ファム・ファタルを求めて

@FUMI_SATSUKIME

序章

 ファム・ファタルーー「運命の女」、転じて「男を破滅させる魔性の女」。フランス語でfame fataleと綴られる。FAMMEは「女性」や「妻」を、Fataleは致命的な運命を意味する。また、フランス語FATALEにはイタリア語で妖精を表すFATAが語源だという説もある。良妻賢母な妖精があなたを破滅の運命に導くのである。

 ファム・ファタルはこれまでに多くを魅了してきた。19世紀末のヨーロッパではファムファタルを題材とした絵画が流行し、その空想上のファム・ファタルに近づくめ女性はファム・ファタルを模したファッションや化粧をした。

 安泰な人生、平凡な日常を望むのならば、ファム・ファタルに出会わないように祈りたまえ。一度出会ってしまえば最後、ファム・ファタルはあなたのすべての歯車を狂わす。穏やかな笑みをたたえ、甘い声で囁きながら、あなたを地獄へ誘う案内人なのだ。あなたは恋の炎に身を焼かれ、身も心も破滅するほかない。それでも、あなたを蠱惑するファム・ファタルの魅力に抗うことなど、朝が来ないようにと祈りを捧げるほどに無力だ。

 ファム・ファタルには出会ってはいけない。ファム・ファタルは空想し、遠い星を眺めるようにその真の姿を心に思い浮かべながら鑑賞するだけで十分なのだ。

 ファム・ファタルを求めてはいけない。ファム・ファタルの名をもつブラックホールに一度捕らえられたら快楽の闇に飲み込まれ、あなたは消え失せてしまうのだから。



 栗色に染めた長い髪の揺れに合わせて、俺は上下左右へ翻弄される。瑞々しい唇は赤く火照り、甘い色香を漂わす。その厚い唇からのぞく歯は天使が奏でる白鍵さながらに光輝いている。長く太いまつ毛の一本一本に縁取られた瞳は俺を恵美香の内側へ深く誘い込む。たまらなくなって視線を鼻筋に移すと、今度はそのうず高い鼻に指で触れたくなってしまう。

 ーー恵美香、俺のファム・ファタル。

 線の細い声が、ガラス細工を扱うように繊細に丁寧に俺の俺の名前を呼ぶ。恵美香のためなら、恋の炎に身を焼かれて、破滅しても構わない。俺は恵美香に焼かれ、爛れた体を引きずりながらも、その側を離れられない。恵美香に飲み込まれて、俺は望んで無になろう。俺は恵美香の一部となって、永遠に愛を語り続ける。

 恵美香は苺のショートケーキをフォークで綺麗に切っていた。フォークを横に寝かせてナイフのように使う。切れたケーキの上からフォークを刺す。苺のショートケーキの形を崩すことなく、一口ずつ丁寧に口に運んだ。恵美香の食事の仕方は美しかった。洗練さえれた所作は見ていて気持ちがいい。

「うまいか?」

「ここのケーキはいつも美味しい!」

恵美香は目線をケーキに向けたまま答える。食べ方は淑女のように丁寧なくせに、食欲に正直なところは子どもみたいだ。恵美香を見ていると、動きの一つ一つに発見があり、喜びがあり、そして俺の知らない恵美香が隠れている気がして悲しくなる。

「恵美香は俺の癒しであり、楽しみであり、……苦しみだな。」

恵美香に聞かせる気はなかった。しかし、無意識に出ていた声は思ったよりも大きかった。恵美香はケーキから顔を上げて、俺に向き直る。大きな目を瞬かせながら、俺の言葉を咀嚼するように黙った。程なくして、恵美香は小さくムッとした声を上げる。どうやら俺の本心を推し量ることをやめたようだった。

「最後だけひどくない?癒し、楽しみ、ってきてなんで苦しみなの?」

恵美香は身を乗り出して、人差し指で俺の頬を押す。近づく恵美香の顔に思わず目を逸らす。そして、逃げた視線の先にある胸元にのぼせた。簡単に中が見えてしまいそうな襟ぐりの空いたシャツに、思わず興奮しそうになった。

 ーー俺の恵美香。俺のファム・ファタル。

 うちにある激情を悟られないように、俺は恵美香の指を雑に叩く。叩かれても恵美香が怒ることはなかった。俺の機嫌を察して、あっさりと身を引いたのだ。恵美香はフォークを手に取ろうとしていた。このまま待っていたら、恵美香から別の話題を話し出すかもしれない。しかし、何も言わないまま話を終えるのは躊躇われ、俺は恵美香の瞳を覗き込んだ。

「癒しで楽しい。そんなポジティブな感情だけが愛じゃねぇだろ。」

恵美香の黒目が上へ振れる。ほんの数秒だけ、真剣な空気を纏う。

「ポジティブな感情だけで十分でしょ?

 何があっても、二人で支え合うのがいいんじゃん。二人の間には辛いとか苦しいとかなくって、ほんわかと優しい空気が流れる感じ。」

やわらかく笑って、俺の頬を摘んだ。恵美香は俺が何かに落ち込んでいると思っているのだろうか。見当違いの優しさではあったが、俺を心配する恵美香を愛おしく思った。

「……案外、お前もロマンチストなのかもな。」

「案外、なのは千明でしょ?」

 恵美香は伺うように俺を覗き見る。そして、微笑んでから、ブラックコーヒーを一口啜った。カップをソーサーに戻し、縁についた口紅をナフキンで拭う。

 ーー子どもっぽいように見えて、味覚も発言もしっかり大人なんだよな。

 恵美香がたまに見せる淑女の振る舞いに俺は感心した。そしてまた俺は恵美香に恋に落ちる。何度も何度も。

 今日もまた夢の逢瀬は俺を惑わす。

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