土竜道化の燦然たる独白
もぐら
序章 泥土から這い出るまで
十秒だ。
十秒だけ、俺にくれ。
秒針が十回、微かな音を立てて進む間に。
俺はお前を笑わせる。
俺は、二十年、地中に住む土竜だった。
陽の当たらない、音が届かない、冷たい世界に、居心地の良さすら感じる。
それでも、毎秒、息苦しい。
誰か、居ないか。誰も、居ないか。
時折、思う。俺が何をしたのか。
真っ当に生きてきた。
間違いなく、間違いなんてなかった。
周囲は泥土ばかりで、視界に映るのは、ジトリと湿った闇だった。
かつて、俺は「容姿の優れた男」を妬んだ。
いつだって、すれ違う女性に目で追われ、その事を微塵も特別だと思わない。
出会って間もない女性を、いとも容易く、すぐさま笑顔にする。それが、彼らの日常である。
愛を食べ物に例えた事がある。
彼らは、豊富な種類、鮮やかな色彩の、大量の食べ物を、腹を満たす目的ではなく、ただ味覚を刺激する為だけに、戯れに口に運んだりする。
俺は。どうだ。何を食して生き存えている。
いつぞやの、カビて固まった冷や飯を、無様に頬張ってやしないか。
飢えている。
満たされない。心が渇いて仕方ない。
俺は、この空腹を決して忘れることはないだろう。
愛を無駄にしたりしない。
年間、八千。これは、俺が見た、ネタ数だ。
年間、七百。これは、俺が聞いた、ラジオの時間数だ。
累計、二千。これは、俺が読破した、書籍の数だ。
総計、九十万。俺の記した文字数だ。
容易くない。
好きだから。そんな安直な動機で片手間に積める数ではない。
ある種、病的とも、狂的とも言える執念を持って。
俺は、全力で潰して見せる。
眼前を塞ぐ、美醜の壁を。
豊富な語彙。柔軟な発想。滑らかな口先。
これまでに培ったそれらを駆使して、就職氷河期だと言われた時代に、少なくない内定を掴んだ。
底辺だと囁かれる大学からは、唯一の快挙だった。
選考を重ねる内、ある疑念が湧く。
何が、面白い。
型に自らを押し込め、無理矢理に周りと合わせる。
踏ん反り返った面接官に、我が我がと群がり、地に投げつけられるようにして与えられる内定に最敬礼する。
なんだ。こいつら。
一つの企業の最終選考で、嘲笑うかのように
「どうしてもと言うなら、内定を出してやる」と言われた瞬間、俺は机を蹴っていた。
「辞めだ」
全部、辞めだ。
俺に内定を投げていた企業、全てに辞退の申し入れをして、就活を終えた。
芸道五年。
インディーズから始まり、数多の舞台を踏む。
俺が初めて書いたネタは漫才だった。
それを引っ提げて、地方が主催するコンクールに出たのが、切っ掛けだった。
変人仲間の悪友と、一本のマイクを挟んで掛け合う。
可笑しい男が、可笑しい男に、可笑しい事を言い、可笑しい事を返す。
大きな間違いを、すぐさま訂正するが、その訂正が小さく間違っている。そして、その訂正の小さい間違いを、訂正せず素直に受け取ってしまう。
大きく間違う男と、小さく間違う男の掛け合い。
導入から終盤まで、間違いだけが連鎖する。
的確な訂正は観客に委ねる。観客に胸中で訂正してもらう。
「なんだこいつら」と【優越の笑い】が起き、「そういうことか」と【納得の笑い】が起き、「でも確かによく居る人間だ」と【共感の笑い】が起きる。
笑いの三原則から逆算して練り上げた漫才。
【正しいツッコミの不在】
ウケた。目を見張るほど。
およそ、百人が詰まった会場が揺れる。
鳴り止まない拍手に頭を下げる。
見ろ。間違ってない。
俺が面白いと思った事を、みんなが面白いと感じてくれる。
震える。身体に電撃が走ったような感覚。
これは「会話」だ。
普段、人々が交わす、何気ないやり取りを遥かに凌駕する。濃密な、会話。
心と心、その間を阻む、無情。
人間が、他人が、真に何を考えているかなど、どれだけ言葉を交わしても、通常、分からない。
しかし、俺が面白いと思った言葉を投げて、受け取った相手が笑う。
「伝わる」という快感。
共鳴が、無情に、風穴を開けて。
初めて、他人と繋がった気がした。
夢中だった。
まさに夢の中にいるようだった。
一冊、一冊。
安いノートに文字を敷き詰め、黒く塗り潰していく。卓上にそびえるネタ帳だけが、俺が生きた証だった。
過去にあった失敗や、今尚感じる苦痛や、世に蔓延る矛盾に、自分の観点で切り込みを入れる。
俺の手で、万物が笑いとなり、浄化されていく。
まるで錬金術だ。
タブー、トラウマ、コンプレックス。
昇華させる。笑いとなれ。
俺は、負の感情を、考え得る限り完璧に克服した。
落ち込んでも、傷ついても、どれだけ哀しみ、泣いても喚いても。
全てがネタの種だ。
些細な悩みが難癖を付けて来ても、生きる上で問題になり得ない。
人生はネタ作りだ。
十秒。
口を開いて、言葉を紡ぎ、それを相手が受け取りさえすれば。
それは、耳から侵入し、心に着弾し、脳髄を揺らす。
射抜く。真芯を。
明転と暗転を繰り返す舞台の一幕。
人生を切り取ったかのような数分。
特別な道具は何一つ要らない。
俺がこの場に居ればいい。
放つ。口先で言葉の実弾を。
見ろ。この歪な造型を。
聞け。この土竜の独白を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます