マリア・ハスターの場合

 日本は親切な人間が多い。

 マリアは両親にそう聞かされていた。


――違う。日本人は「仲間」に対して親切なだけだ。


 幼き彼女がそのように悟ったのは、学問所に通うようになって少ししてからだ。

 学問所内では異端であった彼女は、嫌がらせを受けていた。

 もちろん彼女はショックを受けた。しかし――……。


――それしきのことで泣きわめいては涙と感情と自分がもったいない。


 との考えに至った彼女は、嫌がらせに対して無反応であり続けた。

 そうしたらパタリと嫌がらせは止んだ。張り合ってくる物好きな男はいたが、別段気にすることもなかった。


「ぼくの秘書になれ」


 命令形だったことが気にならなかったといったらウソになる。しかし相坂了とはそういう人物なのだとすることでマリアは自分を納得させた。

 秘書の任を受けたのは、言ってしまえば父親からの命令だった。

「学べるものは学んできなさい。そして、嫁いだ後の糧としなさい」

 そう言われた。

 婚約者は物心つく前に決められていて、ときどき会っては他愛ない会話をするなど仲は悪くない。婚約者の会社は大きく、顔も良く性格も優しく、嫁ぎ先として申し分ない。


――それが当たり前で、歩む道だったはずなのに。


 当初はどうしようもないお坊ちゃまだったというのに、今では仕事をきちんとこなすようになり、笑顔を見せることも増えた。

「どうだ、すごいだろう」

 結果を出すごとに、したり顔で業績の紙を見せびらかす。子どものような行動が滑稽で、「ほめろ」と素直に態度にする彼が、少しだけ羨ましいとマリアは思った。

 いつしか彼がそんなことを言わなくなって、物足りなさを覚えた。

 寂しい、と感じた。


「君は意外とかまってほしがりなんだな」


 言い当てられることはないと高をくくっていた。それなのに唐突に指摘されてしまったものだから、ポーカーフェイスができなくなった。

 そんな彼女を見つめる目に、熱が灯っていることに気がついた。


―—それが、嫌じゃないとわかってしまった。


 それどころか嬉しく思ってしまった。

 だけどそんな思いは口にできない。してはいけない。口にしてしまえば今までのような軽口すら叩けなくなる。そんな関係は望んでいない。


「縁談の話、君がせっついてくれないか。奴は君の言うことなら大人しく聞くだろう」


 相坂の会長職に腰を据え、面倒ごとのように了の父は言った。

「あれをうまく扱えるのは君くらいのものだ。秘訣を教えてもらいたいものだよ――手とり足とり、ね」

 舐めるような視線に、言いようのない気持ち悪さが込み上げてくる。それを隠し、無表情で了の父親と目を合わせる。

「そうですね……褒めるだけでいいと思いますよ」

 失礼します、と一礼し、下がろうとする。

 だが「待ちなさい」と制止をかけられてしまった。肩に手が乗せられる。


 得体の知れない気味悪さが背中に走った。


 けれど振りほどけない。振り払うわけにはいかない。

 それを分かっているのだ、この男は。


 早々に会長という隠匿の身にさせられた彼は、息子を妬んでいる。火のない所に煙は立たぬとはよく言ったものだ。事実、ただの噂話というわけでもなさそうだ。息子のお気に入りに手を出そうとするあたり、了の父親らしい。


――違う。この父親に育てられたから、了様がああいった性格になったんだ。


 避けられないだろう展開を予期したマリアは目を閉じた。


「―—失礼します」


 低い声が耳に届いたすぐ後、開くはずのない扉が開いた。

 そして目の前には――……。


「いい加減、秘書を返してください」

 乱暴に腕を引っ張られ、男の胸板に額をぶつける。けれどマリアは安堵の表情を浮かべていた。


 触れられている腕が火傷しているような錯覚に、マリアはきゅっと唇を固く結んだ。


 部屋を出ても腕が解放される気配がない。それを口にしてしまえば、温もりはすぐにでも離れていくだろう。

 そうなるとわかっているから、マリアはあえて何も言わずに大人しく主の後をついていく。

 先に口を開いたのは了だった。

「まったく、どうして反抗しないんだ君は」

「相手が相手でしたもの」

「ぼく相手だとすぐにそうやってものを言うじゃないか」

 息と一緒に言葉を呑み込んだマリアに合わせ、二人は歩くことを止めた。


――言えないものだってありますよ。


 マリアは俯かせていた顔を上げ、

「了様は、別です」


 口にできない思いを目に宿した秘書は、了の腕をやんわり離して再び歩き始める。

 窓から差し込んだ光が、まるで境界線だとでもいうように、了の足元にかかっていた。

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