盟妹オーバーライド
伝馬ヨナ
第1話 メイド少女と仙女少女
蝉しぐれもかしましい初夏。
開け放った窓からは風も入らず、籠もった熱気が教室内に充満していた。
まだ夏の盛りになっていない七月だというのに、気温は三十八度を二週間連続でキープし続け、今日に至っては遂に四十度を超している。
さらに、教室のエアコンが突然停止したのが五限目の半ば。六限目さえ乗り切れば、あとはなんとかなる。そう考えた学校側および、上郷高校2のB教師および生徒の目論見は甘すぎだった。
「うん、人間は自然と戦ってはいけない、臨時休校あってもいいのに」
「佐々木くん、授業中にブツブツ言うの、やめとこ?」
独り言を、幼稚園からずっと同じクラスであり続けた、驚異の腐れ縁に突っ込まれ、佐々木コウマは唇を尖らせ不貞腐れる。
額に浮かぶ玉のような汗に張り付くサラサラのショートヘア。顔つきは整っている方だが、どう見てもかっこいいというより可愛い系というのが本人の悩みだ。身長はかなり小柄、これもコンプレックスになっている。高二ともなれば大人の様な体格の同級生もいる。彼らと比べると、まるで小学生のように見えた。
そして、このうだる様な教室でコウマの独り言に付き合う女子は、2のBで最も常識と良心と成績を備えた、メガネ委員長の山下ケイコ。トレードマークと化した黒縁メガネを外すと、はっと息を呑む男子は意外と多い。
ふたりは『腐れ縁』と書いて『天敵』と読む仲。
または、『腐れ縁』と書いて『捕食者と被捕食者』と読んでもいい。
思えば昔は、こんな仲ではなかったはずだ。幼稚園の頃、もっと山下とは普通の友達だった気がする。いつから、こんな風になったのだろうか。熱気で茹で上がりそうな脳みそで、コウマは記憶の糸を手繰り上げようとする。
(んーと、ガキの頃に一緒に夜空を見上げて、花火かなんかを見た覚えが)
きれいな光が散って、小さな星が幼いふたりの体に吸い込まれたんだっけ?ううん、これは高熱を出したときの夢だった?あまりの暑さにどうでもよくなってきて、コウマは考えるのを放棄した。ああ、早く帰ってゲームしたい。
「佐々木くん、いまエンドオブクレイドルのこと考えてるでしょ?」
「なんだよ突然、関係ないね」
「関係?もちろんあるよ。おばさんがさ、うちに来るたびに『うちのコウマなんてゲームばっかりで』って泣いているの。息子として、不甲斐ないと思わないのかな」
「うちの親が泣くわけないだろ、また母さんは、そっちに入り浸ってるの」
「うん、よく来るよ。お母さんの相談相手になってもらっているみたい。でもさ、心配してるのは確かだと思う。私達も、もうすぐ受験でしょ」
ふたりの母親は大変仲がいい。なんでも大学の頃から続く友情だとかなんとか。そのためコウマの個人情報は、茶飲み話のネタになる度に、このメガネ委員長まで筒抜けだった。情報を制する者は戦争を制す。おかげでコウマは山下ケイコという強国に頭が上がらないのだ。しかたないよね、そういう星の元に生まれたのだ。もう諦めるしかない。
「うう、せめてコイツと学年が離れていればいいのに。なぜなんだ、神も仏もいないのか」
ブツブツと言いながら、コウマは頭を抱えた。
「コイツじゃなくて、山下委員長とか、山下女史または山下様、あるいは普通に山下さんと呼んでほしいな」
(もうなんで俺の独り言に絡んでくるの?ほっといてくれ)
イラッとして、いつもどおりに呼び捨てにする。
「山下ってさあ」
「どうせならケイコって言ってみ?」
「いやです、拒否します」
「残念だなあ」
こんなやりとりを、周囲の連中は誰も茶化したりしない。
せいぜい、このクソ暑い中よくやるよと、白い視線を向ける生徒がいるくらいだった。酷暑の教室で授業に集中するのは、みんなも辛いらしい。普段は真面目な山下でさえ、こうしてコウマと授業中にじゃれあうほどだ。
あちこちで、ささやき声の会話と忍び笑いが起きていた。
先生も、すでに注意する気力すら起こらないようだ。
コウマの視界の左側で、肉の山が暑苦しくぶるぶると揺れている。
その人物はサウナに入っているみたいに、やたらと粒の大きい汗を大量に浮かべている。そりゃ、あれだけ分厚い肉を、まとっていれば暑かろう。
肉山の正体は北岡ユウジ。嗜む趣味(マンガ・アニメ・ゲーム)がコウマと同じということもあり、進級したクラスで出会って以来、真っ先に仲が良くなったヤツだ。もはやコウマの同志といってもいい。
「北岡、生きているか?終わったらレア堀にいかないか」
コウマと北岡はオンラインゲーム「エンドオブクレイドル」で同じやりこみ系チームに所属していた。正体不明のアタッカーのサムライ『K』と、盾役の重戦士『焼き肉BAN助』がコウマ、そしてヒーラーの僧侶『シェリィ』は北岡という三人組で、よくPTを組んでいた。さらに必要に応じて、チームや野良から魔術師や盗賊を加えるのが、コウマたちの攻略スタイルだった。
今日のメンテで大型アップデートが行われ、レジェンダリーレアの新武器が、ついに実装される。中でも注目を集めているのがサムライ専用の武器、双牙村正・
パーティーの火力をてっとりばやく上げるには、これをKに装備してもらうのが現状の最適解。もっともドロップできればの話だが。
「おおーい、北岡さんや生きてる?」
豊満な巨体が右(つまりコウマの方向)に傾くと、北岡は派手な音を立て倒れた。
コウマはどうしていいのかわからなくて、ただ呆然とするだけだった。状況を把握していなかったクラスの連中も、倒れた北岡を見て動揺が広がっていく。「救急車」や「保健室」といった言葉があちこちで繰り返されていた。だれも行動を起こさない。いや、どう動いていいのかわからない。間違った対応をしてしまったら、ヤバいんじゃないか?そんな風に心がすくんだ2のB教室内の尻を蹴っ飛ばしたのは、メガネ委員長の山下だった。
「先生、まずは隣の教室に北岡くんを運びましょう!」
「熱中症の場合は保健室じゃないかな」
突然の出来事で、先生もどこか他人事として捉えているみたいだった。
「あの、どうやって保健室まで安静状態を維持して運びますか?」
先生は難しい顔をして、北岡の巨体を見たまま考え込んでしまう。教室は二階、そして保健室は一階だ。噂によれば、北岡の体重は150キロを超えているらしい。はっきりいって、抱えて階段を降りるなんて無謀だった。
つまり、冷房の効いた教室で介抱するのが最良。それでも体調が悪いままなら、救急車を呼んで隊員の人たちに搬送を頑張ってもらうしかない。
「田村さん、伊藤先生を呼んできて」
山下は、保健委員に養護教諭を連れてくるよう指示を出した。
「先生は、C組に北岡くんを受け入れてもらえるよう、お願いしにいってもらえませんか?」
もはや山下は、先生より先生をしているのではなかろうか。と、コウマは感心してしまう。
「ちょっと男子、はやく北岡くんを運んでよね!」
女子の誰かが言った一言で、様子を見ていた男子陣が動き出した。搬送路をつくるべく机と椅子が片付けられ、C組に近い教室後部のドアを開放する。
「くそっ、肉脂の固まりすぎて重い」
「やっぱ持ち上げるのは不可能か」
「引きずるべ」
「おーい、女子ぃ、そっちの机もどかしてくれ」
「ふぬぬぬぬっ」
「なんか陸にうち上げられたクジラっぽいな」
「バカなこと言ってないで引っ張れ」
こうして北岡の危機に、クラスは灼熱の猛暑を忘れ団結した。
(なんだよ2のB、お前らカッコいいよ!最高だ!)
北岡のために動くクラスメイトを見て、コウマは感動すら覚えた。
「俺も手伝う!」
(そうさ、あいつのピンチだ、俺だって頑張らなきゃ)
コウマの心は熱く滾っていた。
「はあ、佐々木かあ」
「佐々木じゃなぁ」
「佐々木くんはちょっと」
「ん、気持ちだけもらっとく」
「危ないから近づかないほうがいい」
「二次被害を出すわけにはいかないしな」
「なあ、それ俺が邪魔ってこと?」
コウマは、心外だと抗議した。
「まって、みんなの気持ちを察してあげて」
山下が割って入ってきた。
「苦しそうな北岡を助けて何が悪い」
憮然としたコウマは、自分の疑問を口にする。
「あ、あのね、そのっ、佐々木くんは」
はっきり意見を述べることが多い山下にしては、歯切れが悪い。
「俺がなに?」
「その、身体が小さすぎて、手伝うどころか、みんなの足を引っ張るだけだと思うの!」
「!」(気にしてたのにっ、親父にだって言われたことないのに!)
佐々木コウマは、高校二年生でありながら、身重一四八センチ、体重三九キロ、さらにアニメ声という呪い付きだった。
クラスの出し物で演劇をやろうものなら、ネタ枠でヒロインに推挙される男の娘タイプの容姿。さらにショートボブっぽい髪型も、遠目で見れば小動物系女子に見える要因だ。
中学生の頃、本当に女装してシンデレラを演じる羽目になり、コウマを女子だと錯覚した上級生にストーキングされ、大変な思いをしたことすらある。
なんとか誤解を解き、男であることをハッキリ伝えた。
確かに伝えたハズなのだが、その上級生から「男の娘でいいから、付き合ってください」と告られたときのダメージたるや、カンスト魔力で唱えたマダンテをくらったスライムの様なありさまだった。
心の傷はあまりに深く、登校に恐怖すら覚えたコウマだったが、そのまま不登校にならなかったのは母親と山下のおせっかいによる功績が大きい。
首に縄をかけてでもという言葉があるが、文字通りあの二人はやってのけたのだ。嫌がるコウマの首にロープを巻き付け、拒否柴を引きずるかの如く山下が学校まで引っ張っていった。ああ、思い出すと身震いがする。そのおかで留年することもなく今のコウマがいるわけだが、感謝するべきか恨むべきか、未だに判断つけがたい。
あれは、もはや地底深くの迷宮に放り込み、ラスボス・裏ラスボス・追加真ラスボス(DLコンテンツ/有料)の三段見張りをつけて封印しておきたい黒歴史だった。
「ああ、うん、そう、だね。俺はどっちかっていうと小柄な人だし、力仕事も向いてないし」
打ちひしがれたコウマは、北岡のジューシーな脇腹をプニプニつついていじけだす。はっきりいって面倒くさい、いや、この場合は空気も読めない邪魔なやつだった。
山下と仲がいい吉田が、なんとかしなさいよと言うように、メガネ委員長の背中を押す。やや思案して委員長は言葉を紡ぐ。
「そ、そういえば中学のシンデレラを覚えてる?佐々木くん可愛かったなあ」
「ううっ、くっ、まずは黒歴史の生き字引たる山下を埋めにいかないと、俺に明るい未来はない」
「そんなあ、褒めているのに」
「誰がそんなので喜ぶかっ」
怒りのあまり、立ち上がって山下に詰め寄った。山下はずいずい下がって、コウマを引きつける。その隙きに男子が北岡を引きずっていく。
「ナイスアドリブ!」
吉田がガッツポーズで山下を褒め讃えた。
みちみちみちぃ、ぶりゅっずりゅぶりゅるるるるっ、ぶりゅっ、みちぃみちぃ、ずりゅりゅりゅりゅっ!
この緊急ミッションの真っ最中だと言うのに、教室中にものすごく漏れた音が響き渡った。
北岡が倒れたせいで、「なんでもしますからトイレ行かせてください!」と先生に言い出せなくなった生徒が、やらかしちゃった音なのだろうか。
ひょぇぇぇ、うわぁぁぁと、悲鳴が聞こえる。
漏らしたヤツの心の傷を思いやったコウマは、冥福を祈りつつ静かに目をつぶる。あえて注目しない、そんな優しさが世界に存在しても邪魔にならないだろう。
(ん、北岡はどうなっているんだろう?)
ついさっきまで北岡の脇腹を突っついて、救護の邪魔していたことを棚に上げ、いまさら心配をする。目視で確認したいところだが、果たして今、目を開けてしまってもいいものだろうか。
「佐々木くん、う、後ろっ。それに、立ったまま寝るのはどうかと思うよ」
山下が、必死にコウマの袖を、くいくい引っ張った。
「立ったまま寝るわけないだろ?わけあって目を閉じてるだけだ。僕はゾウとかキリンじゃない」
「あれって寝転んじゃうと、胃の細菌が出すガスをゲップできなくなって、胃が破裂しちゃうらしいね」
「さすがメガネは伊達じゃないな。僕の知らないことを、いろいろ知っている」
「えへへ、そんなに物知りじゃないよ…ってそんな場合じゃない、後ろ、後ろが大変!」
ますます見てはいけない気がしたコウマは、きつく瞼を閉じた。
「なにムキになって強く閉じてるの、バカなの?もっと素直になって」
「失敬な、僕はいつだって自分だけに素直だ」
しぶしぶ目を開けると、教室中がある一点を注目していた。
「え?ナニコレ!ナンナンデスカッ!」
コウマは驚愕のあまり叫んでいた。あの北岡が、ありえないことになっている。
まず、頭頂部から真っ二つに裂けていた。
ゼリーみたいに揺れる肉脂と鮮やかな鮮血を散らしながら、少女型の異形が這い出てきた。粘液にまみれ、テラテラと光を反射する肌は、絵師が描く美少女のように柔らかそうな肌。ウェーブのかかった金髪は、乳白色の背中をケープの様に覆っている。形の良い小顔には、愛らしい瞳と長い睫毛、すらっとした鼻筋が絶妙なバランスで配置されており、唇は蠱惑〈こわく〉的に微笑んでいる。
北岡という肉の繭から誕生したルネサンス彫刻の様な少女は、頭上に光輪を頂き、豊かな胸と腰、まろやかな曲線の肢体を、恥じらうことなく晒す。
人間の
「て、天使だ」誰かが、声を絞り出すように言った。
しかし猛獣に睨まれた小動物のように、みな張り付いたように動くことができない。
元北岡だったソレの背中から、
「北岡、おまえ、俺より先になっちまったのか。ちくしょう、うらやましいぞ」
「佐々木くん、危ない!」
フラフラと近づこうとするコウマを、山下が必死に引き止めた。
コウマと北岡は、この
北岡の度を越したむっちりは、脳下垂体ホルモンバランスの異常と内臓疾患によるものだと知ったのは、そんな仲になってからだ。『長く生きられないかも』と、コウマに打ち明けるようになった。食事制限が辛いときは、『死んでもいいから、焼き肉を腹いっぱい食べたい』とLINEに愚痴をこぼしてくるようにもなった。北岡は、既にコウマなんかじゃ想像できない人生を歩んでいたのだった。
佐々木コウマと北岡ユウジは、人間を諦めることに憧れを抱いている。
低身長の身体と、男の娘とからかわれる容姿のコウマは、背の高い誰かに生まれ変わりたかった。
体型のせいで偏見の目で見られ、食べたいものも自由に食べられず、長く生きることも望めない北岡は、健康な身体と、誰もが羨む容姿を望んでいた。
その北岡が、己の望みを叶え、可憐な(ただし全裸の)天使として目の前にいるのだ。はっきり言って目のやり場に困る。
「くそっ、あのおっぱいが大変、じゃない、北岡が大変なことに!」
「佐々木くんは、おっぱい星人だって?ちょっと行って相手してあげたらどうなの」
そう言って山下はコウマの背中に回り込む。
「なぜそれを知っている?」
「北岡くんが、ゴミ出し手伝ってくれたとき、教えてくれました」
「あのヤロウ、自分の性癖を棚に上げて言うことかっ!!」
「はい、はい。ところで身長ちゃんと伸びているの?頼りない人間の盾ね」
「よけいなお世話だ。去年より二センチも伸びたんだ、俺の骨格にあやまれ!」
コウマは山下の後ろに、回り込みかえしてやった。
「ちょ、女の子を守って、清く散るのが、モブ男子の役割でしょ」
山下のフェイントに引っかかったコウマは、あっさり背後にまた回りこまれた。
「誰がモブだ、男女平等だっつの!」
緊迫感のない痴話喧嘩を、冷めた目で北岡だった天使が見つめる。
その瞳からは、なんの感情を読み取ることはできなかった。滑らかな体の表面に光が煌めき、即座に純白のローブが裸身を包む。そして右手を無造作に突き出した。
何かを掴むような動作をした後、抜くように腕を引く。クラス半分程の級友たちと先生の体から人の形をした白いモヤが抜け出した。途端に音を立て体が倒れていく。モヤは倒れた体に戻ろうと藻掻くが、やがて人の形を保つことができなくなり、霧散していった。
無事だった生徒たちから悲鳴が上がる。
「いやぁぁぁ、助けてぇ」
「昇天だっ、これ、本物の
「し、死んでる。こいつっ、心臓が止まってるっ」
「止めてくれよぉ、き、北岡あやまる。お前の上履き隠したの俺なんだ」
「やだよぉ、死にたくないよぉ」
天使が再び腕を突き出した。
悲鳴と慟哭と哀願が教室を満たす。
騒ぎを聞きつけた近隣クラスの教師や生徒が野次馬に集まってきた。養護教諭を連れて戻ってきた田村が、2のB教室に群がる野次馬にぎょっとする。酷暑で廊下側の窓は全開になっており、教室で繰り広げられている惨状を覗き見るのは容易かった。田村や養護教諭、野次馬はみな天使と化した北岡を見るなり一様に凍りつく。
「北岡、頼むからこんな事やめろよ。お前は願いが叶ったんだろ?こいつら助けてやれよ、同じクラスだろ」
コウマの呼びかけに腕の動きが止まった。
「佐々木くん、もっと呼びかけてあげて。ねえ、北岡くん、委員長の仕事を手伝ってくれたじゃない。優しい人だって、私は知ってるよ」
「北岡ぁ、北岡、やめよう。お前に人殺しは似合わねえよ」
コウマは一生懸命、呼びかけた。過酷な運命を苦しみながらも柔和に向き合ってきた、そんな北岡が殺人に手を染めていくなんて見ていられない。
天使は感情のない目でコウマと山下を見る。そしてそのまま、腕を引いた。音を立てて残りの生徒が、様子を見に来た廊下の教師・生徒たちまでもが床に倒れていく。
コウマと山下の体から光が溢れ出し、抜け出ようとする己のモヤを押し留めた。
「あれっ、生きてる?」
「昇天、してない、だと?」
天使の瞳に、わずかながら驚愕の色が宿る。しかし、ふたりがそれに気づく余裕はなかった。
「…佐々木くん、こんな状況でふざけないでよね。信じられない、最低」
コウマを見た山下が、急にこめかみを押さえながら言う。
「はあ?」
「頭、そのネコ耳、なにやってんの?やっぱりバカなの?」
「俺はそんなの付けてねえ。お前のほうが付いてるじゃん」
「ったく、そんなわけないでしょ」
それぞれ頭上に手を伸ばし、モフモフした三角形の物体が付いていることに愕然とする。
「なに、これ?抜けない、痛っ」
「はははっ、マジかよ。こいつ頭から生えてるぞ」
突然、天使が咆哮を上げた。聞き慣れない旋律で謎の言語が次々と紡がれていく。
「なんだよ、これは詠唱ってことか?」
「やばそうだよ、逃げようよ!」
「待て山下、これが本当に呪文とかだったら、巻き添えで学校中に被害が出るぞ」
「じゃあどうするの?」
「ええっと、そうだな、試しに殴って詠唱キャンセル狙ってみるか」
コウマは勢いをつけて殴りかかった。天使の手前でごつんと鈍い音がして、拳が阻まれる。見えない障壁が天使を守っていた。
「痛い」
涙目でコウマは、痛む拳をさすった。
山下は痛みでかがみこむコウマを見て、とっさに机を抱え投げつけた。運動部の所属経験なしの女子では、ありえない膂力だった。スマブラの投擲アイテムのように豪快に投げた机は、やはり不可視の障壁に阻まれ、音を立てて天板が割れ、中の教科書が散らばった。頑丈なはずの金属製フレームまでもがひしゃげる。
「……どんだけ馬鹿力で投げてんだよ」
「ち、違うからね。こんなの私じゃない。なんでこうなったの?」
「これが、教室で異能バトルってやつなのか」
「バカなの?ラノベの読み過ぎじゃないの?」
「片っ端から読みふけってるのお前じゃん」
「なんで知ってるの、ストーカーなの?」
「……暇さえあれば、放課中でも読んでるじゃないか」
「だって続き気になるでしょ!」
「ЖЖЖЖЖЖЖЖЖЖ!」
天使の両手に、ふたつの紅玉に輝く球体が現れた。
「なにこれ、生ファイヤーボールってやつ?すげえぇ、俺ちょっと感動」
「おバカ、逃げるのっ!」
そう言って山下がコウマのシャツの襟を掴むのと、両の手から火球が放たれたのはほぼ同時だった。
閃光と熱膨張した空気の破裂音。肉と骨が燃える何とも言えない脂くさい煤けた匂い。巻き上がる煙の隙間から見える黒焦げは、さっきまで一緒に授業を受けていた友達の成れの果て。
2のB教室だけではない、火球は隣接する教室の壁をぶっ飛ばし、即席のワンフロアをこしらえていた。天井には亀裂が走り、たわむように膨らんでいる。今にも抜け落ちてきそうだ。
「うっ、うううっ、おええぇ、けほっ、けほっ」
周囲の凄惨な地獄絵に、山下は体を折り曲げて吐く。炭化した級友を見たコウマも酸っぱいものがこみ上げてきたが、危ういところで堪えた。ふたりの体には、服とも鎧とも判断がつかない光るモヤ状のものがまとわりつき、これが熱と衝撃を防いだらしい。
「こ、これは概念なんちゃらとかいう……ひょっとして俺は、英……」
「ストップ、それ絶対違うと思うから」
吐き気を堪え、山下がコウマの思考暴走に緊急ブレーキをかけた。
階段を降りる大勢の足音がする。校庭の方が騒がしい。拡声器の耳障りなハウリングまで聞こえてきた。どうやら火球の爆発で全校一斉避難になっているらしい。避難誘導の放送や火災報知器すら作動していないことから、あの爆発でなんらかの電気系統のトラブルが発生しているのかもしれない。
ダメージを与えられない、ダメージを喰らわない。手詰まりになったふたりと一柱は対峙し続けていた。
「埋葬機関、早く来てくれないかな」
山下が心細そうにつぶやいた。埋葬機関とは、国内で多発する天使異態化〈セラフォーシス〉事件の解決に向け、国が新設した専門部隊のことだ。警察の特殊急襲部隊、自衛隊の特殊作戦群に続く第三の即応部隊として、一時期マスコミで大いに叩かれていた。
曰く、警察や自衛隊の既存部隊で対処可能である。
曰く、天使異態化〈セラフォーシス〉など存在しない、集団催眠の一種である。
曰く、税金の無駄。消費税を下げるべき。
しかし、こうして日常的に住民が異態化するようになると、これらの批判は下火になっていく。批判にまわっていた専門家たちは、手のひらを返し、埋葬機関の解説映像や礼賛電子書籍をユーチューブやアマゾンに垂れ流すようになっていた。
「おい、まてよ。ネコ耳が生えた俺たちも、異態化した駆除対象じゃないよな?」
「まさか、だって私たち普通の高校生だよ」
「ああ、昇天耐性や火属性耐性とか持っている普通のネコ耳高校生だ」
「…どうしよ、自信がなくなってきた。私たちって、どうなるんだと思う?……こわいよ」
「山下、よく聞いてくれ。機関が到着する前に、北岡を……いや、天使を俺たちで止めよう。そんでもって逃げる。どうせこの騒ぎで休校だろ。ほとぼりが冷めるまでバックレようぜ。ネコ耳は…親父が勤めている会社のソシャゲにフェルピープルって種族がいるから、たぶんイベントの売り子として登録できると思う」
「…前半も荒唐無稽だけど、後半は逞しすぎだよ佐々木くん」
「だめか?」
「うう、だめ……じゃないかも」
「よし、じゃあ行動あるのみだ」
「ちょ、佐々木くん、そんなに行動力のある人だったっけ?もっとネガティブなゲームヲタとかじゃ、なんだか生き生きしているしっ、きゃっ」
山下が話し終わるのももどかしく、コウマは強引に引っ張った。なぜか顔を赤らめながら、山下が大人しく後についていく。
コウマたちが、黒焦げ遺体と瓦礫を飛び越え教室を出ると、朱金光子翼〈あけがねのこうよく〉を広げ、宙に浮かんだ天使が音もなくゆっくりと追跡を開始する。
「よし、北岡もついてきているな」
「どうするつもりなの」
「硬いエネミーには、有効な属性で攻めないとな。理科準備室に向かう」
「うまくいくのかな」
山下が不安そうに呟いた。
コウマの蹴りで理科準備室のドアは勢いよく吹っ飛び、ちょうど向かい側に設置してあったスチールロッカーを、見るも無残なスクラップにした。
「……私のせいじゃないですよっと」
「……教室の机、木っ端微塵にしたくせに」
「うるさいな。私たちの力、ちゃんと抑えなきゃだめだね」
「まったくもってそのとおりだ」
施錠されたスチールロッカーの鍵をものともせず、コウマは力いっぱい開けた。金属製の鍵の機構がちぎれるように破壊され、いくつもの薬品が入った瓶があらわになる。
コウマはニンマリとして瓶の物色に取り掛かった。それを猜疑の目で見た山下は、小さくため息をつくと、別の薬品棚の鍵を壊し、粉末の入った瓶を取り出した。
「あれ、っかしーな」
「早く、もうすぐ来る」
「オリハルコンインゴットを集めてた時、神鉄亀っていうのを狩りまくってさ、クソ強いから即死呪文狩りが主流だったけど、俺達のPTは腐食状態狩りで集めたんだよね」
「ゲームの知識が、本気でピンチに活かせるって思ってるの?」
「物は試しだろ」
「それに天使のあれは高ステータスの防御力ではなく、詠唱障壁だと思うんですけど?」
「う……、ま、まあデバフかかるかもだし、ビーカーよし、塩酸よし、硫酸よし、ま、混ぜるぞ」
規定の体積比で塩酸と硫酸をビーカーに注ぎ混ぜ合わせる。最初は透明だった液体が、ほんのりとオレンジ色を帯びてきた。
「手にかけないでね、保護手袋は?」
「あー、もー、気が散るし、足止めよろしく!」
「んもう、お調子ものなんだからっ。本当に天使に立ち向かうの?北岡くんなんだよ?」
「山下も見ただろ、あいつがみんなを……俺たちにも容赦がなかった……」
「ドアの方!来たっ」
天使が無警戒で理科準備室の扉をゆっくりとくぐった。山下が粉末の入った瓶を投げつける。見えない障壁は解除されているようで、天使の額に当たって瓶の中身が飛び散った。灰色のマットに反射する粉末が広がる。タイミングよく、ハンカチをねじり固めて作った即席トーチが、青い炎を上げて粉塵の中に吸い込まれていった。
火球に比べれば、遥かに劣る爆発音だったが、凄まじいの一言につきる閃光が起きる。
「おまっ、これ、マグネシウムかぁ?」
コウマが狼狽の声を上げた。
「てへっ☆、こういうの一度やってみたかったんだぁ」
山下が即答する。
「てへっ☆て何だよっ!」
大胆に接近したコウマは、天使に向かってビーカーの中身を浴びせた。
「ЖЖЖЖЖ!!!」
「おおっ、効いている!」
「ええ?絶対ファンブルすると思ってたのに」
「おまえな、もうちょっと信頼しろよ」
焼け付く痛みに悶える天使の表皮から、黒光する槍の様な棘が生えてきた。それがコウマ目掛けて一斉に伸びてきた。
咄嗟にバックステップで棘の回避に移る。間合いが十分あれば間に合ったのかもしれない。しかし、コウマは王水を浴びせるために接近しすぎていた。
「あがっ!」
左肩と左胸に二本の棘が深々と刺さる。コウマは激痛を堪え棘を掴み、力任せにへし折る。バックステップの勢いを落としきれず、たたらを踏む。それでも姿勢を制御できなかった。尻もちをつくように腰から落ちそうになる。
「しっかりしてよね」
山下が、コウマの血で汚れるのも厭わず抱きとめる。
「ゴフッ、すまん」
「np」
その時、奇妙な既視感を覚えた。こういうやり取りは、どこかでもあった気がする。そうだ、エンドオブクレイドルでヘイト管理をミスった時、サムライのKが自分のHPが減少するのも厭わず、カバーしてくれた事があった。
サムライのK……山下蛍子のケイ……いや、まさか。
コウマはへし折った棘を、力任せに引き抜いた。まっとうな人間なら痛みで悶絶か、悪くて失血死である。ネコ耳といい、膂力の急上昇といい、体に異変が起こりつつあった。今だってそうだ。気を失うほど痛いのに、心はどこまでも静かで、魂の奥から何かが訴えてきている。
戦エ!
コレヲ武器ニツカエ!
アラガエ!
どこから、この声がするのだろうか、いや、いまはそれよりも……。
「新鮮な武器、ゲットしてやった」
己の血でぬめる棘の一つを、山下に差し出した。うなずいた山下は臆することなく、血糊をセーラー服の袖で乱雑に拭うと、しっかりと握りしめた。
高校生ではありえない、常軌を逸した行動を取っていることを、ふたりはまったく自覚していない。
「不思議、ちっとも怖くない。私の奥から戦エ!って声が聞こえるの」
「ああ、俺もその声が聞こえる」
「フフ、佐々木くんとひとつになった様な一体感は、ひさしぶりだな」
「そんなことあったっけ?」
山下に支えられ、ゆっくりと立ち上がる。膝はまだ力が入る。まだやれる。
「覚えてない?子供の頃、夜空にきれいな光の輪が広がったこと。きれいだねって、ふたり手をつないで見上げていたら」
「ああ、そうか、小さな星がふたつ落ちてきて、俺たちの中に吸い込まれたんだ。あれは、高熱を出した時の夢だと思ってた」
「おしい。私たちは、星を受けた後に高熱を出したのでした。記憶力ないね」
「山下ほど、頭よくないし」
拗ねたコウマを見て、クスクスと山下が笑う。
天使はそんなふたりを、無表情で眺めていた。否、王水によるダメージを修復していた。
「早く終わらせてやろう。隷属から北岡を開放してやらないと」
(隷属?俺、何を口走っているんだ……)
「うん、循環機構から、人はそろそろ自由になるべきだよ……ってなんのこと?」
山下は、自分自身の言葉に戸惑っている。
「くそっ、知らないのに知っている。殺る方法も理解できる。妙な気分だ、気味が悪い」
コウマが棘を下段に構え、低く姿勢を落とす。
「NNNは天使なんかに負けられないからね……ヤダ、なんで厨二セリフ出ちゃうのかな、もうっ」
山下は、慣れた手付きで棘を中段に構え、肩を引き絞るかのように引いた。
「俺が行く、押し付けて悪いがトドメを頼む」
「あの棘はやっかいだからしようがないよ、任された」
コウマの足が床を蹴った。床面すれすれに這うように奔った。体勢が前のめりになりすぎると、四足獣の様に手も使って床を蹴る。もはやその動きは人に非ず。超速で伸びた棘がコウマを狙う。ハリネズミのような連撃の突きを、円弧を描くように躱していく。急所に的確な一撃を与えるため、下からすくい上げるように、顎の真下を狙う。その先には脳。棘を阻む頭蓋骨はない。せいぜい喉下の軟骨くらいだろう。
回避反応に遅れた天使は、新たな棘の槍を生やし、打ち上げるような勢いで伸ばした。
「ぐあああっ!」
天井に縫い付けられたコウマは苦悶の声を上げる。だがこれでいい。
「せいっ!」
山下が裂帛の気合とともに突進した。風圧でセーラー服の襟がめくれ上がり、リボンが乱れ、スカートから足が大胆に露出する。それでも恥じらうことなく雄叫びとともに、ガラ空きになった天使の急所、中央神核を狙う。位置は人間に例えるならへその下辺り。それこそが、天使の制御機構を凝縮した器官。人を隷属する場所。
山下が突き出した棘は、確かな手応えで中央神核を貫いた。はらはらと、桜の花びらが散るように、天使を構成する粒子がはがれ、宙に溶けはじめた。
「はぁ……」
天使がため息をついた。やけに野太いため息だった。
神核をえぐるため、懐深く潜ったままの山下の頭を、天使は親しみを込めて叩いた。
山下は顔をあげようとしない、細い肩が小刻みに震えだした。
天使は天井を見上げた。ニヤリと口角が上がる。
「佐々木ぃ、ザマアないな」
天使が北岡の声で、コウマに話しかけていた。
「へっ、ここはいい眺めだぜ、北岡」
本当は全身が痛くて仕方がないのだが、散りゆく友の手前、精一杯に強がってみせる。
「ちがいない。ああ、いい気分だ。もう何も苦しいと感じない。ずるいな、こんな清々しい体で生きてきたのか。お前らも一度、俺の苦しみを味わうべきだ」
「だが断る」
「言うと思った」
乾いた笑いが、ためらいがちに男子たちから漏れ始めた。
つられたのか突きの体勢のまま、いまだ頭を垂れ肩を震わせる山下からも笑い声が漏れる。
んふふふふふふふふっ。
あっはっはっはっはっ。
がははははははははっ。
三人は笑った。
心の奥底から笑った。狂っているのかもしれないが、大いに笑い続けた。
……そして。
ふたりは笑っていた。
泣きながら笑っていた。
天使の構成物質が宙にすべて溶けたことで、コウマはようやく自由になり、顔面から無様に落ちた。山下がそっと抱え起こす。コウマの鼻血を拭こうと、腰のポケットを探る。ハンカチはマグネシウム粉を点火するトーチにしてしまったのだと思い出し、形の良い眉を八の字にした。コウマが自身の半袖シャツで拭おうとするのを押し留め、三角タイをほどき手当する。
「もう、無茶、し、す、ぎ」
たしなめるような口調で、コウマの額をつんつん突く。
「グッジョブ、さすがKは頼りになるな」
「炒め、いつから気づいていたの?」
『焼き肉BAN助』ではチャットやウィスパーのタイピングが面倒な上、深夜のレア掘りで、焼き肉は飯テロになりかねない。そこで親しいフレンドは、コウマのキャラのことを『炒め』と呼んでいた。
「俺を抱きとめた時、npって言ったじゃん。あれがKぽかった。あとは最後のところの呼吸の合わせ方だな。俺の動きを観察して、さらに上乗せする。そんな芸当ができるのは、やっぱKしか思い当たらないんだ」
「へっ、へえ、そう、なんだ」
山下の頬や耳たぶが朱に染まる。
「おい、どうした黙って?顔が赤い、まさか毒をもらったのか」
「違う、そんなんじゃないから」
「いや、だって、今すごく赤く」
「ああ、もうっ、いいって言ってるのにぃ」
口をへの字に曲げた山下が、ぼかぽかとコウマを軽く叩く。
じゃれるように叩いたとしても、全身串刺しの傷を負ったため、微妙に一撃一撃が痛撃に変わる。
「イテテテ、なんか知らんが悪かった、悪かった」
にゃーん。
突然、場違いな愛くるしい鳴き声がした。
先程まで激戦を繰り広げた理科準備室に、いつの間にかネコが入り込んでいた。トラ、ブチ、灰、三毛、白、黒……様々な毛並みのネコがざっと見で十匹以上。
にゃあ、にゃあ、にゃあ。
みゃー、みゃー、みゃー。
無作為に聞こえるはずのにゃんこ合唱が、人間の言語のようにふたりの心へ語りかけてくる。
「埋葬機関が来る、屋上へ急げって、こいつらが言っている……かもしれない」
「私にも、そんな風に聞こえる。なにコレ?」
「俺たちのネコ耳と関係があるのか?」
「わかんない、ヤダ、急げ急げって合唱が……動けそう?」
「ああ、靭帯はやられてないから、うわわっ」
立ち上がろうとして、バランスを崩したコウマを、咄嗟に山下がお姫様抱っこした。
「うわあああ、まてコラ、何のバツゲームだこれ?」
コウマは羞恥心のあまり顔を覆った。
「北岡くんを開放したご褒美ですよ?」
「あのだなあ、いかに俺が小柄な方の人だとしても、これはないぞ。女子にお姫様抱っこされる俺の気持ちを考えてみろ」
「ざーんねん。男子の気持ちなんて、わかりませーん」
軽やかな足取りで理科準備室を出る。そのまま階段を上がり三階へ、目指すは屋上。
「てめえ、おーろーせーっ」
「だーめっ」
暴れてやりたいコウマだったが、串刺しの傷が深く、四肢が言うことを聞かない。それにネコ達の警告も気になった。ネコ耳の生えた自分たちは、駆除対象になってしまうのだろうかと考えると、不安で押しつぶされそうになる。
山下の顔を覗き見る。瞳は不安で揺れていた。
「山下、あのな」
「それ言ったら怒るからね」
「……まだなにも言ってないのに」
「俺を置いて逃げろって言いたいんでしょ?バカなの男子って、そんなにカッコつけたいわけ?佐々木くんが駆除されちゃったら、おばさんになんて言えばいいの?佐々木くんを犠牲に生き延びられたとして、毎日、楽しく生きていけるって思うの?」
覗き込むように山下が話しかける。口元の小さなホクロがよく見える。大きな雨粒のような涙が、コウマの頬に落ちて濡らしていく。まるで自分が泣いているみたいだ。
「その、ごめん。俺がバカでした」
「わかればよろしい」
コウマをお姫様抱っこしたまま、屋上に通じるドアノブを回す。鍵はかかっていなかった。強風に対応するためか、屋上のドアは上部に付いているシリンダーが固く、ゆっくり開く。じれた山下は大胆にも足を大きく上げ、乱暴に蹴り上げた。想定以上の負荷がかかったシリンダーが、金具ごとちぎれてしまう。左右を探り、屋上に誰の気配も感じないことを確認した山下は、コウマをベンチに横たえた。
「言われたとおりに来たけれど、ねえ、これからどうすればいいの猫ちゃん」
問う山下の前に猫は現れなかった。幹線道路の車の音が、かすかに聞こえてくるだけだった。
「雨の日は、清宮通りの交番が良い。あそこの駐在は、膝の上に乗せて優しくなでてくれる」
コウマでない何かが、コウマの口を支配して喋りだした。
「今日みたいに暑い日は、夢屋カラー印刷がおすすめだよ。冷房が効いている事務所で、おやつまで出るんだから」
何者かわからないが、山下の口まで支配したらしい。
「子供を養えなくなったら、集会所の南東、赤い屋根の人間が信用できる。すでに六匹が、あの家で大人になった」
(だから何が言いたいんだよコレ)コウマは勝手に動く口を呪った。
「新しき氏族よ、
ようやく、山下の口が有益な情報を告げだした。
(我らは個にして全?うーん、ヤバイ宗教か、王蟲なのか?)
コウマの脳内で、たまたま妹が見ていたため最後まで見てしまった、風の谷のナウシカがエンドレス再生を始める。ラン、ランラララ、ラン、ラン♪
MVー22Jオスプレイ改の特徴的なローター音が近づいてきた。ベースはその昔、米国にむりやり迫られ仕方なく購入したシロモノだ。あまりにトラブルが頻発したため、やむえず改良したところ、日米間でいらぬ緊張を招いてしまったという経緯がある。
それは学校の屋上上空でホバリングすると、ダークグレーの機動甲冑を装備した埋葬機関の隊員を、つぎつぎ自由降下で吐き出していく。スラリとした戦闘ロボっぽい外見の隊員たちは、着地手前でスラスターから真昼でも青く輝く噴射を上げ、落下速度を暖和した。
隊員が構えている火器こそ、世界最強の携行火器と名高いMXカラサワレールガン。弾体加速装置の口径は可変式で、通常射撃の15.2mmAPFSDSの他、最大口径の50mmモードでは、戦術N²弾頭も使用できるという。
咄嗟に山下が、負傷で動けないコウマの上に覆いかぶさった。か細く無防備な背中に、照準アシストの赤外線レーザーがいくつも照射される。
「逃げろ。あれの前じゃお前の体なんて、紙切れみたいなもんだぞ」
「私ひとりで、こんな体のまま生きていくの?一人ぼっちはいやだっ」
「俺みたいなバカはきらいなんだろ?行けよっ」
「行かないっ、一緒がいいっ!!」
隊員たちは慎重に包囲を固める。すでに対話で無実であることを証明するのは難しそうだ。コウマの口の中が、恐怖で乾き始めた。抗う手段を持たないふたりは、震える手と手を取り合い、しっかりと握りしめた。
「いいのか、最後が俺みたいなやつで?」
「別にいいよ。キミのこと、そんなに嫌いじゃないし」
ふたりに同意なく勝手に生えたネコ耳は、聴力も優れているらしい。フルフェイスヘルメット内の通信の会話が漏れ聞こえてくる。なにか言い争っている。憤慨する鼻息まで聞こえてきそうだ。
「……はい、いいえ!、しかし彼女らとは同盟……手を汚せと?あんたら襟章組はいつも安全なところからそうやって!……了解。……くそどもが」
中年男の沈んだ声が、コウマたちの運命の終点を告げていた。
「ああ、ああっ、怖いよ……」
「ちくしょう……」
無念と恐怖、諦観と焦燥。ふたりの握りあった手はぐっしょりと汗で濡れ、自然と力がこもる。
「「「「「「「カァウッ!」」」」」」」
独特の発射音がセプテットで奏でられた。
おそらく痛みすら感じることなく、即死できるはずだった。
が、何も起こらない。
必死にしがみつく山下がいるため、視野は限られている。『好奇心は猫をも殺す』という諺はどこの国のだっけかなと、やくたいもないことを考えながら、コウマは様子をうかがった。
防御スクリーンの様な紅く輝く半球の膜が、コウマたちを覆っていた。本当にこんな薄い膜が、レールガンの直撃を止めたのだろうかと、思わず訝ってしまうほどだった。
そして眼前に大きな火柱が上がる。少女が火の中から出現する。
紅玉のように煌めく
コウマたちに向けられていたレールガンの射出口が、珍妙なコスプレ少女に向き直る。少女は不敵な笑顔をつくる。扇の炎が警告を告げるように獄炎を上げた。
「だめっ、人間と争っちゃおこだよ!!」
甘くあざとそうな声が、屋上一帯に響き渡った。天然系ヒロインのキャラクターボイスにありがちな甘ったるい声質。
コウマの声もアニメ声だが、これには負けた。
仙女の隣に、黒白メイド風エプロンドレスの少女が、黒猫を伴い空から降ってきた。闇夜のような腰まである漆黒の黒髪を、束ねることなく無造作に垂らしていた。今日の天気は、晴れのち少女。ところによりコスプレ女子でしょう。とでも言うのだろうか?
「おい、おいって」
コウマはしがみついたままの山下をゆする。顔を上げた山下にもわかりやすく指を指し、注意をうながした。
空から降ってきたコスプレ少女たちの頭部を強調して指をさす。
その頭には……ネコ耳が誇らしく生えていた。
仙女が緋色のネコ耳。
メイドが黒色のネコ耳。
煤けた灰色のコウマたちの耳に比べ、生き生きとしている……ように見える。どうしてそう思うのか根拠はわからない。
「コホン、ここからはNNNヘリオスが預かります」
メイド服の少女が、ボールのように真ん丸な肥満黒猫を左肩に乗せ、はたきを正眼に構え言い放った。常人ならざる圧力を感じる。いや、実際に百戦錬磨の埋葬機関隊員たちが、じりじりと後ずさっていた。
メイド少女が、さらに一歩踏み込む。
埋葬機関が、さらに一歩下がる。
隊員のひとりが、少女の圧に耐えきれなくなったのか、レールガンの発射姿勢を取る。
「待テ!」中年風の機械音声が。
「カァウッ!」レールガンの発射音が。
「キンッ」はたきが15.2mmAPFSDSを切り散らす音が。
ほとんど同時に起こった。
……のみならず、全隊員が構えるレールガンの弾体加速装置までもが、膾切りになって屋上の床に散らばった。徹底的に鍛え上げられた鋼鉄の隊員たちから、動揺する気配をコウマは感じ取った。それと、なぜか安堵する気持ちも。
「……遺憾デハアリマスガ、装備不良ノタメ一時退却シマス」
この出来の悪い機械音声は、隊員の正体をカモフラージュするための機能だ。もっとも、鋭敏なコウマのネコ耳は、ヘルメット内のマイクに向かって話すおっさんの地声も同時に聞き取っている。
メイド少女が構えを解いて、深々と頭を下げた。
埋葬機関は次々とスラスターを噴射して、上空待機中のオスプレイ改弐に戻っていく。降下の手際も鮮やかだったが、撤退も見事なものだった。
「遺憾デハアリマスガ、装備不良ノタメ一時退却シマス。カッコつけてんじゃねー。ブリキどもが」
仙女の少女が、隊員の口調を真似て悪態をついた。
「うんうん、ユミルから連絡が来たときは、びっくりしちゃったよねぇ」
メイド少女が、相づちを打つ。
ぽけたーんと、状況についていけないコウマと山下は、ただ奇っ怪にして珍妙なコスプレ少女たちを見上げるばかりだった。
「うっはぁー、やったぜ!念願の
「私たち、ふたりっきりで頑張った甲斐があったねっ。これでシフトの余裕も……」
「あたしゃ、行きたい店があるんだよねー。あと旅行だな」
「わたしも、わたしもっ!」
きゃいきゃいと手を取り合い子供のように飛び跳ね、はしゃぐ姿は、とてもじゃないが埋葬機関を退却させた同一人物とは思い難い。
「あの……」
「バッカスのとこ行って、利き酒しようぜ。イチカの家は温泉近いし」
「わたしっ、ヘスティアの牧場で馬に乗りたいなぁ、あとソフトクリームッ」
見事にコウマの呼びかけは無視された。
「あのおっ!ねえ、こっち見てくれっ!」
痛む体に無理をして、ぶんぶん振ったコウマの右腕が、根本からぽっきり折れた。
「あれ?」
コウマは他人事のように、自分の腕だった物体を見る。大理石の塊が落ちたような音を立て、腕が床に転がった。生気ある腕ではない。白く彫像のように石化した腕だった。
「きゃぁぁぁぁぁっ!」
コウマが天使化した北岡に串刺しになった時も、取り乱さなかった山下が悲鳴を上げる。ようやくコスプレ少女たちが、コウマの異変に気づいた。
「まじい、貴重な
「わわわっ、まってぇ、だめっ、ロストだめ絶対!」
少女たちが小さな瓶を取り出している間にも、山下までもが石化しはじめた。
小瓶の液体を口に含んだ仙女少女が、石になり始めた山下の重量をものともせず抱き起こし唇を重ねた。
コウマを抱き上げたのはメイド少女の方だった。切りそろえた前髪のせいか、清楚な和風美人に見える。メイド少女の指先が発光し、コウマのおでこをスキャンするようになぞった。深くたおやかな藍色の瞳が、突然潤みだした。
「ああ、やっと見つけたよ
かすかな呟きだったが、確かにコウマにはそう聞こえた。手早くメイド少女は、瓶の中身を口に含む。覚悟を決める間もなく、コウマの唇は奪われた。口移しで何かが流し込まれていく。ミントとレモン果汁を混ぜ合わせた様な清涼感。味は悪くない。
寒い……。直射日光が容赦なく叩きつけてくる酷暑の屋上だというのに、コウマは酷寒の地にいるように感じた。視界がどんどん暗くなっていく。ついさっきまで感じていた、この少女の体温も感じられない。
(俺は死んじゃうのか。北岡ぁ、今からそっちに行くんで……)
「くー、ユミルと繋げた、コール合わせろ」
「うん」
不思議なもので、目は見えなくなってきても耳はよく聞こえた。会話内容はさっぱりだったが。
こちん。
何かがコウマの額に当たった。これは、あの少女のおでこ?
「いいか?せーのっ」
「「リンクコール、NNNヘリオス=オーバーライドッ」」
凛とした少女たちの声が、ハーモニーをつくった。実際に痛みや衝撃を感じたわけではないが、例えるなら全身に電流が流れたかのような閃光を感じた。
オーバーライドってなに?
私たちの子孫って……なに?
コウマは、かすれる意識の中で、父と母の実家と親戚一族を思い浮かべようとする。あんな清楚な美人は、どちらの親戚にもいなかったはず。いや、まてまて子孫という表現が引っかかる。
(ああ、だめだ、意識が、母さん、レンカ、わりぃ……)
息をゆっくりと吸い、吐き出す。コウマはそのまま闇の中に沈んでいった。
※1章完※
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