尻が下がって、

 眉間に少し、シワがよる。

 困り顔みたいな、可愛い、笑顔。


「うん」

「やった! 今だけ。今だけ…あなたのお嫁さんにさせて」

「泣かせんな」

「お互い様」


 綺麗だった。

 とても。

 リカの——

 左の薬指で光る銀色の指輪は。

 決して、高価ではない指輪は。

 この世で二つとない輝きを放った。

 後悔もある。

 悔しいとも思う。

 愛しているし。

 大好きだし。

 抱きしめたい。

 キスをしたい。

 でも——

 それよりも。

 彼女の幸せを。

 今はただ、ひたすら、

 願いたい。

 サンタクロース。

 いるんだろ?

 すぐそばに。

 いるんだろ?

 叶えてくれるだろ?


 リカが——


 絶対に。

 これからも。

 絶対に。

 幸せでいられるように。

 彼女とその彼氏、生まれてくる子供の笑顔を。


 絶対に、守ってくれ。


 *


 内線の電話が鳴った。まるで、夢から現実に引き戻されるような音だった。おれは立ち上がって電話を手に取りると、「お時間です、延長なさいますか?」と訊かれたので「あ、いや、帰ります」と応えた。


「指輪…箱に入れといたから…」


 リカが言った。


「あ、うん。ありがと」

「こっちも、ありがと…」


 おれは指輪が入った箱と、精算用せいさんようの伝票を手に持った。


「またな」

「…うん」

「なんだよ、おれが落ち込むならわかるけど…リカは笑顔でいてくれないと困るんだよ」


 いろんな意味で。


「よかったのかな…これで…」

「なに言ってんだよ…」

『ほんと、今更、なに言ってんのよ! 新しい男との生活に集中しろ!』


 突然、リカが抱きついてきた。


「おい、ちょ——」


『あー!』


「嬉しかった…嬉しかったよ…ありがとう、ありがとう…」


 そう言ってリカは涙と鼻水でおれのパーカーを濡らした。そうだ、このパーカー、親父にも生地きじを引っ張られたし、リカの鼻水やファンデーションもついたしで…もう、本当にこの先、着れないな…。


「いいって! ほら! 笑顔! 笑え! 大丈夫! うまくやれる! おれなんかとうまくやってたんだから、新しい人とも絶対大丈夫だよ」


 おれはリカの肩をもって、体から離した。


「うん…笑う。大丈夫」


 リカは無理矢理、笑ってみせた。さっきも笑ってくれたし今も笑ってくれた。きっと大丈夫だ。おれの命はきっと繋がった。でも少し、疲れた…。帰って休もう…。


「子供のこととか色々、大変だと思うけど…応援してるから」


 と言ったおれに対し——


「うん。産まれたら、顔、見にきて」


 ——とリカは言った。


 おれは「あぁ。親友として、会いに行く。必ず」と返した。


 カラオケ屋の外で、おれとリカは別れた。


    *


 その晩、本来なら両親と食事をするはずだった。しかしおれは、なんとなく自分の家に帰ってしまった。母さんには《ごめん、ちょっと家の片付けするから明日行く》と、メッセージを送った。そしていつも通りインスタントの味噌汁を作り、冷凍のご飯を温めて納豆をかけて、口にかき込んだ。ワインを用意する元気も、チキンを買ってくる気力も無かった。


 何度か脳内のルミに『ねぇ、大丈夫?』と話しかけられたが、おれはその度に「うん…」とうつろな返事を返していた。というか、ルミの仕事は済んだはずなのに。なんでまだおれの頭の中にいるんだ?


「なぁ、ルミ?」

『なに?』

「もう、いいんじゃないか?」

『なにが?』

「その——おれの命はもう、繋がったはずだろ? 今夜イヴなのに。一番忙しい時間じゃないのか?」


 ルミは5秒ほど間を置いてから応えた。


「いいの。あなたがクリスマスの朝になっても生きているか確認するのが優先事項ゆうせんじこうだから」


 おれは目線を天井に向けた。


「そうゆう、もんなのか…」

『そうゆう、もんなの』


 食事を終えたおれは眠気に襲われた。この一軒家は、一人で暮らすには広すぎる。シャワーを浴びて、すぐにベッドに入った。冷たいベッドが、おれの全身を包んでくれた。


「明日…生きてるかな…」

『大丈夫だよ。笑顔、見れたもの』

「そう…だな」


 おれはキジマの笑顔を思い浮かべた。今ごろ、カナエとの暖かいクリスマスイヴを過ごしてるだろう。ケーキも食べているだろうか。きっと、薔薇の形のホールケーキに違いない。


「キジマ、本当にゲーム好きでさ。おれなんかよりずっと上手で、かくゲーの大会にも出たことあるんだ。カナエにゲームを捨てられた時のあいつの顔——見なくても想像つくよ」

『そっか。あなたは今、ゲームしないの?』

「おれはリカと暮らすようになってから、あんまりやらなくなった」

『まぁ…キジマさんの依存いぞんは、ちょっと異常だったね。ほんと、殺されなくてよかった』

「ルミのおかげだ。ありがとう。おれは、ルミに殺されたけど」

『それは事故。キジマさんは——』

「事件」


 おれとルミは笑った。


「親父もさ、一応、小さな会社の社長っていう意地があったんだと思う。あんなに弱々しくなってるとは思わなかったけど」

『あなた、本当に大丈夫なの?』

「ん?」

『お金』

「あぁ、いいんだ。どうせ、この家とも来年のあたまにはさよならだし。意味ないし。こんな広い家に一人で住んでたってさ…意味ないし…」


 そう言っておれは寝返りをうった。


「今頃…どうしてるかな…」


 おれが誰のことを言っているのかは、ルミならわかるはず。


『わたし、正直に言っていい?』

「ん?」

『あの人、幸せになるとは思えない』

「どうかな…」

『いくら高級なもので身をかざっても、子供が生まれて一時いっときはこの上なく幸せに思えても、苦労なんてずっとつきまとってくる。お金じゃ解決できない問題なんて、いくらでもおとずれる。その問題を——あの人、解決できるのかな…』


 おれは少し考えた。

 返すべきニュアンスは決まっていたが、

 言葉を選ぶのに時間をようした。


「大丈夫だよ。おれ、お願いしたんだサンタに」

『え?』

「え? じゃねぇよ。聴いてなかったのか?」

『………サンタなら…』

「知ってる、だろ」

『わ、わたしは叶えたくない! あなたを蹴落としてまで得る幸せなんて、ありえない! あの人のことは、わたしじゃなくて本部の先輩にお願いして!』


 おれは思わず笑った。


「本部の先輩——か。サンタの世界にも上下関係とかあるのか?」

『ある、全然、ある。なんだったらわたし、あのトナカイよりも〝下〟だもの』

「あー…そんな感じした」

『今年は事故っちゃったから…イヴもあなたと過ごすから…配達もできないし…来年も新米のままよ…』


 ルミは大きなため息をついた。


「おれ、もう少し、叶えやすい願いにしたらよかったな」

『ほんとよ。笑顔が見たいなんて、難しいったらないわ…』

「つくづく実感した。人の心からの笑顔が見たいなら、まずは自分の心を払って叶えるしかない。今回の騒動そうどうでお金も出ていったけど、それは手段の一つに過ぎない。もし、おれの貯金が10万しかなかったとしても、親父と一緒に借金を返していくっていう選択はできた。母さんに離婚をやめさせることも——なんとか説得すれば、きっとできたはずだ。金が、なくても」

『明日、ちゃんと顔、出してね。ご両親のところ』

「うん。なんか今日、行く気になれなかった…明日、チキン買っていくよ。数少ない貯金、はたいて買ってく」


 おれはベッドのわきに置いてあるサイドテーブルに手を伸ばした。リモコンを手に取り、照明を真っ暗にした。


「ルミ、明日にはいなくなるのか?」

『…うん。あなたが生きていることを確認できたら、もう、用はないから…』

「あのさ、えと…」


『待って、言わないで』


「ん?」

『まだ…言わないで』

「どうして?」


 突然、横向きで寝るおれの背中に人肌の温もりが当たった。細い腕がおれの胸の前に回り込む。ふわふわの白いファーがおれの手首をくすぐった。


「………」

「………」


 沈黙が流れる。

 サイドテーブルの目覚まし時計が——

 チクタク…と鳴っている。


「ミナ・ラカスタン・シヌア…」


 ルミがおれの耳元でささやいた。おれは、この言葉の意味を知っている。胸が暖かくなった。嬉しかった。正直、おれの心は打ちのめされていた。貯金は思い切り減ったし、リカは絶対、おれの元に戻らないと知ってしまった。キジマも、正直羨ましい。


 でも——

 今は——


「ありがとう」


 おれはそう応えて、

 ルミの温もりを感じながら、

 眠りについた。

 おれの腕がルミを抱きしめることはなかった。

 小さなベッドの中で。

 ルミはおれを背中から抱きしめ、

 ずっと、

 小さな白くて華奢な手で、

 おれの大きな手を、

 握ってくれた。

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