第二幕 艶色揚羽は土竜囃子を牧歌と捉う

自分の人生を、黙々と読み返す。

表紙に【17】とだけ書かれたノートを卓上に戻し【18】を拾い上げる。

今日は、これまでより大きな舞台に立つ。

違うのは規模だけではない。

いつもは、様々な芸種が、漫才師やコント師やピン芸人が、同じ舞台に立つ。

それに対し、今日は、独り芸の集いである。

条件は、もう少し、狭まっている。

独りで、何も持たずに、口先だけで。

そして単に話芸を披露するだけに留まらない。

順位が付く。

およそ三十人の道化が、可笑しい順に並べられる。

これが勝負時でなくて、なんだ。

この舞台が、俺の芸道を伸ばすか、逸らすか。

重要な分岐路であることは、明らかだった。


楽屋。三十余名の道化が、簡素な広間に押し込められている。

各々が、独自の手法で緊張感を解し、己の一幕を持つ。

四隅の全てを、それぞれ一人の道化が陣取り、角に向かって、小声で手持ちの弾数を確認している。

こんな独り芸の、それも、ある種、戦場のような所で、馴れ合うような事は、そうそう無い。

俺はパイプ椅子を確保し、腰掛けて目を瞑り、想像の中で幾度も舞台に上がっていた。

ノックの音。

細身の、やたら若い男が、戦地の扉を遠慮がちに開けて、入ってきた。

まだ、十代だと思われる彼に、四隅の道化が一人、駆け寄って行く。

「今日は頑張ろな。多分、優勝はお前やけど」

言われた若い男は、困ったように笑って謙遜している。

敵兵の眼中には、俺の姿などないらしい。

舐めんなよ。

心中で憤りを燃やしていると、それは唐突に俺を襲った。

何かが背筋を撫ぜるような、感覚。

男、十代らしき、あいつ。柔和な表情。確かな自信を纏った挙動。

俺は、見た事がある。この、他の誰よりも、幾分か若き道化を。

いつ、どこで。そんな悪寒の詳細は、彼の一幕を舞台袖から見るまで思い出せなかった。


邦ロックを合図に、舞台に駆け上がる。

僅か数分の一幕に、自分の「これまで」を賭けて「これから」を切り拓く為に。

【独り語り】の素材だけを記した、計26冊のノートから、選りすぐりの実弾だけを抜き出し、より破壊力のある文言で改良を施し、胸に秘めたる想いを持って、客席に擊ち込む。

序盤は、観客、一人一人の反応を観察する為に、会場全体をくすぐるような、短尺の小噺を数話。

揺れる。

振動の根源、波紋の質感。それらを経験則と照らし合わせ、即座に分析し、語りのニュアンス、その微細な周波数を調整していく。

徐々に、徐々に。

土竜道化と観客たちの、心の障壁。

感情の伝達を阻害する忌むべき壁に、亀裂を入れる。

亀裂は、やがて隔りを破って穿孔となった。

開けた風穴から、気圧差で温風が雪崩れ込むように、会場の空気が大きく揺れる。

伝わった。笑ってくれた。

あの人も。あの人も。あの人も。

これ以上は、ない。

持ち得る全てを出し切り、舞台を降りた。

手の震えを固く握り込み、未だ落ち着かない激しい鼓動を、深い呼吸で宥める為に、その場に暫し佇んだ。


若き道化は洒落た楽曲を受けて舞台に上がると、虚空を舞う蝶の如く、悠然と、滑らかに、鮮やかに、会場を揺らし続けた。

たっぷりと前振りをし、厳かに銃弾を装填する。

一見、その流動に綻びが有りそうだが、揺れが生じてから振り返ると、そこに無駄など毛一本ほども存在せず、必要最低限に抑えられていたと認めざるを得ない。

複数の小噺を、単純明快な分類で束ね、絶え間なく繰り出す。

各話の末尾は、巧みに凝縮された一言で締める。

【共感】と【納得】

圧巻。見事と言う他ない。

揺れが想定を超えたのだろう、彼はそこに即興と思しき文言を被せて、殊更に増幅させる。

【自在に】【発想する】【稀代の】【高校生】【漫才師】

俺は、毎年、全国規模で大々的に催される、学生芸人の祭典を、ようやく思い出していた。


皮肉にも、自らの経験が、察しを降らせた。

順位など、発表を待つまでもない。

彼の開けた風穴の大きさは、この土竜の産物を凌駕していた。


己の一幕を終え、裏に引っ込んでいた道化たちが、再度、舞台上で一堂に会する。

第二位を告げる前兆として、ありきたりなドラムロールが流れた後、土竜の名が会場に響いた。

自分を評価してくれた観客の手前、小躍りして見せる。

事実、多くの人たちが、土竜道化を讃えてくれていた。深々と頭を下げる。感謝の意に、決して嘘はない。

センターマイクを模した、小型の記念碑は、若き道化が抱えることになった。

彼は、舞台の最終盤に、自らの引き立て役となった土竜に、マイクを片手に向き直る。

「なんか、のんびりされてはって、特に印象に残ってないですわ」

客席が湧く。

俺だって分かっている。この男が、裏で、どれほど腰が低いかを見ている。

パフォーマンスだ。

悟られないように常時より深く息を吸い、噛み付き返す。

「黙りたまえよ。小ワッパ。お前が芸道で売れないように、毎夜、寸釘を持参して神社に通うからな」

再度、湧いた観客たちを、軽やかな音響が包み、舞台が終焉に向かっている事を認識させた。


この時、土竜が吐いた、偽りの呪詛は、当然と言うべきか、何の効力も発揮しなかった。

若き道化は、この舞台の成果を過去に霞ませ、数年に渡って栄誉な偉業を、歴然と積み上げた。

雲一つない晴天から注がれる、目が眩むような燦燦とした陽の光を、その身に浴び続ける艶色の揚羽蝶。

彼にとって、この土竜の独白など、数多いる端役の一人が牧歌的に口ずさんだ、小さな鼻唄に過ぎないだろう。


舞台を降りて、暗転の裏側で初めて、声を殺して嗚咽した。

傲慢だと思われるかも知れない。

お前のような、泥だらけの、薄汚い土竜が、スポットライトで照らしてもらって、拍手まで頂戴して、何をぶつくさ垂れるのかと。

言い訳を聞いて頂きたい。

土竜の放った弾丸は、他の道化と毛色が違う。

自分にとって珠玉の噺。それは創作の類ではないのだ。

ユーモアで施した塗装を剥げば、そこには、土竜の「生」があるだけだ。

これまで歩いた、二十余年の道程が。

その時々で沸いた感情が、巡らせた思考が、見てきた光景が、人々との思い出が、交わした言葉が、苦悩が、嘆きが、望みが。

つまりは、己の人生があるだけだ。

「生」そのものを捧げ、真っ向から戦った。

最善を尽くし、手応えも感じ、それでも敗れた。

自分より若く、華やかな道化に。

俺は、おそらく、今宵の独白を超える語りは、出来ないだろう。


土竜道化は、この舞台を大きな分岐とし、その後、半年を待たずに芸道を閉ざした。

初舞台から五年目の、やたら肌寒い季節であった事だけは、確かに覚えている。

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