第163話 光世、発つ

 別れの日の朝。

 光世みつよは寝台に腰掛け、史登しとうから貰った赤い扇子を閉じたり開いたりしていた。

 李聞りぶんの屋敷が燃えてしまって、光世が麒麟砦きりんさいから持って来た荷物も燃えてしまい、ほとんどが新しく買い足した衣服であった。

 手元に残ったのはこの史登の形見の扇子だけである。

 宵と桜史おうしは早朝の軍議に呼ばれて行ったので、今部屋には光世1人だけである。

 光世はボーッとしながらその扇子をパタンと閉じると、腰帯に挿した。

 そして、不意に光世は閻服のたもとに手を入れた。袂の中にある固くて細長いモノを握ると、辺りに人目がない事を確認しながらそっとそれを取り出した。

 史登から貰った扇子以外に、もう1つだけ手元に残ったものがあった。

 他人ひとに見つからないように肌身離さず持っていた事が幸いした清華せいかからの卑猥な贈り物。


「結局、私は張形これを大切に持ってるんだな……」


 自分自身に呆れながらも、光世はその卑猥な造形物を凝視する。


「光世~! 何それ~?」


 背後にはいつの間にか部屋に入って来ていた宵が不思議そうな顔で光世を見つめていた。

 突然声を掛けられた光世は咄嗟にたもとに張形を隠す。だが、その行動が仇となり、宵は光世が隠したモノを確認しようと光世の閻服の袖を掴んだ。


「何隠したの? 見せてよー」


「やめろー見世物じゃないぞ!」


 目の色を変えて宵に掴まれた袖を振り払おうとするが、宵も意固地になって離さない。


「私と光世の仲に隠し事なんてないでしょ! てい!」


 暴れる光世のたもとに宵は器用にも細い腕を潜り込ませ、それを奪い取った。


「何これ高そうな……ん? ……あ……」


 取り上げたモノを目の当たりにした宵は顔を真っ赤にして固まる。

 そして光世をチラチラと見る。


「それは……清華ちゃんが送って来たの。使い方分かんないし……欲しいならあげよっか?」


 開き直った光世は宵から目を逸らして平静を装ってそう言った。

 すると、宵は口元を白い羽扇で隠してクスリと笑った。


「清華ちゃんがねぇ……。光世さぁ、私の事ムッツリとか馬鹿にしといて自分の方がムッツリじゃん。使い方分からないのに何で動揺するのよ? 筆頭軍師であるこの私にそんな嘘が通じるわけないでしょ」


「うぐ……」


「でも良かった。光世もちゃんと健全な女の子だった」


「な、何言ってんの? いいから貰ってよ」


「私はいいや。こういうの使わないから」


「は? ズッル! 宵は健全なんでしょ? 毎日お肌艶々にしてるくせに!」


「あ……だから、こんなゴツイのは使わないって意味だよ。痛そうだもん。私にはまだ早いから、はい、返す」


「ゴツくないでしょこんなの! 軟弱者!」


厳島いつくしまさん、陸秀りくしゅう殿迎えに来て……る……よ」


 何の前触れもなく部屋に入って来た桜史おうしの声に宵も光世も一瞬硬直したが、光世は宵の手に握られていた張形を瞬時に奪い取り再びたもとにしまった。

 宵の背後に立った桜史は2人の様子がおかしいのを不審に思い宵の顔を覗き込む。


「……どうかしたの? 2人共」


「何でもないよ、さ、光世、迎えに来たって」


「う、うん、今行く」


 光世はそそくさと荷物を纏めた行李こうりを持って部屋から出て行った。


貴船きふね君さ、何も見てないよね?」


 2人切りになった部屋で宵は頬を赤く染めながら苦笑を浮かべて桜史に問う。


「うん、何も……」


「そう……あ、でも貴船君て見ても見てないフリするしな~。私のスカートの中見たのに見てないって言うし」


「いや、あれは本当に見てない」


 桜史は即答したが、バツが悪そうに宵へすぐに背を向けた。


パンツ・・・見られるくらい怒らないのに」


「え? パンツ……」


 桜史はそう呟いてすぐに口を押さえた。


「やっぱ見たんじゃん。私の誘導に引っ掛かるとはまだまだだね、軍師ボーイ」


 宵はそれだけ言うと固まってしまった桜史の背中をポンと叩いた。


「別にいいから、行くよ」


「不可抗力なんだよ」


「もういいってば~」


 この世の終わりみたいに絶望する桜史に、宵は子供をあやすが如くの慈愛に満ちた微笑みを見せる。


 光世も桜史も宵と同じ世界の人間。日本で生まれ育ち、同じ兵法に興味を持ち、楽しい事や辛い事を共有して来た。例え離れても、必ずまた集まり一緒に帰れる。根拠はないが、何故だか宵にはそう思えた。



 ♢


「然らば、行って参る」


 馬上の陸秀りくしゅうは素顔のままで言った。陸秀自身の荷物は革の袋が1つと大刀を担いでいるだけでさほど多くはない。仮面を着けた供の者2人も同様の荷物だけを持ち待機している。

 対する光世の荷物は行李が1つだけ。元の世界風に例えると大きなキャリーケースが1つだけと言ったところだろう。その行李が光世の乗る栗毛の馬の背に括り付けられている。


「陸秀殿、光世をお願いします」


 宵は羽扇を持った手で礼儀正しく拱手して頭を下げた。

 隣の桜史や、見送りに来ていた鍾桂しょうけい李聞りぶんも拱手した。

 しかし、同じく見送りに来ていた徐檣じょしょうだけは納得いかないと言った顔で不貞腐れている。


「光世、私聞いてない、秦安しんあんに行くなんて。何で相談してくれなかったの?」


「ごめんね、徐檣じょしょう。でも、貴女に言うと絶対反対するし、力ずくでも私を行かせないようにするかと思って……。徐檣はもう部隊を率いる武将になったんだから、そんな事させたくなかったの」


「そう……でも、私は納得してない」


「そんな事言わないで。貴女には貴女の仕事が、私には私の仕事がある。そうでしょ?」


「私が……光世の護衛になった方が安全……」


「でも、徐檣じょしょうは戦場に立ちたかったんでしょ? これでいいんだよ」


 光世の言葉に、徐檣は何も言い返せずに下を向いた。


「それじゃあ、行くね。皆さん、お世話になりました。次に会う時は戦が終わった時です」


「光世、達者でな。くれぐれも、無茶はするな」


「無論です。李聞りぶん将軍、宵と桜史殿を宜しくお願いします」


 李聞はうむと頷いた。


「光世、俺は信じてるぞ、キミも清華も必ずまたここに戻って来るって」


「当たり前でしょ、鍾桂しょうけい君。私も清華せいかちゃんも優秀だからね。ありがとう」


 光世は鍾桂に微笑んだ。


 そして、光世の視線は宵と桜史に向けられた。


「光世、『正正の旗をむかうることなく、堂堂の陣を撃つことなし』だよ」


 宵の突然の孫子そんしの引用に、光世は苦笑して息を吐いた。


「『必ずすべからく敵の虚実をつまびらかにして、そのあやうきに赴くべし』『勝たずんば、く走るよ』」


 光世も得意の呉子ごしを引用して応じた。


「『敵の弱点に乗じて攻撃するし、負けそうになったらすぐ逃げる……』。厳島いつくしまさんならきっと上手くやってくれるね」


 桜史は光世の回答に満足そうに現代語訳しながら頷いた。

 徐檣じょしょうは唇を噛み締め、わなわなと震えているが、光世への別れの言葉は何も言わなかった。

 そんな徐檣の様子を寂しそうな眼差しで一瞥した光世は、静かに口を開く。


「行ってきます」


 それだけ言って、光世は陸秀りくしゅうとその部下の2人の護衛を引き連れ馬を出した。


 光世達の出発を、宵達は静かに見守った。

 だが、離れゆく光世の背中を追い掛けていく者がいた。

 徐檣じょしょうだ。


「光世ーーー!!!」


 徐檣じょしょうは光世の名を叫ぶと、その場に膝を突き、そして額を地面に付けた。


徐檣じょしょう……」


 振り返る光世。徐檣じょしょうの行動に目を見開く。


「私を助けてくれてありがとう!! 自由にしてくれて、ありがとうぉぉぉ!!!」


 号泣する徐檣じょしょう。それを見て光世は口を押える。涙は勝手に溢れて来た。


徐檣じょしょうーー!! 元気でーー!! また会おう!!」


 光世も精一杯大声を出し、手を振って別れを告げた。


 2人の涙が宵や桜史や鍾桂しょうけいにも伝播した事は言うまでもない。





「私、こんなに人に感謝されたの初めてです」


 涙を拭きながら、光世は隣を進む陸秀りくしゅうに言った。


「そうか。だが、今度はもっと大勢の人々から感謝される事になる。その分、骨が折れるだろうがな」


 朝日に照らされた陸秀はそう言ってニコリと微笑んだ。


「はい!」


 光世の笑顔も朝日がキラキラと照らした。



 斯くして、光世は董炎とうえんと接触する為、遠く離れた閻帝国の都秦安しんあんへと旅立った。




 ***


 靂州れきしゅう天譴山てんけんさん山麓。


 雨が止んでも一向に動かない呂郭書りょかくしょのもとに、珍しい客が訪ねて来た。


 大都督だいととく・呂郭書はその客を出迎える為、自ら部屋の外まで出迎えに向かった。


「これはこれは、大司農だいしのう董星とうせい殿。わざわざこんな靂州の外れまでお越しになられるとは」


 目を奪う程に真っ白な長い髪の董星は、無言のまま拱手して拝礼をする。

 呂郭書も拱手を返したが、董星の隣の女を見て表情が固まった。


其方そなたは?」


 呂郭書に尋ねられた女は1歩前へ出て拝礼する。


清風華せいふうかと申します。董星とうせい様の下女兼通訳として参りました。董星様の仰る事は全てわたくしがお伝えいたします」


 呂郭書は鷹のように鋭い目付きで清風華を睨んだが、すぐに微笑みを見せた。


「分かった。然らばこちらへ。さあ」


 そう言って呂郭書自らが董星と清風華を部屋へと導いた。

 董星の落ち着き払った態度、そして付き人の清風華という女。

 どちらも只者ではない。

 閻帝国の軍事のトップである大都督・呂郭書はそう確信した。

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