(1−3)第1章 江古田カップル殺人事件
*
午後一時きっかりに佐々木健太は現れた。佐々木健太は遅刻もしなければ、早く来ることもない。精密機械のようにいつも時間ぴったりに来るのだ。おそらく本当は遅刻したいのだろう。しかし、御堂千明(と御堂千明が握る秘密)怖さが遅刻という反抗心を砕くのだ。遅刻ができない佐々木健太はささやかな抵抗として、早く来ることはせずに必ず時間ぴったりに現れる。
わざわざどこかで時間を潰している姿を想像して、御堂千明は失笑した。時間きっちりに来るのは早く来るのよりも大変だろう。御堂千明を責めたいがために、自分で自分の首を絞めているのだ。しかも、遅刻はしていないで、ただ時間ぴったりに来ても、結局のところ何の抗議にもなっていなかった。空回りバカだよな、と御堂千明は心の中で毒を吐く。
佐々木健太はハンカチで汗を拭いながら向かいに腰掛ける。猛暑の中移動してきたためか、額には玉の汗が浮かんでいる。店内の冷房に晒されても引く気配のない汗に外の猛暑具合が伺える。
佐々木健太は清潔感に溢れる男だった。汗にまみれても、どこか風呂上がりの石鹸の香りを連想させる、そんな魅力があった。この清潔感はどこから来るのか。警察官らしく引き締まった体躯からか、切長の目を中心とした整った顔面からか。もしくは、男性には珍しく、ハンカチを持ち歩いているからかもしれない。汗をハンカチで拭う姿から、育ちが良さそうなんて警察官の同僚の中では噂されているらしい。悪ガキで不良少年で厨二病だったやつが、ハンカチ一枚で王子のようだと言われるなんて、簡単な世の中だ。御堂千明は鼻垂れの頃から知っている幼馴染の変わりように、うまくやったな、と賛辞を送った。もちろん、皮肉としてである。御堂千明はなんだかんだ言いながらも佐々木健太の人気に嫉妬していた。
「いい記事は書けていますか?」
佐々木健太は汗を拭う手を止めずに尋ねる。
「発売前の記事をベラベラ話すバカなんていねぇな。ネタをパクられる。」
「僕には発表前の事件をベラベラ話させようとしてるのに、不公平ですよ。」
佐々木健太は頬を膨らました。百八十センチを超える大柄な男の膨れっ面は微塵も可愛くないと、同性で同郷の御堂千明は軽い不快感すら覚えていた。しかし、同僚の女性陣からは可愛いともっぱらの好評らしい。
「ティディベアの覆面被ったクマみたいなやつだな、本当に。」
御堂千明は首に手を当てて、舌を出す。吐き気を催したというジェスチャーのつもりだった。
「どういう意味ですか?」
「そのまんまだよ。ツラだけ可愛く取り繕ってるが、お前の本体は凶悪なクマだ、クマ。」
御堂千明は、佐々木健太の膨れっ面をかき消すために脳内で恵美香を思い出す。もちろん、妄想の世界に飛ばない程度に、だ。御堂千明は恵美香への愛の重さから、いつでも恵美香との夢の逢瀬に引き込まれそうになってしまうのだ。
「お前には貸があるからな。
……ほら、あれだお前のものは俺のもの。」
「それは……、千明さんが言うと洒落になりませんよ。」
佐々木健太が息を呑んだところで、ちょうど店員が来た。佐々木健太はメニューを一瞥してからアイスティーを注文した。店員の後ろ姿が見えなくなってから、佐々木健太は声を落として事件の概要を説明し始める。
「〈大学生カップルの殺人事件〉と言っていた例の事件ですが、概要は知っていますか?」
「ああ、練馬区の江古田駅近くで同棲してたんだろ。大学生カップルが深夜に寝てたら二人とも殺された。凶器は刃物。犯人は不明。
ただ、起こりたてホヤホヤだ。まだ報道が全然ねぇ。昨日発生したんだよな?」
「確かに昨日の事件で情報は少ないですが、今のところ、嘘の情報などはありませんよ。内容は、ほとんど報道の通りで間違いないです。
女性の名前は、三倉結衣、十九歳。死因は失血死ですね。胸を一突きに刺されていました。刺された時には生きていたでしょうが、その後で発見されるまで時間があったので亡くなってしまいました。
男性の方は、小松雄二、三倉結衣と同じ十九です。あ、千明さんの情報を一点訂正します。小松雄二はまだ生きていますよ。意識不明の重体ですが。三倉結衣と同様に胸を一突きにされていましたが、致死量までは出血せずに、一命を取り留めました。女性よりも体が大きいからですかね。
第一発見者は、朝方、訪ねてきた小松雄二の友人でした。約束があって呼びに行ったと証言しています。鍵のかかっていない部屋を不審に思い、部屋に入ったそうです。寝室で二人が刺されているのを見つけて、警察と救急に通報しました。」
ウェウィトレスがアイスティーを運んできたので、佐々木健太は一旦、話を切り上げた。アイスティーの説明をするウェイトレスに佐々木健太は丁寧にお礼をした。にこやかに微笑む佐々木健太に、ウェイトレスの顔はあからさまに〈オンナ〉になっていた。名残惜しそうに二人のテーブルを去り、カウンターの向こうから今もこちらをチラチラと伺っている。その様子を見ながら、御堂千明の中には毒舌がグルグルと回る。しかし、今日は立場もあるので喉元まできた言葉をグッと押し返した。
「そのくらいニュース見てればわかるよ。俺はニュース以上の情報が欲しいんだ。
例えば、犯人のアテはついてないのか?」
「ーー犯人は、まだですね。
でも、強盗殺人じゃないかって推測されています。」
「強盗殺人?」
「部屋が、荒らされていたからです。金目のものは、根こそぎなくなっているみたいでした。荒らされていなかったのは、三倉結衣と小松雄二が発見された寝室だけですよ。」
ーー確かに、寝室に金目のものがある確率は低い。また、死体のそばで物を漁るのも気が引けたのかもしれない。
御堂千明はカバンを漁ってメモを開いた。ボールペンを片手に佐々木健太に質問する。
「どんなものがなくなったんだ?」
「うーん、ありきたりですよ。通帳やカード類、それに現金です。
ただ、大学生の二人暮らしです。そこまで財産らしい財産はなかったんじゃないかって言われてますね。」
「それで二人も殺したのか。割に合わねぇな。」
御堂千明は被害者の無念を思った。大学生、まだ若い二人が少額の財産のために命を落とすなんて、あっていいのだろうか。
ーーいい記事を書いて、二人を無念を晴らしてやろう。
御堂千明はジャーナリスト魂に誓う。
「……あの、小松雄二はまだ生きてますよ。」
ーー訂正、一人は生きている。
ーー強盗にあったが何とか命は助かったということか。運が良いと言えばいいが、そもそも強盗に遭う時点で運が悪ぃな。
御堂千明は出鼻を挫かれた気持ちを誤魔化すように、指でボールペンを回した。
「そういや凶器は刃物って話だが、どんな刃物かって特定されてるのか?」
佐々木健太は喉の奥で咳払いをした。ノートから目を離して、佐々木健太を見ると視線を泳がせいた。嘘をついた少年のように顔に出やすい男だ。御堂千明は直感した。ーーここから先は極秘の内容だ、と。
「知ってんだろ、凶器。」
テーブルの下で佐々木健太の足を蹴る。どうやら脛にしっかりと当たったようで、佐々木健太は小さく声を上げた。一瞬、恨めしそうに御堂千明を見た。御堂千明が横柄に腕を組むと、佐々木健太は観念したのか、ため息をついた。
「……洋包丁、牛刀包丁と呼ばれる包丁です。ベッドの脇に転がっていました。刃渡りは、三十六センチほど。一般的なものは、二十四センチなので、少し長いものになりますね。」
御堂千明は洋包丁を知らなかった。話を進める前に、牛刀包丁についてスマートフォンで調べる。
一般的な家庭用の包丁は三徳包丁と呼ばれ、和包丁に分類される。三徳包丁は刃渡りがおよそ十五センチから二十センチである。牛刀包丁は二十四センチと三徳包丁より長い。さらに今回使われたのは刃渡り三十六センチというのだから、相当な長さと言えるだろう。
また、長さだけではなく、形状にも違いがある。和包丁が厚く丸みを帯びた鋒であるのに対して、牛刀包丁は薄く鋭角に尖っていた。殺傷能力という点で考えたら、牛刀包丁の方がだいぶ高そうだ。
「犯人のものか?」
「いや、まだ分からないんですよ。牛刀包丁は珍しいです。でも、包丁は一般家庭ならどこも置いてます。包丁に詳しくなくて、適当に買ってしまった可能性もあるでしょう。」
「三十六センチもあるえげつねぇ包丁を大学生が買うか?」
三十六センチというと刃の部分だけでも、ボーリングのピンの高さと同じくらいの長さである。さらに柄の部分も加えれば、五十センチ程度になる。新聞紙の縦の大きさが五十四センチ程度なことを考えれば、相当な大きさだとわかるだろう。肉を塊から捌くようなプロの料理人が使う道具に思えてならなかった。
「そこは、調査中です。あくまで可能性ですよ。
でも、包丁の柄についた指紋も小松雄二のものしか検出されなかったみたいです。おそらく、犯人は手袋をしていたのでしょう。包丁についていた小松雄二の指紋は、逆手でした。また、指紋の上には小松雄二の血液があったようです。自分で包丁を引き抜いた時についたと見られます。」
「逆手っていうと、刃のある方から柄を掴んでいたってことだな。」
御堂千明はペンを握り変えて、逆手という持ち方を確かめる。
指紋の様子から、当時どのように握っていたのかが推測できる。通常、包丁を握る時、指先は自分の方を向く。刃先から遠ざかるようにつく指紋が正しい握り方である。ペンを握る手は親指が外に向かって、手首も同様に外に向かって返されていた。
しかし、反対方向、つまり刃先から絵を握るとどうだろうか。正しい握り方とは反対に刃先に向かって指先の指紋がつく。逆手でペンを持つと、親指は外を向かずに自分を指す。また、手首も立ち上がり、自分の方向に返るようになるのだ。
正しい持ち方(順手)に対して、反対に持つことを逆手という。小松雄二は刃の方向から逆手で柄を掴んだという。つまり、佐々木健太の言うように包丁を抜く時に指紋がついたのだ。
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