第73話 真の軍師の姿

 都会にいた頃には忘れていた草木の匂い。それは乱れた瀬崎宵せざきよいの心を落ち着ける自然の生薬になっていた。

 遠くに見える朧軍ろうぐんの砦も、そのさらに奥に見える景庸関けいようかんも攻撃してくる気配はない。

 真っ白な羽織を閻服えんふくの上から纏い、頭に白い鉢巻を巻いた宵は、やぐらの上でその光景をぼうと眺めていた。

 この白の衣装。これは閻帝国えんていこくの喪服である。

 現代日本において、葬式の際に着る喪服は黒であるが、古代中国では喪服は白であった。閻帝国も中華文明と酷似した文明である為、喪服に白が使われているのも不思議ではない。


 陣中には宵と同じく白装束を着て廖班りょうはんの喪に服した将兵達が活気なく動き回る。

 廖班の葬儀を大々的に執り行ったお陰で、朧軍は閻軍が罠を仕掛けていると思い込み、士気の落ちた閻軍への攻撃を躊躇わせる事が出来た。

 これぞ『死せる孔明こうめい、生ける仲達ちゅうたつを走らす』ならぬ、『死せる廖班りょうはん、生ける陸秀りくしゅうを躊躇わす』だ。


「こんな所に居たのですか。軍師殿」


 不意に背後から声を掛けられ、宵はチラリと振り向く。


姜美きょうめい殿」


 鎧兜の上から白装束を纏った姜美は、宵の隣に来ると、宵が見ていた景色に目をやった。


「高い所は苦手だったのでは?」


「そうなんですけど、いつまでも苦手だからと言って避けていてはいけないですからね。高所から眺めた方が戦場の全貌が分かりますし」


 宵は手に持った羽扇の羽根を優しく撫でながら言った。

 その寂しげな様子を見た姜美は頬をポリポリと掻きながら少し思案するとニコリと笑った。


「それは良い心掛けですね。ところで、私の兵達は軍師殿が来てくれたお陰で皆喜んでおりました」


「え? 何故?」


「軍師殿のような若い女子おなごが見れて男達には目の保養になりますし」


「そんな、私なんか……。姜美殿の方が美人なのに」


 突然の賛辞に宵は頬を赤く染める。元の世界でも、男女問わず容姿を褒められる事は多々あったが、やはりこちらの世界で褒められるのも嬉しいものだ。


「ああ、それと、下にいた兵達が軍師殿のくん (スカート)の中が見えたとか見えないとか言って騒いでいたので蹴り飛ばしておきました。やぐらに昇られる際はお気を付けを」


「え!? み、見られた!?」


 宵は咄嗟に左右の手で股と尻を押さえた。

 その仕草を見た姜美は腹を抱えて笑う。


「今さらそんな事しても遅いですよ。まったく、軍師殿は可愛いですね」


「あの……姜美殿は何をしに来たんですか? わざわざ私をからかいに?」


 ムッとして宵が聞くと、姜美はすぐに凛々しい顔に切り替えた。


「まさか、良い情報が入ったので報告に参りました」


「良い情報?」


「ええ。北の胡翻こほんより費叡ひえい将軍配下の武将、陳軫ちんしん将軍と馬寧ばねい将軍がそれぞれ1万の軍勢を率いてこちらに向かっております。私の先輩方です」


「本当ですか? それは心強い!」


 宵は無意識に両手を胸の前でグッと握った。


「陳軫将軍も馬寧将軍も、兵法は知りませんが、この平和ボケした閻ではそれなりに用兵に長けた将軍達です。青陵せいりょう椻夏えんかの武将達よりは頼りになるかと」


 閻の中でも葛州かっしゅう鳴国めいこくと朧国の国境に接する地。費叡直属の武将達は国家を守る為に、実際の戦闘こそ無いけれど、常に緊張感を持ち軍備を整え兵の調練に励んでいたのだろう。

 兵法でも平時の備えの重要性を説いている。

 “孫子”では『の来たらざるをたのむ無かれ、れのもってこれを待つ有るをたのめ。其の攻めざるを恃む無かれ、吾、攻むべからざる所あるを恃むなり』とある。

 また、“司馬法しばほう”では『天下安しといえども、戦いを忘るれば必ず危うし』とある。平時でも軍備は必要。軍備を疎かにする国は滅ぼしてくださいと言っているようなものなのだ。


「それから、軍師殿が呼び寄せた楽衛がくえいという者も明日にはこちらに着く見込みです」


「よーし! 私の計画通り」


「それにしても、あの廖班りょうはんの死さえも見事に利用するとは。恐れ入りました」


「利用……だなんて、したくなかったけど、敵の攻撃を躊躇わせるには他に方法がありませんでした。敵の軍師が有能で、私の策の裏の裏を読んでくれたから成立しましたが、敵が単純なら逆に攻撃を誘い危険に晒されていました」


「でも、軍師殿は、敵の軍師が裏の裏を読むと確信していたのですよね? その采配のお陰で我々は士気の落ちた状態を攻撃されるのを免れた」


「まあ……」


 宵はニヤけそうになる口元を羽扇でそっと隠す。

 その様子を姜美は微笑みを浮かべて眺めてくる。

 劉飛麗りゅうひれいの話には一切触れない。

 それは姜美なりの気遣いだろう。宵の心にぽっかりと空いた穴を埋めてくれるかのように、姜美は宵にとにかく優しくしてくれる。傷心の今、こんなに優しくされたらキュンとしてしまう。今の宵は、無意識に優しさを求めているのかもしれない。


「さ、楽衛殿が来る前に一度軍議しましょう! 次で景庸関を取り戻しますよ!」


「御意!」


 宵が元気良く羽扇を櫓の天井へと掲げると、姜美は礼儀正しく拱手した。



 ♢



 隣の陣営の李聞りぶん達を交えた軍議を終え、1人部屋に戻る途中、兵士と商人のような男が走って近付いて来た。


「軍師殿!」


「あ! 甘晋かんしん殿!」


 商人風の男は、朧国に潜り込ませている間諜の甘晋だった。姜美の兵士に付き添われて宵の元までやって来たようだ。


「今度はこちらの陣営にいらっしゃったのですね。李聞りぶん殿の陣営にいらっしゃらなかったので」


「あ、ごめんなさい。ころころと居場所を変えて……」


「いえ。それは構いません。ところで、廖班将軍は本当に亡くなられたのですね。朧軍は廖班将軍がまだ生きていると思い込んで攻撃を躊躇っています。まさか、これは軍師殿の策では?」


「ご明察です。わざと廖班将軍の葬儀を大々的に行ない、廖班将軍が亡くなった事を殊更に見せ付けました。そしたら案の定、敵は躊躇い攻撃せずこちらの出方を窺っている……それより、清華せいかちゃんは? まだ連絡は取れないのですか?」


 宵の問に甘晋は苦い顔をした。


「はい……残念ながら。今日も歩曄ほようからの密書だけです」


「そうですか……」


 宵は甘晋から差し出された小さく折り畳まれた絹の切れ端を受け取り中を改めた。


「え!? マジで!?」


「まじ?」


 その衝撃的な内容に、思わず元の世界の言葉を漏らしてしまった宵。甘晋は眉間に皺を寄せて首を傾げている。


「あ、すみません。あの……清華ちゃんは無事みたいです! 甘晋殿」


「おお! 誠ですか! それは良かった」


 宵の言葉に甘晋は笑顔を見せた。

 歩曄の密書にはこう書かれていた。


『我、景庸関にて清華の姿を視る。清華、朧軍女軍師に従う。朧軍二人の軍師二手に別れる。女軍師は景庸関に留まり、男軍師は洪州こうしゅう周殷しゅういんと共に赴任す。景庸関には陸秀りくしゅう徐畢じょひつが残留す』


 密書の内容を甘晋にも読み聞かせた。

 甘晋が清華の所在を歩曄から直接聞いていなかったのは、甘晋と歩曄が当初の取り決め通り一言も言葉を交わさずに密書の受け渡しをしていたからだろう。

 2人は宵の見立て通り、間諜の仕事を完璧にこなしているようだ。

 しかも、歩曄の入手した内容はかなり重要な事だ。清華の安否も判明し、2人の軍師が景庸関と南の洪州に別れた事も分かった。洪州に大都督の周殷と軍師の1人が移ったという事は、本格的に洪州を獲りに来たという事だろう。


「甘晋殿、貴重な情報を届けて頂きありがとうございます。歩曄殿との密書の受け渡しには敵の警戒などはありませんか?」


「今のところ私の方では問題ありません」


「分かりました。では、歩曄殿への返書を書きますので兵舎で休んでいてください」


「御意。私も清華の無事が知れて良かったです。では、後ほど」


 甘晋は拱手すると、付き添いの兵士と共に兵舎の方へと歩いて行った。

 清華の無事が確認出来たのは嬉しかった。

 しかし、密書を寄越さない理由が気になる。清華が裏切るとは考えられない。かなり監視が厳しいのか。それに、軍師の1人が女だというのも驚きだった。自分と同じ女軍師。

 会ってみたい。

 そんな事を考えながら、宵は自室へと戻った。



 部屋に戻ると、むしろの丸い座布団に座り一息つく。

 李聞の陣営から引っ越したばかりでまだ荷物は行李こうりに入ったままだ。

 行李を見て、不意に宵は劉飛麗に言われた事を思い出した。


「そうだ。飛麗さんに行李の中を見てって言われてたんだ」


 すぐに劉飛麗の荷物の入った行李を探し出しその蓋を開けた。


「あ……」


 行李の中には小さな紺色の四角い帽子、いわゆる綸巾かんきんが入っていた。

 そしてその傍らには折り畳まれた絹の切れ端が1枚。宵はその切れ端を取り出し開いてみるとそれは手紙だった。


『宵ちゃん。きっとこれを読んでいるという事は、あたしは貴女のそばにはいないのね。馬鹿なあたしを許してね。手作りで下手くそかもしれないけど、軍師の帽子を作ってみたわ。良かったら使って。あたしは貴女が元の世界に帰るその日まで、ずっと味方だからね。頑張って。──劉飛麗』


 宵は唇を噛み締めた。

 いつの間に用意していたのだろう。手紙の内容からすると劉飛麗は初めから自分が捕まって宵の元を離れる事を予想していたようだ。

 劉飛麗には敵わない。

 彼女は兵法こそ知らないが、その先を見通す力はまさに軍師。


 宵は綸巾かんきんを頭に乗せ、顎紐を締め、羽扇を握り締めた。


 その宵の姿は、三国志の天才軍師、諸葛孔明しょかつこうめいそのものだった。

 もちろん、見た目だけではない。宵の心は今までの仮初の軍師などではなく、今この瞬間、真の軍師へと成長した。それは、皮肉にも劉飛麗という大切な存在を隔てた事がもたらした心の変化。


「お姉ちゃん、ありがとう。私、お姉ちゃんみたいに、いつも冷静で先を見透せるようになる。そして朧軍を倒して、閻を平和にしてから元の世界に帰る。1人でも頑張るから」


 ふと、何かに気付いたように、宵は腰紐に提げていた巾着袋から祖父の形見の竹簡を取り出し中を開く。


「……やっぱり……」


 歯抜けになっていた文章の一部が浮かび上がっていた。

 それは、宵に足りないものの4つ目の部分。


 “自立”


 宵は黙って頷くと竹簡を閉じた。


「頑張るから……」


 静かに宵はそう呟いた。

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