第49話 羽扇
だが、報告は吉報だけではなかった。
敵の伏兵を無視し、迅速に軍を動かしていれば砦完成前に攻撃出来たかもしれないが、それではこちらの損失が大き過ぎて最前線で戦う事は出来ない。どの道、砦完成までに攻撃する事は現実的に不可能だった。朧軍の動きがあまりに迅速だったという事だ。
宵の部屋まで報告をしに来た兵士は、廖班軍が現在布陣している
宵は地図を受け取るとその兵士には高柴でしばらく休むように伝え下がらせた。
眉間に皺を寄せて卓に広げた地図を睨む宵。
斥候の兵士の話によると、砦の兵力は不明。壁は高く、攻城兵器のない廖班軍では突破は難しい。ただ、急ごしらえの砦だけあって、防御はその高い壁だけ。堀もなければ櫓もないらしい。
ならばまだ崩す事は可能だ。敵が籠城するなら一先ずは完全に包囲し景庸関からの兵糧を断ち兵糧攻めにする。もちろん、景庸関からの援軍が包囲を突破しに来る可能性はある。その場合は、
包囲戦は、長引くと兵の士気の低下や兵糧の心配があるが、自国内ならその心配はほとんどない。
策を弄せば籠城する敵を砦から誘き出して攻撃する事も出来る。
そもそも、砦包囲前に敵が出陣して来たらそれはそれで敵の兵力を減らすチャンスだ。上手くいけばそのまま砦を落とす事も出来るだろう。
兵法を熟知した宵には取るべき選択肢がいくらでもある。
ただ一つ残念なのが、自分の目で現場を見られないという事だ。刻々と変化する戦場を実際に見られないと、敵の僅かな動きを見逃し間違った指示を出す恐れがある。
かと言って、また実際に自分が戦場に出る勇気はない。
留守番で良かったと思っている自分がいる事が情けなく感じ、宵は溜息をついた。
「宵様。敵を破ったというのに大きな溜息……」
落ち着いた声で劉飛麗は宵に湯気の立ち上る茶を差し出しながら言った。
「いえ。何でもありません。気にしないでください」
「わたくしで宜しければどんなお悩みでもお聞き致します。もちろん、他の方には絶対に漏らしません」
「ありがとうございます。本当にどうしようもなくなったら相談させてもらいますね」
劉飛麗がそばにいてくれる。それだけで宵の精神的な負担はだいぶ楽になっていた。しかしながら、軍事方針に関して、劉飛麗に相談する事は出来ない。劉飛麗はあくまで宵の下女。身の回りの世話をするのが仕事。いくら信頼しているとはいえ、軍人ですらない劉飛麗には出来ない相談なのだ。
ただ、軍事に関連しない相談なら出来る。宵が異世界から来たという事はそろそろ打ち明けてもいいかもしれない。姉のように慕っておきながら、宵の秘密を劉飛麗には未だに伝えていないのはおかしな話だ。
不意に部屋の外に気配を感じた。
「軍師様。
「え? 程燐戒殿が?」
宵は下男の報告に驚き劉飛麗と顔を見合わせる。何事にも動じない劉飛麗の顔にも驚きの色があった。
「すぐに行くと伝えてください。飛麗さんも一緒に来てください」
下男と劉飛麗に指示を出すと、宵は茶を一口飲み立ち上がった。同時に劉飛麗は、宵の祖父の形見の竹簡を丁寧に両手で抱えるように持った。最早、宵の指示がなくともその竹簡を持つ役目を自覚してくれているようだ。
♢
廖班の屋敷の前には爽やかなイケメンの程燐戒が待っていた。付き人等はおらず、馬が1頭そばにいるだけだ。
元上司である程燐戒に対して恋心こそないが、その整った容姿は宵の目の保養には十分過ぎる効果を発揮している。
「おお! 宵。久しぶりだな。と言っても、お前が
宵と劉飛麗の姿を見た程燐戒は嬉しそうに拱手したので、宵も拱手に応じる。劉飛麗はそっと頭を下げただけだ。
「程燐戒殿こそお元気そうで良かったです。こんな遠いところまで、渡したい物とは何でしょう?」
「ああ、お前が
程燐戒は肩掛けの鞄から絹に包まれた塊を宵に差し出した。受け取るとそれはずしりと重く、銅銭が入っているにしては手触りが不自然だ。
宵が腕の中でその布を解いてみると、中には
「そんな! こんな大金……」
「遠慮する事はない。お前が考案した“科挙”のお陰で、優秀な人材を多数登用出来た。それに、
「宵様。有難く受け取りましょう。宵様は梟郡を救ったのです」
劉飛麗は微笑んで言った。
程燐戒も頷いている。
「では……有難く頂戴致します」
「それとな、これは謝響先生からだ」
おもむろに程燐戒が鞄から取り出したのは、白い鳥の羽根で作られた団扇、いわゆる“
「謝響先生から? 羽扇を?」
宵は謝響からの贈り物の真意を考えた。
羽扇は鳥の羽根で束ねられているだけで骨組みがなく、扇ぐには適さない。その存在意義は、ほとんど見栄えのみの道具である一方、戦場で軍隊に指示を出す際の軍配としての使い方もある。
「成程、謝響先生は私が廖班将軍のもとで軍師になっている事を見抜いていたのですね」
宵は謝響の洞察力に感服した。謝響も宵と共にここで軍事に携わってくれたらどんなに心強いか。
そんな想いを抱き、宵は布に包まれた銀子を劉飛麗に渡すと、白い羽扇を受け取り、梟郡の方角へと拱手した。
「軍師……だと? 宵、お前、廖班将軍のもとで軍師をやっているのか??」
「ええ。今更隠す理由はありませんね。私は兵法を知っています。それ故に軍から軍師として招集されたのです。私は今、軍師として、朧軍と戦っています」
「只者ではないと思っていたが……」
「程燐戒殿。孔太守と謝響先生にお礼を言っておいてください。それと、程燐戒殿もわざわざこんなところまでありがとうございました」
「必ず伝えよう。宵。俺には何もしてやれないが、無理はするなよ。……お前に死なれたら、お前を朝廷に推挙出来なくなって俺が困る」
「生きて帰りますよ。それより、程燐戒殿が自ら来てくれたのは、飛麗さんに会う為でもあるんですよね? 良かったら2人きりで話しますか?」
宵の提案に程燐戒は赤面し、一歩後退る。
「宵様のご命令であれば何なりと」
程燐戒とは反対に、劉飛麗は余裕を持ちながら頭を下げる。
「い、いや、俺は劉さんの元気そうなお姿を見られただけで満足だ。今日はこれにて失礼する。必ず生きて戻って来い」
そう言うと程燐戒は馬に飛び乗り、颯爽と駆け去っていった。
「飛麗さん、程燐戒殿、結構いいと思うんですけどね。駄目なんですか?」
「駄目ではありません。とてもいい方だとは思います。容姿も中身も素敵です。お金も持っていそうですし」
「え? じゃあ」
「ですが、いくら宵様のご命令であっても結婚も子作りも致しません。それ以外の事でしたら何でも致します」
「えー……そ、そうですか」
劉飛麗の発言にどう反応したらいいか分からず、羽扇に目を落とし、無意味に綺麗な白い羽根を撫でた。
未だに劉飛麗が何を考えているのか、宵には分からなかった。
***
都督府の一室。
「瀬崎さんは本当にこの世界にいると思う?」
碁盤に白い碁石を置きながら桜史が言った。
「いるでしょ。ここにいなければマジで意味が分からないよ。何の為にこんな異世界転移みたいな事が起こったのよ。宵も私達みたいにこの世界に来てるのよ」
光世は黒い碁石を置いて応えた。
「異世界転移ね……それにしては現実的過ぎて異世界感はないんだよな。周りにあるものは俺達の世界で見た事のあるものばっかだし。囲碁もそう、この服だって古代中国の漢服にそっくり。単純に地球の知らない国という可能性も──」
「ここが何処かとかはこの際どうでもいいわよ。それより、宵を見つけ出してさっさと日本に帰る。それが私達のやるべき事。いい? だから本当はこんな所で碁なんて打ってる場合じゃない」
「それは分かってるけど、大都督には今は他国と戦の真っ最中だから動かない方がいいって言われたじゃんか。都督府が一番安全だからって、見ず知らずの俺達をこうして受け入れてくれた。俺達だけで無闇に動いても瀬崎さんを見つける前に戦に巻き込まれて死ぬかもしれない」
「人探しの話か?」
突然部屋に入って来た男を見て、光世と桜史はピタリと動きを止めた。
「大都督」
光世と桜史は立ち上がりその男に拱手した。
「君達の人探しだが、やはり暫くは出来そうもない」
男は上座に座ると溜息をついてそう言った。威厳たっぷりのその面構えと口髭が特徴的で、身長180cmはあろうかという大柄な男だ。
「え……それは、戦が長引くと言う事でしょうか?」
「そうだ。奴らは戦の素人の筈だったのだが、どうも最近策士を手に入れたのか、我が軍の攻撃が巧みな計略で防がれる事が起きている」
「差し支えなければ、詳しく聞かせて貰えますか?」
「ほう、桜史。興味があるのか。良かろう。こちらへ来い」
男に呼ばれ、桜史と光世は上座の卓の前に集まった。すると、男は背後の壁に貼ってある大きな地図を指さした。
「戦が始まる前。敵の戦の能力を知る為、賊共を丸め込んで敵国で暴れさせた。俺の予測通り、敵国は戦を忘れた脆弱な戦力しか持たず、ただの賊共に城を奪われる程だった。だが、敵を追い詰め、あと一歩で撃滅出来る所で戦況は変わった。今まで力でぶつかるだけだった頭の弱い敵軍が、賊共を川に誘き寄せて逆に壊滅状態に追いやったのだ」
「川に誘き寄せて……倒した……」
桜史がボソリと呟いた。
「それだけではない。我々は正式に戦を仕掛けてすぐ、敵の国境の要所、景庸関をあっさり奪った。そして景庸関までのあらゆる場所に伏兵を配置した。だが、この巴谷道という谷間の道の伏兵は看破されただけでなく、誘き出された上、敵の挟撃を受け壊滅した」
男は地図の中の巴谷道と書かれた場所を悔しそうに何度も叩いた。
「脆弱な国故、早く方が付くと思っていたのだが、これは大誤算だ」
男の話を聴いた光世と桜史は顔を見合わせると頷いた。
「大都督。
「この国の者でない貴殿らが、何故我々に協力してくれるのだ?」
男は腕を組み桜史と光世を鋭い鷹のような眼差しで見る。
「早く戦を終わらせて、友達を探したいからです」
「成程。良かろう! 桜史、光世。貴殿らの策が使えるようなら、この私、
「御意!」
光世と桜史は頭を下げ、また拱手した。
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