第五幕 土竜に翼が生える事などあり得ない
より、濃密に練り上げる。
基礎の基礎。それは、あらゆる分野で応用が効く。
将棋が好きだ。
“いいか?将棋はな、一手に何種の意味を宿すかだ“
まだ小学生だった俺には理解するのに難しい言葉を使う祖父。
“ただ守るだけの一手か、それとも守りつつ攻める一手か、攻めつつ守る一手か“
そして
“それはもはや一手ではない。相手が【ただの一手】指す中で、如何に【一手で何種の意味を宿せるかを考える】んだ“
柔術の構えは拳を握らない。
何故か、拳は攻めるだけ。
手の平は脱力、余計な力は使わない。
相手が【攻めるだけの一手を打ってきた】時にこちらは
【攻める】【守る】【守りつつ攻める】の選択肢がある。
同じだ。
【戦略】だから。
では、コミュニケーションに応用できないか。
物事の上達に活かせないか。
なら、人生おいて重要な成分の一つではないのか。
“ねぇ、タロっち“
年下で先輩のバーテンダー、だが、職場では俺の部下だ。
俺は雇われ店長として、この場に立つようになって、複雑な人間関係となっている。
年下で先輩で部下のバーテンダー。
年上で先輩で部下のバーテンダー。
どちらもバイトの女性だ。
苦手だった。
俺は【容姿の整った男性】に対する劣等感は何年も前に克服している。
でも【容姿の整った女性】に対するコンプレックスを、未だに抱えている。
後に思えば下らない。
しかし、この折の俺はある種、侮蔑していたのだ。
“バカでモテない男を手の上で転がして、貴重な自尊心と財産を持ち去っていく存在“
“どうしました?ユミさん“
憎らしいほどに愛らしい容姿である。
並の男なら、微笑まれただけで心拍が上がりそうなものだ。
“んーとね。タロっち、私のことどう思う“
出た。思わせぶりで、抽象的な質問。
虫唾。虫唾。虫唾。
“非常に信頼のおける仕事仲間だと思ってますよ“
ロックグラスに入れる氷を丸く削りながら、声に嫌悪感が乗らないように応える。
“そうかなぁ?タロっち、私のこと嫌いでしょ?“
ぐいっと顔を寄せてくる。
眉間に皺が寄りそうになる。
堪えろ。
“そんなことありませんよ“
“じゃあ、質問を変えるね。私のこと好きじゃないでしょ?“
まだ続くのか、この不毛な時間は。
“好き嫌いでアナタを見てませんので“
嘘だと悟られないように、ギリギリの返答。
お前なんか大嫌いだよ。と言えたらどんなに楽か。
事実、このユミという女は、男をとっかえひっかえして、このバーに客として連れてくる。
まるで、枕営業じゃないか。
“店の売り上げに貢献しているから“とオーナーは大喜びだ。
オーナーは金さえ入ればそれで良い。
そんなオーラが出てるもんだから、俺が新規のお客様を楽しませていても、顔を出した途端に去らせてしまう。
不毛。
金の為か?
金の為に酒を出すのが、優しさなのか。
静かに飲みたがってるお客様がいても
“もっと喋れ“のハンドサインを出すようなオーナーだ。
何も分かってない。
“喋れよ、道化“
“お前が喋れば楽しませられるんだろ?“
何も分かってない。
お客様が求めているものが、一人一人違うのに。
邪魔だ。
店に利益を出すのに、邪魔なオーナー。
矛盾してる。不条理だ。
“会いに来たよ“
“まだいいかな?“
“上達したねぇ“
“美味しいよ“
“面白いね君“
俺はお客様の為にここにいる。
断じて、儲けるつもりで立ってない。
そして、なぜかそう思って接していると、とても気に入られた。
“ウチに来ないか?“と何度も引き抜きにあった。
バーだけじゃない。企業の社長さんたちや、
達人のマジシャン、果てはホストクラブのオーナーからまで、声をかけられた。
笑いながら、“これがホストをやる男ですか?“というと。
“男は容姿じゃないのよ“
その言葉が本当に響いたのはホストクラブの女性オーナーに言われた時だけだ。
“嘘じゃない“
女の子はね、実は“容姿“で好きになるのはほんの一瞬。
最初で心を掴みやすいから、イケメンが、モテやすいだけ。
“アナタ、モテるでしょ?“
“いや。まったくです“
“いつになったら付き合ってくれるの?タロちゃん“
そう声をかけてくれるお客様は山ほどいる。
ただそれは“バーテンダー“がモテてるだけだ。
“付き合ってはいけない3B“
美容師、バーテンダー、バンドマン
まず、“いけない“なんて言葉が良くない。
人間は禁じられるとそれを犯したくなる。
“未成年だからタバコなんて吸うんじゃない“なんて言うから、未成年がタバコを吸いたがるのと同じ。
そして、バーという空間がそもそも、人間が恋愛感情を抱きやすい条件の宝庫だ。
“薄暗い空間““ひそひそと喋る““酒を飲む“
アルコールが入ると、人間は他人顔、その左右非対称性が判別しにくくなる。
人間は左右の対象性が高い顔を好む傾向がある。
故に、暗所効果、密談効果、アルコールの効能で、非常に恋に落ちやすい。
さらにそこに“付き合ってはいけないバーテンダー“
ショーウィンドウの中に入れて【非売品】の札をつけていれば、それが豚の貯金箱でも、なんとなく欲しくなる。
そして、面倒なことに【付き合ってはいけない3B】が真剣に交際しても、女性は去っていく。
女性を責めるつもりなどないが、覚えておいてほしい。
そんな恋で手にした3Bは、もはや手にした瞬間に魔法が解ける。
特別に譲ってもらった豚の貯金箱を家に持ち帰ってまじまじ見ると。
“なんで、こんなの欲しかったんだっけ“
そして、モテるものだから次の女性と交際する。
だから【付き合ってはいけない3B】=【遊び人】のイメージが付く。
迷惑な話だ。
“アナタ、気付いてないの?“
考え事をしている間に、ホストクラブのオーナー、その手元のグラスが空になっていた。
“申し訳ございません。次のご注文でしょうか?“
目をパチパチさせるクラブオーナーは、自分のグラスを見て、笑った。
“そっちじゃないわよ。アナタはモテる素質に溢れてる“
“だから、それは“
“バーテンダーだからだと思ってる?“
くすくす。
何がおかしいのか、この人は。
バーテンダーだからに決まってるだろ。
“賭けてもいいわ。そうね、アナタが仮にバーテンダーを辞めても、それでもモテたら私の勝ちね“
そして、この話はおしまい。と言うようにグラスを掲げ。
“シェイクするチャイナブルー、ちょうだい“と俺が考案したカクテルを注文した。
チャイナブルーは、通常、ロンググラスで出される青いカクテルだ。
シェイクなどレシピにない。
しかし【青いカクテルを男から出されたら注意しろ】と言われるように、美味しく飲みやすいくせに度数の高いキラーカクテルの1つ。
でも、青は美しい。
綺麗だ。では、度数を低くし、味を損なわないように、美しいまま。
シェイクが見たいというお客様もいる。
そして“せっかくバーに来たのだから、バーっぽいお酒が飲みたい“というお客様もいる。
だから、青くて飲みやすくて、美味しくて、程よい度数のカクテル。
シェイクしたチャイナブルーをショートグラスに注いで、クラブオーナーの前に出す。
“お待たせ致しました“
“このカクテルにも“と言いかけて、クラブオーナーは口を閉ざした。
多分まだ、アナタに言っても分からないでしょうからね。
と、その表情が優しく緩んでいた。
結果的に俺は、賭けに負ける事になる。
バーテンダーを辞めた後、様々な経験を積み、常に相手を笑顔にする為に観察する能力に磨きがかかっていた俺は。
別段、整っていない容姿にも関わらず。
不思議とモテた。
賭けに負けた理由について、考えたが、答えに辿り着くまで数年を要した。
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