第17話 腐女子、子犬系にマウントされる

 ラチカの言う安全な場所へと向かう前に、俺は自分の体内を巡る水分に意識を乗せ、改めて体調を確かめた。重い荷物はオルカが代わりに運んでくれることになったし、日除けの布を頭から被って直射日光を避け、道すがら水筒の水をちびちび摂取していれば、目的地までは一人でも何とか歩けそうだ。さすがに俺までお荷物になるわけにはいかない。

「シルヴァ、ちょっといいか?」

「あ、はい!」

 実はそれでもまだ、木陰から出るのを躊躇うくらいには具合が悪かったのだが、俺はカミルに呼ばれ、カラ元気で振り返った。

 と、カミルの手が俺の肩に軽く触れる。瞬間、不思議なことにすっと体が軽くなった。俺の体内の水分が、一瞬にして整った。そんな感覚だ。

 カミルについては正体やら何やら不明なことも多いし、気を許すには時期尚早と承知はしている。が、俺は瞬時に体を巡ったカミルの気配に、理屈では測れない心地よさを感じた。深淵に流れる澄んだ水、そして天を舞う自由な風。そんな匂いがそこはかとなくしたのだ。

 警戒するようにカミルの様子を窺っていたラチカも、能力の行使を何かしら感じ取ったのかもしれない。ハッとしたように俺を見た。

「シルヴァ……」

「大丈夫だ。むしろ、今まで混乱していた水分の循環が、滞りなく流れ出した感じがする。これはすごいな……」

 さっきと違い、意識を乗せようとするまでもなく、己の体内の様子がわかる。これほどクリアに、全身を巡る水分を把握できたのは初めてだ。恐らく今だけの副次的効果だろうが、体内の水分が整えられると、己の感知能力にまで影響するのか。

 感嘆と畏敬の念を抱きつつ、俺は改めてカミルに向き直った。

「ありがとうございます、カミル。おかげで心も体も軽くなりました」

「心もか。それはよかった。だが、私に敬語を使う必要はない。皆と同じように話してくれ。そのほうが私も接しやすい」

 俺は瞬きを一つすると、己の中にある畏まりスイッチをパチンとオフにした。心の助走を僅かにつけてから、それを口にする。

「……わかった。ありがとう、カミル。これからよろしくな」

 正直、俺は心の距離を縮めるのがあまり得意ではない。敬語は常に程よい距離感が保てるから、俺としては結構使い勝手が良いのだ。しかしまあ、いずれ慣れるだろう。切り替えは早いほうがいい。衝撃的な死に別れとか感動の再会がなければ、ラチカと話すときの敬語はずっとそのままだったかもしれないし。オルカはまあ……何かぐだぐだの内にタメ口になってそうな気もするけど。

「それでラチカ。結局、俺たちは何処に向かうんだ?」

「館の裏門を目指す。途中までだがな」

「……ふぅん。わかった」

 確かあの辺り一帯は、様々な工房が立ち並んでいたはず。ラチカの専攻は笛だし、楽器のメンテナンスや何かで、既知の工房があったりするのかもしれない。何にせよ、カミルのおかげで体調も良くなったし、俺もみんなに遅れることなくついて行けそうだ。全力で熱中症対策はするけど。

「よし、俺のほうも準備は整った。いつでも行けるぞ」

 オルカの言葉に、俺も頷く。

「わかった。出発する。遅れるなよ」

 ラチカは忘れ物がないか確かめると、先導するように歩き出した。俺は後ろにいるオルカをちらりと見たあと、ラチカのすぐ隣に並んだ。時折、背後のオルカを確認しつつも、俺は黙々とラチカについて歩き続けた。

 本当は、ラチカに質問したいことがいろいろある。カミルの正体を一目で銀の悪夢と見抜き、オルカへの最初の問いに、敢えて世界崩壊時の滞在場所を選んだ。オルカとカミルのことだけじゃない。俺はラチカに関しても知らないことが多いのだ。

 気づかぬうちに、俺はちらちらとラチカに目をやっていたのかもしれない。ふと、視線が交わったかと思うと、ラチカは僅かに頬を染めつつも、俺に向かって顔をしかめてみせた。

「……さっきから何だよ。言いたいことがあるなら言ってみろ。見てるだけじゃわかんねえんだよ」

「えっ、あ……うん。そうだな。えっと……」

 そうはいっても無意識にしていたことなので、咄嗟に返す言葉が見つからず、俺は大急ぎで頭の中を引っ掻き回した。

「あ、えと、その……ラチカは大丈夫か? 何ていうか……その、死んだ、ときの、記憶、とか……」

 何を言いたいんだろう、という顔になったラチカに、俺はぎこちなく続けた。

「えっと、ほら、ラチカも知っての通り、俺は泣いたり喚いたり、他にもいろいろ、すごくみっともないとこ見せちゃったし、大変お世話にもなって……。でも、ラチカが取り乱したとこは全然見てないから、大丈夫かなって。ちょっと、心配になったというか」

「はあっ?」

 思い切り、腹の底から聞き返され、俺は慌てて言葉を繋いだ。

「いや、その、ラチカが強い肉体と不屈の精神を持っているのは、俺としても十二分に理解しているのだが! やっぱ、ちょっと無理したりしてないかなって。あれは俺にとって本当に怖くて辛い出来事だったし、ラチカが一人で我慢してたら嫌だなっていうか……。俺はまあ、すでに散々醜態を晒した身の上だし、頼りないかもしれないけどさ。あの時、あの場所での経験を知っているのは俺だけだ。もし、今は平気でも、後になってどうにもならない感情が戻ってくるかもしれない。そうなったら、俺のことを思い出して、できれば頼ってほしいな……なんて、ね」

 えへへへ……とたどたどしく照れ笑いをしてみせた俺に、ラチカは何とも言えない面持ちで、深々と大きなため息をついてみせた。

「あの、もちろん、ラチカが元気なら、それに越したことはなくてだな……」

「──そうじゃない」

 あわあわしている俺を遮るように、額を抑えたラチカが小さく睨んだ。

「そうじゃなくて! ……あるだろ。取り乱したこと」

 俺は、目をぱちくりさせた。

「……え? いつ? 俺じゃなくて、ラチカが?」

「あっただろ! 滅茶苦茶! ……医務室で、お前が目を覚ましたあと」

 バツの悪そうな面持ちで俺をジトジト睨んでいるラチカの言葉に思いを馳せ、泣いたときのことかと一応の見当はついたものの、納得がいかずに首を傾げた。

「あれはまあ……確かに取り乱してはいたけど、ちょっと違うだろ。ラチカは俺のことをすごく心配してくれて、自分の言葉とか行動とか、間違ってたんじゃないかと不安になっただけで、自分が怖かったことや痛かったことは一言も口にしてない。俺は今、ラチカ自身に起きた出来事で、辛かったことを心配してる」

 ラチカなら、俺の言っている意味がわかるはずだ。その違いも。そして俺の見込み通り、ラチカはハッとしたように顔を上げ、まるで初めてそういった視点があると気づいたように考え込んだ。

 しばらく沈黙したあと、ラチカは妙にすっきりした面持ちで言った。

「……そうだな。確かにすごく痛かったし、命の危険を感じて怖かった。実際、死んだしな。けど……その間もずっと、俺は自分よりお前のことを考えてた。そしてあの時、俺はお前を助けられなかった。でも今、俺の前にはお前がいる。ちゃんと生きていて、どこも怪我をしていない。少なくとも、体には。だから俺は感謝している。このチャンスをくれた奴らを。心から」

 ちらりと、確信を持って背後に視線を投げたラチカに目をやりながら、俺は思った。やはりラチカは俺の知らない何かに気づいている。だが、それも間もなく明らかになるはずだ。

 話をしている間に目的地に到着したらしい。ラチカはとある工房の敷地内に足を踏み入れると、慣れたふうに扉をノックした。

 少ししてパタパタと軽快な足音が響いたかと思うと、明るい声と共に扉が開いた。

「は~い、どちら様?」

 ツンツンと立った短い赤髪の少年は、ラチカに気づくとその灰色の瞳をキラキラと輝かせた。

「兄貴! 帰って来てたんだな! 研修はどうだった? ずっと兄貴に逢えなくて、俺、すごく淋しかったんだぞ! なあ! 俺にお土産とかある?」

 全身で喜びを表現しながら、飛び跳ねるようにラチカにまとわりつくさまは、あたかも飼い主の帰宅を出迎えた子犬のようで実に微笑ましい。

 が、ラチカの隣で唇を緩めている俺に気づくと、子犬のような少年は嫉妬心剥き出しで、思い切り睨みつけてきた。

 おおお! 何か唐突に与えられた噎せ返るようなBL臭に、忘れかけていた俺の腐女子心が否応なく沸き立つ! 髪と瞳の色からして実の兄でないのは一目瞭然だが、兄貴と慕うラチカの横に何故かいる、俺という美少年に向けられた純粋なジェラシー!!! 尊い!!! その子犬のような清らかな好意は、いずれあ~んなことやこ~んなことをしたいという欲望に塗れちゃったりしちゃったりするのだろうかっ。

 ──はぁ、はぁ……。いかんいかん。少し落ち着かねば。ちょっとまだ情緒不安定なせいか、タイムリープ前は何とも思わなかった青少年たちの健全な触れ合いに、腐女子レーダーが時折過敏な反応をしちゃうんだよなぁ。

 そして、にっこにこな俺の顔を見ると、ラチカはまたろくでもないことを考えてるとでも言いたげに、チッと舌打ちした。まあ、確かにその通りなのだが。

 ちなみに子犬のような少年は、予想外の俺の反応にドン引きしたような目をしていた。

「兄貴……何かこいつ気持ち悪い。誰?」

 うん。瞬時に不審人物認定された。別にいいけど。

 活性化していた腐女子脳が即座に凍り付き、貼りつけた笑顔だけが残る。ラチカはその俺を見て小さく咳払いすると、気を取り直したように口を開いた。

「……こいつはシルヴァ、俺と同じ館の見習い候補だ。専攻は違うけどな。ちょっと用事があって、手伝ってもらってる。シルヴァ、こいつはディノ。この工房で働いてる職人見習いだ」

 俺は改めて目の前の少年を見やり、礼儀正しくも、懸命に表情筋を駆使した笑みを浮かべた。

「初めまして、ディノ。俺はシルヴァ。よろしく」

 と、ディノはあからさまに俺を見下すように顎を上げ、刺々しく言葉を発した。

「ディノだ。お前、兄貴と知り合ってどれくらい経つ?」

「え」

 何か唐突に難しい質問きたな。いや、本来なら簡単なものだってわかってるけど、今の複雑な状況だと、咄嗟にこの場に相応しい正解が出てこない。この時間軸だと今日が初対面だけど、専攻も違うし、年も少し離れてるし、そもそも俺たちの気安い雰囲気的に、とてもじゃないが出逢って数時間の仲には見えないだろう。警戒心の強いラチカの人柄を知っているなら尚更だ。

 けど、知り合って二週ほどだと正直に答えると、今度はラチカの研修の日程と完全に被ってしまうので、明らかに辻褄が合わない。

 ってなことが一瞬のうちに脳裏をよぎり、言葉に詰まったものの、俺はすぐに武装の笑みをゆったりと浮かべてみせた。

「そうだねぇ。知り合ってまだそんなに経ってないけど。何?」

 俺の圧を感じたのか、ディノは僅かに怯んだ顔をした。が。対抗するように胸を張り、ディノは続けた。

「俺は兄貴と知り合って二年は経つ」

「へえ、そう」

 にこにこと相槌を打つ俺を見ると、ディノはぎゅっと拳を握り締め、さらに畳み掛けた。

「兄貴は俺の恩人で、いつでも本当に親身になって俺のことを心配してくれるんだ!」

「ふぅ~ん、さすがラチカだね!」

「一度ひどい熱を出して俺が寝込んだときも、わざわざ見舞いに来てくれたし!」

「ラチカはすごく優しいよね!」

「普段、館の使いで来たときだって、俺だけにお菓子をくれたりとか!」

「ディノはラチカが大好きなんだね!」

 俺の言葉に、ディノは顔を真っ赤にして歯を食いしばった。

「くっ……! そうだけど、そうじゃなくて! とにかく兄貴は俺のことをすごく気にかけてくれてるんだ!」

「そっかぁ。それはよかったね!」

 うんうんと俺がにこやかに頷いていると、キリキリと吊り上がっていたディノの目がじんわりと潤んだ。

 おや、さすがに少しやり過ぎたか?

 と、俺の僅かな気の緩みを察知したのか、涙目だったはずのディノはぐっと唇を噛みしめ、再び交戦に転じた。

「……お前、兄貴の笛に触らせてもらったことはあるか?」

「いや、ないよ」

 基本的に奏者の楽器はみだりに他人が触れてよいものではない。特に専攻が違う者ならば尚更だ。扱いにも疎いし、何より理由も必要もない。持ち主である奏者の許可、或いは依頼があるか、何か特別な事情、余程のことがなければ触ることはない。さらに本音を言えば、うっかり壊してしまう危険を冒したくないので、意味もなく触りたいとも思わない。だから俺としては至極当然のことなのだが……。

「俺はあるぜ! 兄貴の笛に触らせてもらったこと」

 ……うん、まあ、そうだね。ラチカ御用達ならまず間違いなくここは笛の工房だし、曲がりなりにもそこで働く職人見習いなら、触らせてもらったことはあるだろう。仕事の一環として。もしくは個人的に、プライベートで、ラチカの笛に触らせてもらったことがあるとして、だから何だ。

 得意げに胸を張ったディノを前に、俺は静かに笑みを深めた。

「……へぇえ……。それはすごいね。さぞかしラチカに信頼されてるんだねぇ、ディノは」

「ま、まあな! それほどでもあるぜ!」

 鼻高々のディノと対照的に、隣にいるラチカと、背後にいるオルカの顔色が優れなくなった気配を、俺は不意に察した。これはよもや、またしても先程カミルが俺の体調を整えてくれた副次的効果の一つか? 目にせずとも、いつもより周囲の感情の動きが鋭敏に伝わってくる。実に素晴らしい。

 暗い歓喜に身を浸しながら、俺はさらに微笑んだ。

「すごいねぇ。さすがディノ。俺はまだラチカと知り合って日が浅いし、笛に触らせてもらったこともない。けど……」

 含みを持たせるように言葉を切った瞬間、俺は全力でありとあらゆるあざとスキルを発動した。如何にも純真無垢な表情で大きく目を見開いて~からのぉ、光り輝く天使の微笑み~からのぉ、恥じらい頬染め、長い睫毛を見せつける瞬きをバシバシ……。正直、途中から自分でも何やってるのかわかんなくなってきたくらいだ。で、取り敢えずいつもよりキーを三つほど上げて言った。

「……ちょっと、人には言えないあ~んなことやこ~んなことをしちゃったり、されちゃったり……ね、ラチカ?」

 ふふっと殊更に可愛らしいはにかんだ笑みを向ければ、ラチカは妙に青ざめた面持ちで俺を見た。

「え、あ、いや、ちょっと待て。あの時はまだ何も……じゃない! いつの……何のことを言って……」

 ん? 俺は目をぱちくりさせたあと、素早くディノに背を向け、手話で伝えた。

≪世界・壊れる・みんな・死ぬ・時間・戻る・再び・逢う・泣く・吐く・たくさん・もっと・もっと≫

 と、ラチカが膝から崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。

「う……あ、まあ、そう、だな……確かに、ちょっと、人には言えない……」

「あと、さっき医務室のベッドの上で繰り広げた、めくるめく熱い一時のこととか」

「言い方!」

 両手で顔を覆い、何故かダメージを食らっているラチカを眺めていると、辛くも被弾を免れてしまったディノが再び俺の前に立ち塞がった。

「お前、年は? 俺はもうすぐ十三になる」

「つまり今は十二歳だね。俺は十一、ほとんど同じだね」

「はあっ? 全っ然、違うだろ! 俺のほうが年上だし、お前より背だって高い!」

 俺は如何にも無邪気に目を大きく見開いたあと、にっこり微笑んだ。

「そうだね! 幼い子供は一歳違うだけで、成長の差が本当にすごく大きいよね! ハイハイしかできなかった赤ん坊が、立って歩けるようになるくらいだし。さすがディノ。俺よりこんなに背も高い」

 言いながら、指先でほんの僅かな隙間を作ってみせる。

「こんの……っ」

 振り上げたディノの拳が俺に襲い掛かる前に、大きな拳骨が背後からディノの脳天を直撃した。

「あぐっ……いってえ! 親方! いきなり何すんだよ!」

「そういうお前はいつまで無駄話してやがる。さっさと中に案内しろ」

 がっしりした筋肉質な体型のお爺様の登場に、俺の胸は再び高鳴った。職人気質の鋭い眼差し。素敵!!! 浅黒く日焼けした肌に深く刻まれた皺、無造作に刈った銀の髪と髭、厳しくも穏やかな青い瞳。声も渋い!!! 思わずうっとりしていると、不意に頬を軽くつねられた。

「ん? ラチカ?」

 痛くはない。が、急にどうした? というか、いつの間に復活してたんだ。

「いいから。行くぞ」

「? ……おう」

 親方とディノの後について、工房の中にぞろぞろと足を踏み入れる。

「デカい荷物だな。研修の帰りか?」

 親方の問いに、ラチカが曖昧に言葉を濁す。

「まあ、そんなところです」

 親方は含みのある眼差しになったものの、すぐに肩を竦めて言った。

「邪魔だし、取り敢えず部屋の隅にでも置いとけ。必要なものだけ持って俺の作業机まで来い」

「はい。ありがとうございます」

 工房の端に積み上げられた加工途中の木材や石材、修理前と修理済みの笛が丁寧に並べられた棚など、うっかりぶつかって落としたり破損したりしないよう、少し離れた場所にラチカは荷物を置いた。その隣にオルカが荷物を下ろす。ラチカは荷物の中から革袋を取り出すと、親方のいる奥の机に向かって細い通路を歩き出した。俺とオルカも黙ってその後に続く。

 外から見たときは結構広い工房に思えたが、中に入ってみると大きな作業台やら何やらで、想像以上に狭く感じられる。親方と見習いのディノの他に、各々の机で作業している職人が三人。皆、黙々と集中して己の作業に取り組んでおり、来客に顔を上げることもない。ディノもいつの間にか自分の作業場に戻っていた。俺たちは粛々と工房の中を進み、親方の机の前で立ち止まった。

 親方は作業途中の笛を机の隅に置き、辺りに散った細かな木屑を羽箒で床に落とした。

「それで、そこの二人は? どちらも初めて見る顔だが」

 ラチカはすでに心積もりできていたように、すらすらとオルカを紹介した。

「こちらはオルカ。竪琴の奏者で、普段は辺境の地をいろいろ巡っています。今回はたまたま街で困っているときに再会して、俺が同行をお願いしました」

「ほう。確かにその手は相当弾き込んでいるようですな。この時を授かり光栄です、オルカ殿」

「こちらこそ、この時を授かり光栄です」

 弦ダコの手入れ痕がある右手を胸に当て、軽く頭を垂れたオルカは、どこからどう見ても立派な常識人だ。安堵したのは俺だけではないはず。ちらりと目をやると、今度はその視線を受け取ったラチカが俺を紹介してくれた。

「それからこちらは館の見習い候補、シルヴァです。専攻は歌い手、今日は荷物を運ぶのを手伝ってもらってました」

「初めまして。シルヴァと申します。この時を授かり光栄です」

 右手を胸に当て、頭を深く垂れた俺を見ると、親方は小さく頷き、言った。

「この時を授かり光栄だ。具合が良くなったようで何より」

 その一言に含まれた親方の聡明さに感銘を受け、俺は思わず息を呑んだ。具体的な説明がなくとも、目にした状況と耳にした断片的な情報で、瞬時に全容を正確に把握した。何という理解力の高さ! 何より、そのスマートな気遣いが美しい!

 感嘆の眼差しを向けた俺を見て面白そうに微笑むと、親方は改めて口を開いた。

「ようこそ、シルヴァ。そしてオルカ殿。あらゆる笛を取り扱う我が工房へ。俺はフォッジ、一応ここの責任者だ。よろしくな」

「はい! ありがとうございます! これからもよろしくお願いします!」

 キラッキラの眼差しになった俺にちらと不機嫌そうな面持ちを向けたものの、すぐにラチカは持っていた革袋から木製の笛を取り出し、親方に渡した。楽器に疎い俺でも、大切に使い込まれていることが一目でわかる、年季の入った美しい笛だ。装飾などないシンプルな横笛だが、その光沢のある飴色は長い年月を奏者と共に歩んだ、何物にも代えがたい証しといえよう。

「……ふむ。随分と砂が入り込んでいるな。巻きも少し緩んでいる。見たところひび割れはないようだが、洗浄するときに確認しておく。で、パユの爺さんはどうした。また腰でもやっちまったか?」

「お察しの通りです。今頃は館の医務室で手当てを受けているはずです」

「そりゃまた難儀なこった。しかしその様子なら、少し時間がかかっても大丈夫そうか。悪いがちょっと今は立て込んでいてな。二週……いや三週ほどは預からせてもらうことになる」

「もうすぐ光の降臨祭ですしね。笛は他にもありますし、何より本人が当分起き上がれそうもないので、そこは問題ありません」

「了解した。お前さんの笛は大丈夫かね?」

「はい。お気遣いありがとうございます」

「では、出来上がったら館にお届けしよう」

 話は終了、と軽く頷いた親方に、ラチカが何とか言葉を繋いだ。

「すみません! 実はそれとは別に、一つお願いが。その……物置とかで構わないので、少し、休ませてもらえませんか? ここでは皆さんの邪魔になってしまうので、どこか、違う場所で……」

 歯切れの悪いラチカの様子から、何か事情があると察したのだろう。親方は少し思案するような面持ちになったあと、離れたところで作業していたディノを呼び寄せ、言った。

「ディノ、悪いがお前の部屋を使わせてくれないか? 少し休憩したいそうだ。案内するときに香草水を運んでやれ」

「兄貴なら、大歓迎だけどさぁ……」

 ご不満そうに俺を見やったディノに、親方が付け加える。

「案内だけしたら、お前はさっさとここに戻って作業を続けろ」

「わぁかってるよ! ちえっ。俺も久しぶりに兄貴といろいろ話したいのに……」

「何だ。文句があるのか?」

「ありません! 親方!」

 胸の前で両の拳を合わせ、剣士式の敬意を表すると、ディノは先に立って歩き出した。俺たちはそれぞれ親方に感謝と暇を告げ、ディノの後を追った。

 この工房は二階建てで、外階段から上に行けるようになっている。その三分の二は物置として使っているらしいが、奥の小さな部屋はディノが寝泊まりしているそうだ。給料の少ない見習いが住み込みで働ける仕様になっているらしい。

 荷物は一階の工房の隅に置かせてもらったまま、俺たちはディノの部屋に入った。小さな机と椅子とベッド、それだけの殺風景な部屋だ。僅かな私物が作り付けの棚に置いてあるが、他には何もない。ディノは無言のまま、仏頂面で部屋に入ると、香草水の入った瓶と椀を机に置いた。

「……じゃ、ごゆっくりどうぞ」

 不貞腐れたように部屋を出て行こうとしたディノを、ラチカが呼び止める。

「ちょっと待て」

「何だよ? すぐに戻れって親方から言われて……」

「これ、お前にやるよ。研修の土産だ」

 瞬間、ディノの顔が光り輝いた。

「ホ、ホントに? 俺がもらってもいいの?」

「ああ。お前にやろうと思って持ってきたからな」

 ポケットから取り出していたそれを、ラチカはディノの手のひらにそっと乗せた。

「これって……」

「香石だ。原石のままだが、一応パユの爺さんにも確かめてもらったから、間違いない」

 ディノの手のひらにあったのは、小さな綺麗な石だった。透明な黄褐色をしている。

「香石って、確か繋ぎ手の島の特産だっけ?」

 俺が横から尋ねると、ラチカが丁寧に答えてくれた。

「ああ。擦ると特別な光が出る。まさに繋ぎ手の島ならではの、光の精霊の加護を受けた宝石だ」

 特別な光……って、つまり静電気のことか。すごいな。さすがファンタジーな世界。そんな変わった石があるのか。俺が感心していると、ディノがさらに付け加えた。

「しかもこの石は燃えるんだぜ。そうすると、すごくいい香りがするんだ。最初は甘くて、それから少しずつ清涼感が広がって、最後に樹木のように温かみのある香ばしさが、煙と共にゆっくり立ち昇るんだ」

「へえー。すごいな。だから香石か」

 ……あれ? 燃える石って、何かどっかで聞いたことがある気もするが。

「もったいないから、燃やせるのは採掘とか加工の時に出た小さな破片だけって厳格な規定があるけどな。かなり高価だし。でも、それをさらに粉末にして、他の香木なんかと調合もできるんだ。独自の配合で看板商品を作ってる香の店もあるんだぜ」

「ディノは香石に随分と詳しいんだな」

 得意げな顔をすると思いきや、それまで妙に饒舌だったディノは顔を曇らせた。

「……う、まあ、な。ちょっとだけだ」

 が、すぐに取り繕ったような笑みを作ると、元気よく言った。

「兄貴、本当にありがとうな! 大事にするよ! 俺は下に行ってるから、何かあったら声をかけてくれ」

「わかった。こちらこそ部屋を貸してくれて助かった。ありがとうな」

 ディノはちょっと驚いたような顔をしたあと、今度こそ本心からにかっと大きく笑った。

「おう!」

 扉の向こうからパタパタ聞こえる足音が遠ざかり、やがて階段を下りて一階の工房に戻ったのを耳で確かめると、俺たちはようやくそっと息をついた。悪事を企んでいるわけではないにせよ、万一にもディノを危険なことに巻き込むわけにはいかない。

「……にしても、ディノは随分とラチカに懐いてるんだな。ラチカにそんな相手がいるとは、正直、かなり意外だったぞ」

 特に出逢った頃は一匹狼を好むという以上に、あまり親しい人間を作らないようにしている感じがしたからな。ラチカは面倒見もいいが、敢えてそういう部分を発揮しないように気を付けているというか。

 俺が言うと、ラチカは面倒臭そうに肩を竦めてみせた。

「別に、そんなんじゃねえし。……つーか、お前、ちょっとはその……気になったりするのか?」

 何やら嬉し、いや恥ずかし? そうな含みのある面持ちのラチカを見ながら、俺は瞬きを一つした。

「……え、あ、うん! そうだね! ちょっとだけね!」

 何が? という問いは全面的に伏せていたにもかかわらず、ラチカにはそこまでお見通しだったようで、すぐさま不機嫌そうに顔をしかめてみせた。チッと舌打ちし、ぷいっと横を向く。いつもは割とクールに振舞っているのだが、ごくまれにこういう子供っぽいところが出ちゃったりするのを見ると、何だか和む。俺はほっこりしながらも、取り敢えず自分に都合が悪そうな話題を変えるべく、言葉を繋いだ。

「あ、っていうか、繋ぎ手の島の砂漠はすごいな! さっきの香石、結構大きかったし。どうやって見つけたんだ?」

 明らかに取ってつけた質問だったが、そもそも深追いするつもりはなかったらしい。ラチカはジトっとした目で俺を睨んだものの、すぐに答えてくれた。

「あれはたまたまだ。普通はそう簡単に見つからない。採掘場にいたわけでもないしな。さっきの香石は、オルカのいた穴にあったんだ」

 その言葉に俺はハッと顔を上げ、当のオルカはきょとんと首を傾げた。

「え、俺? 穴って……」

「なるほどな。我らが数年ぶりに融合し、地中深くから生還した奇跡の瞬間に遭遇したのは君か。やはり選ばれし者は違うな」

 カミルがしたり顔の無表情でうんうんと頷く。と、オルカがようやく理解に至ったように声を上げた。

「ああ! 穴って、あの砂漠の真ん中にやっとこさ出てきたときのか! あれ、本当にすごく大変だったんだぞ! 掘っても掘っても全然前に進んでる感じがしないし、そもそもどっちが上か下かもわかんねえし! あのまま永遠に生き埋めになるのかと思ったくらいだ! けど……」

 不意にオルカが俺の手を取り、キメ顔で言った。

「シルヴァ、そんな絶望しかない暗闇の中でも、君だけが俺の光だった。もう一度、君に逢いたいという願いが、俺を辛うじて奮い立たせてくれたんだ」

「まあ、その間もずっと私と世界に対する罵詈雑言が胸をどす黒く染め上げていたがね。私の白き翼が彼の憎悪で染まらなかったのは、君の存在のおかげといえよう。感謝する」

「はあ……ども」

 最初から薄々気づいてはいたが、オルカとカミルが交互に喋り出すと、ちょっとしたコントだな。しかも方向性が違うだけで、どっちもボケ担当っぽいし。おまけにアバターが異常にイケオジでイケボだから、何かもうカオスだよ。いくら好物を掛け合わせても、いちごパフェにうなぎの蒲焼ぶち込まれたような残念感が半端ないな。

 とにもかくにも、さりげなくカミルから手を取り戻すと、俺は本題に入ろうとした。

「え~っと、それじゃ、そろそろ話をだね……」

 瞬間、ラチカがハッとした顔で俺を見た。と同時に俺もまた、ハッとしてラチカから後退ろうとしたが一歩出遅れており、すでに両耳をしっかりと、だが優しく包み込むように塞がれていた。

 ラチカの両手に阻まれ、低い籠ったような音に相殺されつつも、館の鐘の音がうすぼんやりと聞こえてくる。恐らく外で天を見上げていれば、空気中の水分が館を中心に独特の波形で広がったのがわかったはずだ。これは一応、カミルに体調を整えてもらう前から気づいていた。

 ……にしても、この状況は何度やっても恥ずい。ラチカの顔がやたら近いし、心配そうな真面目な眼差しでまじまじと見つめてくるし。

 もちろん、またうっかりフラッシュバックで醜態を晒したくはないので、その気遣いは本当に本当にありがたいのだが、いつでもどこでも何をしていても、全てに優先して俺の耳を塞いでくれるのは、どう考えてもやり過ぎというか、過保護にも程があるというか。そもそもタイミング的に、音が俺の耳に届く前に鐘が鳴ると察知してしまうところが、まず尋常じゃない。

 少なくともこの世界には機械時計など普及してないし、発明されているかも怪しい。そもそも都中に時間を知らせるための鐘の音なのに、どうしてそれを耳にする前にわかってしまうのか!

 映画に出てくるスパイのように体内時計を鍛えたとか、裏路地生活のときに備わった野性の勘とかではないだろう。恐らく俺の知らないラチカの出自、能力などが関係しているのだろうが、それも全てラチカが俺のことを第一に気にかけてくれているからこそであって、その殊更大切にされているという事実が、悶えるほどにこしょばゆい。

 ただの友人にしてはあまりにも……いやいやいや! ラチカは優しいからな! 俺にだけじゃない。現にディノという、ラチカを恩人と慕う者もいるわけだし。……うん……いや、別に、もやっとなんかしてないし! まあ、ラチカにとって俺はちょっとは特別……だといいな、とか、思っちゃったりしないこともないっていうか……それはともかく!!!

 この現状が恥ずかしいことだけは間違いない。今まで普通に生活していたときは、無意識に聞き流していることも多かったのだと初めて気づいた。それくらいしょっちゅう鐘が鳴る。そして耳を塞がれる。

 何かもう、タイムリープして半日も経っていないのに、ラチカのおかげでトラウマが克服されてしまったような気さえする。これからは館の鐘が鳴るたびに、己が半身が潰されたことより、ラチカに耳を塞いでもらったことを思い出して赤面してしまいそうだ。

 っていうかこの体勢、もはやキスしようとしているようにしか見えないのでは? 傍目からもだが、当事者である俺ですらそうとしか思えない。ラチカだけが何故かそのことに気づいていない……というのも、その不安そうな真剣な眼差しで一目瞭然ではあるのだが。

 いい加減、そろそろ自覚してもらったほうがいいかもしれない。そうじゃないと俺の心臓がもたない。

「ラ、ラチカ。あの……」

 俺の耳を塞いでいるラチカの両手に軽く触れ、口を開いた途端。

「っ………………!!!」

 唐突に、俺の言わんとしていたことが通じたように、ラチカの顔がボッと赤く染まった。パッと俺の耳から両手を離す。

「すっ、すまな……っ!!!」

 あわあわと両手を泳がせたあと、ラチカは俺から少しばかり距離を取り、額を抑えながら深々と嘆息した。

「…………悪い。ちょっと、近すぎた……」

「あ、いや、えと……うん。でも、もう、大丈夫。多分」

「……ああ、うん。えっと……」

「ラチカ。朝からずっとずっと俺のことを気にかけてくれてありがとうな。けど、俺も少しずつ慣れていかないと。いつまでもラチカに甘えっぱなしはよくない。俺にとっても、ラチカにとっても」

 ほんの少し傷ついたように、ラチカの瞳に陰が差したのを見ながら、俺はそっと続けた。

「ラチカに守られているだけじゃ、俺は恥ずかしくてラチカの隣に立てないからな」

「────っ」

 ラチカの瞳に光が戻ったのを確かめながら、俺は微笑んだ。

「ありがとう、ラチカ。これからしばらくは俺のことを信じて見守ってくれ。それでも辛いときは、誰よりもまずラチカに頼るよ。だから俺の我儘を許してくれないか」

 まるで眩しいものでも見るようにラチカは大きな瞬きを一つし、やがて苦笑するように息をついた。

「……わかったよ。お前を信じる。けど、辛いときは必ず俺を頼れ。絶対だ」

「ああ、約束する」

 心から大きく頷いてみせると、ラチカはくしゃりと破顔した。そのままラチカの手が俺に向かって伸びてくるのを眺めながら、妙に穏やかな気持ちで思った。

 俺はこの手が何をするつもりなのか知っている。それでも避けなくていいと思っている。実に不思議だ。いつの頃からだったろうか。こんなふうに気負うことなく、他者を受け入れられる日が来ようとは。

 ラチカだけじゃない。リアム、トリ-、クルス、ギュスター、オルカ、それにカノン。カミルも近いうちにここに加わるだろうか。

 何やらくすぐったくも温かい気持ちでラチカに頭を撫でられていた俺は、ふと、横からじっくりと注がれる淡々とした眼差しにハッと我に返った。

「あ、えと、これは……」

「私は問題ない。……私は」

 カミルの含みのある言葉に俺があわあわしていると、仏頂面のオルカが言った。

「俺も特に問題はない。全くもって、少しも、問題などあるわけがない!」

「わかった! わかったから!」

 見た目は大人、頭脳は子供の誰かさんをなだめつつ、俺たちはようよう本題の話を始めたのだった……。

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