ラヂオが奏でる音楽を小さな音で聴きながら、リョータとカナエはソファに並んで腰かけて小声で話し込んでいた。子供達が大勢押し掛けてワイワイと賑やかにしている時、ジェイも一緒に楽しそうにしていることは知っているが、本当の彼は今のような静かな時間の方が好きなのだろうと、リョータは思っていたからだ。

 ジェイはカウンターの向こうで何やら食べ物の準備を始めていて、それが何なのかはリョータには判らないが、先ほどから食器や調理器具のぶつかり合う音に混じって、美味しそうな匂いが漂っている。ジェイはこうやってリョータが来る度に、何も言わずに色々な物を食べさせてくれるのだが、それは多分、自分だけが特別なのではなく、フミオでもヒロシでも、あるいはタカヒロでも、少人数で店を訪れた子供達には漏れなく振舞われるのだろう。と言うのも、地下には母親に食事を作って貰った経験の有る子供達は少ない。たとえそういった経験が有ったとしても、確かな記憶として想い出の中に定着するほどの長い時間を家族と共に過ごせた者はもっと少ない。ジェイが子供達に食事を振舞うのには、彼自身すらも忘れかけている家族の記憶を、子供達に分け与えたいと考えているからなのかもしれないとリョータは思うのだった。


 「ほらよ」と言ってジェイが作ってくれたのはラーメンだった。と言っても、あのプラスチックのカップに入っていて、蓋をめくってお湯をかけるだけで出来上がるインチキなやつではない。鍋で作る本格的なラーメンだ。二人の前に置かれたそれは、陶磁器製の器に盛られて、いかにも美味そうに湯気を上げている。リョータも昔、何度か食べさせて貰ったことが有るが、今日は久し振りに本物の・・・ラーメンを食べられるのだ。おそらくカナエは、人生の初ラーメンに違いない。その証拠に彼女は目を白黒させながらガッついているではないか。こんなに旨い物を食べたことなど無いのだろう。リョータは何故か、それを自分の手柄のように誇らしく思い、得意気に聞いた。カナエの前でチョッとだけ格好を付けてみた。

 「今日のは、この前とは違う味なんだね、ジェイ?」

 「んん? あぁ、そうだっけ? この前のは『サッポロ一番みそ』だったかな・・・ 今日のは『ラ王醤油』だな」

 空になった包装紙を取り上げて、ピラピラさせながらジェイは言った。リョータの思惑通りカナエは、こんなに美味しいものを何度も食べたことが有るリョータを、凄く大人に感じたようだ。今の様な彼女の視線を「尊敬の眼差し」と呼ぶのだろう。運良くこんなご馳走に有り付けるなんて、予定を変更して『J』に来て良かった。大人・・に追われて逃げ回るのも、悪いことばかりではないようだ。


 お腹も一杯になり、警戒気味だったカナエの緊張もいつしか緩み、いつの間にかジェイと親しくなりつつあった。

 「どうして大人・・は、こんなにまでして私達を捕まえようとするのかな? 捕まえてどうするんだろう?」

 リョータはカナエが残したスープの底に沈む麺の切れ端を集めるのに大忙しで、彼女の話は耳に入らないようだった。ジェイはその素朴な質問に対する答えの、少なくとも一部は知っている。だが、まだリョータやカナエに話しても判るとは思えなかった。彼はニコリと微笑んで、カナエの疑問をスルーしようとした。

 ところがその瞬間、フミオから聞きかじった話が頭をよぎった。この二人が今は一つの部屋に棲んでいるという事実だ。本人達の意向を汲んで、そういう風にしたのだと言っていたフミオの顔も思い出された。と言うことは、この二人が男と女・・・の関係になるのも、そう遠い話ではあるまい。彼は考えを変えた。確かに、まだ早い。だが今こそが教えるべき時かもしれない。そんな風に思ったジェイは、新たな煙草に火を点けた。

 「どうしてそんなことになってしまったのか、俺には判らないが・・・ 今、人間は子孫を残せなくなってきているんだ」

 「しそん?」カナエが不思議そうに聞き返す。

 「つまりだな・・・ おぃ、リョータ! お前も聞いておけ!」

 そう言ってジェイは、ドンブリの底に残ったラーメンの汁を、いつまでも名残惜しそうに啜っているリョータの頭を叩いた。リョータはビックリして頭を抑え、「痛いなぁ・・・」と不満気だ。

 「つまり、赤ん坊が産まれなくなってきてるんだ。難しい言葉で言えば、人類は生殖能力を失いつつある、ってことなんだよ」

 「セーショクノーリョク? なんだい、それ?」リョータは難しそうな言葉を聞いて、唇を尖らせた。しかし聡明なカナエは、更に質問を続ける。

 「赤ちゃんが産まれないと、どうして私達を捕まえる必要が有るのかな? やっぱり判らないよ」

 「それはな・・・ 人類の希望が、地下に潜むお前達子供なんだよ」

 益々話が判らなくなったリョータは、ジェイに食って掛かる。

 「判らないよ、ジェイ。もっと判り易く言ってよ。僕達にも判るようにさ」

 「判らないと思う。今のお前達には判らないと思う。でも、聞いておけ。いずれ俺の言ったことの意味が判る時が来る。とにかく今は聞いて、心に刻んでおけ。お前達は今、聞かなきゃならないんだ」

 「・・・」

 「・・・」

 そう言ってジェイは言葉を継いだ。


 「人類が存続し続けるには、男と女が必要なんだ」

 この言葉にはリョータが食い付いた。つい最近、教わったばかりのネタだったのだ。

 「それならフミオに教わったよ! ついこの間だ!」

 しかし、リョータが勢い勇んで口にしてしまったことは、カナエには内緒の話だったのだ。当然ながらカナエが反応する。

 「何、何? 何を教わったの? ねぇ、教えて、教えて」

 リョータは目をショボショボさせながら、自分の軽過ぎる口を恨んだ。

 「あっ、いや・・・ 何でもない・・・ お、男同士の話だから・・・」

 「なによ~、それ~。なんか怪しい」

 ここでしつこく問い詰めない所がカナエの賢さでもあり、相手を自分の味方に付ける天賦の才だ。相手の居心地を悪くすることで、自分のプラスになることなど無いということを本能的に知っているのだろう。

 「そっか、フミオが・・・」

 アップアップしているリョータと、好奇心に瞳をキラキラさせているカナエに向かって、ジェイは正対した。

 「ところが、そのどちらもが子孫を残すという本来の機能を失いつつあるんだ。これは日本だけじゃなく、他の国々でも同じらしい。世界中で同じ症状が出ているそうだ。

 子供が生まれる為には、まず受精卵というものを創る必要が有る。それが女の身体の中で赤ん坊へと成長してゆくんだが・・・ ところが今の時代、子宮という赤ん坊を育てる臓器は健全に機能するのに受精卵を創ることが出来ない、つまりその子宮で育てるべき卵が無いんだ。

 正確には受精しても育たない、死んだ・・・卵しか出来ないってことなんだが・・・ だから今、世界中で人の数が急速に減ってきていて、このままでは近い将来、人類が滅んでしまうのは確実と言われている。そこでお前達の出番となるわけだ。

 どういう訳か地下に棲む子供達が、今の状況を打開する切り札になるらしいんだ。つまり、人類を存続させるために必要とされているわけなのさ」

 「じゃぁ、ジェイもその切り札なの?」カナエが聞いた。

 「いや、俺やマリアはもうダメだ。原因は不明だが、十五歳くらいを過ぎると男も女も生殖能力を失ってしまうと言われている」

 今度はリョータが聞く。

 「じゃぁ、もし奴らに捕まったら、僕達はどうなるの? その、セイショク何とかの為に殺されちゃうの?」

 「ハッハッハ。まさか、殺したりはしないよ」

 それを聞いた二人は、ホッとした様に顔を見合わせた。自分の何かを分け与えるだけなら、別にどうってこと無いではないか。わざわざ追いかけっこなどしなくても、正直に「少し分けて下さい」って言ってくれれば、それくらいは ──それが何なのかは判らないが── 分けてあげたって構わないのに。大人ってバカだなぁとリョータは思った。

 しかしジェイの笑いは直ぐに消え失せ、少し寂し気な表情に取って代わった。

 「確保された子供達は・・・ 人類を存続させるための生贄となって、何処かの施設で家畜の様に飼われているのさ」

 リョータの顔が驚愕と恐怖で固まり、カナエが息を飲んだ。時間が止まったように感じた。それって何だっけ? リョータは自身の数少ない語彙の中から、適切な単語を呼び出そうとした。たしか、そういう風な実験とかに使われる動物の写真を見たことが有る。あれは兎だったか、ネズミだったか・・・ そうだ、モルモットだ。以前、通っていた小学校の教科書に載っていた。間違い無い。ジェイは家畜と言ったが、話を聞く限り家畜よりももっと酷い扱いではないか。やはりこの場合、モルモットという言葉が一番しっくりくると思った。

 それにしても、捕まった子供達は逃げ出さないのだろうか? いや、逃げ出せないのかもしれない。ひょっとしたら、逃げ出せないように薬か何かで眠らされているのかも? いやいや、手足を縛って動けない様にすれば、薬を飲ませるなんて面倒は不要じゃないか。

 「それって・・・」カナエが恐怖に怯えた目で言葉を継いだ。「いつまで続くの? やっぱり、十五歳くらいまでなのかな?」

 やっとジェイにも笑顔が戻った。だがその裏側には、何かを諦めてしまったような漠然とした悲しみが張り付いているのが判った。先ほどまでの笑顔とは根本的に何かが違う寂寥感に満ちた笑顔だ。

 「勿論、永遠に続くわけじゃない。十五歳くらいを過ぎたら、俺やマリアの様に・・・ 使い物にならなくなるんだろうな。生殖能力を失ったらもう切り札でも何でもないからな」

 使い物にならないという冷酷な言葉が秘める、本当の残酷さをリョータ達はまだ理解出来てはいなかった。それが人類に降りかかったという意味合いを己のこととして実感するには、彼らはまだ若過ぎるのだ。それよりも今、リョータの心を握り潰さんばかりに捉えて離さない疑問を、恐る恐る口にした。

 「その捕まった子が十五歳になったらどうなるの・・・? 使い物にならなくなったら・・・?」

 ジェイは短くなったマルボロを灰皿で揉み消した。

 「さぁな・・・ その先は俺も聞かされて・・・・・いないんだ」

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