ふたり

@FUMI_SATSUKIME

私は私ではありません。

 今日、待ち合わせに現れたのはさくらこであった。僕とさくらこは美術館を巡り、疲れたところで路地裏のカフェに入った。ホットコーヒーとカフェラテを頼み、今しがたの美術品について語り合う。しばらくすると話題も移り、僕らはとりとめのないことで笑いあった。

別れ際、僕とさくらこは次の約束をした。しかし、今度来るのはさくらこではないかもしれないのだ。

「次に真くんと会うのが、あたしであって欲しいな。」

ぽつりと呟いて、さくらこは悲しげに眉を顰めた。


 今日のあの子は生娘のように触れ合う手と手に赤面する。明日の彼女は妖艶に僕を誘い、夜の帳をカラカラ下す。

 僕は逢瀬の度に今日のあの子はどちらなのかと胸を鳴らす。

恋人である桜子は二つの自分を持っている。医学的には解離性人格障害、語弊はあるが世間で言うところの二重人格である。桜子のなかには「さくこ」と「さくらこ」の二人の人間が生きていて、どちらが主人格なのかはわからない。僕と付き合うずっと前から彼女たちは二人だったのだ。

さくらこはおとなしい少女だった。色恋にも疎く手を繋ぐだけで精一杯である。対して、さくこは花魁のような女だった。しなやかな振る舞いにある種の気品と夜の香りをまとっていた。そのように正反対な二人であるのに、「桜子」として体を共有しているのだ。

しかし、彼女たちは自分以外にもう一人いることは知っていてもそれが誰なのかはわかってなどいない。さくらことさくこは、お互いの記憶を共有しないのである。自分の中に何かがいる恐怖に怯える彼女らを支えるふりをして、僕は僕の汚れた快楽を貪っているのだ。

 僕のかわいそうな恋人たちの肉体は一つである。誰が見ても、彼女らは「桜子」である。しかし、精神の面では僕はさくらことさくこという二人の人間と付き合うという不貞を行っているのだ。人目を憚らずに、ただ彼女たちだけへの背徳感を快楽として二人の女と愛に溺れる。


 次の約束に現れたのはさくこであった。さくらこと服こそ同じものを着ていたが、醸し出される雰囲気がまるで違った。

「お待たせ。」

さくこはするりと僕に寄り添い、腕を絡めた。あの純情なさくらこのかんばせでさくこは淫らに僕を誘う。この奇妙な倒錯に陶酔する。僕らはどこへ行くともなく歩きはじめた。

「ねぇ。私のこと、愛してる?」

「愛してるさ。」

「そう。

 ……もう一人の私より?」

 さくこはピタリと、足取りを止めた。こういった問いははじめてではなかった。さくらこもさくこも互いに嫉妬深いのだ。前にあった時のさくらこの様子といい、今日のさくこといい、桜子はどうやら不安定なようだ。何があったのかは知らないが、僕はなるべくさくこの心に沿う台詞を言わねばならないと思った。

「どちらも同じ君なのだから選べない……と言いたいけれども、僕はさくこといる時の方か本当の僕でいられる気がする。」

さくこは微笑みを浮かべ、僕に手を差し出した。

「嬉しいわ。私もあなたといる時が一番よ。」

その手を握り返すと、さくこはいつになく真剣な表情をして、重たげにその唇を開く。

「……ねぇ、それなら、真さん。さくらこを消しましょう。

 私が桜子になるの。私ね、前から思っていたわ。さくらこがいなければあの子のすべてが私のものになるのに……って。真さんとだって、いつもさくこの私出会えるのよ。あなたに心の底から会いたいとおもった時にさくらこが表にでていたことが何度あったかわからない。私に意識が戻った時には、真さん、もうあなたとの約束が過ぎているのよ。こんなに悲しいことはないわ。その間、真さんとさくらこは何をしていたのかを嫌でもかんがえてはこの手で涙を拭っているわ。あぁ、私は悋気の虫よ。

 真さん、今しかないの。次にあなたに会うのが私だなんて保証はどこにもないのだから。

ねぇ、真さん、真さん。さくらこも大切だ、なんてすげないことは言っちゃいやよ。」

さくこは顔を歪め、僕へともたれかかってきた。おそらく、さくこは幾度となくこのセリフを口にしようと思っては、必死に押し殺していたのだろう。

 僕は考える。さくらことさくこ、果たしてどちらを取るべきか。

もちろん、さくらこのことも愛している。さくことくらべるなどできない。しかし、苦しげなさくこを前にそんなことは言えない。さくこはえらべばさくらこは、さくらこを選べばさくこは……。そうして、どちらかをとってしまえばあの僕を蠱惑する背徳感にはもうありつけなくなってしまうのだ。

 さくこの潤んだ瞳が僕を刺し、その唇からはわずかに吐息が漏れた。その官能的な姿は、とたんに僕を決心させた。白魚のような指をとり、その想いに答えた。

「そうだね、これからは僕はさくこだけを見ることにするよ。」

 もう、彼女らと付き合うという背徳感は得られないかもしれない。しかし、それでも良いのである。さくこと結託して恋人を捨て去ったという罪悪が新しい快楽を僕に与えるだろう。

「嬉しい、真さん。

 それでは、さっそくさくらこを葬りに行きましょう。」

さくこは屈託のない笑みで、これからの地獄を紡いだ。

「真さんも知っていると思うけれど、私とさくらこは記憶の共有をしていないわ。

 私はさくらこの時にあなたとどんな時を過ごしたのか知ることができないの。あぁ、嫉妬で気が違ってしまいそうだったわ。

 でもね、一月前に見つけてしまったのよ、さくらこの日記を。

 ごめんなさい。いくらおんなし私とは言え、人の日記を盗み見るだなんて最低でしょう。それでも、見ずにはいられなかったの。私のものでないあなたを知りたかったの。それほどまでに私はあなたに焦がれてしまったということよ。

あら、話がそれてしまったわ。あのね、さくらこは町外れの丘にある高台を恐れているの。あなたとの逢瀬で高台へと行くことになったらどうしよう、そう書いてあった。と、同時にそこへいったらあたしがいなくなるのだろうな、とも!さくらこはあの高台でね……いいえ、ここまで言ってしまってはさくらこがあまりにかわいそうだわ。詳しくは話せないの、真さんごめんなさい。けれどね、あの高台へ行けば、さくらこの人格は桜子のなかから居なくなるはずよ。

 さくらこ、ごめんなさい。私のわがままであなたを消してしまうことを許して頂戴。恋に狂った女がいかに恐ろしいか、私は分かってしまったの。でもね、もしかしたら、消されるのは私だったかもしれないのだわ。これは仕方のないことなのよ。」

そう言うと、さくこは口を閉しざた。空を見つめる姿に胸が締め付けられ、僕の快楽の代償として、桜子はこんなにも追い詰められていたのだ。

「……さくこ。」

 しかし、言葉は続かなかった。さくこのあまりに惨憺とした様子に何かを言うのが憚られた。

 僕らは無言のまま、さくらこを葬るために高台へと向かっていった。

 道中、さくこは終始無言であった。僕はさくこを気遣うように寄り添い、その実さくらこの消滅についてあれこれ考え、甘美な妄想に浸っていた。

 あっけなくさくらこは消え失せるのだろうか、それともおぞましい叫びをあげて醜く朽ちるのだろうか。そうして、その後、さくこはどうなるのだろうか。今まで二つの人格でで生活をしていたのに、今更一人で生きていけるのだろうか。さくらこを葬ったあとの絶望を思うと、口内に唾液が溢れ出た。僕はそれをさくこにばれないよう、飲み込んだ。

「真さん、ついたわね。」

「これから僕らは何をすればいいんだ?」

「あそこよ、あそこの灯台に登りましょう。それで全てが、終わるのよ。」

 灯台の頂上からは海が一望できた。押しては引く波が、桜子をさらっていってしまいそうに思え、僕はおののいた。こんな状況でなければ、僕らはもっとおだやかな気持ちで海を眺めていたのかもしれない。

「真さん、それではその柵から身を乗り出して頂戴。さくらこを完全に消し去るためには必要なの。怖いかもしれないけれど、お願い。」

柵の外側をみるとそこには足場とも言えない十センチもない段差があった。

「こんな不安定な場所にも身を乗り出せだなんて、もしかして、さくらこのトラウマというのはここで、誰かが自殺したことにあるのかい?」

「ええ、ええ。ここで桜子の母親は死にました。その数日後に同じくして父親も。桜子の母親はひどいノイローゼだったのです。家事、育児、近隣との付き合い、全てに疲れ果てていました。そのため……。父親は、母親を溺愛しておりました。娘である桜子を残して死んでしまうほどに。私はその時、表にいなかったものですから……、いいえもしかしたらその時に私は生まれたのかもしれません。今となっては、わかりませんわ。」

「そうか……。」

僕はひょいと柵を超え、そしてその瞬間、宙へと浮いた。

「……さようなら、真さん。あなたに、さくらこは渡さない。」

そういって微笑んださくこは今までに見たことのないほどにあどけなく、そして嬉しげに笑っていた。その瞬間、僕は全てを悟ると同時に、海に飲まれた。

「さようなら、さようなら、真さん。あなたと過ごした時間はとても無駄だったわ。

 あなたも馬鹿な男ね。さくらこにさえ、手を出さなければ私に殺されなくて済んだのに。

 私が望んでさくらこができたの。私がこうなりたかった理想の人間がさくらこよ。あのとぼけた眼差しも優しく笑うさまも活発なのも全部私が望んだ私そのもの。

 さくらこはね、私のために作られた、私だけのために。誰にもあげない。あの子は、私だけのものなの。それなのに、あなたはさくらこを自分のものとしよとしたでしょう。いいえ、した気になっていたわね。それならばつまり、私はあなたを殺さなければいけないでしょう。

 ごめんなさい、悪く思わないでね。それじゃあ、運が悪ければ来世でお会いしましょう。」

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