彼(か)の手の記憶

kara

 彼(か)の手の記憶

 彼女はゆったりと湯船につかっていた。ピシャン、と水が跳ねる。私はその光景に目を奪われて、まばたきする事さえできない。

「久しぶりの風呂は気持ちがいいな」

 彼女はほほ笑みを浮かべながらそう言った。


* * *


 ある暖かい春の日の午後だった。私は学校を終えて一人家路をたどっていた。

 ふだんは人通りの少ない道を通るのけれど、ふと駅のコンコースを抜けていこうと思った。

下に敷いてあるタイルを一つ飛びに歩いていってふと前を向くと、雑踏の中に青っぽい髪の女性が立っていた。長い髪はゆるやかなウェーブを描いている。

 そんな所にいたら誰かとぶつかりそうなのに、なぜか彼女の周りだけみな避けていく。

 不思議に思い見つめていると、ふと目が合った。じっと見ていたのがバレたのだろうかと内心慌てていたらニッコリと笑う。そしてこちらに近づいてきた。

 どうしよう、怒られるんだろうか……私は不安になる。そんな事を考えているうちに彼女は目の前まで来てしまった。

「……」

 謝った方がいいのだろうかなどとグルグル考えていると、その人は

「やあ」

と挨拶をした。

「……こんにちは」

 私もしどろもどろに挨拶を返す。

 ごめんなさい、ジロジロ見ちゃってと言いかけようとするが彼女は先に口を開く。

「これからおまえの家に行く」

 ……え? 頭が一瞬混乱する。

 この人、今なんて言ったの…?

 必死に脳みそを回転させようとするが、思考がまとまらない。

「行こう」

 そう言って彼女は先を歩く。道が分かれると「こっちか?」などと聞き、私は動揺したまま「はい」とか「こっちです」などと答え、とうとう家に着いてしまった。


「……」

 無言で自宅を見上げる。建て売りのなんてことない、ありふれた二階建ての一軒家だ。

 この人はうちに何か用でもあるんだろうか…?

 ちらりと彼女をうかがうが、視線をむけるとニコニコと笑っている。

 本当に家に上がるつもりなんだろうか……でも……


 けれど、考えていてもどうしようもないので仕方なく玄関のドアを開けた。

「ただいまー…」と中に呼びかける。


 すると、たちまちカンカンになった母が奥の台所から現れた。

「マオ! 遅いじゃないの!! 一体どこをほっつき歩いて……」

 と言いながらドタドタと足を踏み鳴らしてこちらに歩いてくる。が、居るのが私だけではない事に気づいた。

「この人、誰……?」

 怪訝そうに問われる。

 そう聞かれても、さっき会ったばかりだし名前さえ聞いていなかった。

 首をかしげていると、それまで蒸気を噴きだしそうなほど怒っていた母が、だんだん勢いを無くしてシュー…と落ちついてきた。

「……まあいいわ。お夕飯になったらお帰りになってもらってね」

 そう言って、また元の所へ戻っていく。

 彼女の意外な変化に呆気にとられ、私はぽかんとその後ろ姿を見送っていた。


「……」

 部屋に上がった彼女は、物珍しそうに机や本棚、壁のポスターなどを見回している。

「これ、よかったらどうぞ……」

 私はクッキーと紅茶のお盆を小さなテーブルに置いた。

「ありがとう」

と、にっこり笑ってカップを取る。

「ところで……あなたは誰なんですか?」

と聞いてみるが、ほほ笑んでいるだけだ。

「……」

 私は困って黙り込む。静けさが部屋に訪れる。

 けれども、あまり気まずい感じがしない。彼女はゆったりとした雰囲気をかもし出していてそれが心地よかった。そして、それはいつかどこかで感じたような気がした。

 そう、遠い昔……

「よかったら、風呂に入りたいな」

 彼女は突然そう言った。

 え…?  聞き間違いだろうか。彼女の顔をまじまじと見つめる。

「お湯を沸かしてくれないか」


* * *


 結局、なぜか言われるがままに風呂の掃除をしてお湯を張った。普通ならありえない事だ。名前も知らない女性を家に招いて、日のあるうちにお風呂に入れるなんて……

 どう考えてもおかしい事なのに、なぜか彼女の言う事に逆らえない。腑に落ちないまま

「沸きましたので、どうぞ」

と伝えると

「ありがとう」

と浴室へ消えていった。

 そのうちに風呂場から呼出しのチャイムが鳴る。なんだろうと様子を見に行った。

「すみません」

と声をかけるが返事がない。仕方がないので

「呼びました?」

と浴室のドアを開けた。


* * *


 そこには、予想外の光景が広がっていた。彼女は湯船に入っていた。それは別段おかしい事ではない。けれどもその姿が問題だった。

 彼女の上半身は人間のそれだったが、下は大きな魚のようになっていた。

 つまり、

「人魚……」

 思わずつぶやいて、あわてて自分の口をふさぐ。

 彼女は私に見られた事にも特に動揺などしていなかった。ゆったりと湯につかり、気持ちよさそうに尾びれを動かしている。その動きでピシャン、と水滴が跳ねた。その音で私は我に返る。

「え……どういう事?? 」

 疑問符が頭の中でいっぱいになる。

「バスタオルをくれないか」

と彼女は言い、私はあわてて流しの下にあるストックを一つ手渡した。彼女は器用に湯船の縁にすわり、それを受け取ると体をふいていく。

 水滴を取り去ると、そこから魚の鱗が消えて人間の肌色になっていく。

 その様子に驚いて固まっていると、みるみるうちに魚の片鱗は消えて人間の足があらわれた。

「……」

「乾くと人間に変わるんだ」

 にっこりして彼女は言う。

「水に濡れると元にもどる」

「じゃあ、あなたは……」

 彼女は無言でうなずいた。

「……」

「悪いけど、着替えるから外に出てくれないか」

 私は彼女の言うとおりにするしかなかった。


 部屋にもどって考える。あの人は一体何なんだろう? なんでうちに来たの…?

 でも、いくら考えても答えは出ない。

 そのうちにトン、トン、と階段を上がる音がして彼女が戻ってきた。

「いい湯だった。ありがとう」

 見ると、髪の毛がさっきよりも青くなっている。

「ああこれ。濡れると色が明るくなるんだよ」

 そう言ってほほえんだ。


* * *


 結局彼女は、夕方まで家にいた。夕食もなぜか家族に交じって食べている。母はぶつぶつと文句を言っていたが、

「おいしいな、これ」と彼女が言うと

「……また作りますよ」と答えていた。

 信じられない…! あの倹約家で常識的な母が…と驚くが、何となく彼女がここに居る事がだんだん自然に思えてきて、私と弟は楽しかった。

 彼女に何かお願いをされると、なぜかイヤと言えないのだ。美しいほほ笑みを見ていると、その通りにしたくなってしまう。それは私だけでなく、他の人も同じ様だった。(と言ってもそれほど無理なお願いはされなかった)


 そんな風にして、一週間ほどあっという間に過ぎていった。私が学校に行っている間は部屋でくつろいだり、窓からいつまでも外を眺めているようだった。

 時間がある時は近くの公園へ一緒に散歩に行ったりした。彼女は花が好きなようで、道ばたに咲いている小さいものでも立ち止まっては眺めていた。

「好きなんですか?」と聞いてみる。

「……ああ。私の住む所にはないからな」

 たしかに、海にはあまり花は咲いていなそうだ。

 ふと思いついて、ある公園へ連れていく。そこには一面にシロツメクサが咲いていた。

「……! きれいだな……」

 彼女の顔が輝く。私はかがんで花を何輪か摘むと、手を動かしはじめた。

「……?」

 彼女はじっとその動作を見つめている。しばらくすると、輪っかが出来てきた。

「はい」と彼女に渡す。

「?」

 それが何か理解できないようだ。

「頭にのせるんですよ」といって、乗せてあげる。

 たちまちうれしそうな表情に変わった。

「まるで王冠みたいだな」

 私はその様子をスマホで撮って彼女に見せた。幸せそうな表情をして彼女は笑っている。

「ありがとう、マオ」

 そう言ってうっとりとその画面を見つめていた。


* * *


 ある日、目を覚ますとしとしとという音がしていた。窓の外を見ると、灰色の雲が空いっぱいにたれこめている。

「雨か……」

 つぶやいてふと横を向くと、彼女はいつになく固い表情をしていた。

「どうしたの?」

「いや……」

気になって聞いてみるがそう答えてふい、と横を向く。

 その時は特に気に留めなかったが、学校から帰ってきて部屋に戻ると彼女は窓を開けて外を見つめていた。

「何してるの!? 床が濡れちゃうよ…!」

と言ってあわてて閉める。

 すると、びしょぬれになった彼女は私をみてふっと笑った。


「マオ、お別れだ」

 え……何……? 混乱が私を襲う。

「どういう事?」

「この雨は仲間が呼んだんだ。私に帰ってこいと」

「なんで……?」

「そろそろ潮時という事だ」

「いやだ……せっかく仲良くなったのに。せめてもう少し……」

 私は彼女にすがりつく。

「……残念だが、これでも期間を延ばしてもらったんだ。私もおまえと一緒にいたかったから」

 そう言って寂しそうにほほ笑む。

 私は抱きついたままかぶりを振る。

「お前に話さなくてはならない事がある」

「いや! それを聞いたらいなくなっちゃうんでしょう? なら聞きたくない」

 私は泣き声をあげる。

「とても大事な話なんだ。お願いだから」


 彼女は真剣な声で話し出す。

「……私の名前はマナと言う。真に魚という字だ」

 私は顔を上げる。

「それって……」

「そう。おまえの名前と同じだ。読みが違うだけ」

「お前と私は血がつながっている。お前の死んだ母さんは、私の姉なんだ」

 私は驚いて息が止まりそうになる。

「え…… だって母さんは、下の部屋に……」

と言いながら、しだいに記憶を取り戻していった。


 ――そうだ。あの人は、私が小さかった頃に父が連れてきた女の人だった。

 物心がつくかつかない頃に母は死んでしまい、悲しくて悲しくてずっと泣いていた時にあの人が現れた。さびしくてたまらなかった私は、彼女を本当の母さんだと思い込んでしまったのだ。


 私はその事に気づいて、また涙がこぼれそうになる。

「私たち人魚という種族は、人々から忘れられると消えていってしまうんだ。誰も思い出す者がいなくなると、最後には……

 だから、お前の母親の事を覚えていてほしい」

「そして私の事も…」

 彼女はほほ笑んで私の頭をそっとなでる。

 その手は、遠い昔に感じていたのと同じ暖かさだった。

「かあさ……」

 言いかけるが、彼女はだんだんと輪郭があいまいになっていく。

「待って……!」

 私は手をのばす。けれどもそれは宙をつかむだけで、そこには光の粒子がキラキラと残っているだけだった。それさえもゆっくりと瞬きながら消えてしまう。

「行かないで……」

 私は崩れおちる。


 その部屋にはわたし以外は、もう誰もいなかった。

 外に降る雨だけがその光景を見つめ、辺りをやわらかく包んでいた。



   了


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彼(か)の手の記憶 kara @sorakara1

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