第62話 あの陣形が分かりますか?

 廖班りょうはんが敵の毒矢に倒れてから5日が過ぎたが、朧軍ろうぐんは動かなかった。

 虎視眈々とこちらの出方を窺っているようだ。

 朧軍からしたら、戦慣れしていないえん軍など敵ではないのだろう。ただ、動かないからと言って隙があるわけではない。間諜の歩曄ほようの報告によれば、朧軍の統率は閻軍の比ではない。それに2人も軍師がいるときた。

 ただの女子大生である瀬崎せざきよいは慎重にならざるを得なかった。


 その5日間の間で2通の書簡が届いた。

 1通は、荒陽こうよう太守・廖英りょうえいからで、負傷した廖班を荒陽へ帰還させよとの軍令だった。廖英は李聞が忠誠を誓うだけはあって、適切な判断が出来る立派な将軍だった。

 廖班は父親の軍令という事もあり、渋々ではあるが帰還を受け入れ、今は大人しく帰還の準備が整うのを待っている。

 2通目は、葛州かっしゅう刺史・費叡ひえいからで、宵の麒麟浦きりんほ滞在の許可と、宵を軍師中郎将ぐんしちゅうろうしょうに任命するよう天子へ上奏したので、当面は姜美きょうめいと共に行動するようにという連絡だった。

 宵に朝廷の官爵が与えられるという事は、宵という軍師の存在が、近いうちに閻帝国全土に知れ渡るという事だ。

 いよいよ軍から去る事など出来ない。これでさらに宵の軍師としての覚悟が強くなった。


 宵は自室で逐一入る斥候の報告が纏められた竹簡に目を通していた。

 今気になる事は、「朧軍の動向とその軍師の力量」そして「清華せいかの安否」である。

 元の世界に戻る事よりも、目の前の戦の方が今の宵にとっては大事なのだ。

 この世界で出会った大切な人達を失いたくない。その気持ちが一番強い。


 部屋の蒸し暑さに宵は羽扇で顔をパタパタと扇ぐ。扇ぐ為の道具ではない羽扇が団扇や扇子と同様の効果を発揮しない事は分かっていても、扇がないよりはいくらかマシである。

 最近は天気も悪く鈍色の雲が空を覆う事が多くなっていた。今にも雨が降りそうなどんよりとした天気。

 まるで日本の梅雨のようだ。

 以前こちらに向かっていると言っていた閻帝国の大都督・呂郭書りょかくしょだが、その後の動向を報せる報告は入っていない。

 資料によれば間もなく雨季。

 やはり呂郭書の80万の大軍勢は期待しなくて正解だった。


 部屋では劉飛麗が掃除をしている。

 真面目に働く美女の姿に、宵はいつも癒されていた。


「あっ! そうだ」


 宵は突然思い出したかのように声を上げ行李にしまっていた小さな巾着袋から銀子ぎんすを1つ取り出し立ち上がる。


「どうされましたか? 宵様」


 掃除の手を止めた劉飛麗が不思議そうに振り向く。


「飛麗さんにお給金渡してないなぁと……はい。今までありがとうございました。これからも宜しくお願いします!」


 微笑みながら、宵は銀子を劉飛麗へと差し出した。

 劉飛麗は持っていた布巾を机に置くと、宵の前に来て拱手して深々と頭を下げた。


「有難く頂戴致します」


 礼を述べると、綺麗な白い手で宵から銀子を受け取った。

 宵はようやく主人としての責務を果たせたと満足気に席に着いた。ふと劉飛麗の顔を見ると、何やらにんまりとして宵を見ていた。劉飛麗がこんな顔をしているのは初めて見る。


「何ですか? 飛麗さん」


「いえ、下女のわたくしが言うのは無礼な事です」


「そんな……構いませんから言ってください。気になるじゃないですか」


「では申し上げます。宵様と初めてお会いした時からまだ一月程しか経っておりませんが、随分と成長されたな……と」


「そ、そうですか? 飛麗さんにそう言ってもらえるなんて、私、すっごく嬉しいです」


 完璧な劉飛麗から成長したと言われる事はダメダメを自負する宵にとっては堪らなく嬉しい事だ。自然と顔が綻んだ。


「初めてあった頃は、この国の事を何も知らず、御手洗もお一人では出来ませんでしたね。お仕事に出掛けるのにも緊張されていました。それが今や一軍の軍師として立派にやっておられる。わたくしはまるで、い……」


「い?」


 不自然なところで話を躊躇う劉飛麗に宵は首を傾げて続きを促す。

 しかし、劉飛麗は口元を手で押さえ宵から目を逸らした。

 その反応に宵はしゅんとして俯く。

 また隠し事……。

 だが宵も劉飛麗を問い詰められる立場ではない。今も尚、劉飛麗には宵が異世界から来た事を話していないのだから。


「ところで宵様。近々姜美きょうめい様の陣へ移られるのですよね?」


 案の定、劉飛麗は話題を変えた。

 宵も劉飛麗が話してくれない事については気にしない事にした。


「はい。私は費叡将軍の軍師になりましたから、李聞殿の下ではなく、姜美殿の下へ移れと費叡将軍のご命令で」


「李聞様の下から離れるのは心苦しいですが、姜美様となら女同士・・・、気を許してお付き合い出来るのではありませんか?」


「……え? 今何て? 姜美殿が……女?」


「あら、宵様ならとっくに気付かれていると思っておりました。男性の格好や振る舞いをされておりますが、あの方は女ですわ」


「ど、どうしてそう思ったんですか?」


「見れば分かります。同じ女なのですから、体格や指先、細かな所作。どこからどう見ても女」


「あ、でも、本人は男だって……」


「まあ、本人にどのような事情があるかは存じ上げませんので、本人が男だと言うのなら男という事で宜しいと思いますよ。わたくしは事実を申し上げただけでございます。知られたくない秘密はどなたにもございますから、その話題には触れない方が宜しいでしょうね」


 劉飛麗の大人な回答に宵は感心してただ「はい」と頷いた。


 ♢


 動きがあったのは翌日だった。

 いつも通り定例の軍議を終え、朝食を済ませた頃、突然部屋に兵士が慌てた様子で宵を呼びに来た。


「何事です?」


「朧軍が景庸関けいようかんより出陣! その数およそ8千、指揮官は徐畢じょひつ! 李聞殿より入口の櫓に来るようにと」


「分かりました、直ぐに行きます」


 宵は羽扇を振り兵士を下がらせると、留守を劉飛麗に任せ部屋を出た。



 陣営の入口には物見櫓が2基立っている。

 その内の左側の櫓の上から李聞が顔を出し手を上げたので、宵は急ぎ足で櫓にかかる梯子の前まで来た。

 梯子に手をかけ、ふと上を見ると、その高さにギョッとする。

 遠目で見た時はそれ程の高さはなさそうだったが、いざ近くに寄ってみると身の縮む思いだ。

 高所恐怖症というわけではないが、普段梯子で高い所へ昇るという経験がない一介の女子大生の宵は、ビルの2階程の高さしかない櫓でさえ怖気付いてしまう。

 そんな宵を見かねた兵士達が集まって来て声を掛けてきた。その兵士達の中に無意識に鍾桂しょうけいがいないかを探してしまう自分がいる事に1人頬を染める。だが、やはり鍾桂の姿はそこにはない。


「軍師殿、高い所が怖いのですか?」


「は、はい、普段昇る事がないもので……」


「大丈夫です、上を見ながら昇れば怖くありません。梯子もちゃんと支えておきますし、万が一手が滑って落ちてきても我々が受け止めます」


 優しい兵士達の言葉に宵は覚悟を決め頷いた。

 高い所が怖いなどと李聞には言えない。泣き言は言わないと約束したのだから。

 宵は手に持っていた羽扇を懐にしまい、1段ずつゆっくりと梯子を昇り始めた。

 上を見ながら1歩ずつ。怖くない怖くない。そう念じながら大体半分くらい昇っただろうか。この僅かな高さを昇るのに10分くらい費やしているような気がする。


「もう少しです! 頑張って!」


 下では兵士達の温かい声援。こんなに応援された事は宵の人生で初めてかもしれない。

 ……と、思った時、宵はある事に気が付く。


 ──パンツ見えちゃわない!?

 不意に頭を過る乙女な羞恥。

 だが、少し考えてその心配は絶対にない事に気が付いた。


「そうだ、私パンツ穿いてな……」


 言いかけた宵の顔は真っ赤になっていた。

 状況はもっと悪いではないか。閻のノーパン文化に慣れてしまい忘れかけていたが、年頃の女の子がスカートにノーパンで、男達を下にして梯子を昇る。何という羞恥プレイだろうか。

 だが大丈夫な筈だ。スカートは長いし、兵士達が軍師のスカートの中を覗くような破廉恥な真似する筈がない。鍾桂が下にいなくて良かった……。

 などとドキドキしながら梯子を昇っていたら、いつの間にか1番上まで到着していた。


「あ、どうも」


 下から赤面した顔を出しペコりと李聞に挨拶する。

 すると、李聞の隣の武将が片膝を突き、宵に手を差し伸べてくれた。


「顔が真っ赤ですよ、軍師殿。大丈夫ですか?」


 言ったのは澄ました美しい顔立ちの姜美だった。


「だ、大丈夫です。久しぶりに梯子昇ったから緊張しちゃって」


 適当にはぐらかしながら姜美の小さな手を握り立ち上がった。


「ふぅ……」


「軍師よ、一息ついているところ悪いが、あれを見てみよ」


 懐にしまった羽扇を再び取り出し、火照った顔をパタパタと扇ぎながら、李聞の指さした方角を見た。

 2階程の高さだが、東京と違い周りに高い建物が一切ない為、広々とした麒麟浦の疎林地帯、そして、景庸関やその左右に広がる邵山しょうざん琳山りんざんが一望出来る。

 だが、その広大な景色の中に、異様な黒い塊を見逃す事は出来なかった。


「あれは……」


「うむ。景庸関から出て来たおよそ8千の朧軍だ。見た事もない陣形を組んでいる。確証はないが、あれは迂闊には攻撃出来ん」


 李聞は難しい顔をして顎髭を何度も撫でた。

 すると隣の姜美が宵の顔を覗き込む。


「軍師殿、あの陣形が分かりますか?」


 宵は黙って砦の前の疎林地帯に展開している迫力のある陣形を眺めた。


 宵の中の軍師の血が、かつてない程に騒いでいるのを感じずにはいられなかった。

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