道融3 彭城に戻る
才覚こそブリバリであった
本人は争いごとには
あまり興味がなかったようだ。
後に
そこで経典に関する講釈を日課とした。
道融の講義の話を聞きつけて
集ったものは千人あまりにも及び、
その中から弟子入り志願してくるものも
三百を超えた。
ただ本人としてはやかましくしたり
馴れ合ったりが嫌で、
楼閣の上で静かに読書に勤しみ、
人々を仏門に導くための活動をした。
命尽きるまでその仕事に従事し、
七十四歳の時、彭城で死んだ。
『法華経』『大品般若経』『金光明経』
『十地経』『維摩経』らの注釈は、
すべて今も流通している。
融後還彭城,常講說相續,聞道至者千有餘人,依隨門徒數盈三百。性不狎諠,常登樓披翫,殷勤善誘,畢命弘法,後卒於彭城,春秋七十四矣。所著『法華』、『大品』、『金光明』、『十地』、『維摩』等義疏,並行於世矣。
融は後に彭城に還じ、常に講說を相い續け、道を聞きて至る者は千有餘人、依りて門徒に隨う數は三百に盈つ。性は諠に狎れず、常に樓に登りて翫を披し、善なるに誘うに殷勤し、法を弘むに命を畢え、後に彭城にて卒す、春秋七十四なり。著したる所の『法華』、『大品』、『金光明』、『十地』、『維摩』らの義疏は、並べて世に行ず。
(高僧伝6-12_文学)
彭城は
https://kakuyomu.jp/works/1177354054894645693/episodes/1177354054897841160
これね。
まーだからといって道融までが俗世政権と結びついてた、とかまで言う気はないんですがね。拾っときたいのは、いわゆる経典流通の上で、泰山に近ければ案外不利でもないのかな、ということ。恐らく泰山は、経典集積の点で言えば長安
この人が彭城での布教に邁進しようと思ったのがいつごろなのかわかんないのがちょっと口惜しい所。なんでこんな微妙な感じでタイムラインを見えづらくしてるんだろ。長安でのメンツの張り合いに飽き飽きしたのでは、とか邪推したくはなってきました。
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