第101話 国の命運を背負う女子大生

 李聞りぶんの軍が麒麟浦きりんほから南下を始めたと、瀬崎宵のもとへ伝令の兵士が報せに来た。葛州かっしゅうの南の都市、椻夏えんかに入り、洪州こうしゅうの朧軍に対抗する為だ。


「分かりました。下がりなさい」


 宵が羽扇を振り兵士へ退出するよう促したが、兵士はまだひざまずいて拱手を続けている。


「まだ何か?」


劉飛麗りゅうひれい荒陽こうようへ連行されました」


「……」


 久しぶりに聞いたその名前。

 宵の心の中にしまっておいた大切な義姉。彼女がついに戦場を離れ、廖英りょうえいの居る荒陽へ連れて行かれた。

 正当な裁きを受けるのだから何も問題はないのだが、息子の廖班りょうはんを殺された恨みで廖英が不当な裁きを下すのではないかと不安な気持ちの方が強い。

 自分が共に付いて行ければ不正を監視で来たのだが、今の身分ではそのような勝手は出来ない。


「教えてくれてありがとうございます」


 宵はそう言ってまた羽扇を振り、兵士を下がらせた。

 ──と、兵士が出て行くと今度は商人の格好の男が入って来て跪き拱手した。


甘晋かんしんが報告致します」


「甘晋殿! 疲れたでしょ? 少しお茶でもどうぞ」


「あ、いえ。先程、田燦でんさん殿に水を頂きましたので結構です。お気持ちだけ頂戴します」


 甘晋。宵の部下の間諜の男だ。清華せいか歩瞱ほようと共に景庸関けいようかんの朧軍の情報収集の任務に当たった兵士。景庸関にいた歩瞱は戦死したが、甘晋は街に潜んでいた為に生き残っていた。景庸関を奪還した直後に甘晋は宵のもとへ現れ生存を確認したのも束の間、仕事熱心な甘晋はすぐに洪州こうしゅうの朧軍の情報収集へと動いてくれていたのだ。


「軍師殿。洪州の様子を探ってきましたが、どうやら洪州の閻軍はほとんどが抵抗せずに朧軍に投降したようです」


「え!? 本当ですか!?」


「はい。街の噂によれば蒼河そうがを挟んでの戦闘はあったようですが、朧軍の降伏勧告に応じ戦わずに投降した太守ばかりだったそうです」


「そんな……劣勢というわけじゃないのに」


「民も思いのほか動じた様子はなく、素直に朧軍に従っているようでした。ただ、洪州への出入りは朧軍に監視されています。私のような間諜を捕まえる為でしょう」


「危険な中いつもありがとうございます」


「いえ、そういう仕事ですので。それより、私は朧軍に潜入して来ようと思います。私1人なので、情報を持ち帰るのにかなり時間が掛かってしまうかもしれませんが」


「必ず、間諜は増員します。どうか無理なさらないで」


「ありがとうございます。ですが、歩瞱ほよう殿の仇を打つまで、私は休むわけには参りません。では、失礼します」


 甘晋の拱手に宵も拱手して返した。


 甘晋は歩瞱の仇討ちに燃えている。朧軍を憎んでいるのだろう。もし甘晋が歩瞱の仇を討ったら、今度は甘晋が仇として憎まれるだろう。

 憎しみの連鎖は一体何処で止めればいいのだろうか。


 甘晋が去り、また1人になると、宵は目の前の机の上の書きかけの竹簡へ目を落とす。

 それは朝廷から求められている『閻帝国防衛と朧軍討伐の戦略』の報告書だ。

 冒頭だけ少し書いたが、朝廷に提出する公文書という事もあり下手な事は書けない。閻の闇を知ってしまった宵は、朧国からの防衛並びに討伐だけを考えた戦略を書く事に躊躇ためらいが生じていた。このまま閻の闇を放っておく事は出来ない。しかし、朧軍を退けたら閻はこのまま闇を抱えたままで民は苦しみ続ける。かと言って、朧軍の侵攻を受け入れるわけにはいかない。それにいたずらに戦を長引かせれば、民へ配給されるべき食料が軍へと優先的に回されてしまい結局、民を苦しめてしまう事になる。


 どうしたら良いものか。

 こんな重大な事を1人で決めて良いのだろうか。

 閻を守る意志の強い姜美きょうめい李聞りぶんに相談すれば間違いなく朧軍を撃破せよと言われるだろう。そして戦いたくないのなら逃げろと言う。

 劉飛麗に相談したい気持ちもあるが、もう彼女は戦場から離れてしまった。いや、もとより劉飛麗にはもう頼らないと決めたのだ。今更相談などどの道出来ない。

 こんな時、軍とは関係のない謝響しゃきょうなら何と言うだろうか。謝響はかなり変わった人物だったので、宵の考え付かない事を思い付くのではないだろうか。

 ──などと、この場にいない者の事を考えても仕方がないと思い直し、溜息をつきながら謝響からもらった白い羽扇を撫でた。


「ゼミのレポートなんて比じゃないな……」


 宵は誰もいない部屋で1人呟き、机の上の竹簡を丸めて端に置くと空いたスペースにグッたりと突っ伏した。

 もう助言してくれる人はそばに居ない。

 1つの州を守るのに疲労困憊し、さらには国全体を守る戦略の報告書を作るのに精神を削られる。

 三國志において、しょくという国を纏めながら、過酷な北伐を繰り返していた諸葛孔明しょかつこうめいが如何に偉大な人物だったのか思い知らされる。

 今更ながら、国の命運を背負う事は、一介の女子大生には重すぎる責任だと痛感した。


 グダグダと机に突っ伏したまま現実逃避を繰り広げる宵の部屋の入口に人の気配を感じた。


「宵」


 その呼び掛けに、宵はハッとして身体を起こす。

 その声は紛れもない──


「光世!?」


 宵が声を掛けると、部屋の中へ厳島光世いつくしまみつよが1人で入って来て気まずそうに笑った。

 宵は立ち上がり光世のもとへ駆け寄る。


「光世! どうしてここに? 李聞殿のところに居たんじゃ……」


「謝りたくて……」


「謝る? 何を?」


 シュンとしている光世。何に対する謝罪なのか宵には分からなかった。


「私、閻は悪い国だと決め付けて、宵に酷い事言った。ごめん」


「……え? いや、そんな……謝らないで。私も閻帝国の事ちゃんと聞いたよ。光世の言う通り、閻は民の幸福を考えない酷い国だった。私……今迷ってる。閻を守らなくちゃいけないのに、朧軍が何の為に戦を仕掛けてきたのか考えると……閻をたお──」


 言いかけた宵の両手を光世は優しく握った。


「……え? 光世?」


 光世の突然の行動に、宵はただ瞬きをして固まる。


「閻を守ろう。宵」


「……え……いきなり……どうしたの?」


 光世の口から出たとは、にわかには信じられない言葉。『閻を守ろう』。これまで光世は完全に朧軍の立場で意見を述べていた。光世もこの世界に来て、朧国に世話になったのだから知り合いも大勢出来ただろう。それは国は違えど、閻で暮らした宵と同じ感情。人の優しさを知り苦悩を知った。光世が朧軍の立場で閻を倒したいというのは仕方のない事だと、宵は自分に言い聞かせようとしていた。

 それなのに、急に光世は手のひらを返したように『閻を守ろう』と言った。その急な心境の変化を宵は理解出来なかった。


 困惑する宵を見て、光世は宵の手を離した。

 そしてゆっくりと窓の方へと歩いていった。


「閻が悪い国って事は、私は朧軍の将軍達から聞いただけだから事実かどうかは分からない。でも、確かに朧軍の将兵は閻の民の為に戦ってた。それは紛れもない事実」


「閻が悪い国……っていうのは本当みたいだよ。私も閻の軍人に聞いたから間違いないと思う。光世の言ってた事は正しかった」


「やっぱりそうなんだ」


「うん。だから本当は、閻帝国が悪で朧国が正義だったんだよね。光世が正しくて、私がまちが──」


「違うよ。そうじゃない。確かに閻には悪い部分もある。でも、いい部分もある。逆に朧にもいい部分はあるけど悪い部分もある」


「え……それはどういう……」


「例え悪い部分がある国でも、閻には祖国を守ろうとする純粋な気持ちを持った人が居る。私の大切な友達を、異国の者と言って差別せず受け入れて重用ちょうようし、ここまで立派にしてくれた人達が居る」


 宵は“大切な友達”というのが自分の事であると気付き頬を染めた。


「朧にも閻の民を救おうとする立派な人達がたくさん居る。……だけど、やっぱ戦を仕掛けて武力で解決しようとするのは良くない。戦はたくさんの死人が出る。助けたい筈の閻の民も、戦が始まった事で苦しみは増すんだから」


「光世……」


 閻帝国にも朧国にも、それぞれいい所があり、悪い所がある。どちらが正しいと言い切る事は出来ない。

 光世は続ける。


「だから私は決めた。朧軍の人達の、“閻の民を救いたい”っていう意思を守りつつ、朧軍を閻国内に侵攻させないって」


「え……?」


「閻の悪の根源である宰相さいしょう董炎とうえんを倒し、民への悪政をやめさせる。そして、朧軍には大人しく国に帰ってもらう。閻が民を苦しめる政治をやめれば、朧軍の目的は達成した事になって戦をする大義名分は失われるでしょ?」


「……出来る……かな?」


 自信なさげに宵は小首を傾げる。


「やるしかないよ。他にいい方法があるの? ないから悩んでたんでしょ? そんなしょぼくれちゃって」


 光世は笑顔で宵の頬を指でつついた。


「大丈夫。もちろん、私も手伝うから。一緒に頑張ろ? 軍略と政略。宵が軍略で私が政略! ね?」


「光世……こんなに心強い味方はいないよ。ありがとう。うん! そうしよう! そうだよ! ただ守ってても駄目なんだよね。この国の悪い所が原因で朧軍が動いたなら、私達もその悪い所を改善しなきゃいけないんだよ。政治が悪いなら、直すのも政治の力でなきゃ! 『上兵じょうへいぼうつ』。これなら、姜美殿や李聞殿も納得してくれるはず!」


 光世の提案に、思わぬ光明が差し歓喜する宵。いつもの調子を取り戻し、自然に『孫子』を口にした。それをにこやかに光世は見ていた。


「そうと決まれば早速報告書を仕上げなきゃ! 朝廷に怪しまれないように、全面的に閻帝国の防衛を書いた報告書。もちろん、ちゃんとその通りに軍を動かす。でも、朧軍討伐という策は書かず、兵力不足と兵の練度不足を理由に防衛に徹底するようにって書いとく」


「報告書? ほんと、すっかり軍師だね、宵」


「えへへ」


 宵がニヤけると光世は複雑そうな顔をした。


「あれ? 何? 気持ち悪かった?」


「それもあるけど」


「あるんだ……」


「宵、ちゃんと元の世界に帰りたいのかな……って」


「あ……」


 “元の世界”。言われて宵はピタリと止まった。


「そう言えば、光世と貴船きふね君が私を探しに来たって……」


「うん。宵のおばさんもおじさんも心配してたよ。すっごくね。あと、司馬教授も」


「そっか……みんなに心配かけちゃって……私……ん? でも、光世。そう言えば、この世界にはどうやって来たの?」


「そうだね。それも話さないとね」


 光世は空いていた席に腰を下ろしたので宵も自分の席に座った。


「私が覚えてるのは、あれだ、竹簡」


「竹簡……!」


 宵は目を見開いた。

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