第29話 飛麗さんが分からない

 瀬崎宵せざきよいが提案した科挙かきょは、梟郡きょうぐん内で試験的に導入される運びとなった。

 宵と謝響しゃきょう程燐械ていりんかい毛豹もうひょうに効率の良い試験の進め方を説き、試験科目も書物の暗記ではなく、実用的な技能を試せる計算や読み書き、時事問題等を取り入れた。宵の世界での科挙は、“暗記のみの試験”、“高額な学費”、“合格までに膨大な回数の試験を行わなければいけない”などの様々な問題があったが、それらを現代の大学入試レベルまでに調整した比較的簡単なものにする事によって、有能な人材を広く集められるようにした。

 試験料もさほど負担にならないように、謝響が金額を算出してくれた。


 宵が梟郡の衙門がもんに所属してから2週間。その短い間に試験制度が変わろうとしていた。


 そんな折、宵はすっかり打ち解けた程燐械と謝響を自宅に招こうと、仕事終わりに声を掛けた。


「食事に誘って頂けるとは光栄ですが、宵殿。こんなじじいなんかより、若いお2人で楽しまれた方が良い」


「謝響殿、何を仰います。其方のお陰で試験制度が整っただけに留まらず、他の部署の溜まっていた仕事も見事に片付け、業務整理をする事が出来た。感謝してもし尽くせない。だから遠慮なさらず、今宵は共に酒を呑みましょう」


 驚く事に、程燐械も謝響の実力を認め、少しだけ丸くなったようだ。


「そうですよ、謝響殿。私も貴方ともっとお話がしたいです」


 だが、宵の誘いにも謝響は首を横に振る。


「有難いお言葉ですが、やはり遠慮しておきましょう。年寄りは早寝早起き、明日また衙門でお会いしましょう。では」


 謝響は笑顔で拱手すると、鼻歌を歌いながら人々で賑わう街の方へと歩いて行ってしまった。


「あ……じゃあ、行きます?」


「急にどうした? 乙女のように恥じらいおって」


「え? いや、別に……行きましょうか」


 夕暮れの帰り道に歳上のイケメン男と2人きり。そんな気は無いのに何故かソワソワしてしまう宵に対し、程燐械は普段通りの涼しい顔をして宵の隣を歩いていた。



 ♢



「ただいまー、飛麗ひれいさん。お客さん連れて来ましたよー」


 美味しそうな匂いがする部屋の戸を開けた宵は笑顔で劉飛麗に声を掛ける。日はすっかり沈み、綺麗な満月が空に輝いている。


「お帰りなさいませ。宵様。ちゃんとお食事の準備は出来ていますよ……あら?」


 劉飛麗は宵が連れて来た男を見ると、何かを探すように視線を彷徨わせ、そして首を傾げる。


「もう御一方いらっしゃるのでは?」


「ああ、すみません。謝響殿は遠慮するって、帰ってしまいました。なので、今日は上司の程燐械殿だけです」


「……程燐械と申します。これはこれは、何とお美しい……」


 宵の後ろに立っていた程燐械は劉飛麗を見るやいなや宵の隣に出て、いきなりその容姿を褒め始めた。


「宵。この方は、どなただ? 姉上様か?」


 程燐械は劉飛麗から顔を逸らさず、宵を肘で小突いた。宵はムッとして程燐械を睨む。だが、程燐械は宵など見ていない。劉飛麗の美しい姿を上から下まで目に焼き付けている。


「劉飛麗と申します。宵様の下女でごさいます。程燐械殿、お噂は宵様から聞いております」


 宵より先に劉飛麗は自ら淑やかに名乗った。


「下女!? ま、待て、宵、お前何者だ!? ただの書佐しょさが下女を雇っているのか?」


「あ、はい。色々ありまして……でも、私は下女というより、お姉さんと思ってます。それくらい仲良しです。ね、飛麗さん?」


 返事を返さずただ微笑む劉飛麗。

 その姿を食い入るように見る程燐械。


「さあ、お2人とも、お掛けください。お酒もご用意してございます」


「おお! これはいい! では、遠慮なく」


 程燐械は普段見せない笑顔で宵より先に食卓に着いた。宵が下女を雇っている事に関してはもうどうでもいいらしい。


「もう!」


 宵は頬を膨らませながら、戸を閉め、遅れて食卓に着いた。



 ♢



 初めは程燐械の態度が面白くなかったが、酒を呑んでいるうちにそんな事も忘れ、3人はほろ酔い気分で冗談を言い合った。

 不意に酒を煽りながら程燐械が切り出した。


「劉さん、俺は独り身なんですが、貴女はご結婚は?」


「ちょっと、何言い出すんですか、程燐械殿」


「うるさいぞ宵。俺は劉さんの事が気に入ってしまった。是非嫁にしたいと思ったのだ」


 すっかり顔を赤くしてとんでもない事を言い出した程燐械。宵は恐る恐る劉飛麗の顔を見る。


「わたくしも独身でございます。ですが、わたくしはどなたとも結婚するつもりはございません。わたくしがご面倒を見させて頂くのは宵様だけと決めておりますので」


「む……」


 劉飛麗の答えに、程燐械は飲んでいた酒の盃を口元で止めた。

 宵もその答えには目を見開いた。


「な、何を言ってるんですか? 飛麗さん。私の面倒を見る為にその……幸せになれる機会を逃す事なんて駄目ですよ。あ、程燐械殿と結婚して欲しいわけじゃないですよ? 貴女が良いと思った人がいたら、私なんて気にせずその方と一緒になってください」


 宵の話に程燐械が何か言おうとしたが、それは呑み込んでもごもごしている。


「良いのですよ、宵様。わたくしはわたくしなりの考えがあって殿方との婚姻をしないのです。わたくしは宵様の下女。この先もずっと」


 優しく微笑む劉飛麗。宵は納得出来るはずがない。確かに世話をしてくれるのも、一緒に暮らすのも宵にとってはこの上なく有難く幸せな時間となっている。だが、宵にそこまで尽くす理由が“下女だから”だけでは納得出来ない。

 例えば、衙門でそれなりの役職である程燐械と結婚すれば、今よりは確実に良い暮らしが出来る。程燐械が気に入らないから今だけそんな言い訳をしているのかもしれないが、宵にはそうは思えなかった。劉飛麗は何かを隠しているのではないか。


「どうやら、少し呑み過ぎたようだ。無礼な発言をお許しください」


 酔いだけではなく、劉飛麗への感情も冷めたと言わんばかりの真顔で程燐械は拱手した。


「気にしていませんよ。程燐械殿」


「感謝します。さて、もう遅い。俺はそろそろおいとまさせて頂こうかな」


 程燐械はそう言うとスっと立ち上がった。その挙動は完全にいつも通りに戻っていた。


「ご馳走様。美味い料理でした」


「喜んで頂けてわたくしも嬉しいですわ。では、そこまでお送り致します」


「あ、私が送ります!」


 立ち上がった劉飛麗を手で制し、宵は先に玄関の戸を開けた。


「あれ??」


「あ!」


 戸を開けるとそこには1人の兵士が佇んでいた。戸を開けた宵と目が合い、お互い間の抜けた声を上げる。


しょう……けい君?」


 俯いた兵士の顔は兜と暗闇で見づらいが、宵が葛州かっしゅうの賊討伐の時に出会った廖班りょうはん軍の兵士、鍾桂しょうけいだった。


「宵……」


 鍾桂は深刻な顔をして宵の名を呼ぶ。

 そして、無言で宵の手を取る。


「え??」


「何も言わずに、俺と来てくれ」


 何が何だか分からない。来てくれとは何処へなのか。何故、荒陽こうようにいたはずの鍾桂がこんな遅い時間にここにいるのか。

 不審そうに程燐械と劉飛麗が宵の背後から鍾桂を覗き込む。


 宵の手を握った鍾桂の手は微かに震えていた。

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