第14話 腐女子、チャラ男と邂逅する
──音が、聞こえる。
暖かく、低い、どこか懐かしい音。まるで水の中にいるような……いや、これは……そうだな。冬の夜、暖房が効いた電車の中、少し重い荷物を膝に抱え、ぬくぬくの座席にゆったり腰掛けているような感覚。多分、俺は目を閉じ、うとうとと心地よく微睡んでいるのだろう。仕事の帰りか? 他に人の気配がない。車両の中は明るいはずなのに、何となく薄暗い感じがする。
……ごぉおぉおぉ……。
音も籠っているし……ここは地下鉄なのか? 軽い疲労と、快い脱力感。起きて、目を開けようと思うのに、体に力が入らない。このまま永遠に、この暖かい空間で優しく揺られていたい。
と、絶え間なく聞こえていた音が深まり、同時に耳に圧迫感が加わった。何だろう? トンネルの中にでも入ったか? いや、でも、これは気圧の変化で耳が詰まった感じがするというより、物理的に耳が外から抑えられているような……痛くはないが、何か、ちょっと、苦しい……。枕か? 枕が変に押し付けられているのか? 寝相のせい? ここは電車の中じゃない? どこだ? 俺は今、どういう状況になっている?
ふがふがともがいていると、ようやく意識が少しずつ浮上し、息苦しいのは夢だけではないと実感した。空気が薄い……違う! 何か……布団が顔の上に被さってるのか? 暖かい……を通り越して暑い! 窒息する!
パッと目を開けたはずなのに、開かない! いや、塞がれている! 何か、ぺったりとしたものが顔に張り付いて……。何だ、これは! 取らないと! 軽くパニックに襲われ、ジタバタと全身で抗う。
が、今度こそ意思を持った誰かに、がっしりと体を押さえつけられてしまったのがわかった。
「……大丈夫、……大丈夫だから……」
いやいやいや! こんなふうに拘束されて、大丈夫なわけないだろう!!! 足だけは何故か自由だったので、どうにかして逃れようとバタバタ暴れていると、呆れたように別の声が言った。
「ラチカ……、心配なのはわかるけど、一度放してやれ。今、暴れてんのは、多分、鐘の音のせいじゃねえ。つーか、そんな抱え込んでたら、こいつも息ができないだろーが」
「……あ」
不意に、体を押さえつけられていた力が緩み、俺はくたりと脱力した。汗ばんだ顔に、新鮮な空気がさらりとそよぐ。涼しい。息が楽にできる……。
状況はまだよくわからない。けど、相手を窘めてくれた声は知っている。俺を押さえつけていたのが誰かも、ようやく気づいた。とにかく酸素を肺に取り込みながら、体内の水分に意識を巡らせる。どこも怪我などしていないことを確認し、冷静さを取り戻すべく、流れを緩やかにコントロールする。
ついでに俺をパニックに陥れた大きな要因の一つ、顔に張り付いたぺったりしたものの正体も、すぐに判明した。落ち着いてみれば何ということもない。濡れた布だ。恐らく俺の目と頬を冷やしてくれていたのだろう。
じわじわと現実感が戻ってくるにつれ、俺は今までのことを思い出しつつ、脳をフル回転させて状況の整理を開始していた。
俺の名前はシルヴァ。十一歳の水の民だ。ここは繋ぎ手の島にある光の都、宮殿に併設された伝導の館で、俺は歌い手の見習い候補として生活している。光の降臨祭の日、俺は世界の崩壊を目にし、死んだ。けれど今朝、俺は何事もなかったかのように、自分の部屋で目覚めた。時間が戻っていること、異様な存在感を放つ水のカノン、認識の共有ができない友人たち。同じ記憶を持つラチカが現れて喜んだのも束の間、時を告げる鐘の音が鳴り響き、自分が潰されたときの恐怖がフラッシュバックした俺は、泣いたり吐いたり喚いたりの醜態を余すことなく披露し、最終的に疲れ果てて寝た……といったところだろうか。
う…………、うあぁあぁあぁ…………っ!!!!! 返す返すも恥ずかしい!!!!! 何ったること!!!!! 悪夢のような自らの痴態!!!!! でろでろに鼻水を垂らしながら、身も世もなく泣いて縋って、無理難題な我儘と癇癪をぶちかまし、そのまま寝落ちするとか!!!!! みっともないにも程がある!!!!! 一体どのような面持ちで、わらわは今後、友人たちと相見えたらよいのやら……とんと見当もつきませぬ。
現状、目と頬にぺったり張り付いている濡れた布のおかげで、半分くらいは顔を隠せているが、いつまでもこのままというわけにもいくまい。すでに羞恥で顔が燃えるように熱い。どうにもならないもどかしさで、足の指が勝手にむずむずと悶える。
と、誰かが俺の手にそっと触れてきたのがわかった。見えていなかったので、思わずびくりと身を竦めると、少し傷ついたようなラチカの声が謝った。
「……、悪い。その、手が……このままだと痛くなるだろうから……」
触れられて初めて気づいたが、ラチカの服を握ったままの手にあまりにも力が籠っていて、すでにかなり痛い。拳の形で固まってしまっていて、自力では動かすこともできない。
「……あう……」
ようやく呻き声を出したが、その途端、今度は口の中が張り付いて気持ち悪いことを否応なく思い知らされた。何か、変な味がする。そういや、胃液を吐いたままだった。実際は胃液が出たのは最初だけで、後は胃が引っ繰り返る感覚と共によだれを垂れ流していた気がするので、歯はそれほど傷んでいないはずだ。とはいうものの、できるだけ早く口をゆすぎたい。喉も乾いた。
その間にも、ラチカが俺の強張った手をゆっくりと丁寧に解きほぐしてくれている。
「……おい、シルヴァ。今から俺が反対の手に触るからな」
リアムの声に小さく頷くと、やはり固まっていた俺の手に温かい手が触れ、握り締めていた服に絡まった指を優しく解いていってくれた。
……にしても、何だろう? この感覚。誰かに頼るのはあまり得意ではないはずなのに、他人の手で面倒をみてもらうことに、俺自身が妙に慣れているというか、初めてではないような……。以前もこうして手取り足取り、懇切丁寧に世話を焼いてもらったことがあるような……ハッ! 介護だ! 末期ガンで最期を迎える前、一ヶ月くらい寝たきりで入院してた! それと今生における赤ん坊のとき! 何から何まで姉に面倒をみてもらってた!
おおう……。あれほどの恩義を受けておきながら、いとも簡単に忘れてしまうとは。それどころか、この世界に生まれてしばらくは、せっかく健康なのに赤ん坊の体は全く自分の思い通りにならないと、不平不満すら抱いていたからな……。感謝より不便だった記憶が勝るとは、我ながら何と不義理なことか。真に恥ずべきは、自らのこの思い上がりであった。
さすがに腐女子時代の正規の赤ん坊のときは記憶にないが、こうしてみると、俺は本当にいろいろな人に生かされ、死にゆくときでさえ、誰かに手伝ってもらっていたのだなぁ……と今更ながら感慨に耽る。
一度死んで、勝手にリセットされたような気になっていたが、同じ自我を保ったまま記憶を引き継いでいるのだから、やはり精神的にも経験値に見合う成長をしたいものだ。まあ、リアルではマイナスの経験値とかざらにあるし、簡単にレベルアップできないのだが、せめて一進一退しつつも、少しずつ良いと思える方向に進みたい。
強張った手を友人たちにそっと揉みほぐしてもらいながら、俺は改めてこの世界に俺のまま存在していることを感謝した。確かに、俺にとって二度目の死は衝撃的だった。あの経験は俺の魂深くに刻み込まれ、消えることは決してないだろう。もし、また何度も同じような死を経験すれば、俺の魂は少しずつ破壊され、最終的には木っ端微塵になるはずだ。
けれど、俺は生かされた。一度ならず、二度までも。本当に奇跡としか言いようがない。そしてまだ、俺は自分の足で立てるはずだ。きっとまた、恐怖に呑まれ醜態を晒してしまうこともあるだろう。だが、俺はあの恐ろしい体験を抱えながらも、再びちゃんと顔を上げることができる。少なくとも今は、その確信がある。何より、こうして手を貸してくれる友人たちがいるのなら、俺がすべきなのは記憶の中の恐怖に浸ることじゃない。まずは目の前の友人たちと向き合うことだ。
ガチガチに固まっていた手の筋肉がほぐされ、血が通うようになると、ビリビリと痺れるような感覚が肘の辺りまで広がった。俺はどうしようもなく悶えまくったが、何とかそれが過ぎ去ると、感覚を取り戻すべく手を握ったり開いたりした。そこそこ通常通りに動かせるようになったのを確かめ、俺は目と頬をぺったりと覆っている濡れた布をゆっくりと剥がした。すっかり生温かくなっていた布を、リアムとラチカのどちらかが受け取ってくれるのを感じながら、そっと瞼を持ち上げる。
……眩しい。そうだ、この世界は明るいのだ。そんなことも、俺は忘れかけていた。
濡れた布が張り付いていた場所の肌が、外気に晒されてすーすーする。何かちょっと水でふやけているような、頼りない感じだ。まるで初めて触るかのように、自分の顔をペタペタと確かめる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃだったはずだが、思ったよりさっぱりしていた。恐らく濡れた布できれいに拭ってくれていたのだろう。すぐに冷やしてくれたおかげで、散々泣きはらしていた目元も、気つけの一発を食らった頬も、それほど腫れてはいないようだ。
外界に戻ってきたことを確かめるように、ぼやけた視界を晴らすように、パチパチと瞬きを繰り返していると、心配そうな面持ちのラチカとリアムが俺を覗き込んできた。どう声をかけたらいいのか迷っているような二人に、俺はまだ違和感の残る頬を動かして、ぎこちなく微笑んでみせた。
「……ありがとうな、二人とも」
続けたい言葉はあったけれど、ガサガサした声が引っ掛かり、俺は軽く咳払いした。何より、口の中が気持ち悪い。その様子を見ると、リアムは近くのテーブルに置いてあった椀に香草水を注ぎ、俺に渡してくれた。そして俺に向かって大きめの空の椀を差し出してくれたので、ありがたく口をゆすがせてもらい、それから改めて注いでくれた香草水をゆっくりと飲み干した。
水が、喉を通って、食道に流れていくのがわかる。爽やかな香りが、すっと鼻を抜ける。何というか、心まで洗われた気分だ。
ようやく人心地がついたところで、俺は改めて周囲の状況に目をやった。俺はベッドにいるようだが、カーテンで仕切られていて、この狭い空間には他にリアムとラチカしかいない。結局あの日は辿り着くこともできなかったが、恐らくここは医務室だろう。
リアムはベッドの横にある椅子に腰掛けており、ラチカは……そういえば、さっきからやけに顔が近いな??? というか、俺は今の今まで、ラチカの服を引き千切らんばかりに握り締めていたわけで……現在進行形でその痕跡、もはや洗濯しても直りそうにない、しわっしわの布がすぐ横にあるわけで……。
パッと顔を上げた瞬間、俺の目の前にラチカの顔があり、今更ながら自分の状況に思い至った。
「ふぉあ……っ」
一気に、頬が発火した。
つまるところ、俺は玄関ホールで寝落ちしてからずっと、ラチカの胸に縋ったまま、医務室のベッドに運ばれてからも抱きしめてもらっていたわけだ。いや、だって、ほら、あんなギチギチに服をつかんでいるような奴、割と薄情な自覚のある俺だって、無理やり引き剥がすのはさすがに気が引ける。邪険にするわけではないにせよ、いろいろ必死過ぎて離すのは心が痛むだろ。
とはいうものの、俺はもう、あわわわわわわ……の一言に尽きた。まさかこの短時間で、これほどの黒歴史を量産していたとは、自分でもびっくりだよ!
「ラチ……ラチカ……、えっと……その……ごめ……いや、あり……」
真っ赤に染まっているであろう面持ちで、パクパクと喘ぐように口を動かしている俺を見ると、ラチカは僅かに目を見開き、それから嬉しそうに、照れ臭そうに大きく破顔した。
「……おう! 気にすんな」
…………おお。ラチカのこんな爽やかで晴れやかな笑顔、初めて見た気がする。仏頂面ばかりしていた印象が強いけど、屈託のない表情もできるんだ……。←失礼。
それはまあ、ともかく。ラチカはあわあわしている俺の頭をよしよしと撫でると、俺の足をベッドの淵のほうに下ろし、一人で座れるようにしてくれた。少し体の位置をずらし、ラチカ自身も俺の隣に座り直す。肩の凝りをほぐすように首を曲げ、軽く腕を回しているラチカに物言いたげな眼差しを向けていると、それに気づいたラチカがちらりと微笑んでくれた。再び、否応なく俺の頬が熱を帯びる。
……何っということだ……! ちょっと目を離した隙に、ラチカがイケメン属性のスキルを身に着けている……だと???
もだもだしている俺に不貞腐れたような眼差しを投げたあと、リアムが香草水の入った椀をラチカに渡した。
「……ん」
「……おう。ありがとな」
何やら照れ臭さの残るやり取りを横目で眺めながら、俺は瞬きを一つした。
……おや、こちらもこちらで二人の関係性に進捗があったらしい。実に喜ばしいことではあるが、一抹の寂しさを覚えてしまうのは、我ながら少し幼稚であろうか。でもさ、俺がいなくてもいいようで、ちょっとだけ、ちぇっと拗ねたくなる気分。だが、まあ、そんなのは本当に些細なことだ。気づいたら、俺は二人の様子を眺めながら、唇を緩めていた。
「……それで、えっと……ちょっと状況を確認してもいいか?」
気を取り直し、俺が口を開くと、リアムとラチカはちらりと視線を交わし、それぞれ俺に向かって頷いてみせた。
……ふむ。やはり俺が離脱している間に、二人も何らかの意思の疎通を図っていたようだ。まずは俺も現状を知り、二人と認識を一にせねばな。
「取り敢えず、ここは医務室であってるよな?」
俺の質問に頷き、リアムが口を開いた。
「玄関ホールでのことは覚えてるか? お前が眠ったあと、ラチカがこの医務室に運んできて、今はちょうど授業が開始したころだ」
すでに自らの醜態における羞恥は存分に満喫していたので、そこには構うことなく俺の脳は情報の解析に勤しんだ。香草水のおかげで気分も一新し、自分でも驚くほど冷静になれている。
「……なるほど。俺がさっきラチカに抱え込まれていたのは、授業開始の鐘が鳴ったからか。もしかして、俺の耳を塞いでくれてたのか?」
二人はちょっと目を見開いたあと、各々、俺に頷いてみせた。
「……ああ。あれはちょっと、やり過ぎた。悪い」
「そうそう、少し力が入りすぎて、結局お前を起こしちまったんだよな」
悪戯っぽく茶化したリアムを、ラチカが軽く睨む。それをにやりと笑って躱し、リアムは続けた。
「まあ、でも、鐘の音で飛び起きるよりはずっといい。だろ?」
俺もまた、リアムににやりと笑い返した。
「本当にな」
よかった……。俺の醜態を笑い飛ばしてくれる友人と、それに便乗できるまでに回復した自分自身にも、感謝だ。
心から同意し、俺は改めてラチカの茶色い瞳をまっすぐ見つめた。
「ありがとう、ラチカ。お前がいてくれて、本当に良かった。すごく、すごく、助かった。これからも、よろしく頼む。俺も、お前の力になれるよう、頑張るよ」
ラチカは俺の顔をまじまじと見つめ、それから赤く染まった頬を隠すように拳を当てて目を伏せると、小さく呟き返した。
「………………ああ。わかった。俺も、よろしく頼む」
「おう!」
と、俺たちの様子をつまらなそうにじっとり眺めていたリアムが、口を挟む。
「……それで? まだ他に聞きたいことはあるか?」
俺は、リアムに向かってにっこりと微笑んだ。
「リアムも、本当にありがとうな。俺が吐いた後始末とか、セレストに事情を説明してパユの迎えに行くのを待ってもらったりとか、いろいろやってくれたんだろ?」
「なっ…………」
今度はリアムの顔が、ぼっと燃えるように染まった。俺はにこにこしながら続けた。
「この香草水も、お前が用意してくれたんじゃないのか? 椀が人数分あるし、少なくとも、軽食までは医務室に常備してないだろうし」
サイドテーブルにある布のかかった皿に視線をやると、リアムは降参したように嘆息した。まだ少し上気した頬で、もごもごと言い訳するように呟く。
「……言っとくけど、俺はお前が思うほどたいしたことはしてねえよ。結局、実際に床の掃除をしたのは館の者だし、セレストもすぐ見つかったし、軽食はまあ……ちょっと無理を言ってお願いしたけど、俺も腹が減ってたからだし」
「そうだとしても。授業を休んでまで俺のそばにいてくれて、嬉しかった」
まだ多少悪ぶっているところはあるものの、リアムは元々真面目だし、それ以上に館での授業を楽しんで受けているのは、見ていればわかる。だが、今回は俺を心配する気持ちを優先して、医務室に残ってくれた。不謹慎かもしれないが、その事実が純粋に嬉しい。
「本当にありがとう、リアム。やっぱお前は頼りになるな」
「べ……別に、お前のためじゃ……」
ツンデレの定番セリフを口にするかと思いきや、寸前でぐっと飲み込み、リアムは開き直ってみせた。
「いや! そうだよ! 全部、全部、お前のためだからな! ちゃんと俺に感謝しろよ!」
「おう!」
「……つーか、お前のためじゃなきゃ、誰がこんな使いっ走りみたいなこと好き好んでするか! そのこと、よーく肝に銘じておけよ!」
「……おお、わかった。ちゃんと、覚えとく」
若干、リアムの迫力に呑まれつつも、俺はそっと微笑んだ。
「リアムは優しいもんな」
「っ………………!」
パカッと口を開け、何か盛大に言い返しそうな形相になったものの、ふと思い直したように、リアムはそのまま口を噤んだ。
俺は瞬きを一つし、それからちょっと首を傾げて尋ねた。
「医務室の養護師は、どうしてる?」
カーテンを隔てているとはいえ、これだけ騒いでいれば俺の目が覚めたことはわかるだろうし、同じ部屋にいるなら様子を見に来そうなものだが。
何故か不貞腐れたような面持ちで黙り込んでいるリアムに代わり、ラチカが答えた。
「養護師にパユの容態を伝えたら、薬師に相談してくると言って出て行った。エクトルとトピアスにも会って、パユをここまで運ぶ時の注意点を指示してくるらしい。多分じきに戻る」
「そうか……」
と、不意に腹が鳴り、俺は顔を赤らめた。ラチカとリアムは顔を見合わせ、どこか緊張感が解けたように苦笑した。
「確かに、腹が減ったな!」
「よし、食うか!」
皿を覆っていた布を取り除くと、そこには白いふっくらとした粘芋のお焼きで肉と野菜を挟んだものが三つ現れた。甘辛のたれがたっぷりとかかっていて、すごくいい匂いがする。
「わあ、おいしそう! 時授かり!」
「時授かり!」
「時授かり!」
挨拶もそこそこに、お焼きの包みをそれぞれ手に取ると、俺たちは口いっぱいに頬張った。
「うん、うまい!」
ほぼほぼ無言でぺろりと食べ終わると、香草水で喉を潤し、俺たちは大きく息をついた。
「よし、腹も膨れたことだし、そろそろさっきの話の続きをするか」
リアムの言葉にラチカが顔を上げ、けれど俺のほうをちらりと見ると、言った。
「悪い、リアム。その前に、ちょっとだけ、こいつと話をさせてくれ。後で、ちゃんとお前にもわかるように説明する」
リアムは瞬きを一つし、すぐに肩を竦めてみせた。
「わぁったよ。けど、さっさとしてくれ。もうじき養護師も戻る」
真面目な顔でラチカは頷き、改めて俺のほうに向きなおった。いつになく真剣な眼差しに、俺も自然と居住まいを直す。
ラチカは軽く咳払いをすると、それを口にした。
「どうしても、お前に確認したいことがある。俺が死んだあと、何があったのか。何もなかったならそれでいい。ただ、お前が死ぬまでの間、俺の知らないことが何か起こったなら、教えて欲しい」
俺は、すぐ横にいるリアムに目をやった。世界の崩壊と、それに伴う自らの死。一部とはいえ、すでに玄関ホールで俺が失言した内容ではある。だが、あの時の俺は恐怖に呑まれ、完全に取り乱していた。多くの者に聞かれてはいただろうが、悪夢を見た子供の世迷い事で片付けられる程度の発言だったはず。それを今度は素面の状態で、敢えてリアムの前で話をするのか? まだリアムに何も説明していないのに? そこに意味があると?
リアムは俺とラチカをまっすぐ見ているようで、どこか遠く深いところを覗き込んでいるような、不思議な面持ちをしていた。すごく、集中しているのがわかる。これは……この表情は、見たことがある。それもついさっきだ。謝罪したラチカの瞳を覗き込みながら、淡々と質問を繰り出しているときの、能面のような超越した無表情。
……なるほど。確かに、意味はあるようだ。あくまでも推測に過ぎないが、リアムは今、俺とラチカを視て、そこに嘘がないか確かめているのだろう。特に指示もされていないし、何よりこの返答はラチカに向かって真摯に口にするべき内容だ。
俺はラチカに向き直り、その茶色い瞳を見つめながら答えた。
「……ラチカが死んだあと、ちょうど俺がいた場所の地面が崩れた」
ラチカがハッと息を呑むのを淡々と己の瞳に映しながら、俺は続けた。
「瓦礫に埋まったラチカを残したまま、俺は空中に放り出された。俺を潰した何かと一緒に。それから……これは意識が朦朧としていたから定かじゃないが、鳥を見た」
「……鳥?」
「ああ、すごく、大きな鳥だ。真っ黒な……いや、真っ白だったのかな。光の加減かもしれないが、どっちだったのか、色はちょっとわからない。星の雨の中から飛び出してきたように見えた。でも、そのすぐ後に気を失ったから、それも本当だったのかは断言できない。俺が覚えてるのはそれだけだ」
ラチカはただただ俺をじっと見つめたあと、しばらくして、ようやくそっと息を吐き出した。
「……………………そうか」
ただ、一言。けれどそこに込められた想いは、万感であっただろう。
俺もまた、ラチカをじっと見つめたあと、ようやくそっと口を開いた。
「……ラチカ。俺も、お前に聞きたいことがある」
「……何だ?」
口を開こうとして、一瞬躊躇い、俺は唾を飲み込んだ。大丈夫、この程度のことで俺は取り乱したりしない。事実を確かめるだけだ。とうに予想はできている。それが本当だと知るだけだ。
改めて覚悟決め、俺はそれを口にした。
「……俺を潰したのは、この館の鐘か?」
恐らく、俺の質問を予期していたのだろう。ラチカは顔色一つ変えなかった。ただ、一言口にした。
「……ああ、そうだ」
「…………そうか…………」
知ったからといって、どうにかなるわけではない。ただ、知りたかった。俺のトラウマの正体を。本当に、人間とは不可思議なものだ。
ラチカとしても、巨大な鐘が目の前に降ってきて、人が潰される瞬間を目撃したのだから、相当にショックな出来事だったはずだ。思い出すだけでも辛いだろう。しかもそれを潰された本人に告げるのだ。余程憎んでいる相手でもなければ、楽しいことではない。それでも教えてくれたことに、俺は心から感謝した。
「……ありがとう、ラチカ。教えてくれて。あと、もう一ついいか?」
「ああ、何だ?」
「俺の左腕のこと……気づいていたのか?」
俺が醜態を晒す前、リアムの質問にラチカが答えるのを聞いて、初めて知った。ラチカは、俺の左腕が潰れていることには、気づいていないと思っていたのに。
ラチカは少し目を見開いたものの、すでに心の準備は済んでいたように、淡々と答えた。
「……お前を、一人で行かせたときは、気づいていなかった。俺は、瓦礫に埋もれながらも、お前だけは守りきれたと、そう思い込んでた。それがただの自己満足だったと気づいたのは、間もなくだ。すぐにまた大きな地震が起こって、俺はお前を一人で行かせたことを後悔した。塀がなくなって、目の前で島が、世界が崩れていく様に呆然としているとき、少し離れたところでお前が地面に座り込んでいるのが見えた。お前が無事だと安心しかけて……だけど、左腕が不自然に曲がっていることに、ようやく気づいた。周りに落ちていた瓦礫は小さなものばかりだったし、お前が怪我をしたのは、その地震の前だとわかった。俺が、お前を一人で行かせる前だと」
心を落ち着かせるように、俺はゆっくりと、静かに息を吐き出した。
「…………そうか。もし……、いや……」
先程、玄関ホールで泣き喚いた自分の言葉が、耳の奥で木霊する。今度は絶対に離れない。あれは紛れもなく俺の本心だ。あの時、動けなくなってしまったラチカを、俺は置いていきたくなどなかった。しかし実際、それに反する行動を選択したのも俺自身だ。何を言われようと、瓦礫に埋まったラチカのもとにとどまることもできたのに、そこから立ち去ると、俺が自分で決めた。それを、まるでラチカのせいにするように、ここでまた蒸し返すのも……。
言いよどんだ俺に被せるように、ラチカが言った。
「もし、お前があんなにひどい怪我をしていると知っていたら……、いや、それでも……」
苦しそうな面持ちで、今尚逡巡し、それでも答えが出なかったようにラチカはそれを口にした。
「……悪い。わからないんだ。左腕の怪我を知っていたら、お前を一人で行かせたりしなかったかもしれない。けど、確実にもうすぐ死ぬ、何もできない俺のそばにいるよりは……。大体、何をしたところで誰一人助からなかったはずだとか……でも、それならいっそ、お前を一人で行かせる必要はなかったんじゃないかとか……。何より、最初から俺のそばにいれば、あの瞬間、鐘が落ちてきたあの場所に、お前はいなかった! 俺のせいで、お前は鐘の下敷きになったんだ! しかも、俺が何度も呼んで起こしたから、お前は今も、あの時の記憶ですごく苦しむことになった。あのまま、意識を失ったまま死んでいれば、お前もこれほど辛い思いはしなくて済んだかもしれない。今更、どうにもならないことはわかってるのに、いろいろ、いろいろ考えて……」
不意に、ラチカの声が掠れた。自分が瓦礫に埋まったときですら気丈に振舞っていたラチカが、くしゃりと顔を歪めた。溢れた涙が、幾筋も頬を伝う。
「……どうすれば、お前を助けられたのか……っ、どうしたら、俺はよかったのか……っ、お前は、本当は俺に、どうして欲しかったんだろうって……っ」
……ああ、そうか。どうして忘れていたんだろう。一番大切なこと。ラチカの行動は、言葉は、全て俺のためを想ってのことだった。本心では、ラチカも俺を行かせたくはなかった。俺だって、それはわかっていたはずなのに。
今更詮無き仮定など持ち出して、ラチカを責めるようなことをするべきではなかった。実際、俺は自分の望み通りに行動したではないか。俺たちは互いに最善と思えることをした。第一、あれは何をしてもどうにかなるような事態ではなかったし、とうに過ぎ去ったことだ。そもそも、起こりうる事象に正解など用意されていない。あるのはただ選択と結果だけだ。
俺はベッドの上で膝立ちになると、ラチカの頭をそっと胸に抱き寄せた。よしよしと優しく髪を撫でながら、俺は自分の気持ちを唇に乗せた。
「……ありがとう。ありがとうな、ラチカ。俺のためを想ってくれて。だけど俺が鐘に潰されたのは、お前のせいなんかじゃない。ただの偶然。ほんのちょっと、俺の運が悪かっただけ。だからもし、また同じような状況になったら、お前は自分が一番望むことを口にしてくれ。もっとも……俺も、自分のしたいようにする。それであいこだ。お前が何を言おうと、俺が何を選択しようと、今度こそお前のせいにしたりしない。あの時だって、お前を置いて一人で行くと決めたのは、俺自身だ。だからもう、自分を責めるな。お前は俺にとって一番いいと思えることをしてくれた。それで十分だ。例えその結果が望み通りのものではなかったとしても、俺も、お前も、誰も間違っていない。俺はそんなことより、今またお前とこうして逢えたことのほうが、ずっとずっと嬉しい。お前が無事で、俺のことを覚えていてくれて、本当にありがとう。本当に、心から感謝する」
「………………、シルヴァ………………っ」
しゃくり上げて泣く大切な友人を胸に抱きしめながら、俺はその背中をあやすように撫で続けた。
しばらくして、ラチカは少し落ち着きを取り戻したように顔を上げると、ポケットから取り出したハンカチで涙を拭った。そのままハンカチで赤くなった顔を隠すようにしながらも、ラチカは俺を軽く睨みつけた。
「……いいか。言いたいことはいろいろ……いろいろある。けど、今は一つ、これだけは言っておく。お前のほうこそ、今度から怪我をしたらすぐにちゃんと言え。絶対だ! わかったな」
「わ……わかった」
泣き止んでからのこの第一声には俺もちょっと驚いたものの、ラチカらしいといえば納得だ。
が、ラチカはすぐに目を伏せ、これ以上ないほど顔を赤く染めると、呟くようにそれを口にした。
「──それから、その…………。あり、がとう……」
「……え?」
思わず耳を疑うように聞き返すと、ラチカは噛みつくような面持ちで喚いた。
「っ、だから……!!!」
我に返ったようにラチカはぎゅっと口を噤み、それから再びトーンダウンした声でひそやかに言った。
「……ありがとうな、シルヴァ。その……いろいろと」
ラチカも俺と同じく、人前で泣くのに慣れていないことは、想像に難くない。その照れ臭さたるや、筆舌に尽くしがたいものであろう。できるだけ追及せずに、さらりと流すのが望まれうる最良の対応だ。俺は小さく微笑むと、軽く頷いてみせた。
「……ああ」
んが、その場には俺の他にもう一人いたわけで。
「ふう~ん。へえぇ~。ほほぉ~?」
茶化すような声とは裏腹に、じっとりとした眼差しで仏頂面を向けているリアムに、ラチカはギクリと身を強張らせた。俺もだが、今の今まですぐそばにいたリアムの存在を、すっかり忘れていた。
「あ……えと……その……リアム……」
「話は終わったか?」
「あ、ああ……。その、ずっと待ってもらって悪かっ……」
「べぇつにぃ~? すっかり二人の世界に浸ってるのを見せつけられてムカつくとか思ってねえし。むしろてめえの目も涙が出る仕様になってたんだなって、すげー珍しいもん見せてもらったのはかえって僥倖だし。こんな貴重な機会が与えられたことに、本当にただただ驚きを隠せないだけだし」
「……あ……う……」
もはや言葉もなく羞恥に喘いでいるラチカに同情の眼差しを注ぎつつ、俺は恐る恐る口を挟んだ。
「……、あ~……、えっと、リアムさん? その……そろそろ勘弁……」
「シルヴァ」
いつになく真剣な声と眼差しが、リアムから俺に注がれた。
「は……はい!」
反射的に、ピン! と直立不動になった俺に、リアムが口を開きかけた瞬間。
「やあやあ、僕のかわい子ちゃんはお目覚めかな?」
如何にも軽薄なセリフと共に、医務室の扉が開いた音がした。誰かが近づいてくる気配に耳を澄ませていると、ベッドの周りを覆っていたカーテンがシャッと勢いよく開けられる。患者である俺がまだ眠っているかもしれないのに、随分と無遠慮というか、配慮が希薄というか。
顔を突き合わせる前からすでに苦手意識が浮かんでいたが、カーテンから覗いたチャラっとした無駄にイケメンな面が目に入った瞬間、俺は心の奥底で、ないわ~……と呟いていた。が、この時は俺もまだ、少なくとも上っ面は礼儀正しく振舞うつもりだったのだ。
けれどチャラ男は俺の顔に目を留めると、チャラっとした笑みをすんっと消し去り、まるで何も見なかったかのように視線を素通りさせた。そしてあたかも最初からそうするつもりだったように、俺の隣に座っているラチカに満面の笑みを広げ、大仰に抱き着いた。
「ラチカ~! いい子にしてたかい? 僕にずっと逢えなくて淋しかったんだね? 研修から戻ってすぐ僕に逢いに来てくれるなんて、本当に嬉しいよ!」
「はあ? 何言ってやがる!!! てめえなんざ知るか! つーか、勝手に引っ付くな! うぜえんだよ、離れろ! このクソが!!!」
……おお。何か、これだけガラの悪いラチカは随分と久しぶりな気がする。まるで初期の頃のような懐かしさだ。というか、むしろタイムリープ後の丸くなった殊勝なラチカにここまでの暴言を吐かせることができるとか……もはや呆れを通り越して感心するよ。
げしげしと足蹴にされ、ラチカから無理やり引っぺがされたものの、チャラ男は全く懲りていないようにチャラチャラ微笑んでいる。何というか、その不撓不屈ともいうべきチャラさには、本当に心から感服する。まさかここに来て、こんなクセの強い濃厚なキャラが新たに投入されるとは。
……え、ちょっと待って。つーか、今までも俺が知らなかっただけで、このチャラ男は同じ館に生息してたわけ? そして、これからも? まさかまさかまさか、これを機に、さもレギュラー陣に加わったかのような面持ちで、たびたび俺たちに関わってくるとか、ないよね? え、ないでしょ?
という心からの叫びを、つるんとした無表情の下に押し隠し、俺は改めて目の前のチャラ男を淡々と観察した。年齢は三十前後、銀の髪に青い瞳だから、俺と同じ水の民だ。くせっ毛なのか、くるっとした髪があちこちに跳ねている。その乱れよう、いっそもう、髪を伸ばして紐かなんかで一括りにしたほうが多少は見栄えもよいのでは? ←辛辣。
とはいうものの、その腕に巻かれた革のバンドには見覚えがある。この伝導の館における身分証とは別の、青いガラスの嵌まった白いバンド。水の宮殿に併設された、医療の館を修了した証しだ。俺の今生の母も身に着けていたそれは、高度な医療技術を習得した者のみに与えられる。つまりこのチャラ男はこの医務室の主であり、先程から話題に上がっていた養護師だ。不興を買うのは決して得策ではない。得策ではないのだが……。
「ラチカは相変わらず可愛いねえ~。ツンツンしてても僕への愛が溢れ返ってて堪らないっ。ぎゅってしてあげるから、恥ずかしがってないでこっちにおいで~」
嫌がるラチカに、これ見よがしにチャラチャラ絡むチャラ男を眺めながら、俺は静かに思案に耽った。
……にしても、そもそも何故、俺はたった今目にしたばかりの相手にこれほどの不快感を抱いているのであろう。まだ、たいした情報も得ていないではないか。
まあ、ちょっとチャラいが、特段それで俺が不利益を被ることもなし。一応、無駄にイケメンだし。わざとらしい陽キャアピールがうざいとか、目が笑ってないのを隠せてないとか、腹黒いのが透けて見えるのがむしろ恥ずかしいとか、自分の優秀さを鼻にかけてるのがバレバレだとか、幼稚な言動でカモフラージュしてるつもりかもしれないけど、胡散臭さMAXだとか。
そんな妄想まがいの難癖をつけようなど、俺は全然思ってない。全く、これっぽっちも思っていない! そう、こんな一瞬の邂逅で、他人の全貌に勝手な評価を下すほど、俺は傲慢でも浅はかでも短慮でもない!!!
だから、つまり、これはアレだ。本能! 俺の野生の本能が、こいつを警戒しているのだ! 顔を見た瞬間に患者であるはずの俺をガン無視したとか、やたら親しげにラチカに絡んでいるのが気に入らないとか、そういう子供っぽい感情では断じてない!!!
……ただ、高度な医療技術を習得した水の民、という点にはやはり引っ掛かる。俺にはできない、何か特殊な能力が日常的に使える可能性が非常に高い。
同族ながら、とかく水の民は秘密主義というか、今生の母ですら、我が子である俺に民の能力の詳細については語らなかった。探りを入れても静かに微笑むだけで、決して口を割らない。医療に関する民の能力については、兄や姉も母から何も聞かされていないようだったから、俺の年齢のせいではないはずだ。恐らく、俺が村を出ることがなければ、自分の体内の水分を操る方法すら、母から伝授されることは一生なかっただろう。
そういう意味では、このチャラ男が油断してはならない危険人物という判断に間違いはない。むしろ、そうか。腹に一物あって当然のような者がチャラ男など演じているから、俺の違和感が発動した。そう考えると、いろいろ腑に落ちる。だがまあ結局のところ、とにかく俺こいつ嫌い、の一言に尽きるわけで。
ようよう自らの感情と折り合いをつけた俺は、ベッドから滑り降りると、あざとカワイイ仕草でラチカの服の裾をそっと指先でつまみ、こてん、と小首を傾げてみせた。それはもう、これ見よがしに。俺の持ちうる、ありとあらゆる可愛さを総動員して。ふっふっふ。チャラ男め、お前にこの芸当は真似できまい。
「…………、…………!」
そんでもって、言葉なんか要らない!!! 上目遣いを意識することもない!!! 単純に、俺のほうがラチカより背が低いのだから。何より、チャラ男の前で発する言葉など、俺は持ち合わせていないのだよ。
というわけで、このチャラ男の前から早急に立ち去りたい意を込めて、俺はラチカをまっすぐ見上げた。
ラチカ、俺はもうここから離れたい!
「っ…………あ、…………おう…………」
チャラ男を悔しがらせようと見せつけていたはずなのに、何故かラチカの顔がボッと赤く染まった。
……おや、意外だ。ラチカは俺のかわい子ぶりっ子には耐性があると思っていたのだが。
それはまあ、ともかく。少なくとも俺の意は通じたようで、ラチカはべたべたと張り付いていたチャラ男を突き飛ばすように引き剥がすと、言った。
「じゃあ、俺たちはもう行くから。邪魔したな」
そのままぞろぞろとラチカの後についてカーテンの隙間から出て行きかけた俺は、不意にぐいと腕をつかまれ、チャラ男を見上げた。反射的に刃のごとく鋭い眼差しを投げつけてしまったものの、すぐにへらっと微笑んでみせる。俺を引き留めるとは、心の底から驚きだ。完全に無視するつもりだと思ってた。双方にとっても、それが一番よかったはずなのに。
と、チャラ男はさっきまでのチャラチャラした笑みなど微塵も面影のない冷ややかな表情で、チッと舌打ちした。
「──お前、名前は?」
俺は、如何にも無邪気に、瞬きを一つしてみせた。これ以上ないほど満面の笑みで答える。
「……忘れました!」
「っ────────────!!!!!」
瞬間、その場の空気が凍り付く音が聞こえた気がした。チャラ男を筆頭に、ラチカとリアムも愕然とした顔をしている。
……あれ? まさか俺が記憶喪失だと本気で思ってるわけじゃあないよね? これは非力な俺にも可能な、本当にささやかな抵抗に過ぎない。てめえに教える名前なんざ、こちとら持ち合わせてねえんだよ! と仮にも養護師相手にケンカ腰に罵るのは、さすがに印象がよろしくないからな。俺としては、あまり角が立たぬよう、全力で配慮したつもりだ。が、引くつもりも毛頭ない。
俺がにこにこしていると、チャラ男はギリッと奥歯を噛みしめ、青筋を立てながらも、神経質に唇を歪めてみせた。
「……へえー、ああ、そう。忘れちゃったんだ。それじゃ仕方ないよね。ラチカ、こいつの……」
皆まで言わせず、俺はつかまれている腕をチャラ男の手から素早く外した。これもリアムから習っていた護身術のおかげだ。本来の時間軸では始めたばかりで、ここまで上達していなかったからな。俺に厳しく指導してくれたリアムには、本当に感謝だ。
「くっ、この……っ」
さっと身を屈め、再び伸びてきたチャラ男の手から逃れると、俺はラチカとリアムの手を取った。チャラ男が動揺した隙に、カーテンの隙間から一気に脱出する。
「ベッド、ありがとうございましたっ! 失礼しまっす!」
「あっ、クソ……っ! この腐れ外道が! てめえ、今度会ったらただですむと思うなよ……っ!!!」
何やら養護師らしからぬ悪態が後ろから聞こえた気がしたが、恐らく俺の空耳だ。光の宮殿に併設された伝導の館の誉れ高き養護師が、いたいけな見習い候補風情にそのような罵倒を口にするはずがないではないか! ……ふ、……ふふふふふ、……ふははははははっ!
タイムリープ後、俺は初めてといっていいほど爽快な気分で廊下を駆け抜けた。が、如何せん体力は鍛える前のままだったので、すぐに息切れして立ち止まった。取り敢えず、よろよろと中庭に足を踏み入れる。
「……いや~、それにしてもびっくりしたな。まさか医務室の養護師があんな感じとは」
のほほん、と笑った俺に、血相を変えたリアムが喚き返す。
「はあぁあぁあぁ? いやいやいや! びっくりしたのはこっちだから! 言うに事欠いて、自分の名前忘れたとか、ケンカを売るにも程があるだろ!!!」
「そうだぞ! しかも、あんな得体の知れないヤバい奴に真っ向から対立するとか、お前はバカか!」
大仰とも思える二人の勢いに、俺は目をぱちくりさせた。
「……いやいやいや。何言ってんだ。俺はできるだけ角が立たないように、笑顔で、ちゃんと言葉を濁してだな……」
穏やかに微笑んだ俺に、ラチカとリアムがバン! と足を踏み鳴らした。
「どこがだよ! むしろ角しか立ってねえだろーが!」
「言葉を濁すどころか、直球すぎて誤解する余地もねえよ!」
俺は完璧に息の合った二人の様子に感嘆しつつも、きょとん、と首を傾げた。
「…………そうか? マジで? あんな婉曲に言ったのに?」
二人の眉間に青筋がピキッと立つと、交互に口を開いた。
「──あれが婉曲?」
「遠回しだったと?」
「少しも露骨ではなかったと?」
「お前は、本当に心からそう思ってるのか?」
流れるような二人のやり取りにしばし見惚れてしまったものの、俺は心から頷いた。
「……まあ、そうだな。何故かわからんし、あの養護師には大変申し訳ないが、俺が物凄っく気に入らなかったことは、本人には伝わらなかったはずだ」
「そんなわけあるかー!!!」
「そんなわけあるかー!!!」
二人のハーモニーに圧倒されつつも、俺は改めて先程の養護師の様子を思い返し、ようやく一つの気づきを得た。
「ハッ……! でも、確かに、チャラ男は最後、ちょっと不快感を示していたかもしれない……」
「ちょっとどころじゃなかっただろーが!」
「むしろ最初から最後まで、不愉快極まりないのが駄々洩れだったじゃねーか!」
容赦ない二人の追撃に、俺はとうとう膨れっ面になった。
「……だって! あいつ、すげームカつくんだもんっ! やたらラチカにベタベタするし! そもそも! 最初に俺のことガン無視したのはあいつのほうだし! 俺はちゃんと最後にベッドを借りた礼だって言ったもんっ! 最低限の暇も告げたし! できるだけ礼儀正しく振舞った! そうだろ? つーか、もうっ! ホントあいつ大っ嫌い!!! 何なの?」
バンバン! と八つ当たり満載で地団太を踏んだ俺を見ると、ラチカとリアムは毒気を抜かれたように顔を見合わせ、それからぷっと吹き出した。
「何だそれ! そんな駄々をこねるような真似、お前でもするんだな!」
「は……初めて、お前が年相応に見えた……っ」
腹を抱えて笑いこけている二人に、ますます俺はぶうっとむくれた。
「年相応って何だ! 生きた年数なんて関係あるか! ムカつく奴はムカつくんだよ! 大体なあ、そういうお前らはどうなんだ! あの腐れチャラ男が好きだと言えるのか? ああ?」
そう俺が喚いた途端、二人の顔からすんっと表情が抜けた。淡々と、真顔で言う。
「……いや、俺も全く好きではない」
「そうだな。それに関しては、俺も激しく同意する」
友人たちの言葉を耳にした瞬間、俺は初めて僅かながらチャラ男に憐憫の情を覚え、一抹の冷静さを取り戻した。
……チャラ男……。ごめん、俺もほんのちょっぴり、やり過ぎた気がしないでもないでもない。……でもっ! 次に会ったとしても、やっぱり、どうしても名前を教えたくないくらいには、俺、お前のこと、好きになれそうにない……。だからもう、どうか俺のことは忘れて、誰か別の人と幸せになってほしい。本当に、本当に、ごめんなさい……。
心の中で精一杯の謝罪を呟くと、俺は涙を呑んでチャラ男の記憶を忘却の彼方へと押しやった。
──さて。
俺はくるりと二人に向き直ると、言った。
「で、これからの予定はどうなってる? 俺もパユの迎えに行っていいんだろ? エクトルとトピアスとも合流しないといけないしな」
と、何故かラチカとリアムは俺から目を逸らすと、小さく呟きあった。
「……あいつ、時々びっくりするくらいバッサリ切り捨てるよな」
「……ああ。俺もそう思ってた。切り替えが早いにも程がある」
何とでも言いたまえ。友よ、俺は気にしない。
ひょい、と二人の顔を下から覗き込み、俺は割り込んだ。
「……そ、れ、で?」
ぎょっとしたように二人は身を引き、けれどすぐ嘆息して言った。
「……え~っと、だな……」
「本当は、改めて養護師から詳しく聞くはずだったんだけど……」
「無理! 俺、パス!」
バッと防御するように両手を前に突き出した俺を見ると、リアムは苦笑しながら続けた。
「別に、わざわざ医務室に戻る必要はねえよ。いつお前が目を覚ますかわかんなかったし、取り敢えず昼飯の時間になったら、俺が食堂でエクトルとトピアスに会うことにはなってた。多分、そこは変わってねえだろ。今だって、庭を一巡りするか、奥の作業場辺りに行けば会えるだろうし。けど、その前に……」
リアムの視線を受け、ラチカは頷いた。
「ああ。今度こそ、ちゃんと説明する。俺とシルヴァも、お前に聞いてもらいたいと思ってる」
同意を求めるようなラチカの眼差しに、俺もまた深く頷いた。
「俺の記憶、そしてラチカの記憶。すぐには信じられないだろうし、理解するのが難しいことも多いと思う。だけど、お前の瞳で視て、それからどうするか、考えて欲しい」
「……わかった」
「ちなみに、今更だけどリアムは授業……」
「セレストにちゃんと許可を取ったよ。俺もお前も、今日一日は免除されてる。心配すんな」
「そっか……ありがとう、リアム」
こういうところ、リアムは結構しっかりしてるんだよな。俺はほっと息をついた。
「それに、ここまで来たら俺もちゃんと話を聞かないと、どうにも気になって仕方ないからな」
「ああ……、まあ、確かに」
中途半端に俺たちの会話だけ聞かされている今は、生殺しのようなもどかしさしかないだろう。こちらとしても、早急に話をしたい。そしてできれば、リアムには俺たちの味方になってほしい。
取り敢えず人目を避けるべく、中庭の奥にある裏庭に俺たちは向かった。その間も、ラチカは周囲にある空気中の水分を自分の近くに集めて、眉をひそめている。そしてちらりと自分の背後、裏門があるほうへと視線を投げた。
正直、俺はまだ中庭にいるのも少し落ち着かない。館の敷地を取り囲む塀には近寄るのも怖いし、まして俺が潰された場所がある方向には、目を向けることもできない。知らず知らず、俺はぎゅっと身を縮め、自分を抱くように両腕を手できつく握り締めていた。
と、不意にラチカがその手の上から俺の左腕にそっと触れた。ハッと顔を上げた俺に、ラチカが小さく微笑む。
「……左腕、ちゃんと治っててよかった。あ、いや。治ったっていうのとは、少し違うか……。でも、よかった。本当に」
その瞬間、ふ、と自然に俺の体から力が抜けるのを感じた。自らの腕を拘束していた手が、ゆるりと外れる。
「……そう、だな。……あ。でも、あの、ごめん。ラチカの服、しわが……」
改めてそのことに気づき、ラチカの服のしわに手をやるも、くしゃくしゃすぎて、もうどうやってもどうにもなりそうもない。奇跡的に、涙や鼻水の跡で汚れていないのが、唯一の救いではある。が、ラチカはどこか嬉しそうにすら見える顔で笑うと、言った。
「気にすんな。多分、一度洗えば少しはマシになる。それに、お前がしがみつく前からよれよれだったしな。そんな変わんねーよ」
今や単なるよれよれレベルではないのだが、俺に気を使わせまいとしてくれているラチカの意を酌み、それ以上食い下がるのはやめた。そして心密かに決意した。もし、俺がちゃんとお金を稼いで一人で生活できるような未来が訪れたら。そしたら、必ず、ラチカに新しい服を贈ろうと。
俺は小さな決意を胸に、今はただラチカに向かって微笑んだ。精一杯の感謝を込めて。
「……ん。ありがとう、ラチカ」
「ハイハイ、それで? そろそろ話を始めてもらってもいいですかねえ? あんま時間もないんで」
……おお、リアム。何か急に入ってきたな。別に構わないけど。相変わらず情緒不安定な奴だ。
「まあ、そうだな」
日陰が広がっている場所で、それぞれ適当に地面に腰を下ろすと、まずリアムが口を開いた。
「最初に一つ言っておく。俺の能力は万能じゃない。詳しくは口外できないが、条件やら制限やらいろいろある。あと、さっきラチカには少し話したけど、どういうわけかお前には俺の能力が使えない」
「……へ? そうなの? それってどういうこと? つか、いつの間に俺で試してたんだ? いや、リアムなら別にいいけど」
目をぱちくりさせている俺の前で、リアムは一瞬頬を紅潮させ、それからちょっとバツが悪そうな顔になった。
「……あ……、う……割と、逢って間もない頃だよ。お前、自覚はなさそうだったけど、結構おかしなことを時々口走ったりするからさぁ……一応、真意を確かめようと思ったんだよ」
「え。ああ……」
そうだね。実にもっともな話だ。見た目は美少年、中身は腐女子、それも異なる世界からの転生者だから、知らず知らずのうちに胡散臭い発言をしていてもおかしくはない。っていうか、多分いろいろ失言している。むしろその自信がある。
一瞬、虚ろな眼差しで乾いた笑いを漏らしたものの、俺はすぐ気を取り直した。何しろ、それ以上に気になることがある。
「どういうわけか、俺には使えないって言ったよな。何か思い当たる理由はないのか?」
すっと眉をひそめ、リアムは言った。
「……正直、俺もずっと不思議に思ってた。能力を使おうとしても、透明な壁に当たって跳ね返されるみたいな感じっていうか。けど、ついさっき似たような感覚を教えてくれた奴がいて、やっと気づいた」
「ついさっき?」
何か嫌な予感がするのだが。
顔をしかめた俺に、リアムが肩を竦めて続けた。
「お察しの通り、そいつだよ。お前の大好きな医務室の養護師さま。ただ、言っておくが最初に仕掛けたのは俺じゃない。あいつのほうだ。出会い頭にいきなり俺の中を無断で覗き込もうとしやがったから、それを回避して、反対に俺が視てやろうとしたら、弾かれた。その時の感覚が、お前の時とすごく似てたんだよ」
「それは……俺もあいつも、同じ水の民だから?」
「その可能性は大きいかな。ただ、俺も何人か水の民を視たことはあるけど、こんなふうに弾かれたことはない。そもそもそいつらは俺に視られていることにも気づいてなかったし。つまり、お前とあいつで明確に異なることが一つある」
「それは?」
「お前は無自覚に俺を弾いたが、あいつははっきりと自分の意志でやった。そこが大きく違う」
「っ! …………確かに」
つまりそれが水の民の能力だった場合、チャラ男は使いこなせているが、俺は全く使いこなせていないということだ。それなのに、どういうわけか発動している。そしてふと、重大なことに気づいた。
「……っていうか、え? あの腐れチャラ男、出会い頭にお前の中を覗き込もうとしてたのか? ということは、まさか俺も……」
リアムは肩を竦めてみせた。
「多分、だけど。さっきもあいつはお前の中を覗こうとして、でも俺みたいに弾かれたんじゃねえかな。で、完全に機嫌を損ねてお前を無視することに決めたという……」
「マジか!」
「いや、まあ、俺の憶測にすぎないけど」
「お前が言うなら、多分、それであってるだろ」
不意にラチカが口を挟み、リアムは驚きつつも、僅かに頬を上気させた。まさか宿敵ともいえるラチカにこれほど信頼されるとは、今朝の今朝まで思ってもみなかったはずだからな。リアムからしたらいろいろと急展開すぎて、感情が追いつかないのだろう。
「にしても、リアムはよくチャラ男の覗きを防げたな。その、覗かれてる感覚……? みたいのは、そんな簡単にわかるもんなのか?」
俺の問いに、リアムは軽く首を傾げた。
「この能力は、剣士の館で訓練して身につけたものだからな。使い方と同時に、それを防ぐ方法も習った。けど、さっきの養護師は水の民で、基本的に俺の能力とは全く異なるものだ。訓練で闇の民が俺を視ようとしているときの感覚に似ていたし、同じ要領で防ぐことはできたが、厳密にどういう能力かはわからない。そして、闇の民でもほとんどの者がこの能力の存在自体、知らないはずだ。そして知らなければ、多少の違和感はあったとしても、視られているとはまず思わない」
「そうか。余程のことがない限り、そもそもそういう発想には至らないわけだな」
「それと、この能力を防いだのが同じ闇の民だった場合、弾かれるというより、霧散させられるというか、無効化された感覚に近い。だからお前に弾かれたときは、本当にびっくりした。初めての感覚だったし、そもそもお前自身が無自覚っぽいところが、さらにな。今、わざわざお前にこのことを話したのは、自分の意志で使っていたわけじゃないと、確認するためでもある。現にさっきは、俺に視られていいとお前も思っていたはずなのに弾かれたし、その感覚すらわかってなかったみたいだしな」
「ああ……うん。何かごめん」
でも……なるほど。それなら俺が出会い頭にチャラ男にガン無視されたのも、何か納得がいく。恐らくだが、己が研鑽して身に着けた能力を、俺みたいにまだ年端も行かぬ者が無自覚に使ってるとか、確かにムカつくだろう。とはいえ、あの態度は幼稚にも程があるのだが。
俺はうんうんと一人頷いた。
「そうかそうか。あ、じゃあ、クルスとギュスターもこの能力が使えるのか」
「一応な」
「カノンを視たことはあるか?」
「いや、ないよ。そもそも視る必要ないだろ。あんな素直の塊みたいな奴」
「素直の塊……」
さりげなく流れに乗せて尋ねてみたが、やはりカノンに関する認識の齟齬はすでにここからきているようだ。俺はラチカとちらりと視線を交わし、さらに続けた。
「カノンの髪の色、リアムはどう思う?」
「どうって……まあ、綺麗だとは思うけど」
当然のことながら、俺の唐突な問いに、リアムは戸惑ったように首を傾げた。が、俺は更なる問いで、リアムに畳み掛けた。
「どんなふうに、綺麗だと思うんだ?」
「え……いや……その……」
「もっと! 具体的に、カノンの髪の色がどう綺麗だと思ってるか、俺は聞きたいんだよ!」
いつになくぐいぐい迫る俺にタジタジしながらも、リアムは何とか言葉を捻り出した。
「いや、だから、えっと……本当に、光みたいな金色だよな。透き通るような金色っていうか……まあ、光の民だから当然かもしれないけど。つーか、ホントいきなり何なんだよ? それがどうかしたか? 今、それ、必要?」
おお、間違いない! リアム、そして恐らく周りの人たちには、現在の尊大で恐ろしい水のカノンが、俺の知っている素直で可愛い光の民として認識されているのだ!
ぐっと拳を握り、俺は今朝部屋を出る間際にポケットに入れた大切なものを、更なる物証として取り出そうとした。が、次の瞬間、さぁ……と血の気が引いていくのを感じ、息が止まった。
……ない。俺の、大切な、トリーの絵。一体、いつ、どこで、失くし……。
「……あ。もしかして、これか? お前が探してるのは」
リアムがどこからか筒状の紙を取り出し、それを目にした俺はほっと安堵の息を大きくついた。
「そ……それ……どこで……」
震える指で筒状の紙を示した俺に、ラチカが肩を竦めてみせた。
「玄関ホールでお前が眠ったあと、俺が医務室に運ぼうとして抱き上げたとき、ポケットから落ちた。で、それを近くにいたリアムが拾ってくれたから、俺が言ったんだよ。トリーの絵か? って」
「────あ」
瞬時に、俺は理解した。ラチカが、それを知っているはずがないのだ。本来の時間軸において、昨日の夜にトリーからもらった絵のことを、今朝、数ヶ月ぶりにこの館に戻ってきたばかりのラチカが知るわけがない。反射的に青ざめたものの、俺はすぐに思い直した。いや、違う。知るわけがないからこそ、ラチカのその一言はむしろ、俺たちがこれからする話の信憑性を高める材料の一つとなり得るはずだ。
恐らく、俺の表情の変化から、リアムはその内心の動きすら読み取ったのだろう。手にしている筒状の紙を軽く振ってみせながら、真面目な顔で言った。
「さて、ようやく本題ってところだな。そう、お前も今気づいたとおり、ラチカが知っているはずがない。本当ならな。紙も巻いたまま紐で結んであるから、中身が見えない。それなのに、どうしてこれがトリーの絵だと思ったのか。そのまま尋ねても、ラチカはすぐには答えないだろう。少なくとも、お前の目が覚めるまでは。だから、俺が先に知っておくべきことを聞いておいた。トリーの描いた絵の内容を、ラチカがどう答えるのかを」
ハッと息を呑んだ俺に向かって軽く頷き、リアムは続けた。
「ラチカ。俺にさっき言ったことを、もう一度そのまま繰り返してくれ。俺は玄関ホールで拾った状態のまま、この紙をずっと預かっていた。そして、お前らが医務室にいる間に表門と裏門の詰め所に行って、ラチカの館の外出記録を確かめてきた。研修で出かけたあと、ラチカが戻ったのは今朝、一度きり。それも玄関ホールで俺たちと顔を合わす、ほんの少し前だ。しかもその間、俺はずっとシルヴァと一緒にいた。館を取り囲む塀も高いし、他に抜け道はない。そこまで言えば、お前らなら十分だろう?」
……なるほど。すでにアリバイも確認済み、準備万端というわけだ。俺はちらりとラチカに目をやった。ラチカは肩を竦め、リアムに向かって淡々とそれを口にした。
「シルヴァは基本無一文だし、歌い手の見習い候補は授業も口伝のみだ。この大きさの貴重な紙を手にする機会はまずない。俺が知る限り、シルヴァが持っているのはトリーからもらった絵だけだ。そしてそれは昨日の夜、中庭修復完了祝いで渡された。左からシルヴァ、リアム、カノン、クルス、ギュスターが描かれている。軽いタッチの線描だが、簡単に色も付けられていて、カノンの髪は淡い黄色だった。違うか?」
リアムは少しばかり目を見開くと、小さく首を傾げた。
「カノンの髪の色のことは、さっきは言わなかったな。シルヴァといい、それって何か意味があることなのか?」
「ちゃんと、順を追って話す。今はその紙を広げるのが先だ」
「へいへい、わかってますよ。仰せのままに」
結んであった紐をするりと解き、リアムは筒状の紙を左右に伸ばして広げてみせた。そこには俺の記憶と同じ、たった今ラチカが口にした通りの絵が描かれていた。当然、ここまではリアムも承知の上だ。
「──さて、ここで問題だ。ラチカ、どうしてお前は知るはずのないことを知っている? そしてさっきから聞かされている、お前とシルヴァの不可解な会話の内容。いい加減、全てを白状してもらうからな」
「ああ、わかってる」
そして、俺とラチカは一部始終をリアムに説明した。
俺たちは一度死んで、過去である今朝に戻ったこと。最初の時間軸で起きた出来事の数々。昼食時にあったラチカとリアムのいざこざ、中庭でのオルカとの遭遇、旅立つカノンとのケンカ別れ。俺はその後、ラチカと約二週の同居生活を送り、リアムとクルスとギュスターからは護身術の訓練をしっかりと受けたこと。最後に光の降臨祭をみんなで見て回ったあと、世界の崩壊を目撃したこと。
俺とラチカで、互いに捕捉し合いながら、可能な限り簡潔に、けれど大切なことはできるだけ漏らさぬよう、伝えたつもりだ。あまり感情的にならないように努めたが、やはり自分たちが死んだときのことを口にしたときは、少しだけ声が震えてしまった。
リアムは能力を使っていることもあり、ひたすら無表情で俺たちの話に耳を傾け、簡単な相槌の他は、ほぼ口を開くこともなかった。俺とラチカが一通り話し終えたあとも、しばし考え込むような面持ちで目を閉ざし、少ししてようやく顔を上げた。
「……………………まったく、奇想天外な作り話だったな、と言いたいところだが」
ようよう第一声を発すると、リアムは俺とラチカにそれぞれ目をやり、淡々と続けた。
「まあ、信じてやるよ。今のところはな」
「おお! それは……こちらとしては大変喜ばしいが、何というか、そんなあっさり信じちゃっていいのか? 俺が言うのもナンだけど、どう考えても簡単に納得できるような話じゃないだろ? いくら嘘を見抜く能力があるっつってもさ。もっと、ちゃんと、じっくり悩んでいいんだぞ。実際、俺もまだ、自分の記憶とそこから導き出した結論を完璧に信じていいのか、ちょっと不安なくらいだ」
敢えて苦言を呈した俺に、リアムは嘆息しつつも肩を竦めてみせた。
「ったく、お前は俺に信じてほしいのか、ほしくないのか、どっちなんだ」
「信じてほしい! ものすごっく信じてほしいし、何より俺の、俺たちの味方になってほしい! リアムがいるのといないのとでは、ホントまるっと何もかも違う!!! けど、それでも、物事には慎重さが必要なときというのもあってだな……」
「言っとくが、俺だってただただ盲目的にお前らの言うことを信じたわけじゃねえ。能力で視るだけじゃなくても、この目はいろいろ見えるんだよ」
「……それは……?」
きょとんとした俺に、リアムは言った。
「例えば、さっき養護師につかまれた腕を、お前が外したときの動きとかな。あれは昨日の夜、俺がやってみせた護身術の一つだったが、お前は全然できてなかった。それがたった一晩寝ただけで、あんなふうに実戦で使いこなせるのは普通におかしい。逆に、二週ほどでも真剣に訓練していたなら、あれくらいできるのも納得する。少なくとも、どうすればいいのか頭で理解している動きだった」
「ああ……なるほど」
「それと、これは単なる俺の感覚だが、ラチカが俺に謝ったとき、妙な感じがした。その後も、こいつと話をしていると、時々何か思い出しそうな、変な気分になった。さっき、お前に向かって二人で喚いていたときもそうだ。前にも似たようなことがあったような、知っているはずのことを忘れているような、何とも言えないもどかしさ。で、俺は考えた。もし世界ごと過去に時間が戻って、お前らに記憶があるのなら。すぐには思い出せないだけで、俺の中にも最初の時間の記憶が残ってるんじゃないかと」
「……お…………おぉおぉお…………!!!」
その発想はなかった……!!! すごい、すごいぞ、リアム!!!
思わず感嘆の声を上げたあと、しかし俺ははたと我に返った。
「……いや、でも、どうやったら思い出せるんだ? 何か方法とかあんの?」
「まだ、思い出せてはいない。けど、いくつか視えたものはある。あれは多分、俺の中に残る記憶の欠片だ。そして館の中、この裏庭、さっき中庭でも少し断片が視えた」
「視えたって……え、でも、リアムの能力は……あ」
俺が見やると、リアムはひらりと手を振ってみせた。
「騙してはいない。けど、俺に視えるのは嘘かどうかじゃない。それを判断するための、記憶の断片だ。そしてそれは人だけじゃなく、物や場所からも視える。決して万能じゃないし、いろいろ条件があって使い勝手もよくない。だが、まあ、お前らの話の裏付け程度になるくらいの断片は視た。特に、医務室でのお前らの会話はおかしかったからな。ラチカの断片で視えた場所を通るときは、できるだけ視ようと努力した。あの時はまだ情報も足りなかったし、俺もはっきりと考えがまとまっていたわけじゃなかったけど、だからこそ視る必要があった。さすがに結構疲れたけどな」
「おお……お疲れ様です……」
と、瞬きを一つし、俺は首を傾げた。
「あれ? でもさぁ……最初だけだったよね。リアムがあんなに間近でラチカの目を覗き込んだの。中庭を通るときも、特に何かに近づいたりしてなかった気が……」
ギクリ、と身を強張らせたリアムに対し、ラチカが淡々と答えた。
「あれは多分、視るためじゃない。もっと別の能力を発動するのに必要だったんだよ」
「もっと別の能力……?」
目をぱちくりさせた俺に構わず、ラチカはちらりとリアムに意地悪い笑みを浮かべてみせた。
「そうそう、ちょっと精神攻撃的な何か、だよなぁ?」
「いや、あれは、えっと……」
言いよどむリアムに、ラチカはあっさりと返した。
「まあ、いいよ。俺もあれくらいされて当然だった。いきなり口先で謝られたって、俺が素直に質問に答えるとは思えないだろうしな」
……ああ、なるほど。憶測ではあるが、強制するような精神的圧力をかけるとか、そんな感じの能力を使ったのだろう。こうなってくると、それぞれ知られざる民の能力がいろいろあって、なかなか奥深いというか何というか……無知というのは本当に危険だと思い知らされた気分だ。くそっ。俺も母からもっと情報を引き出しておくんだった! 多分、無理だったろうけど!
「と、とにかく、だな……。一応、お前らの話はわかった。少し早いけど、食堂で昼飯をすませてからエクトルとトピアスに合流しようぜ。シルヴァも水場に寄ったりしたいだろ?」
地面から腰を浮かせたリアムの腕をつかみ、俺は慌てて言った。
「ちょっと待て。まだカノンの話が終わってない」
「カノン? ああ、そういやさっきから何か様子がおかしかったよな、お前ら。何かあったのか?」
地面に座り直したリアムをじっと見つめ、俺は尋ねた。
「リアムから見た、今日のカノンの様子を教えてくれないか?」
「そう言われてもな……。別にいつもと変わらないっていうか」
首を傾げ、リアムは言った。
「あ、でも。朝、俺たちをわざわざ起こしに来たのは、ちょっとびっくりしたかな。いつもはそんなことしないし、結局、特に用事があったわけでもなかったし」
そういえば朝、俺が同居人の動向を気にかけたときには、すでに部屋にいなかった。リアムたちの部屋に行っていたのか。もしかしたら、中庭修復関係の記憶改変は、すでにこの時点でやっていたのかもしれない。いくら過去が変容しているにしても、それは水のカノンに関すること限定という可能性が高い。そもそも今朝、リアムやトリーが俺たちの部屋を覗きに来たのはおかしなことだった。本来の時間軸ではなかった出来事だし、普段も特に用事がなければそんなことはしない。あれも水のカノンの仕込みだったのだろう。
俺とラチカは改めて、先程は触れなかった今朝の異変についてリアムに語った。銀の髪と青い瞳を持ち、傲岸不遜な振舞いをするカノンにそっくりな奴の言動、そしてそのことを全く関知していないかのような周囲の反応。さらにトリーと、中庭修復に関する記憶の改変について。
「目の前で羽虫呼ばわりされても、お前らはまるで何も聞こえていないかのようだった。すぐ隣にいるセレストも、俺たちが罵られているのをただにこにこして見ているだけで、あの光景は本当に怖かった。実際、リアムはあの時のことを、どういう出来事として覚えているんだ?」
例の無表情で俺たちの話にじっと耳を傾けていたリアムは、再び思案に耽るように目を閉じ、それからしばらくして深々と息をついた。
「何というか……さっきの話より、こっちのほうがずっと厄介だな」
「それは……」
俺を遮るように手を上げ、リアムは言った。
「ちょっと待て。俺もまだ混乱してる。考えを整理する時間をくれ」
「わかった」
リアムは再び目を閉じ、しばしの間、自らの思考を捻くり回しているようだったが、ようよう見切りをつけたように口を開いた。
「……まず、お前らの言う水のカノンについてだが、確かに、ラチカの記憶の断片では俺にもはっきりと視えた」
「おお!」
「ただ! 俺の中にある記憶の断片を視ると、カノンを中心に靄がかかっているみたいになっていて、完全にぼやけている。そしてさっきまで、俺は今朝もいつものように光の民であるカノンと話をしたと思っていた。ちゃんと、話した内容とかも、覚えているつもりだった! けど……そのぼやけた記憶の断片を視たあとから、いろいろとはっきりしなくなって……今はもう、今朝あったはずのことが、よく、思い出せない! 砂が、手のひらからこぼれていくように、あったはずのものが崩れていく。それが最初、どんな形をしていたのか、思い出せないんだ……。すごく、気持ち悪い」
俺とラチカは素早く視線を交わした。ラチカが、思案深げに呟く。
「……恐らく、あいつにとって都合のいいように、一時的に認識操作されていたんだろう。もしかしたら、玄関ホールで記憶の断片を視れば、さらに水のカノンに関する認識阻害が薄れるかもしれない。場所に残る記憶の断片、そこに嘘はないはずだ。そして正しい情報が積み重なれば、リアムの記憶の靄も少しずつ晴れていく可能性はある」
「なるほど!」
俺たち三人は取り敢えず裏庭を後にし、すぐさま玄関ホールへと向かった。リアムはいくつか記憶の断片を視たものの、途中でこれ以上の能力の使用は無理だと判断し、俺たちは水場でそれぞれ顔を洗ったり、身支度を整えながら無言で考えに沈んでいた。
リアムによると、玄関ホールに残る記憶の断片では、俺たちの言う通り水のカノンが視えたらしい。だが、それだけではリアムの認識阻害に変化はなかったようだ。つい焦っていろいろと次の対策を講じたくなったが、リアムに負担がかかるのは本望ではない。少なくともリアムも現状の把握はしているし、認識阻害については時間を置いて経過を見ていくことにした。
「取り敢えず、食堂に行くか。さっきから能力を使ってばっかで腹減った。エクトルとトピアスと合流する前に、もうちょっと何か食っときたい」
リアムの言葉に、俺とラチカも頷いた。
「そうだな。俺ももう少し腹に入れておきたい」
「俺は心の平安のためにも、糖分を摂取しておかないと」
食堂に向かおうと、水場から出た瞬間、廊下の先にいる人物が目に入り、俺たちはビクリと立ち止まった。
──水の、カノン…………どうして、ここに…………。
体が硬直する。息が、できない。
が、その時。俺のすぐ横でバタリと大きな音がした。
「まったく、羽虫の分際で俺に抗おうとするからだ。面倒なことこの上ない」
水のカノンの凍り付くような声音を耳にしながら、俺は半ば呆然と隣に目をやった。
リアムが、倒れている。虚空を宿した瞳、弛緩して開いた口元。その姿を見た刹那、俺は自分の体から魂が八割方抜け出たような感覚に、大きくよろめいた。
俺は、この表情を知っている。これは、命の灯が消えた瞬間の顔だ。シャル、そしてラチカも同じ顔をしていた。何より、水の民の能力で否応なく感知してしまった。この肉体の中で常に勢いよく巡っているはずの血液が、緩やかに……緩やかに……止まっている。血液を全身に送り出すために動いているはずのポンプが、心臓が、すでに活動を停止しているからだ。
俺は、目の前が真っ赤に染まった気がした。
「っ────────────!!!!!」
……はっきり言って、その後の記憶がない。気がついたら、俺はラチカに羽交い絞めにされ、目の前にいる水のカノンに向かって両手を滅茶苦茶に振り回していた。
「……このっ、このっ、クソがぁあぁあぁあ………………っ!!!!!」
怒りに我を失って、これほどの暴挙に出たことは、本当に初めてだ。まさか俺にこんな一面があったとは、自分でも後々びっくりした。ただただ怒りに呑まれ、思考すら放棄して力任せに暴れていた俺が、あまつさえラチカを蹴り飛ばし、恐怖の塊でしかない水のカノンにつかみかかるなんて。
けれど、俺の手が水のカノンに届くことはなかった。その前に、水のカノンの人差し指が、俺の額に触れた。軽く、ほんの微かに。
それで、終わりだった。俺はそのまま座り込み、体のどこにも力が入らなくなった。
「これだから、羽虫は扱いに困る」
侮蔑するような声を残し、水のカノンが去っていく気配がした。
ようやく俺が顔を上げられるようになったときには、すでに水のカノンの姿はなく、あれほど沸き立っていた怒りすら抜き取られてしまったように、この身がスカスカに感じられた。
俺は、のろのろと振り返り、友人の亡骸を見やった。ラチカがすでに傍らにいる。きちんと整えてくれたのだろう。軽く目と口を閉じたその顔は、何故かとても穏やかだ。
実際、嘘みたいだった。本当に、眠っているだけに見える。今にも呼吸の音が聞こえそうな気がする。これで死んでいるなんて、信じられないくらいだ。あまりにもあっけなく、まだ、何が起こったのか、どうしても理解できない。そのくせ、胸の奥底から吹き出すように、嗚咽が脳天をついた。
「……リアム…………っ」
俺の目から、ぼろぼろと大量の涙が溢れた。
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