第170話 病床の老将
護衛を廊下で待たせると、周殷は黄旺の寝室へと入った。
「黄将軍、お加減は如何です?」
寝台に横たわっていた黄旺は、周殷の姿を見るとすぐに起き上がり拱手して拝礼した。
「嗚呼、大都督、戦時に
黄旺の言葉には、戦場程の覇気はなかった。
その姿は痩せ細り、まさに骨と皮だけの老人。かつて戦場を駆け回っていた歴戦の猛将の面影はない。
白い病人の装束が似合ってしまっているのがあまりにも皮肉だ。
「黄将軍、礼は結構、横になられてください」
周殷が言うと、黄旺はゆっくりとまた寝台へと伏した。
「ご覧の通り、儂はこの有様。50年もの長きに渡り戦場で武人として戦い、隣国の脅威や内乱を鎮めてきました。一度も、負けた事はありませんでした。ですが哀しきかな、体力と武だけが取り柄のこの儂も、病には敵いませんでした」
弱々しい黄旺の言葉を、周殷は黙って聞いた。
たった一度の
「黄将軍のご意見を伺いたく」
「何でしょう? 大都督」
「実を申しますと、
「斬血……!? あの暗殺集団を?? しかし、大都督のご命令では、斬血の使用は禁じていたはず。それを奴は破ったと? ならば軍法にて裁かねばなりますまい」
「それが、出来ぬのです。斬血の使用を命じたのはどうやら朧王のようで」
「馬鹿な!?」
思いもよらぬ話に、黄旺は驚き上体を起こし、ゴホゴホと咳き込み始めた。
「黄将軍、大丈夫ですか?」
「ええ、問題ありません。それより、朧王は大都督である其方に相談もせずに、独断で斬血を動かさせたという事ですか?」
「そういう事になります」
「何という事だ……しかし、大都督は何故その事を?」
「斬血が動いたという事は斥候から聞きました。ですが、いくら金登目と言えど、私の軍令を破るような愚か者ではない。そう思い、金登目の下に間者を忍び込ませ情報を探りましたところ、朧王が一枚噛んでいた事が分かったのです」
「なるほど。読めましたぞ、大都督が儂に聞きたい事というのが。朧王の腹の中、ですな?」
「流石は黄将軍、ご明察です。朧王と旧知の仲である黄将軍なら、朧王が何を考えておられるのか分かると思い、こうしてお伺いしたというわけです」
黄旺は何か心当たりがあるかのように目を瞑るとうむと頷く。
「確かに、儂は先代朧公の代より、朧王が幼き頃から側に仕えていました。ですが、朧王の腹の中までは分かりません。ですが恐らく、朧王には野心があります。先代のような保守的な姿勢ではなく、国家を強大にしたいという野心が」
「……では、やはり此度の閻侵攻の真の狙いは……」
周殷の言葉に黄旺は首を横に振る。
「いえ、それはあくまで長年仕えてきた儂の感覚。朧王のお口から聞いたわけではありません。大都督にも儂ら臣下にも、戦の目的は『
「さりとて、朧王は閻帝国を滅ぼし、領土を狙っていると考えると、斬血を投入してまで敵軍師を片付けようとした事の説明がつく……。黄将軍は朧王の真の狙いに気付きながらも、黙って従軍したのですか?」
「朧王の命は『董炎打倒、閻の民の救済』。我ら臣下はそれを信じて戦う。他に選択肢がありますか?」
黄旺は虚ろな目でそう言うと、苦しそうに咳き込んだ。
周殷が外の者を呼ぼうとすると、黄旺は周殷の袖を掴みそれをやめさせた。
「大都督。儂は間違った事をしたとは思いませぬ。現に董炎を倒す事が閻の民を救う事になるという事は紛れもない事実。違いますか?」
「いえ、おっしゃる通りです」
「なれば迷う事はありません。戦うのです。苦しむ民は、例え他国と言えど救わねばならぬ。それが、朧王のご意志。正義は我らにあります」
「しかし」
煮え切らない周殷の手を黄旺は力強く握った。そしてその虚ろな瞳に意志が戻る。
「我らが負ければ、閻の民の苦しみは続きますぞ? 誰が彼らを救うのです? 北の
そこまで言うと、黄旺はまた口を押え咳き込んだ。押さえた指の隙間からは真っ赤な血が溢れていた。
「誰か! 医者を呼べ! 黄将軍が……!」
流石に周殷は外の者達に医者を呼ばせると、咳が収まらない黄旺の痩せた背中を摩る。
「大都督」
「もう喋られるな、黄将軍」
「朧王はまだお若い。董炎を倒した後、もしも、間違いを犯すような事があれば、その時は其方が正しき方へ導いてくだされ」
「それは黄将軍にお任せしたい」
「わ、儂の役目は……戦場で敵を倒す事のみよ……董炎を……倒すのみよ……」
黄旺はその言葉を最後に咳が止まらなくなり、駆け付けた医者により、周殷は部屋の外へと追いやられた。
♢
自室に戻った周殷のもとへ黄旺の屋敷からの使いが来たのはその夜だった。
「医者の薬が効き、黄将軍の様態は安定しました」
「そうか」
「ただ、やはりもう二度と、戦場へは出られぬと」
「そうか」
短い答えしか返さぬ周殷の気持ちを察したのか、伝える事だけ伝えると、屋敷の者は一礼してすぐに退室して行った。
1人になった部屋で、周殷は酒を呷った。
例え朧王の目的が閻帝国の侵略だとしても、董炎を放っておけば、民は苦しみ続ける。閻の中の事は閻の者達で解決するべきだが、頭が腐っていては自力では何も出来ないだろう。
周殷にはそれが分からなかった。
首を振り、また盃に酒を継ぎ足す。
不意に夜空を見上げると、満天の星空を、一筋の星が流れて行った。
周殷はその星に呑んでいた酒の入った盃を掲げた。
最期に遺した言葉は「董炎を倒せ」だったと言う。
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