第13話 腐女子、友と再会する
……………………はず、だったのに。
俺は、再び目を覚ました。見慣れた石造りの天井が目に入る。ここは伝導の館にある俺の部屋、いつものように自分のベッドで朝を迎えた……かのようだったが。
恐怖に全身を縛り付けられたように、俺は硬直したまま微塵も身動きできなかった。冷や汗が、どっと噴き出る。心臓が、バクバク鳴っている。呼吸が、浅く、早くなっていく。俺の意識はまだ、地面が崩れ、宙に放り出されてから、幾ばくも経っていない。そのまま意識を失って、次の瞬間に目が覚めた、という感じだ。まるで、悪い夢でも見ていたような。
だが、俺の記憶にある経験は全て、ものすごく、リアルだった。鼓膜が破れそうなほどの崩落音、激しい揺れ、途切れた地面の先に広がる何もない光景……いや、崩れゆく剥き出しの世界。何もかもはっきり、詳細に思い出せる。何より、舞い上がる土埃を否応なく吸い込む息苦しさ、口の中に残るじゃりじゃりした砂の味、左肩の焼けつくような重み、左腕が不自然にぐにゃりと曲がるときの気持ち悪さ、そして半身が潰れる瞬間の世にもおぞましい感覚……。
「っ…………………………!!!!!」
大きく見開いた俺の目には、恐怖しか映っていなかった。今にも発狂しそうな叫びが喉を切り裂く、という瞬間、あたかも世界の終わりを告げるかのような鐘の音が鳴り響いた。そう……まさに俺の半身が潰された瞬間のように。
多分、俺はそのまま気を失ったのだろう。次に目が覚めたとき、館中で朝の支度に勤しむ様々な音が俺の耳に届いた。石造りの廊下をパタパタと足早に歩く音、早くしないと先に行くぞと同室の者を急かす声、穏やかで、平和な、いつもの生活音。
俺はベッドに寝転んだまま、ゆっくりと息を吸い、全身を巡る水分に意識を乗せた。そして静かに、細く長く息を吐き出しながら、己の状態を丹念に確かめた。どこにも怪我などしていない。体中にあったはずの打撲、左肩から腕にかけての粉砕骨折、潰れた半身、そんなのはただの妄想であるかのように、俺の体は健康そのものだった。
ゆっくりと、何度も静かに呼吸を繰り返し、俺は改めて目を開けた。見慣れた石造りの天井。まず右手を軽く握り、それから恐る恐る左手に力を込めてみた。軽く握り、手を開き、それを何度か繰り返したあと、俺は両手を目の前にそっと掲げてみた。きれいなものだ。瓦礫に触れてついたたくさんの細かい傷も、乾いた血も、指紋や爪の間に入り込んでいた黄色い土埃も、一切ない。
自分の心が落ち着いているか常に気を配りつつ、俺は右腕、それから左腕の様子を確かめた。ちゃんと動くし、痛くない。一つ、大きく息をつき、俺は慎重に上半身を起こした。最初は少しずつ、己の体の隅々まで手をやり、目で確かめ、俺は間違いなく全身どこも怪我をしていないことを自分に理解させた。左肩、左腕、そして足もちゃんと動く。どこも潰れてないし、痛くないし、血も出てない。皮膚も変色していない!
「……………………ふ、……………………ふふっ、……………………ふははははははっ」
突如、笑いの発作が沸き起こり、俺は腹を抱えて笑いこけた。狂ったように笑って、笑って、笑って、それなのに、気がついたら俺は体を丸めて泣いていた。泣いて、泣いて、泣いて、ようやく泣くのに疲れたころ、俺はベッドからゆらりと起き上がった。
……着替えよう。それから、一階に降りて水場で顔を洗おう。そうすれば、きっと目が覚める。恐ろしい悪夢も緩やかに穏やかな日常に融けて、いつかやがて忘れ去られるだろう。
そして俺は初めて、同じ部屋にあるラチカのベッドに目をやった。俺が一人で大騒ぎしている間、ラチカはどうしていたんだろう。が、そこはもぬけの殻だった。俺の奇行に怯えて逃げ出した……という可能性もなくはないが、恐らくは単にトイレに行っているとかだろう。ラチカは自分の朝が早い時でも、部屋を出る前に必ず俺に声をかけてくれる。というか、そもそも今は一体何時ごろだ? さっき俺を気絶させたのは、朝の鐘だと推測していたが……。
その時、蛇の中刻の鐘が鳴り、俺はびくりと身を竦ませた。急速に血の気が引き、心拍数が上がる。呼吸が否応なく浅く、早くなっていくのを、俺は力業で強制的に停止させた。一瞬だけ、全身の筋肉を全力で緊張させ、すぐに弛緩させて一気に脱力する。まだ恐怖の余韻は消えないが、その場で軽く飛び跳ね、血液の巡りをよくする。
大丈夫、俺は大丈夫だ。まったく……腐女子時代と合わせても、これほど真に迫った怖い悪夢は初めてなんじゃないか? 何にせよ、上からも下からも漏らさなくてよかった。実際、いろいろヤバかったしな……。本当によく耐えた、俺。
脳内で軽口を叩きながら自分を労っていた俺は、ふと、違和感を覚えて飛び跳ねるのをやめた。
……何だろう? 何か重大なことを見落としている気がする。目に映る何かか? ラチカのベッド? いや、違う……。
違和感の正体に気づいた瞬間、俺は再び全身の血が凍り付く想いをした。ラチカのベッド……じゃない。その枕元に置かれた細々としたものには見覚えがある。小さな綺麗な石、それから可愛らしい布のぬいぐるみ。あれはカノンのものだ。
心臓が、内側から俺の胸を乱暴に叩きまくる。痛い。見る見るうちに不安が募っていく。全力で拳を握り締め、過呼吸にだけは陥らないよう意識しながら、俺はそこに目をやった。ベッドの使用者が置いたであろう、机の上の楽器。それは乳白色の笛などではなく、紛れもないカノンの竪琴だった。
俺はパッと自分のベッドの枕元に目をやった。カレンダー、を見るつもりだった。本当は。だが、その前に、カレンダーの横にある絵が、俺の目を射抜いた。
トリーにもらった絵。中庭修復完了祝いの親睦会にもらったときのままだ。俺とカノン、リアムとクルスとギュスター、淡い色で彩られた五人の姿。修復してもらったときに描き足されたはずの、トリーとラチカの姿がない。というか、そもそもどこにも破られた形跡がない。けれどその状態で俺の枕元に飾られていたのは、たった一日だけ。親睦会の翌日の夕方までだ。
それ以外の答えはないと知っていながら、俺は恐る恐る自作のカレンダーに焦点を合わせた。石板には新しく照の月と記されているだけで、いつも寝る前につけている×印は一つもない。つまり今日は照の月の一日目、炎の週の炎の日、俺がカノンとケンカ別れをした日だ。しかしまあ、自由に書いたり消したりできるカレンダーより何より、絵の状態がその事実を如実に物語っている。
俺はぎゅっと目を瞑り、全力で自分の体内の水分に意識を集中し、緩やかな流れを保つようコントロールした。慌てるな。落ち着け。俺は大丈夫だ。今度こそ、完全にパニックに陥る前に冷静さを取り戻すと、俺は自分が今置かれている状況について考察を始めた。
まず考えられるのは全て夢だったという、最も面白くないが、最も平和で、最も俺が望むオチだ。俺は昨日の夜、中庭修復完了祝いの親睦会をしたあと自分の部屋で寝て、さっき起きた。ただそれだけ。ラチカやオルカとの出逢い、カノンとのケンカ、光の降臨祭をみんなで見て回ったことも、世界の崩壊も、全て単なる夢だった……と思いたい。が、さすがにそれは無理がある。
あれほど詳細で鮮明な夢、俺は今まで見たことがない。腐女子時代の記憶と比べても、遜色ないほどの生々しさだ。一歩譲って、あれは予知夢だった……という可能性はある。その真偽も、今日の夕方までにははっきりするはずだ。ただあれが予知夢だった場合、俺はどうしたら防げるのか全く見当もつかない難問、世界の崩壊を止めるために奔走しなければならないだろう。そして失敗したら今度こそ死ぬ。
が。
それより恐ろしい展開があることを、俺は知っている。あくまでも二次元のファンタジーで、フィクションで、リアルでは全くあり得ない、ゲームのようなお話だが、今のこの状況に酷似したシチュエーションを、俺は見たことがあるのだ。
その物語において、とある異世界に転移した主人公は様々な災難に遭遇し、死ぬ。だがそのたびに分岐点である過去に強制的に戻され、その死を回避するまでタイムリープが永遠に繰り返されるという、鬼畜仕様の一品だ。小説が原作らしいが、アニメで、しかもご丁寧に詳細な内面描写までしてくれると、あの展開はかなりえぐかった。そういう場面に限ってやたら作画いいし、カメラワーク凝っててぬるぬる動くし、声優さんの演技も真に迫っていて、もう見ているだけで、うわあぁあぁあ!!! と悶えまくった記憶がある。
一応、その主人公は何度も何度も何度もグロい死に方をして、狂ったり立ち直ったり拗らせたり開き直ったり悟ったりしながらも、最終的には一つ一つ問題をクリアしていたが、俺は一視聴者として傍観しているだけなのに、メンタルにかなりのダメージを食らった。断言してもいい、俺にはあの主人公はとてもじゃないけど務まらない。
さっきのは夢……かもしれないし、すでに一度死んで転生済みじゃないかと思う方もいるだろうが、そもそも最初のは病死だし、いつ死んだのかも覚えていない。それに例え夢だったとしても、左腕や半身が潰れたときのおぞましい感覚はあまりにもリアルで、今も少し気を抜いただけで吐きそうなほど怖い。あれを実際に何度も繰り返すなんて、俺には無理だ。一度発狂したら、多分戻れない。その自信がある。でも、俺はそれで構わない。死は克服できるものでも、するものでもないと、以前どっかの誰かさんが仰ってたもん! ……多分。
ともかく、あれが夢ではなく、全て実際に俺が経験したことであり、死によって過去に戻った……のだとしたら。それを実現できる人物として、この世界で思いつくのはただ一人だけだ。オルカミル、伝説の英雄であり、この光の都では時の剣士とも呼ばれている、闇と水の混じり者。漆黒の長い髪と青い瞳を持つ、不老不死の美青年。そしてよく似た容姿と名前を有するオルカは、何故かこの俺に好意を抱いてくれていた。
少なくとも俺が転生者であることは間違いないし、時を操ることができる英雄が存在するならば、タイムリープという現象も、伝説が実現するリアルにファンタジーな世界では、あり得なくもないのかもしれない。
だが、これから一体どうしたものか……。今の俺の状況は、いわば大したチュートリアルもないまま、始まりの村からいきなりラスボスのいるダンジョンの前に放り出されたようなものだ。俺が知る世界の崩壊は約二週間後。心強い仲間はいるものの、それはあくまでも日常生活において、という話だ。
世界の崩壊を防ぐという超高難度クエストを受けるには、どう考えてもレベル上げが足りてないし、俺も転生者特有のチートスキル一つ授けられていない。異世界で無双できるような前世由来知識すらない。……これはまあ、何一つ極めることなく生きてきた、怠惰なる俺のせいだが。
天才でもない俺に考えられるのは、せいぜい無難な行動を取りつつ、身近な問題を一つずつ解決していくことくらいだ。これは最悪、無限ループ惨死ルートの可能性が高いのだが、今のところ俺に他の選択肢はない。取り敢えず、今後の展開について慎重に様子を見ながら、目下としては、カノンとのケンカ別れだけは何が何でも阻止したいというのが、現時点における最大にして細やかな俺の野望だ。
とはいえ、ここが過去なら今日はオルカに逢えるはず。いろいろと問い詰めれば、この難題の攻略に役立つ情報も引き出せるかもしれない。タイムリープを引き起こした本人なら、俺と同じように世界の崩壊に関する記憶だって保っているだろう。俺が初めてオルカに逢ったのは夕方、中庭でのことだったが、できればその前に話をしたい。可能なら、オルカがセレストを訪れるよりも先に。
とにかく、今は俺に考え得る限りの手を打たないと! まずは正確な状況判断、全てはそれからだ。
急いで着替えを済ませ、部屋を出ようと扉に手を伸ばした俺は、けれどその瞬間、廊下側から扉が開かれ、その場に立ち尽くした。多分、もともと銀色じゃなかったら、一瞬で俺の髪は真っ白に変わっていたに違いない。それくらいの恐怖に、俺は打ちのめされた。
「っ────────────!!!!!」
部屋の扉を開けたのはカノン…………にそっくりな顔立ちで、銀の髪と青の瞳を持つ、俺と同じ水の民だった。が、俺を心底恐怖に陥れたのは、そこじゃない。彼の、表情だ。目が合った刹那、冷徹な嘲笑を含んだ眼差しに射抜かれ、俺は足が震えた。
誰だ、これは。
威圧感、に押されるように、俺はよろよろと後ずさった。まるで出会った瞬間、頭をぶん殴られたかのような衝撃に、脳が震える。込み上げる吐き気に、座り込みそうだ。彼の前にいるだけで、自分の中から大切な何か……生命が奪われていくような、恐怖。見えない手で喉が締め上げられているかのように、息が苦しい。
彼、はその俺の様子を見て取ると、いたぶるべき獲物を見つけたように、唇を歪めた。
「……そうか。やはりお前か。俺のものを奪ったのは」
それは、あなたの心ですか? などと軽口を叩いて、虚勢を張ることすら、その場では思いつくこともできなかった。
彼の手が、俺に向かって伸びる。それだけで、死を予感した。なのに、俺は息もできず、ただ、見ていることしかできなかった。
が、その時。
「おい、カノン。何やってんだ? あいつはまだ寝てんのか?」
ひょい、と彼の後ろから、リアムが顔を出した。
やめろ! リアム、そいつから早く離れろ! 逃げ……!
「いや、ちょうど起きたとこらしい。何か寝ぼけているようだ」
声にならない俺の叫びを遮るように彼は答え、伸ばした手で俺の左肩に触れた。それから肘の辺りまで軽く指をなぞらせ、彼は満足そうに目元を歪めた。
「……本当に、よかった。お前が無事で。危うく、全てが終わるところだった。お前のおかげで。だが、あいつらはお前のことを気に入っているみたいだからな。俺も、お前を傷つけることはしない。優しく、してやるよ」
カノンと同じ、我が最愛のあゆゆんボイス。だが、キャラが全く違う。まるで正反対だ。低音で、落ち着いた、しかし陰険な響きを乗せた声。表情もだけど、十歳児のそれじゃない。何より、わざわざ俺の左腕に触れながら、潰れていないことを示唆してきた。一度世界が崩壊したことを知っているぞという、俺への挑発だ。
瞬間、俺は自分の思い込みを痛切に味わった。ここは俺の知っている過去、そのものじゃない。俺の知る世界から分岐し、派生したパラレルワールド……いわゆる平行世界でもない。恐らくは俺の知っている過去が、タイムリープ後に変容した世界。変容、させたのは、俺の目の前にいる、カノンによく似た彼だ。今のところ、それ以外には考えられない。
ここが、元は俺の知っている過去だと思う根拠、それはたった一つの儚い物証だ。さっき、俺が今いる時間を正確に教えてくれたトリーの絵。そこに描かれていたカノンの髪は、淡い黄色で彩られていた。そう、もともとこの世界にいたカノンは、金の髪と緑の瞳を持つ光の民だったのだ。変容させられる前は、多分、俺の知るカノンのままで、ヤキモチを拗らせて俺とは口もきいてくれなかったはずだ。
それなのに、リアムはこの部屋に入ってきたとき、銀の髪と青の瞳を持つ彼を、当然のようにカノンと呼んだ。この水の民の姿をしたカノンに関わることだけが、明らかにおかしい。
一番の問題は、この水のカノンの正体は何かということだ。カノンの体を何者かが乗っ取り、その副作用で髪や瞳の色が変わってしまっているのか。それとも水の性質を帯びた何か……例えば魂の誘い人やいにしえの彷徨い人、この世界での化物のような存在が、カノンの姿に変化しているだけなのか。その場合、本物のカノンはどこに……。
「心配しなくても、俺はここにいるだろ?」
まるで俺の心を読んだかのようなタイミングで、水のカノンに顔を覗き込まれ、俺は本当に心臓が止まりかけた。息を呑んで硬直した俺を見ると、水のカノンは満足そうに意地悪な笑みを浮かべた。
「ふ……いいね。お前は本当に可愛いな。俺が怖くてたまらないのに、懸命に抗おうとしている。まるで水の中で藻掻く羽虫みたいだ」
そして頭を撫でようとするかのように伸ばされた彼の手を、俺は今度こそ払いのけた。本当は、彼の言う通り、怖くて怖くて堪らない。彼の手を払いのけた瞬間、触れたところから明確な死のイメージが伝わってきた。それはあたかも、襲い来る野生の熊の一撃を、人間が手で振り払おうとしたような。
目の前にいる相手の正体が何かわからなくとも、実際に俺がしたことは、それ以上に無謀な行為だったろう。恐らく彼は熊のように触れるまでもなく、俺を八つ裂きにできる。何の根拠もないはずなのに、感じるのだ。彼に逆らってはいけない。大自然を前にしているかのような、本能的な恐怖。
いや……これは畏怖、だろうか。荒れ狂う大海原に、このちっぽけな身一つで立ち向かおうとしているような、無力感。為す術もない絶望。彼がさっき口にした例えは比喩ではない。彼がそこにいるだけで、その存在感の大きさに押しつぶされそうだ。息もできないほどの圧迫感に、俺は喘いだ。
「おい、シルヴァ。大丈夫か? 何か顔色悪いぞ」
リアムの声が耳に届いた瞬間、俺は息苦しいほどの圧迫感から解放されたのがわかった。冷や汗がどっと噴き出る。痛いほど、鼓動が胸を打つ。たった今、全力疾走を終えたばかりのように荒い息をつきながら、ちらりと視線を投げると、彼は楽しそうに冷笑を俺に向けた。
と、その時。
「ちょっと。お前たち、いつまでそんなところでもたもたしているの? 朝ご飯を食べる時間がなくなっても知らないの!」
不意にトリーの声がし、俺はパッと扉のほうに顔を向けた。トリーなら、この異常事態に気づいてくれるかもしれない! が、俺の淡い希望は、すぐに打ち砕かれた。
「カノン、早くしないと席が埋まってしまうの。みんな一緒に座れなくなるの」
「わかったよ、トリー。今行く」
水のカノンは、ぞわりと絶望に染まった俺の顔を満足げに眺めると、トリーと一緒に歩き出した。
「あ、カノン! ちょっと待てって! ったく……せっかちな奴だな」
リアムは軽く嘆息すると、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「シルヴァ。取り敢えず医務室にでも行くか? 俺がついてってやるからさ」
俺はリアムの顔をまじまじと見つめた。こうしていると、俺が知っているいつものリアムだ。カノンのこと、話してみるか? でも……。
「リアム、来ないなら先行くぞ!」
水のカノンの声に、リアムは迷うことなく返事をした。
「だぁあ、すぐ行くって! ほら、シルヴァ。歩けるか?」
差し出されたリアムの手を、俺は咄嗟に握ることができなかった。
「だ……大丈夫。ありがとう。でも、一人で歩けるよ」
震えているのを隠すように、俺はぎゅっと自分の両手を握り締めた。そのままリアムの後について歩き出そうとした俺は、けれどハッと息を呑むと、急いで身をひるがえし、あるものを素早くポケットに入れた。
それから何食わぬ顔でリアムと共に廊下に出ると、少し離れたところに水のカノンとトリーが待っているのが見えた。クルスとギュスターもいる。
「おお、やっと来たか」
「腹減った~」
手を振ってくれたクルスとギュスターにぎこちない笑みを返すと、俺はさりげなくポケットの中のものを確かめるように上から抑えた。瞬間。
「心配しなくても、お前の大切なものを奪ったりしないよ。俺はね」
できるだけそばには寄らないようにしていたはずなのに、突如として俺の耳元に彼の声が吹き込まれた。びくりと蒼白な顔で立ち止まった俺に、大きく唇を歪めてみせると、彼はするりと先頭に立って廊下を歩き出した。
「シルヴァ。どうかしたか?」
不思議そうな面持ちで問ったリアムに、俺は懸命に笑みを形作ってみせた。
「……何でもない」
結局、移動している間もずっと観察を続けたが、周囲の誰一人として、水のカノンに違和感を持つ者はいないようだった。廊下ですれ違う知り合いも、当然のように水のカノンに挨拶をしている。親しげで、怖がる様子も全くない。その事実を目の当たりにすればするほど、俺は目の前が暗くなっていく気がした。
ここに、俺の味方はいない。誰も、水のカノンの恐ろしさに気づかない。一体、どうしたら……。
「それにしても、トリーまで寝坊するとは、珍しいですよね」
水のカノンの言葉に、トリーは肩を竦めて言った。
「昨日は遅かったから仕方ないの。お前だって、消灯時間ギリギリまで喋ってたの」
「やっと中庭の修復が終わって、嬉しかったんですよ。俺たち、みんなで頑張りましたから」
「確かに、あんなに体動かしたのは久しぶりだったからな~」
「最初の頃は毎日筋肉痛で大変だったよな~」
クルスとギュスターが水のカノンに同意し、俺はさらにぞっとした。どうやら水のカノンは中庭修復完了祝いの親睦会に出席していただけでなく、一緒に作業までしたことになっているらしい。トリーに至っては、まともに話したこともなかったはずなのに、まるで以前から親しくしていたかのような物言いだ。いくら二人に仲良くして欲しいと願っていた俺でも、全く喜べない。名前を口にするのも嫌だと癇癪を起し、トリーの絵を破り捨てたカノンを想うと、不自然にも程がある。
みんなの記憶は一体どこまで改変されているんだろう。何もかも、全てが彼の思い通りになるのだとしたら、俺にそんな奴と渡り合う術などあるのだろうか。
「おお、みんな。時授かり。今日は随分ゆっくりしておるの」
けれど階段を降り、一階に着いたところで、さらなる絶望が俺を打ちのめした。朝食を終えたセレストと遭遇したのだ。すでに出会う人みんなの反応を見て、わかっていたことだった。それでも、改めてその事実を突き付けられると、想像以上にショックだった。
「セレスト。この時を授かり光栄です」
「うむ。カノン、また授業でな。みなも授業に遅れないよう気を付けるのだぞ」
「はい、セレスト」
わかっていたはずだ。でも、十年間カノンと一緒に過ごしてきたセレストまで、この異常事態に何の疑問も抱かないなんて。
「シルヴァ」
「は……はい!」
不意に名前を呼ばれ、俺はセレストをパッと見上げた。もしかして……。
「顔色が悪いようだが。大丈夫かね?」
……一瞬、期待してしまった。その俺が悪い。けれど。
「……はい! ちょっと昨日遅くて、寝不足で。お気遣いありがとうございます」
「……ふむ。今日は早く寝るのだぞ」
「はい、そうします」
どうしよう。早く行ってくれ。精一杯の笑顔も、もう限界だ。語尾が、すでに震えてた。大切な人たちに囲まれているはずなのに、ここにはもう、俺の居場所はない。崩壊していく世界を目にしたとき、これ以上の絶望はないと、俺は思っていた。でも、そんなことはなかった。
リアム、クルス、ギュスター、トリー、セレスト。みんな、俺が知っているまま、どこも変わっていない。優しくて、俺の大切な人たち。それなのに。
あの水のカノンのクソ野郎。何が、お前の大切なものを奪ったりしないよ、だ。何よりも大切な友人たちを、その心を、すでに完膚なきまでに俺から奪っているじゃないか。ここはもう、俺の居場所じゃない。
くそっ! どうして、俺だけが洗脳されていない? それとも、俺のほうがおかしいのか? いっそ、俺もみんなと同じように……。
バン! と正面玄関の扉が開き、朝の清々しい風が、俺の全身をなぶるように吹き抜けた。もやもやと周囲に立ち込めていた黒い悪夢を、一気に吹き飛ばすかのように。あたかも、天から差し込む祝福の光のように。
そこに立つ人物を目にした瞬間、俺は確信した。希望はある。俺の居場所は、まだ失われていない。
「っ………………………………!!!!!」
声に、ならなかった。その名を口にしたら、消えてしまうのではないかと思った。一度、すでに失って、二度と、その顔を見ることは叶わないと、諦めていた。逢えたとしても、それはもう俺の知っている人ではないと、俺と同じ記憶を持っているはずがないと、そう思っていた。でも……。
気づいたら、俺は走っていた。そして、同じように俺に向かって走ってきたその人に、飛びつくように腕を伸ばしていた。
「……ラチカ………………っ!!!!!」
勢いよく抱き着いた俺の体を受け止めると、反動を受け流すようにその場でぐるりと一回転し、ラチカは俺をきつくきつく抱きしめてくれた。
「ラチカ……! ラチカ、ラチカ、ラチカ………………っ!!!」
ぽろぽろぽろぽろ、涙が溢れて止まらなかった。
温かい。生きている。優しくて、懐かしい、ラチカの匂い。どこも、潰れていない。息をしている。鼓動が聞こえる。ちゃんと、生きている!!!
「…………シルヴァ…………っ」
扉が開いて、目が合った瞬間から、わかっていた。俺に向かって走ってきて、ちゃんと俺を抱きとめてくれた。それでも、その唇から俺の名前が紡がれるのを耳にして、俺はやっと心から安堵した。
覚えている! 俺のことを覚えている! この時間軸において、本来ならまだ逢っていないはずの俺のことを、ラチカはちゃんと覚えている!!!
「よかった……無事で。どこも、怪我してないよな? 俺のこと……ちゃんと、覚えてる、だよな?」
最後、どうしようもなく不安に揺れたラチカの茶色の瞳をまっすぐ覗き込み、俺は断言した。
「覚えてる! 俺は、ちゃんと覚えてるよ! 全部……全部!」
伝えたいこと、伝えなければならないことが多すぎて、言葉にならない。あらゆる想いを込めて、俺はラチカを見つめた。
が、俺がそれ以上続けるより早く、冷酷な声が響いた。
「……何だ? お前は。こいつらと同じ羽虫の分際で、俺の支配下にないとは」
静かな、傲岸不遜な声音。だが、恐ろしいことにそれに相応しいだけの、圧倒的な力の差が水のカノンには感じられた。服の上からでも、ラチカの筋肉が硬直したのがわかる。見上げると、水のカノンを目にしたラチカの表情が、恐怖に強張っていた。
俺だけじゃない。ラチカも、水のカノンが異常な存在であると、一目で気づいた。それなのに。
周囲に目をやると、誰も俺たちのことを気にしていない。いや、水のカノンから少し遅れて、俺たちのほうにやって来るリアム、クルス、ギュスター、それにトリーにも、まるで緊張感がない。セレストに至っては、まるで微笑ましい光景でも見ているかのように目を細めている。
リアムは兄の顔の傷のことでラチカと和解する前だし、不機嫌な顔を隠そうともしていない。クルスとギュスターは、俺とラチカの関係に疑問を抱きつつも、ぶすっとしたリアムの様子を慎重に窺っているようだ。そしてトリーはというと、人目も憚らず感動の再会を繰り広げている俺とラチカに、呆れた顔をしているようだった。
水のカノンは俺たちの前までやって来ると、ラチカを射抜くように目を眇め、それからすぐに唇を大きく歪めた。
「ふっ……そうか。お前、隠れ人の末裔か。お前もこの羽虫どもが蔓延る俗世に弾き出されたわけだ。こいつのせいで」
冷徹な青い眼差しが、まっすぐ俺を貫いた。どういうことだ。俺のせい、とは。
だが、俺がその疑問を口にする前に、リアムたち一行が到着し、セレストがにこやかに言った。
「ラチカ、久しいのう。無事で何より。一緒に行ったパユはどうした。研修は順調に進められたのかね?」
緊迫感をぶち破るセレストの如何にものどかな言葉に、ラチカはぎょっとしたように目を見開いた。それから、平和な日常に身を置いたままのリアム、クルス、ギュスター、トリーの表情に目をやり、剣呑な存在感を放つ水のカノンへと視線を移すと、最後に俺を見た。
カノンの髪や瞳の色が異なっているという事実以上に、俺たちを見下した不遜な言動は、近くにいるリアムたちも見て、聞いているはずだ。全てに対し傲慢なその態度は、特に指導者という立場にいるセレストから見て、とても看過できるレベルではない。けれど、その事態を完全に無視しているという、異常さ。友人たちはきっと、目の前で俺が水のカノンに殺されて、その返り血を浴びても、気づかずに微笑んでいるだろう。
俺が、血の気の引いた顔で小さく頷いてみせると、ラチカは一瞬で状況を理解したように、きゅっと唇を引き結んだ。ゆっくりと息を吐き出し、呟く。
「……なるほどな。さすがのお前も取り乱すわけだ。一人で、よく頑張ったな」
思いがけない労いの言葉に、俺は涙腺が再び崩壊しそうになるのを、懸命に堪えた。まだ、何も終わっていない。始まってすらいない。
ラチカはぐっと拳を握り締めると、覚悟を決めたように顔を上げ、穏やかな口調でセレストに言った。
「……パユは、ちょっと道中で腰を痛めてしまって。今はまだ都の宿屋で横になっています。俺一人では館まで連れて帰れそうにないので、人を呼ぶために一足先に帰ってきました」
「おお、そうか。それはご苦労だったの。エクトルとトピアスに、パユを迎えに行ってもらえるよう、私から頼んでおこう」
「ありがとうございます」
「朝食は食べたかね? エクトルとトピアスに声をかけてくるから、それまで食堂で待っていなさい。悪いが、ラチカは二人が来たらパユのいる宿屋まで案内しておくれ。帰ったらすぐ診察してもらえるよう、医務室にも私から話を通しておく」
「わかりました。お願いします。あのっ、それから……」
「何だね?」
少し躊躇ったあと、ラチカは意を決したようにそれを口にした。
「その、急いでいたので、俺も荷物を宿屋に置いたままで……パユの荷物もあるし……シルヴァも一緒に来て、いろいろ、手伝ってもらってもいいですか?」
「……ふむ」
セレストは瞬きを一つし、それからラチカから離れようとしない俺を見て悪戯っぽく微笑んだ。
「まあ、よかろう。長旅で疲れたろうし、シルヴァ、ラチカを手伝っておやり。帰ったら、二人で私のところに報告においで。わかったかの?」
「はい! セレスト、ありがとうございます!」
この提案はラチカにとって一つの賭けだったはずだが、まだ気を抜けないのも確かだ。俺を独りで置いていくまいというラチカの決死の機転を、セレストは単なる微笑ましい友情の一端と理解し、快諾してくれた。対応としては、いつものセレストと変わらない。やはり、水のカノンに関することだけが正常に認識されていないのだ。
とはいえ、水のカノンがこの展開を気に入らなかった場合、方法を問わずセレストの了承が撤回されるのも時間の問題なのだが……。
「気に入らないことなんてないさ。何もね」
ギクリ、と俺とラチカは同時に身を強張らせた。水のカノンは俺たちの様子を見ると、楽しげに目を眇め、喉を鳴らすように囁いた。
「同時に同じことを考えるなんて、お前たちは本当に気が合うんだな。そうだ! 俺もお前たちと一緒に行こうかなぁ。大好きなパユにはいつまでも元気でいてもらわないと困る。……光の降臨祭も近いことだしね」
わざとらしく付け加えられた最後の言葉に、俺は心臓がきゅっと縮み上がるのを感じた。すぐ隣にいるラチカの顔色がサッと青ざめたのが、目に映る。やはり、世界の崩壊を引き起こしたのはこいつなのか? それにあの言い方、間違いなく俺たちの心を読んで……。
「ねえ、セレスト。俺もこの二人と一緒にパユを迎えに行きたいなぁ。いいでしょ?」
猫なで声でセレストを見上げた水のカノンに向かって足を踏み出し、ラチカはぴしゃりと言い放った。
「やめろ!」
血の気は失せていたが、敢然と脅威に立ちはだかるラチカからは、どんな相手だろうと決して引かないという揺るぎない意志が見て取れた。その姿はとても頼もしくもあり、けれど同時に、ラチカを再び失いたくないという俺の不安をも、呼び覚ました。
「ラチカ…………」
思わず、ラチカの腕に縋りついていた俺の手に、ぎゅっと力が入る。ラチカは僅かに俺を庇うように身を乗り出しながらも、低く、唸るように続けた。
「……俺たちに構うな。こいつに手ぇ出したら、許さねえぞ」
そう言ってくれるのは、純粋に嬉しい。けど、そのために自分の身を危険に晒すようなことをするのは、やめて欲しい。本当に、心から、ラチカが心配で、怖い。手が、どうしようもなく震える。
「……ふ、ははっ」
不意に、水のカノンは声を上げて笑うと、陰険に唇を歪めた。
「いいね、お前たちは何て可愛いんだ。みっともなくて、愉快で、ずっと見ていたくなる」
瞬間、水のカノンから放たれた激しい威圧感に、俺とラチカは歯を食いしばった。怖い。でも、こんな圧力に屈したくはない!
様々な想いに千々乱れる俺たちに満足したのか、突然、水のカノンは何事もなかったかのように圧迫感を消すと、肩を竦めてみせた。
「……なんてね。冗談だよ。お前には優しくするって、さっきも言っただろう? 心配しなくても、お前たちの感動の再会を邪魔したりしない。次、いつ死に別れるかわからないしね。今日か、明日か、明後日か、それとも運が良ければ、もう少し先かもな」
水のカノンはひらひら手を振ると、俺たちに興味をなくしたように水場へと歩き出した。それはもう、あっさりと。
「おい、羽虫ども。行くぞ」
大切な友人たちに対する扱いに苛立ち、ぎゅっと拳を握り締めたものの、俺には為す術もない。今までのやり取りも、俺たち以外にはどんな言動に映っているのか、皆和やかに水のカノンの後についていく。俺の友人たちは、完全に人質に取られたようなものだ。
「では、私ももう行こう。ラチカ、シルヴァ。またあとでな」
「はい、セレスト」
穏やかな笑顔で去っていくセレストの背中を複雑な想いで見送っていると、不意にラチカが声を張り上げた。
「リアム! お前と……少し話がしたいんだが、いいか?」
唇を引き結んだラチカに、振り返りざま睨みつけるような視線を投げ、それからリアムはちらりと水のカノンに目をやった。
「……先に行っててくれ」
「好きにしろ」
リアムは、どうするか迷っているように目を見合わせたクルスとギュスターに軽く手を振り、こちらに向かって歩き出した。
「クルス、ギュスター。お前らも先行ってろ」
「……わかった」
「……後で」
クルスとギュスターはラチカと俺に視線をやったあと、それぞれ小さく頷き、水のカノンたちと共に水場のほうへと去っていった。
リアムは俺たちの前までやって来ると、何故か俺を一睨みし、それから俺の手元へと視線を移した。その如何にも物言いたげな仏頂面の意味を問うように、俺は視線誘導の先にあるものに目をやった。と、顔がパッと赤くなるのを感じながら、俺は慌ててラチカの腕にしがみついていた手を離した。
「いや、違うんだ! これは、あの……」
水のカノンに対する恐れも、世界崩壊の記憶もないリアムには、ただただ俺がラチカに甘えているように見えるのかもしれないと、唐突に思い至った。というか、水のカノンが視界にいないだけで、こうも簡単に明るい日常生活の感覚に戻れるとは。
今更だが、セレストが俺たちの様子を見てやたら目を細めていたのも、珍しく俺が人目も気にせず感情を露わにしていたからだろう。そもそも今度いつ会えるか知れない家族との別れすら平然と済ませた俺に、これほど懐いている相手がいたのかと、微笑ましさより驚きを覚えても不思議ではない。
一時的とはいえ、恐怖が薄れゆくにつれ、固まっていた思考が動き出し、頬がじわじわと羞恥に染まっていくのを俺は感じた。
ちょっと待って? さっきの俺って、傍から見たら相当恥ずかしい人だったのでは? いや、まあ、俺自身が感情を制御できなかったんだから、仕方ないんだけど! 恐怖と混乱の極みで真っ暗闇に独り取り残されたような精神状態のときに、目の前で死んだばかりの友人が唯一の味方として颯爽と現れたら、誰だって我を失うほど感動するだろ!
ラチカとリアムの視線が突き刺さるのを感じながら、俺は真っ赤に染まっているであろう顔を両手で覆った。
「あうぅ……」
自らの醜態を思い返すにつれ、呻き声が漏れる。
それは、確かにそうなんだけど! 大勢が見ている中、玄関ホールの真ん中で、互いに駆け寄った二人が抱き合って、反動でその場でぐるりと回っちゃうとか! 洋画のヒロイン気取りもいいところだろ! 一体どこのラブロマンスだよ! 二人きりの世界に浸るにも程がある! あぁあぁあ……恥ずかしい! 絶望した!
内心羞恥にのたうち回っている俺を見て、リアムが深々と嘆息した。けれど不意に手を伸ばすと、俺の髪をわしゃわしゃと掻き乱し、頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。
「……ったく、何かよくわかんねえけど、やっといつものお前に戻ったな」
ちょっと照れ臭そうな、でもやっぱり少し不貞腐れたような面持ちのリアムを見て瞬きを一つすると、俺はくしゃりと破顔した。ああ……安心する。リアムはリアムだ。それは変わらない。
とはいえ。
「もう~……髪、くしゃくしゃにすんなよ」
膨れっ面になりながら手櫛で髪を整える俺に、リアムは冗談ぽく言った。
「大丈夫、大丈夫。美少年はちょっとくらい髪が乱れてても、何ら見劣りすることはない。だろ?」
如何にも俺が言いそうなセリフで返してくるとか、俺に対する理解度が深すぎだろ。くっ、さすがリアム。
「う……いや、まあ、確かに俺は美少年だけど」
満更でもない顔で俺がつい頷くと、リアムは能面のような笑みを張り付けて言った。
「そうそう、だからそこは気にすんな。つーか、んなことよりもっと他に、お前は俺に説明すべきことがあるはずだ。なあ?」
「あう……怖い怖い怖い。リアム、わかってる、わかってるから!」
ずいずいずいと物理的に迫ってくる、一見穏やかな面持ちのリアムの圧にたじたじと後ずさりながら、俺は懸命に続けた。
「ラチカとの関係は、ちゃんと、後で説明する!」
「わかってんならいい。……で? 俺に話って何だよ。このクソ野郎」
ラチカに顔を向けた瞬間、周囲の温度が一気に下がる音が聞こえたと錯覚するほど、リアムの表情が冷ややかになった。文句を言いながらも、具合の悪いラチカに肩を貸すほど打ち解けていたリアムを知っている俺からすると、辛い。きっと、当事者のラチカは、俺よりずっと。
心配するように俺が見やると、ラチカは右手を胸にそっと当てた。そしてリアムの前で片膝をつき、恭しく頭を垂れた。この世界における、最上位の敬意を示すお辞儀だ。
「なっ…………てめえ、何を…………」
ぎょっとしたように身を引いたリアムに、ラチカは頭を垂れたまま口を開いた。
「悪かった」
「…………は?」
耳を疑うように、頓狂な声を上げたリアムに向かって、ラチカは静かに続けた。
「お前の兄の顔に、一生消えない傷をつけた。本当に、申し訳ないことをした。今更、こんなふうに口先で謝ったところで、俺がやってしまったことは取り消せない。傷跡が治ることもない。これはただの、俺の自己満足だ。俺を許してほしいわけじゃない。俺を許す必要もない。それでも今、俺は心から、お前と、お前の兄に謝りたい。本当に、本当に、悪かった」
片膝をついたまま、深々と頭を下げたラチカを、リアムはひどく驚きつつも、どこか泣き出しそうな顔で凝視した。
「何で……急に、そんな……。お前は、絶対に謝らないって……」
口にした瞬間、リアムはあれっと戸惑うような色を浮かべたが、下を向いたままのラチカはそれに気づくことなく続けた。
「俺は、家族とか、兄弟とか、どういうものかわからない。けど、大切な奴が傷つくところを見るのがどんなに辛いか、それはわかる。やっと、わかるようになった。哀しくて、悔しくて、何もできなかった自分の無力さが、怒りになって返ってくる。傷つけた相手がいるなら、憎んで、恨んで、滅茶苦茶に切り刻んでも、気が済まないだろう。だから──」
「兄の代わりに、俺がてめえを滅茶苦茶に切り刻んでも文句はないというわけだ」
リアムの腰の鞘に納まっていたはずの短剣が一瞬のうちにすらりと抜かれ、ラチカの頬にひたりと押し付けられていた。
「────っ!!!」
思わず息を呑んだものの、俺は辛うじて拳を握り締め、一切の動きを止めた。ここは俺の出る幕じゃない。例え何が起ころうとも、俺は絶対に手を、口を出さない。何故なら、俺は信頼しているから。ラチカを、そしてリアムを。
リアムは短剣の刃で、うつむいていたラチカの顔をぐいと上に向かせた。器用なことに、まだ傷はつけていない。リアムはその漆黒の瞳でラチカの茶色い瞳を覗き込み、問った。
「……答えろ。お前がさっき言った大切な奴ってのは、誰だ」
ラチカは答えまいとするかのように唇を引き結んだまま、頑としてリアムから瞳を動かさなかったが、自分に向けられた漆黒の瞳が静かに眇められたのを見ると、ゆっくりと瞬きを一つし、ちらりと俺のほうに視線を投げた。
……ん? ……俺? ……俺か? ……俺ってこと? リアムの問いの答えが?
戸惑い気味に瞬きを繰り返し、思わず、何か探すように、助けを求めるように、俺は周囲に目をやった。挙動不審な反応の俺も含め、リアムは深く長いため息をつくと、改めてラチカの瞳を覗き込みながら問った。
「……それで? こいつ……シルヴァを傷つけたのはいつ、どこで、誰だ?」
ラチカの瞳が、動揺したように見開かれる。まだ起きていない世界崩壊のことなど、言えるわけがない。信じてもらえるわけがない。それでも、覚悟を決めたようにラチカは口を開いた。
「……いつ、どこでかは、言えない。けど、こいつを傷つけたのは、人じゃない」
「それなら、シルヴァを傷つけたのは何だ?」
淡々と質問を続けるリアムは、冷静で、異様に無表情で、それ故にいつものように声を荒げているときより何倍も、怖かった。ラチカは瞬きを一つし、嘘をつくまいとするように、懸命に続けた。
「……地震だ。すごく、大きな地震で、近くの塀が、崩れてきて、俺は、咄嗟にこいつを突き飛ばしたけど、それじゃ守り切れなくて、左、腕に、怪我を、させた……。だから、傷つけたのが誰かってことなら、俺がこいつを──」
「守り切れなかったのと、傷つけたのは、同義じゃない。それくらい俺も理解している。それとも、俺を馬鹿にするつもりか?」
「そういう、わけじゃ……」
「それから、全部が自分のせいだと思ってんなら、その驕りはやめろ。てめえみたいなちっぽけな存在ができることなんて、ほんの僅かなんだよ。身の程を知れ」
「それは……だけど……」
厳しい言葉なのに、優しい。戸惑ったように瞳を揺らしたラチカの頬から短剣を離し、刃を軽く布で拭うと、鞘に納めながらリアムは言った。
「お前が兄さんを傷つけたことは許さない。けど、兄さんたちにお前のことを話したのは俺だ。俺にも責任の一端がある。俺がもっと本気で止めれば、兄さんたちも物置に飯を差し入れるのを思いとどまったかもしれない。せめて使用人に相談するとか、もっと慎重に……」
大仰にため息をつき、ラチカは言った。
「さっきのお前の言葉を、そのまま返すよ。全部が自分のせいだと思ってんなら、その驕りはやめろ。てめえみたいなちっぽけな存在ができることなんて、ほんの僅かなんだよ。身の程を知れ……だったか? ホント、その通りだな」
リアムは改めてラチカの存在に気づいたかのように目を見開き、それから自分に向かってするように苦笑した。
「まったく……本当にムカつく奴だな、お前は」
「お前もな」
互いに憎まれ口を叩きながらも、リアムが手を差し出し、ラチカはその手を握って立ち上がった。その爽やかな青春の一幕をすぐ横の特等席で眺めながら、俺は知らず知らずのうちに合掌していた。
おお……何ということだ……尊い……尊いとしか言えん……。ありがとうございます! まさかこんな唐突に、萌えという名の糧が投下されるとは……生きていて、本当によかった……。
いや、一応弁明させて欲しいのだが、俺も途中まではこれ以上ないほど真剣に、友人たちのやり取りをハラハラしながら見守っていたのだ。実際、胃がキリキリと痛んでさえいた。けど、リアムが短剣の刃を鞘に納め、友好的に話がまとまる兆しが見えた瞬間、不意にそれまでの二人の顔の近さに驚くほどトキメキを覚えてしまった。
多分、恐怖とか不安とか心配とか、そういった緊張感から解放された反動で、萌えに極振り変換されたに違いない。もしくはアレだ、腐女子特化の吊り橋効果的なヤツ。険悪だけどやたら顔が近い二人の男+ドキドキしながら傍観する自分→二人はカップル! みたいな。多分。よくわかんないけど。
そうでもなきゃ、リアルに夢を見ない系腐女子の俺が、友人たちに萌えるなどあり得ない。この程度の健全な青少年の触れ合いなど、今まで間近でいくらでも平然と見てきたという実績もある。
だが、まあ、ツンデレ×ツンデレのケンカップルというのは、なかなかどうして嫌いではない。ヌルフフフフフ。妄想だけなら許されるはず。攻守はまあ……どちらでもイケるな。もともと俺は逆カプどころか、リバ可の節操無しだし。脳内麻薬がドバドバ分泌され、久しぶりに腐女子脳が活性化される快感に浸っていると、妄想の餌食になっているリアルの友人たちが、あたかも俺の心を読んだかのように仏頂面を向けてきた。
「シルヴァ。てめえ……今、絶対にろくでもねえこと考えてやがるだろ」
「俺たちを見てにやにやするとか、本当にいい度胸だなぁ……ああ?」
先程の感動の光景も嘘のように睨みつけてきたラチカとリアムからじりじり後ずさりながら、俺は懸命に言葉を探した。
「いや……えっと……だって……」
「だって、何だよ?」
「いや、だって、ほら! 二人の顔がやたら近くて、こう、今にも口づけしそうだったな……と思ったら、つい……」
俺の弁明を耳にした瞬間、ラチカがリアムに向かって鋭い眼差しをギッと投げた。
「確かに、それは俺も思った! 完全にてめえのせいじゃねえか!」
「はあ? いや、違っ、あれは!!!」
鬼の形相でリアムに詰め寄ったラチカの顔もやたら近かったが、それはともかく。リアムは不意に周囲の目を気にするように素早く視線を泳がせたあと、最小限まで声音を落とし、囁くように喚いた。
「っ……、あれは、お前が嘘をついてないか、視てたんだよ! 俺の……瞳で」
その意味深な言い方に、俺とラチカはハッと息を呑んだ。
「……闇の民の、能力……」
「嘘を……見抜くことができるのか?」
声を潜めて聞き返した俺たちに小さく頷き、リアムは突き飛ばすようにラチカから離れた。
「つーか、てめえも近いんだよ。意味もなく寄るんじゃねえ」
うん、というか、ガラの悪い奴って何でやたら顔を近づけて威嚇するんだろうな。本能なのか? ……って、ちょっと待って。これってかなり重要なカミングアウト……闇の民における機密事項なのでは? そんな能力があるなんて、眉唾物の噂でも耳にしたことがない。だが、それが本当ならば……。
俺とラチカはちらりと視線を交わすと、瞬時に互いの意を汲み取り、小さく頷き合った。
「……リアム、お前に話したいことがある」
真剣な眼差しで切り出した俺を見ると、リアムは嘆息しながら肩を竦めた。
「ハイハイ、今度はお前かよ。つーか、聞きたいことならこっちも山ほど……」
その時、蛇の下刻の鐘が鳴り、俺は急速に血の気が引いていくのを感じた。呼吸が浅く、早くなっていく。ヤバい。また過呼吸になる。これは……フラッシュバックだ。マズい。マズいマズいマズい。心臓が、ぎゅっと鷲掴みされたように痛む。ガクリ、と膝の力が抜ける。落ち着いて、体内の水分をコントロールしなければならないのに、そんな思考さえ、すぐに恐怖に融けて霧散してしまった。
鐘の音が、体の中でわんわんと鳴り、反響する。意識が朦朧とし、けれど次の瞬間、内臓からぐるりと引っ繰り返るような感覚とともに、俺は嘔吐していた。
「ヴえぇえぇえ……っ」
起き抜けで、まだ何も口にしていなかった俺の胃からは、濃い黄色の僅かな胃液しか出なかった。その後も、何度も胃が痙攣するようにのた打ち回るのに、何も入ってないことがわかるだけで、辛い。目の前の床にぶちまけられた吐瀉物から、ツンとした刺激臭が目と鼻を刺す。ぼたぼたと涙が落ちる。胃酸で焼かれた喉が痛い。気持ち悪い。まるで、脳みそが爪で引っ掻き回されているような不協和音。ぐらぐらする。イヤだ。イヤだイヤだイヤだ。全身の震えが、止まらない。怖い。怖い怖い怖い──。
「……っ、……ルヴァ! ……シルヴァ! シルヴァ、シルヴァ……!」
……どこか、遠くで、誰かが、何か、言っている。
ようやくそれに気づいたとき、パァン……という激しい衝撃が、閃いた。何が起きたのかわからないまま、呆然と瞬きを繰り返す。ぼやけていた視界が、試行錯誤を繰り返しながら、無意識に焦点を合わせようとしている。
と、温かい手のひらが左右から頬を包み、衝撃で横を向いていた俺の顔をぐいと正面に戻した。頬がジンジンしていることに、やっと気づく。涙で滲んだ俺の目に、ラチカの仏頂面が映る。
「……しっかりしろ! 今度こそ、お前のことは俺が守る。今を見ろ! 恐怖に呑まれるな!」
今にも噛みつかんばかりに飛ばされた檄に、俺はようやく揺らいだ視点が定まるのを感じた。
「……ラチカ……」
はらはらと、涙が散る。一気に、感情が、どうしようもなく、溢れた。わあわあと、天を仰いで泣き喚く。ここまで手放しに、身も蓋もなく、全身全霊で泣いたのは、記憶の限り、本当に初めてだ。
ヒック、と盛大にしゃくり上げながら、俺はみっともなく喚いた。
「……っ、だったら……っ! もう二度と……っ! 俺の前で、俺より先に死ぬな……っ!!! ……っ、今度! お前が動けなくなったら……っ、俺は、絶対……っ、絶対……っ、お前のそばから離れない……っ、死んでも、離れないからな……っ!!!」
瞬間、俺はふわりと優しくて懐かしい匂いに包まれたのがわかった。温かい……。ラチカに抱きしめられたのだと認識したのは、少し経ってからだ。何かもう、その後も滅茶苦茶だった。散々泣いて、ずるずる流した自分の鼻水で溺れそうにすらなった。けれど、俺が力尽きるまで、ラチカはそのまま抱きしめていてくれた。
「……、ラチカ……。服が、汚れる……から……」
いい加減、さすがに泣き疲れ、俺はぐすっと鼻を啜りながら、掠れた声で力なく呟いた。ラチカは俺の頭を撫でると、柔らかく言った。
「大丈夫。大丈夫だから。……少し、眠れ」
「でも、パユを……迎えに、行かないと……」
「大丈夫だよ。少しくらい、パユは待ってくれる」
ハッと息を呑んだ俺の口から、ぽろりと、その言葉がこぼれ出た。
「待って! 俺を、置いていかないで!」
ぎゅっと、怯えたようにラチカの服をつかんだ俺の背を、ラチカはあやすように撫でた。それから俺の揺れる瞳を覗き込み、そっと言い聞かせた。
「置いていかない。置いていかないよ。ちゃんと、ずっと、お前のそばにいる。だから安心しろ」
「……絶対、だからな……。約束……」
「ああ、約束する。だから、今は休め」
「…………ん」
何度も閉じかけていた瞼を、懸命に持ち上げていた俺は、ラチカの一言で、ようやく抵抗をやめた。そのまま、泥に沈むように、俺は意識を手放した……。
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