第72話 閻帝国宰相・董炎の悪政

 朧国ろうこく景庸関けいようかん

 景庸関の守りを任された陸秀りくしゅう徐畢じょひつ厳島光世いつくしまみつよの3名は、えん廖班りょうはん陣営に紛れ込ませていた間諜からの廖班死亡の報告を聞き、幕舎にて出撃の相談をしていた。


「廖班が死んだ今こそ好機。今日にでも攻撃を掛けようと思うのだが異論はあるか?」


「異論などありません、陸将軍。指揮官の死で浮き足立っている閻兵など恐れるに足らず」


「うむ、そうだな、徐将軍。この機を逃す手はない。光世、其方も異論はないな?」


 威厳ある雰囲気の将軍2人の話に割って入れず黙って椅子に座っていた光世だったが、陸秀の指名にすぐさま首肯する。


「はい、確か私の国の『淮南子えなんじ』という書物に、“よく兵を用うる者は、まさにその乱を撃ちてその治を攻めざるべし”とあります。敵が乱れている今こそ攻撃の時。私も……賛成です……」


 兵法を口にすると思い出す友の顔。

 光世は元気なく俯いた。


「どうした? 何か不安な事でもあるのか? 些細な事でも我々に共有してくれ。軍師である其方の意見はとても貴重なのだ」


 心配そうに陸秀が言った。


「いえ、戦況には関係のない私情ですので……」


「そうか。だが、戦況に関係なくとも、軍議の場で他に気が散るのは良くないな。其方の考えが鈍ってしまう」


「申し訳ございません、陸将軍」


「まあ、良い。其方は軍に入って日が浅い。今回は大目に見るが、次この場に来る時は憂いなど捨て去れ。我々は戦をしているのだ。良いな?」


「はい、肝に銘じます」


 光世はしょんぼりしながら陸秀に拱手した。


 光世の憂いをもたらしたもの。それは先程廖班の死を報せに来た間諜からの「閻の軍師は若い女である」という報告だった。

 光世にとって、「若い女の軍師」というワードは、もはや瀬崎宵せざきよいとしか結び付かなかった。

 もし閻の軍師が宵だったとしたら、今までの兵略の鮮やかは説明がつく。八門金鎖はちもんきんさの陣を、生門から景門へ抜け破った事も、三国志を知る宵が指示したとするならば合点がいく。

 閻の軍師は宵なのではないか。その疑惑は光世の中でより一層強まった。

 だが、そうだったからと言って今の光世にはどうする事も出来ない。

 陸秀や徐畢に、敵の軍師は自分の友達かもしれないから、こちらからの攻撃はやめようと言うのか? 言ったとして攻撃をやめてもらえる筈がない。むしろ、敵の軍師と友人だという事が知られたら、光世の命がどうなるかも分からない。

 こっそりと朧軍から抜けて閻に亡命してみるか? いや、そんな事をして、もし見つかれば軍法によりその場で斬られてしまう。

 それに、貴船桜史きふねおうしも光世の仲間である以上、光世の裏切りは桜史の生命にも関わる重大な事項。そう軽々しく動く事など出来ない。

 仮に閻への亡命が成功したとして、閻の軍師が宵ではなく、全くの別人であったらどうすればいい?

 そんな事を考えていたら何もかもが恐ろしくなり、宵を救うどころの話ではなくなっていた。

 下手をすれば自分が死ぬ。そして桜史も巻き添えで死ぬかもしれない。

 いつも頼りにしていたくだんの桜史は今ここにはいない。



「陸将軍。私に3万をお与えください。数日のうちに必ずや閻の軍勢を打ち破って見せましょう。ついでに姜美の小僧も生け捕りにしてやります」


 そんな光世の憂いを知る由もない徐畢は、覇気に満ちた顔で言った。


「良かろう。徐将軍に任せるぞ」


「御意!」


「それにしても、まさか閻の軍師も女だったとはな」


 陸秀の言葉に、俯いていた光世は顔を上げる。


「まったく珍しい事もあるものだ。だがこれで、閻の軍師が閻仙えんせん楊良ようりょうではない事が分かった。それならばもはや恐るるに足りん。廖班が死んだ直後の軍の士気をすぐに上げる事など出来はせん。聞けば閻軍には脱走兵も出たらしい」


「如何にも! まさか文謖ぶんしょくの毒矢が予想以上の成果を上げるとは思わなんだ」


 陸秀と除畢は上機嫌に盛り上がっている。

 その隣で、光世は肩を竦め、楽しそうな2人の将軍の様子を眺める事しか出来なかった。


 と、その時だった。


「報告!」


 1人の兵士が慌てた様子で幕舎に入って来て跪いた。


「何事だ?」


 陸秀が立ち上がって兵士に問う。


「閻軍の陣営で大々的に廖班の葬儀を執り行っております。将兵は皆白装束に着替え啜り泣き、喪に服しておりました」


 その報告に、徐畢は呵々と笑った。


「良いぞ! 間諜の報告と同じだ! 陸将軍! 敵はもはや戦意など欠片もありません。敵陣を包囲するだけで降伏するでしょう。これなら3万も兵は要りません。3千で十分!」


「いや、待て徐将軍。これはおかしいぞ」


 浮かれる徐畢を陸秀が手で制した。

 光世は黙って陸秀の感じた違和感に耳を傾けた。


「敵を前にして大々的に自軍の大将の葬儀を行なう馬鹿がいるか。戦場で華々しく散ったならともかく、廖班は陣中で毒矢でひっそりと死んだのだ。我々には廖班の死を隠そうとするのが普通だ」


「なっ……確かに。ではこれは……」


「罠だろう。廖班が死に、兵の士気が落ちていると見せかけ、我々の攻撃を誘っているのだ」


「馬鹿な! 廖班は死んでいない……という事ですか? 陸将軍」


「恐らくな。そもそもあの毒矢は人を殺せる代物ではないのだ」


 陸秀は顎を撫でて答えた。陸秀なりに冷静に分析して導き出した答えだ。

 光世は茶髪の毛先を指先で弄りながら陸秀の横顔を見つめた。

 不意に陸秀の目玉が光世を捉えた。


軍師・・の意見を聞きたい」


 “軍師”と呼ばれ、光世はビクッと背筋を伸ばした。


「えっと、私も陸将軍と同じ考えです。まず、こちらの間諜には廖班が死んだと思わせた。そして、実際に斥候にも廖班の葬儀を見せ付けた。明らかに廖班が死んだ事を強調しています。これはこちらの攻撃を誘う閻の軍師の策略です。攻撃は……様子を見た方が宜しいかと……」


 光世の意見に陸秀はうむと頷いた。


「よし、軍師もこう言っている。攻撃も包囲も今はしない。しばし斥候を増やし様子を見る」


 陸秀は決断すると先程の兵士に監視を続けるように命じて下がらせた。

 そのかたわらで徐畢は不満そうに溜息をついている。


「光世。私は其方がいなければ敵を軽んじていた」


 陸秀は突然話題を変えた。


「どういう事でしょう? 陸将軍はご自身で廖班の死が偽装だとお気付きになられました。私の意見など必要ありませんでした」


「それは違うぞ。其方のような若い娘が、軍師としてこうして軍事に関わっているという事実がなければ、閻の軍師が若い女だという事を信じなかっただろうし、信じたとしても脅威には思わなかったからな」


「ああ……なる程」


「其方は朧国に来て正解だった。閻のような腐りきった国では、例え有能な将軍や軍師がいたとて近い将来必ず滅びる」


「どういう事でしょう?」


 光世が首を傾げると、陸秀は腕を組み天井を仰いだ。


「閻の朝廷は機能していないのだ。中央には有能な人材が不足しており、孝廉こうれんに推挙された無能共が牛耳って私利私欲を貪っている。中央が駄目なら自ずと地方も腐る。閻では役人不足の都市が幾つもある」


「そんな状況だったんですか……」


「幸い、宰相さいしょう董炎とうえんは農業や塩の商いに熱心に取り組んでいるお陰で国の食料不足や財政難という問題は起こらず、民は最低限度の生活は保証されている。貧富の差も殆どない。ただ……」


「ただ?」


「民は自ら自由に商売をする事が出来ず、田畑の所有も禁じられ、道楽も与えられない。国の指定した仕事を強いられ、稼いだ金は多額の税として徴収され、手元に残るのは最低限度の食料と僅かな金のみ」


「酷い……」


「董炎にとって民はただの労働力でしかない。民の幸せなどどうでも良いのだ。悲しい事に、閻の民はそのほとんどが自らが董炎の駒であるという自覚さえもなく、無意識に働き、無意識に生きている。疑問を持つ事が出来た民だけが閻を見限って朧国や鳴国に亡命するか反乱を起こす」


 そこまで聞いた光世は、もう返す言葉を見つけられなかった。

 自由を奪われ、幸せを忘れた閻の人々。

 それが自分の身に起こったらと思うと背筋が凍る。

 そんな国に、光世の友人である瀬崎宵がいるとしたら救い出さないわないわけにはいかない。


「だから朧国は閻帝国を攻撃して、その悪夢を終わらせようとしているのですね?」


「如何にも。董炎を倒し、我ら朧国が閻の民を救う。無能な皇帝・蔡胤さいいんも廃す。それが朧王ろうおうのご意向」


 陸秀が言うと徐畢も頷いた。


 大義名分のある戦。

 それならばきっと勝てる。光世は朧国が閻帝国に戦を仕掛けた理由を知らないまま協力していたが、今ようやく納得した。

 それはまさに閻の民の為。廖班の軍を倒せば宵かも知れない女軍師とも会える。閻を倒せば民を救える。


 光世は決心した。


「よく分かりました、陸将軍。必ず、閻帝国を倒しましょう! 地図を見せてください。早速次の策を考えなきゃ」


 急に元気を取り戻した光世を見た陸秀と徐畢は、その豹変ぶりにお互い顔を見合わせ微笑ましそうに笑った。

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