第4章 真の軍師

第56話 怒らせちゃった

 ~閻帝国えんていこく葛州かっしゅう麒麟浦きりんほ


 姜美きょうめいの陣営は、廖班りょうはん軍のすぐ隣にある。

 瀬崎宵せざきよいは幕舎に通され、姜美が筆で竹簡に文字を書く様子を、出された茶を飲みながら眺めていた。


「よし、これでいいでしょう。誰か!」


 筆を置いた姜美が人を呼ぶと、外から兵士が1人入って来た。


「これを費叡ひえい将軍に渡しなさい」


「御意!」


 兵士は姜美から受け取った竹簡を両手で受け取ると、走って幕舎から出て行った。


「今のは?」


「2つ、費叡将軍にお願いを。1つ目は、軍師殿が廖班の軍に残れるように。そして2つ目は、朝廷に上奏して、軍師殿に“軍師中郎将ぐんしちゅうろうしょう”の位を与えるようにと」


 涼し気な顔で答えると、姜美も茶を口に運んだ。


「感謝致します」


「礼は不要です。むしろ我々に協力して頂き、こちらが礼をする立場です」


 低姿勢な姜美に、宵は好感を覚えた。少しばかり緊張が解れてきた宵は、予てからの想いを打ち明ける。


「私、姜美殿が女の方で安心しました」


 率直に想いを告げた宵の首元に、いつの間にか銀色に輝く剣が突き付けられていた。

 突然の事に固まった宵の手から茶の入った湯呑みがコロンと卓に落ち水溜まりを広げた。


「な……え……??」


「無礼な。私が、女? 何故そう思ったのかですか?」


 隣に立った姜美の殺意に満ちた眼が、カタカタと震える宵を見つめる。


「えっと……顔立ちや体型……あと、手が凄く綺麗でした。それに、私が胸の話をした時の反応も……だ、だからてっきり女の方だと……ごめんなさい」


 宵の話を聴いた姜美は溜息をつき、剣を鞘にしまった。


「すみません、軍師殿。私も取り乱しました。剣を向けるなど……お許しください」


 怒りを収めた姜美は頭を下げて謝罪した。


「いえ、私も失礼な事を言いました。お互い、今のはなかった事にしましょう」


「そうですね……あの、軍師殿。女である貴女から見て、私は女に見えるのですか?」


「え……そう……ですね。お肌の張りとかも羨ましいくらいに綺麗で……凄く美人に見えました。……でも、男の方にそれは失礼でしたね」


 姜美は自分の手を困惑した表情で眺めると、その大きく綺麗な瞳を宵に向けた。


「いいですか? 私は男です。この話は終わり」


「はい。分かりました」


 宵の返事に姜美は頷くと、どこからともなく麻の切れ端を持って来て宵の卓に零れた茶を拭いた。

 姜美の怒りは完全に消えていたが、心做しか、宵には赤面しているように見えた。


「軍師殿。本題ですが──」


 卓を拭き終えた姜美は再び自席に着き、落ち着いた口調で話し始める。


「この後の戦略は如何様にお考えか? 眼前の敵の砦の攻略、及び景庸関けいようかんの奪還も急務ですが、洪州こうしゅう臥比関がびかん錘明関すいめいかん虎龍関こりゅうかんの3つのせき朧軍ろうぐんの手に落ちました」


「え!? 洪州の3つの関!? それは……聞いていませんでした」


「そうでしたか。我々“州”と“各郡”で連携が取れていないのが浮き彫りになりましたね。ですが、ご安心ください。洪州方面には一先ず椻夏えんかの軍1万5千を防衛に当たらせています。洪州の朧軍は、今のところ奪った3つの関にて体勢を整えているようで、その状況は逐一費叡将軍のもとに入るようになっています。とは言え、悠長にしている時間はありません。我々葛州はまず、景庸関を取り戻し、目先の憂いを取り除かなければなりません」


「1つお聞きします。洪州の軍には、3つの関を取り戻せる力があるんですか?」


「ないでしょうね。数ヶ月の間、敵を洪州内で抑え込む事なら出来るでしょうが、関の奪還は不可能です。故に、我々が景庸関を奪還し、葛州内の防備を固めた後、洪州の朧軍を討伐に向かわねばならないでしょう」


「洪州軍が抑えている間に景庸関を奪還……ですか」


 宵は羽扇を手に持ち、その白い羽根を撫でながら頭の中で状況を整理する。

 洪州軍が数ヶ月持ち堪えられるなら、確かにその間に景庸関奪還を完了させ、南の洪州の朧軍を迎撃するのが上策だ。しかし、洪州も葛州と同じく朧国との国境。朧軍の増援はすぐに補充されるだろう。そうなれば、葛州も洪州もどれ程もつか分からない。


「姜美殿。地図を見せてください」


 宵の頼みに、姜美は自分の席の足もとから大きな丸めた絹を手に取ると立ち上がり、部屋の真ん中に広げた。

 そこには、宵も何度も見た閻帝国と朧国の地図が記されていた。

 宵も立ち上がり、その大きな地図を覗き込む。

 洪州の3つの関の位置。そこから葛州へ攻め込む事が出来る経路。その途中にある都市と地形。

 それらを宵はしゃがみこんで羽扇で指差し確認の如く差していく。

 すると、3つのどの関から葛州へ進軍するルートにも、蒼河そうがという大河がある事に気が付いた。


「姜美殿。洪州軍の兵力と洪州にいる朧軍の兵力は?」


「洪州軍は合計8万。朧軍は、1つの関の兵力がおよそ5千。合計1万5千程でしょうか」


「なるほど。では、姜美殿。洪州の軍司令官に私の策を伝える事は出来ますか?」


「軍師殿の命令では、管轄の違う洪州軍が言う事を聞くとは思えません。ですが、費叡将軍の名をお借りすれば聞き入れてくれるでしょう」


「それで良いです。この蒼河より東の郡は籠城しつつ、近隣の郡と連携を取り合い遊撃出来る場合は攻撃。蒼河より西の郡は河沿いに布陣し、朧軍が侵攻して来たら迎撃。迎撃の際、敵が河の途中まで来た時に一斉に矢を放ち撃退する事。万が一、抑え切れなくなったら、葛州に援軍を要請した後、各城に退き籠城。これでかなり長い間洪州は持ち堪えられるかと」


「蒼河ですか。確かに、この河は河幅も広く守りには適していますね。流石は軍師殿。すぐに費叡将軍に書状を書きましょう」


「ありがとうございます。ちなみに、麒麟浦の砦と景庸関の奪還についてですが──」


「報告!!」


 突然、大声を上げ、1人の兵士が幕舎に飛び込んで来た。


「何事ですか?」


 姜美が冷静に訊く。


「敵が砦より攻めて来ました! その数およそ3千! 廖班将軍が5千の兵と共に迎撃の為出陣しました!」


「何?? 軍師殿、妙ですね」


「ええ。こちらの兵力は成虎せいこ殿の兵力を合わせて2万近くいます。それに姜美殿の兵力5千もいるのに、たったの3千だけで攻撃してくるのは罠に違いありません」


「やはりそうですか……。私の兵はすぐに動かせます。軍師殿ご指示を」


「え!? えっと……恐らく、敵は廖班将軍を誘き出して伏兵で討つつもりでしょう。姜美殿は、廖班将軍に敵を深追いさせないように説得して退却させてください」


「分かりました。では軍師殿。廖班の陣営まで兵にお送りさせます」


「ありがとうございます。姜美殿、どうかお気を付けて」


 宵が拱手すると、姜美もそれに応じた。そして、兵士を呼びつけ宵を廖班の陣営まで送るよう指示を出した。

 そしてすぐに、背後で姜美の威勢の良い号令が陣営内に響いた。



 ♢


 護衛の兵士と共に宵は馬の背に揺られながら、胸に引っ掛かるものを感じていた。

 敵があからさまな計略を用いてくる事がどうしても腑に落ちない。敵の攻撃の違和感は姜美も感じていた。兵法を知らぬものでもこの程度の計略は見破れる。

 つまり、敵の狙いは、廖班軍がどれ程戦を知っているか。それを試す事だろう。

 宵は深い溜息をつく。

 自分が廖班のそばにいれば出陣を止められただろうか。いや、李聞りぶんがいたのに止められなかったのだから、宵の説得でも止められなかったかもしれない。

 

 既に宵は兵法を使い朧軍を破って見せているのに、何故今更、稚拙な策でこちらの力を試すような事をしたのだろうか。


 そこまで考えた宵は敵の真意に気付く。


「そうか、敵も新しく軍師を投入したんだ!」


 独り言を呟く宵の背後で、護衛の兵士が首を傾げる。


「すみません、陣営に急いでください!」


 宵の鬼気迫る依頼に、護衛の兵士は馬を全速力で駆けさせた。

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