第57話 臆病な軍師と強い下女

 廖班の陣営に戻る途中も、遠くに兵士達が敵味方ぶつかり合い、土煙を巻き上げる様子が見えた。喊声も聞こえる程に戦場は近い。


 瀬崎宵せざきよいは、護衛の兵士に礼を言うと、馬から下り、詳細な状況を確認する為陣営の中を走り回った。

 するとすぐに、10騎程を連れている馬上の李聞りぶんの姿が目に入った。


「李聞殿!!」


「おお、軍師!! 戻ったか!」


 李聞は宵を見ると、馬で宵のもとへ駆けて来た。


「李聞殿、どちらへ??」


「ちょうど廖班将軍を助けに行こうとしたところだ。張雄ちょうゆうの奴も一緒になって出て行った。今ここにいる指揮官は私しかいないが、放っておくわけにはいかん。敵の攻撃は罠なのだろう?」


 逸る馬を巧みに操りながら状況を説明する李聞。流石に李聞には事の重大さが分かっているようだ。


「はい。恐らく、少数を囮に、伏兵がいる場所まで誘導するつもりでしょう。ですが、李聞殿はこちらにいてください。廖班将軍の救出は、姜美きょうめい殿にお任せしました」


「流石は軍師。仕事が早いな。姜美殿なら任せても大丈夫だろう。あの若さで、あれ程巧みな用兵が出来るとは只者ではないぞ」


 李聞がそう言った時、戦場の土煙がさらに濃くなった。その土煙は、砦の奥にある小高い丘の方からだった。伏兵だろう。丘は小さく、大した人数の兵を伏せる事は出来なさそうだ。地図にもその小さな丘は書かれていなかった。やはり、直接戦場を見ないと分からない事は多い。


 丘の方から土煙が上がってすぐ、姜美の騎兵3千が矢のように敵軍に突っ込んでいった。

 その攻撃で敵は簡単に崩れ、潰走を始める。


「姜美殿も優秀だが、率いている兵も精強だな。我が軍とまるで練度が違う」


 李聞は迷いのない鋭い攻撃をする姜美の軍を見て感心したように呟いた。

 土煙は次第に晴れていく。


「一先ず、敵は撃退出来たようですが……廖班将軍達は無事でしょうか。伏兵の待ち伏せを受けてしまっていましたから……」


「戦場では常に死と隣り合わせ。いつ誰が死んでもおかしくない。軍師よ。お前も戦場に出てしまったからには、死ぬかもしれないという覚悟は常に持っておけよ」


「……はい……」


 「大丈夫」と言って欲しかったのだが、李聞の現実を突き付ける言葉に宵は弱々しい返事を返す。

 死ぬかもしれない、とは思っているが、死ぬ覚悟など出来る筈もない。宵は李聞や姜美達のような軍人と違って“ただの女子大生”なのだ。皆には悪いが、絶対に死にたくはない。いざとなったら一目散に逃げるだろう。自分の弱さは自分が一番分かっている。軍師として最後まで戦うとは言ったが、死んでまでそれをやり遂げる覚悟はないのだ。

 一体、自分が憧れていた軍師とは何なのだろうか……。


 宵が思案していると、戦場から兵士が1人、馬で駆けて来るのが見えた。

 何か必死に叫んでいる。


「軍医を!! 軍医を早く!!」


 兵士の叫びの内容が耳に届く頃には、その兵士の背後に続々と帰還して来る兵達の姿も見えた。


「どうした!?」


 ただ事ではなさそうな状況を察知した李聞が、叫んでいた兵士を捕まえて問う。


「廖班将軍が……廖班将軍が敵の矢に当たり負傷しました……!!」


「何だと!?」


 李聞は顔色を変えると、続々と戻って来る兵達の中から廖班を探しに走っていった。

 そして、兵士の叫びでいち早く駆け付けた軍医の男も、李聞と共に廖班を探し始めた。


 そんな中、宵はただ立ち尽くしていた。

 何も出来ず、いや、何をしたらいいのかさえ分からない。身体が震えていた。

 知り合いが矢に当たり負傷。軍医を呼んでいた兵士の様子から察するに、相当重症なのだろう。

 羽扇で口もとを隠し、宵は騒ぐ兵達をただ見つめる。


 ──ここに居たら敵に殺されるかもしれない──

 ──逃げなければ──


「宵様」


 自分の名を呼ぶ声に、宵はハッと我に返り振り向く。

 そこには、宵の下女、劉飛麗りゅうひれいがいつも通りの感情の読み取れない無に近い表情で立っていた。


「飛麗さん……廖班将軍が……」


「落ち着いてください。何をしたらいいのか分からないのですね? 軍師様は何もなさらず、全て将兵に任せてください。これは彼等の仕事です」


 劉飛麗の言葉を聞いて、ようやく宵は落ち着きを取り戻した。


「宵様は軍師です。軍師の仕事は主君に戦略・戦術を提案し、自国を勝利へ導く事ではありませんか。今、宵様が何もしなかったからと言え、責める者はおりません。毅然としていてください。この兵達の騒ぎは李聞様がお鎮めになりますし、廖班将軍のお怪我は軍医が治療しますよ」


 劉飛麗の冷静な説明に、宵は頷く。

 確かに、李聞は兵達を纏めながら廖班を探している。そしてその兵達を纏める役目を、他の兵にも指示し上手く仕事を割り振っている。指示を受けた兵士はテキパキと他の兵を纏め上げ、兵馬、武具等の損失の確認をさせている。

 その兵士を見て、宵は目を見開く。


鍾桂しょうけい君……」


 宵の最も親しい兵士、鍾桂。混乱する兵達へ必死に指示を出すその兵士としての勇ましい姿を、宵は初めて目の当たりにした。

 宵の知る鍾桂は、家族や宵に対する優しさや愛を隠す事なく真っ直ぐに表現する純情で平和的な男だった。だが今、宵の目に映るのは、窮地に臆さない頼りになる勇敢なる戦士。

 その一面を見た宵は、初めて鍾桂にトキメキを感じた。


「廖班将軍……! 気を確かに! 軍医が来ました!」


 鍾桂に見惚れる宵の耳に、廖班を必死に励ます李聞の声が届いた。

 見ると、そこには、1本の矢が胸に突き立ち、苦悶の表情を浮かべ口から血を流し呻き声を上げる廖班の姿があった。担架の上で悶絶している。


 その凄惨な光景に宵は1歩後退りし、隣の劉飛麗にしがみつき目を逸らす。


「痛い……! 苦しい……! 息が……出来ぬ……早く……何とかしてくれ……死にたくない……!」


 目を逸らしても、廖班の苦痛に悶えるその声が、宵の耳に入ってくる。


「大丈夫! 死にません。軍医がすぐに手当します。よし、すぐに幕舎へ運べ!」


 李聞の励ましの声。

 担架で運ばれていく廖班の姿を宵はチラリと見た。何人もの兵士が暴れる廖班を押さえながら、励ましの言葉を掛けている。


「そんなに怖がっていては、前線で戦局を見る事など出来ませんよ。戦では人が死傷するもの。それに、宵様は将兵に命令を下すお立場。涙目で下女にしがみついている軍師の命令を誰が聞くと言うのですか」


 劉飛麗は震える宵を見てそう言った。優しさの中に厳しい言葉を紡ぐ。

 その言葉に宵は恐る恐る、劉飛麗の顔を見る。


「さ、中に戻りましょう。将兵からの報告を聞いて自軍の損害と敵の損害を把握しなければなりません」


 劉飛麗は無表情だった。彼女からは恐怖や焦りを一切感じない。


「……飛麗さんは、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか? ただの下女……なんですよね?」


 当然生まれる宵の疑問に、劉飛麗は目を逸らし、長い黒髪を右手で払った。


「勿論、ただの下女でございます」


「それなら、どうしてこの状況で冷静なんですか??」


 劉飛麗は一瞬思案し、それから口を開く。


「それは……かつて、この世で最も酷い死に方の人間を、目の前で見たから……でしょうか?」


「……え?」


 初めて聞いた劉飛麗の過去。それは、抽象的過ぎて詳細は分からないが、今まで一切を語らなかった劉飛麗の唯一話してくれた貴重な情報だった。

 キョトンとする宵の顔を見て話し過ぎたと思ったのか、劉飛麗はまた顔を逸らし、戦場の方へと指をさす。


「ほら、どなたかが戻られましたよ」


 劉飛麗の細い指がさすその先を見ると、大勢の騎兵を引き連れた姜美が陣営に戻って来ていた。

 姜美は宵を見付けると、兵達をその場に残し、単騎で宵の方へと駆けて来て、馬から飛び下りた。


「姜美殿! 良かった! ご無事で」


 宵が笑顔で駆け寄ると、姜美はクールに微笑んだ。色白の美しい頬には返り血一つ浴びていない。


「無論です。私が率いているのは、費叡ひえい将軍の精鋭の騎兵隊です。あの程度の敵に負ける筈がありません。それより、これを」


 姜美は手に持っていた白い包みを開き、中身を宵の足元に転がした。


「ひゃあぁっっ!!!???」


 足元のそれを認識した瞬間、宵は悲鳴と共に腰を抜かしその場にへたり込む。

 それは、どこからどう見ても人の首だった。目を見開いたまま、宵の方を見ている。


「敵将、文謖ぶんしょくの首です」


 声も出せず、宵は座り込んだまま首から目を逸らし、顔色を変えず報告する姜美を見た。

 姜美は宵の前で片膝を突くと、周りに聞こえないよう耳元で囁く。


「どうです? 女にこんな事は出来ないでしょう?」


「わ、分かりましたから……その首……早くどっかに持って行ってください」


 どうにか微かな声を絞り出し訴えると、姜美は笑いながら宵に手を差し出し立ち上がらせた。宵の手を握った手は、やはり劉飛麗と遜色ない程に美しい女性的な手をしている。

 

「失礼しました。すぐに片付けます。手柄を自慢したかったのです。お許しください。ところで、廖班将軍は?」


「向こうの幕舎に。矢を受けていて治療中です」


「そうですか。では、軍師殿に御報告致します。敵の3千の囮兵と2百の伏兵はほぼ壊滅しました。私の兵には損害はありません。一旦兵達を休ませた後、軍議に参加させて頂きたいので、そちらの損害を把握し、諸々準備が整いましたら、お手数ですが私の陣営まで人を寄越してください。では」


 廖班負傷の事実を知っても顔色一つ変えない姜美は、地面に転がっている首をまた布で包み直すと馬に乗り、颯爽と掛け去った。


「あの方が居なければ、廖班将軍の隊は壊滅していたでしょうね」


 駆け去った姜美の後ろ姿を見て零した劉飛麗の呟きに、宵は頷いた。

 確かにその通りだ。廖班の失態を姜美がフォローしてくれた。廖班の隊が壊滅していたら、この陣営も落とされていたかもしれない。そうなれば宵も死んでいただろう。


 宵は深呼吸して当たりを見回した。

 今まで視野が狭くなっていて周りの状況が見えていなかったが、廖班以外にも負傷した兵士はたくさんいるようだ。呻き声がそこら中から聞こえてくる。

 張雄も無事なようで兵達に声を掛けて回っている。

 そんな中、宵は無意識に鍾桂の姿を探したが、慌ただしく動き回る兵達の中から彼を見付ける事は出来なかった。

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