タバコ屋のミナトさん
水上下波
第1話
初めてタバコを吸ったのは小学六年生のとき。
理由なんてなくて、ただそこにタバコがあったから。ウチは母親が喫煙者だったから、机の上に置き忘れられたタバコを見つけて、興味本位で母親の真似事をしてみたのだった。
初めて吸い込んだタバコの煙はひたすら胸に詰まって咽るばかりで、どうして母はこんなものを吸っているんだろう、と不思議に思ったことを憶えている。ただ、ひとしきり咽たあとの鼻の奥には抜けるようなハッカの香りが残っていて、これが大人の味なのかもしれないと、そんなことを考えていた。
だからだろうか。十六歳になって、理由をもってタバコを吸おうと思ったとき、俺が選んだ銘柄はメンソールのものだった。多分、俺は早く大人になりたくて、タバコを吸えば大人になれるだなんて、子供っぽい勘違いをして。
通学路の途中、学校とは逆方向に角を曲がり、住宅街を数分進んだところ。人気も無くなった、奥まった路地裏にそのタバコ屋はあった。もう何十年も前からこの場所に存在していそうな、寂れた店舗。軒先には木が剥き出しの、くたびれたベンチがポツンと置かれている。
どうにもやる気が起きない日には、ここでタバコを吸いながら授業をサボることが多い。制服のままだけど、今のところ誰かに注意をされたことはなかった。というかこの場所で、他の人を見かけたことすらない。多分ここは、誰からも忘れ去られた場所なのだろう。
こんなところに居る人間はきっと、俺を除けば一人だけだ。
「この不良が」
タバコ屋の女主人が、店先の出窓から顔を出して言う。三十代くらいのその人はいつもやる気のない眠そうな目をしていて、真っすぐに伸びた黒髪からは、染みついてとれないフレーバータバコの甘い匂いがしている。
「サボってないで学校行けよ」
薄青色の不健康そうな唇にタバコをくわえながら、彼女は横目で俺を睨みつける。口ではこんなことを言うけれど、彼女はいつも鬱陶しそうにしているだけで、実際に学校や警察に通報されたり、無理やり追い出されたことは一度もない。
「タバコ吸ってるのは止めなくていいの?」
俺の言葉に、彼女はハッと小馬鹿にしたように笑う。
「興味が無いからな。お前が何歳なのか、気にしようとも思わない」
「もし捕まったら、ここでタバコ買ったって言うよ」
「死ね」
彼女の吐き出した煙が、細く長く空へと昇っていく。
「……お前みたいのがたむろするんなら、対策考えないとなあ」
ぶっきらぼうな言葉だけれど、居心地が悪いとは感じない。きっとそれは、お互いが程よく冷めているからだ。
「もう行け。学校にバレるから消臭剤かけてけよ」
そう言って彼女は店の奥に引っ込んでしまう。寂しいとは思わないけれど、名残惜しさが心の奥に残った。
俺はしばらくベンチに座り込んで、タバコ二本分待ってみたけれど、もう彼女が小窓から顔を出すことは無かった。
別に学校に居場所がないわけじゃない。友達だって普通にいる。いじめられていたりもしないし、学校が大嫌いな不良ってわけでもない。
ただ学校という空間はあまりにも狭くて特殊で、その中で上手くやろうとすればいろいろ面倒があることが分かって。それでも我慢して他人と付き合うかどうかとか、そんなことを考えていると急に全部がどうでも良くなる瞬間があって。たまにちょっと休憩をしたくなる。
ジジと微かな音がして、燃え尽きたタバコの先端が、崩れて灰皿に落ちる。指先の煙はゆらゆらと、頼りなく揺れながら大気に溶けて消えていく。それがまるで俺自身みたいだと思うのは、流石に感傷的すぎるだろうか。
メンソールは胸の奥に爽やかさを運んでくれるけれど、その代わり、無性に喉が渇いてしまう。
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