第10話 腐女子、激怒する

「いや~あ、お騒がせして申し訳ない。でも、おかげさまでもう大丈夫……って、お前ら揃いも揃って何でそんな葬式みたいな顔してんの?」

 ラチカと共に食堂の仲間と合流した俺は、沈痛な面持ちでテーブルを囲んでいるみんなの様子にぎょっとして言った。

「だってさ……いや、何でもない。それよりさ……」

 何か言いかけたものの、すぐに無理やり明るく振舞おうとしたリアムに俺は嘆息した。

「リアム。俺がそんなことで誤魔化されないのはわかってるはずだろ? ちゃんと言えって。何かあったのか?」

「何かっていうか、その……」

 同じく浮かない顔をしているクルスとギュスター、それからトリーとオルカに目をやり、リアムはしぶしぶ口を開いた。

「お前があんな風に泣くとこなんて初めて見たからさ……ちょっと驚いたっていうか。いつも能天気で明るく振舞っているように見えてたけど、ここに来る前、村ではすごく辛い思いをしてたんだなって初めて知ったっていうか……」

「え……?」

 俺のこと? 俺のことでそんな暗い顔になってんの? っていうか俺、見た目だけは十一歳の子供だよ? そもそも誰であろうと、ちょっと泣いたくらいで大袈裟じゃない? そんな衝撃を受けるほど、俺って能天気に見えてたわけ? つーか、俺のあずかり知れぬところでいろいろと大きな誤解が生まれてそうで怖いんだが……。

 俺は慌ててまくし立てた。

「いやいやいや! 別にそんなことはないぞ! 確かに、俺はちょっと家族や村に馴染めてないところはあったけど、それは全部自分のせいだし、むしろみんないい人たちばかりで、いじめられたりとか、そういうことは全くなかったし、第一そんな境遇に俺が甘んじているわけがないってお前らならわかってるはず……」

「わかってるよ! けど、自分に居場所がないって感じるのは淋しいよな。周りの奴らが優しければ、尚更さ」

「うっ……」

 リアムってこういう鋭いところがあるから本当に敵わない。さすが我が心の友……と俺が思った矢先。

「誰もいない湖の畔で、歌いながら一人で手話をしてたとか、何か想像しただけでこう……」

「本当は誰かと一緒に手話でやり取りしたかったんだなって思うと……」

「胸に来るものがあるの……」

 泣きそうになったリアムと他一同の様子とは裏腹に、俺は一気に顔が赤くなるのを感じて仰け反った。

「ち……違っ! それはそういうんじゃなくて……オルカ!」

 話の出どころはこいつしかない! と非難の目を向けた俺に気づくと、オルカもまたひどく悲し気な面持ちでそれを口にした。

「……すまない。いつも君は楽しそうに見えていたし、そのおかげで俺も元気をもらってた。けど、本当はそんな淋しい想いを抱えていたなんて、俺は気づいてあげられなかった。本当にすまない。君がみんなにこのことを知られたくなかったのも当然だ。それなのに、俺がうっかりしていたせいでみんなにも知られてしまった。重ね重ね本当にすまない」

 いやいやいや、ちょっと待って! 俺が知られたくなかったのは、むしろ逆というか! 誰にも見られていないのをいいことに、俺の俺による俺のためだけのワンマンライブを全力で満喫していたという、その恥ずかしいノリノリの痴態であって、そこには微塵の淋しさもないはず。まあ、見方によっては淋しいかもしれないが、俺は独りでも心から楽しんでいた。

 が、その解釈だと、俺が滅茶苦茶哀れな人みたいじゃないかぁあっ!!!

「違うから! 確かに手話もしてたけど、単に歌うときの振り付けにしてただけで……っ! っていうか、オルカ! 秘密にするって話だっただろーが! あれから一刻も経ってないのに、ちょっと俺が離れた隙に勝手にバラしてんじゃねえ! この裏切り者!」

 ぎゃあぎゃあ俺が喚くと、リアムが慌てて口を挟んだ。

「オルカのせいじゃねえよ! さっきから俺たち、オルカに知られたくないことは手話を使ってやり取りしてたんだ。それを見たオルカが何をしてるのか聞いてきたから、簡単に説明したんだよ。で、その時にさっきオルカがしていた『何かいろいろ』の身振りが手話に似てるなって話になって。お前が歌いながら同じように手をひらひら動かしてたってオルカが言うからさ、試しに覚えているのをちょっとやってもらったんだ。そしたらこれは手話だなってことになって……」

「シルヴァ」

 不意にトリーが真面目な顔で俺を見つめ、これ以上ないほど真剣に言った。

「淋しいと思うことは、別に恥ずかしいことじゃないの。周りにたくさん人がいて、それがどんなに優しい人たちでも、淋しいと思うことはあるの。でも、今は私たちがいるの。お前の居場所はここにあるの」

「……………………」

 確かに、そうだね。俺がさっき自ら導き出した答えと同じだが、誤解という過程を経ても寸分違わぬ結論に至ることがあるのだなぁ、と妙に淡々とその言葉を受け止めていた。何かもう、別に誤解を解く必要はないのかもしれない。わざわざ自分の痴態を暴露しなくていいわけだし。

 もやもやしながらも、俺がそう思ったとき。ふと隣のラチカに目をやると、半ば呆れたような眼差しが返ってきて、俺は確信した。ラチカは俺に変な同情などしていないと。それがわかった途端、俺は肩から力が抜けた。同時に、諦めではなく、前向きな気持ちで思った。まあ、いいや。と。

 俺はへらっと笑うと、みんなに向かって心から言った。

「……ありがとうな。俺はここに来て、お前らに逢えて本当によかった。これからもよろしくな」

「シルヴァ……!」

「もちろんなの!」

「おう!」

「任せとけ!」

「俺も、君の味方だからな! 何かあったら相談してほしい。君の力になれるよう、必ずや努力する」

 ぐっと拳を握ってみせたオルカに、俺は感謝を込めてにこやかに微笑んだ。

「ありがとうございます、オルカ。というか、先程はつい勢いに任せて失礼なことを口にしてしまい、本当にすみませんでした」

「いや、何。気にするな。俺と君の仲だろう。というか、その敬語も他人行儀でよろしくない。もっと胸襟を開いて話をしようじゃないか」

「まあ……そうですね。そこはおいおい」

 適当にはぐらかしつつも、俺は笑ってリアムの横の空いている席に着いた。その隣にラチカが座る。テーブルにはすでに俺とラチカの分の料理と飲み物も用意されていた。

「おお、俺の好物ばっかじゃん! さすがみんな、よくわかってる~!」

 岩芋の素揚げはもちろん、挽肉団子と野菜の甘辛煮、魚に発酵乳を乗せた焼き物、果物と花を和えた多肉植物のサラダ等々の他、雑穀米ときのこの卵スープ、黒豆のミルクティーもちゃんとあった。栄養バランスも完璧だ。

「へっ、まあな。これだけ一緒にいるんだから当たり前だろ」

 ドヤ顔になったリアムを横目に、俺はラチカの前にある皿をちらりと見やった。

「……っていうかラチカの皿、やたら酢漬けの量が多いんだが……」

 実際、控えめに言っても大皿の半分が野菜の酢漬けで覆われている。もはや付け合わせがメインといっても過言ではない。そして案の定、食堂で一番不人気な酢漬けは好物ではなかったらしく、ラチカが盛大な渋面になっていた。間違いなくリアムの嫌がらせだ。まあ、昼間の殺意の籠った掴み合いからしたら、この程度の意地悪は可愛いものといえよう。もちろん、俺のこの感想は当事者でないから言えることではある。

 俺は小さく嘆息しつつも、つい笑ってしまった。

「ったく、仕方ねえなあ……」

 ビュッフェ形式の食堂では、お残しは厳禁だ。俺はラチカの皿にある大量の酢漬けの一部を自分の皿に移し、代わりに他のおかずをいくつか乗せてやった。

「ちょっ、おい。そんなことしなくていいって……」

「いいんだよ。何か俺もちょっと野菜の酢漬けを食べたい気分なの。あ、つーか、お前らもそういう気分? 了解了解、俺が今取り分けてやるよ。いや、遠慮すんなって」

 適当に言いながらテーブルから身を乗り出し、俺はラチカの皿からみんなの皿に酢漬けをひょいひょいと分け、代わりのおかずを強制徴収した。当然、リアムの皿からもだ。

「あっ、てめっ、シルヴァ! 俺の肉!」

「自業自得、だろ? まったく、お前も懲りないよなぁ」

 肩を竦めてみせた俺に、トリーがぶすっとして口を挟む。

「どうせこうなることがわかってたから止めたのに、言うことを聞かないんだから仕方ないの!」

「トリー、すみません。でも一人だけ特別扱いはできないので」

 とは言いつつも、俺もトリーに関しては酢漬けの量と交換するおかずの種類に多少の忖度はしたが、誰も文句はつけまい。

 トリーも盛大に嘆息しながら、肩を竦めて言った。

「構わないの。あのバカを止められなかったのは私の責任でもあるの」

「……トリー、あの……」

 口を開きかけたラチカを手で制し、トリーは言った。

「私に謝るつもりなら、その必要はないの。そして礼を言いたいなら、他に相手がいるはずなの」

 ラチカは瞬きを一つし、それから静かに苦笑した。

「……はい、そうですね」

 そしてオルカの皿からおかずを徴収し終えた俺に向かって、ラチカは口を開いた。

「シルヴァ。その……ありがとな」

「どういたしまして。ま、ラチカもさっきは俺のこと追いかけてきてくれたし。こういうのは持ちつ持たれつってことで、これからも仲良くやっていこうぜ」

「……ああ」

 僅かに微笑を浮かべたラチカの反対側から、チッと舌打ちが響く。

「これからもこいつと一緒にいるつもりなのかよ……」

 仏頂面で呟いたリアムに目をやり、俺は首を傾げた。

「つーか、お前らって何でそんな仲が悪いわけ?」

 俺の素朴な疑問に、リアムとラチカが左右から同時に完璧なハーモニーを奏でた。

「こいつがクソ野郎だからに決まってんだろ!!!」

「こいつがクソ野郎だからに決まってんだろ!!!」

 ……なるほど、そうだね。確かにその通り。俺はにこやかに微笑んだ。

「っていうか、お前らって実は結構気が合うよな」

 リアムとラチカが同時に拳をテーブルに叩きつけた。

「どこがだ!!! そんなわけねーだろ!!!」

「どこがだ!!! そんなわけねーだろ!!!」

 ……うん、そうだね、そういうところがね。世間一般では気が合うって言うと思うんだけど。本人たちは絶対に認めたくないんだろうなぁ……。

 俺は思わず笑ってしまいそうになるのを堪え、まずは温かいうちに卵スープの椀を手に取ると、ゆっくりと味わった。

「……うん、うまい! 疲れた体に染みるわ~」

 ケンカ腰のリアムとラチカに挟まれていても今更だし、緊張感の欠片も湧いてこない。様子を窺うようにこちらを注視している他の面々にも構わず、皿の挽肉団子を口に放り込み、俺は一人で勝手に食事を始めながら続けた。

「というか、そもそも互いにクソ野郎だと思ったきっかけは何だ? 関わり合いがなければ、それこそどんなクソ野郎でも、そうとはわからないわけだし。もしくは傍から見てクソ野郎だとわかったんなら、最初からできるだけ関わらないようにするのも選択肢の一つだ。それでも未だに突っかかってるってことは、何かこう、第一印象最悪! って感じの出会いでもあったのか?」

 そう、BLに関わらず、ラブコメによくある出逢いイベント的なヤツが!!! もっとも、リアルで第一印象最悪! な相手とラブに至ることはまずほとんどないと思うが、物語の導入としては鉄板だし、俺も嫌いじゃない。まさにファンタジーならではのロマンがあるので、皆に好まれるシチュエーションなのだろう。

 が、ことと次第によっては、俺の友人たちが脳内でBLカップルに変換され、妄想の餌食になってしまいかねない。実に楽しみ……じゃなくて、由々しき事態だ! 俺の悪しき腐女子脳から、大切な友人たちを守らねば!

 内心くふくふとほくそ笑みながらも、俺はせっせと皿の上の料理を口に運んだ。だって、すげー腹減ってたんだもんっ。

 火花を散らすリアムとラチカの間で平然と食べ続けている俺を見て気が抜けたのか、他の者も各々、静かに夕飯を口にし始めた。当然、周囲の空気も緩み、睨み合っていたリアムとラチカもさすがにムキになりすぎていたと気づいたのか、ややトーンダウンした口調で言った。

「……ラチカ、てめえが説明しろ。てめえにとって都合が悪いことも全部な。俺の前でみんなに事実を隠したり、誤魔化そうとしても無駄だからな!」

「……別に、俺にとって都合が悪いことなんて何もない。俺は事実しか話さない。お前と違ってな」

「っは! そうかよ! だったら聞かせてもらおうじゃないか! その事実ってヤツをよ!」

 煽ってきたリアムに構わず、ラチカは黒豆茶を一口飲んだあと、淡々と口を開いた。

「……俺がこいつと初めて会ったのは六年ほど前だ。その頃の俺は浮浪児で、闇の都の路地で生活していた。引ったくり、スリ、盗み、食い物を手に入れるためなら人を傷つけたりもした。そうでもしなきゃ、子供一人では生きていけなかったからな。恥ずかしいとも悪いとも思ってない。何もせずにおとなしく野垂れ死ねってんなら、俺は今でも全力で抵抗する。ただ、それだけだ」

 ラチカの話に、俺を始め食事をしていた面々はその手を止めた。静まり返ったテーブルの一角に、ラチカの声だけが響く。

「そんな生活が二年ほど続いたとき、俺は金を持ってそうな一人の爺さんに目を付けた。旅支度をした姿はそれほど裕福そうじゃなかったけど、如何にも偉そうなお貴族様に手厚くもてなされているのを道端で見かけたんだ。水の民でひ弱そうだったし、通りすがりに足でも引っ掛けてやれば、簡単にその大きな荷物を手に入れられると思った。その時はな。けど……」

 ラチカは肩を竦めて続けた。

「あの頃はパユの爺さんも今より若くて元気だったし、俺はまだ腹を空かした小さな子供だった。大体、伝導師ってヤツはみんな見た目よりずっと動ける。館に来て、それがこの階段だらけの生活のおかげだって知ったけど、そんなのは今だからわかることで、伝導師の存在すら聞いたことがない当時の俺が想像できるわけがない。俺はパユの爺さんを転ばすどころか、反対に取っ捕まった」

 そこまで黙って聞いたところで、俺は慌てて声を上げた。

「パユの爺さんって……え? 確か研修で出かけたときのラチカの師匠だったよな?」

「そうだ。パユの爺さんは最終的に俺をこの館に連れてきて、笛の奏者の見習い候補として入れてくれた。俺の恩人だ。けど、その前にこいつとひと悶着あったことを説明しないとな」

「え? ああ、リアムね。いつ登場するんだ?」

「俺がパユの爺さんに取っ捕まったあとだ。もともと爺さんはこれからお貴族様の屋敷で演奏するよう、招かれているところだったんだ。当然お貴族様は嫌そうだったけど、天下の伝導師様が俺を一緒に連れて行くって言い張るから仕方なかったんだろうな。俺も屋敷に連れていかれたんだが、爺さんの演奏が終わるまではってことで薄暗い物置に閉じ込められた。まあ、捕まってからも俺は散々暴れてたし、今ではそれも仕方なかったとは思う。あの頃の俺は正直、手負いの野生動物みたいなモンだったからな。おとなしく反省したフリをして油断させるとか、せめて体力を温存するとか、冷静に頭を使う余裕もなかった。はっきり言って、俺はこのまま殺されるか、もっと酷い目に遭う覚悟もしてた。何しろお貴族様の客人に手を出したんだからな。何をされたっておかしくない。五体満足で屋敷を出られるわけがないと、完全に思い込んでた。しくじったら、やろうとしていたことの何倍もやり返される。最初の頃はパンを一つ盗むのに失敗して、全身青あざになるまで殴られた。だから何をするにしても、いつも命懸けだ。生きるためには当然のことで、他に道はない。少なくとも俺の中ではそれが常識だった」

「ラチカ……」

 黒豆茶を飲んで一息ついたあと、ラチカは話を続けた。

「ただ、そのお貴族様の屋敷には、俺と同じ年頃の息子たちが領地から都に遊びに来てたんだ。確かものすごく優秀な一番上の兄が剣士の館に入っていて、その休暇に合わせて家族が会いに来てたんだっけか?」

 ラチカが揶揄するように話を振るまでもなく予想はついていたが、先程から話に出ていたお貴族様はリアムの家のことだった。今更無駄に煽るような言動は控えてほしいと願う俺の横で、リアムがギリギリと鋭い眼光でラチカを睨んでいる。辛うじて拳を強く握り、いろいろと耐えているが、リアムの我慢がどこまでもつかわからない。ヒヤヒヤしている俺に構わず、ラチカが鼻で笑って言った。

「本当に優秀過ぎて涙が出る。慈悲深いお貴族様か何か知らねえが、自分の力を過信してるから俺みたいなクソに手痛いしっぺ返しを食らうことになるんだ。頼まれてもいねえのに、ただの興味本位で可哀そうな野良犬に餌でもやって、如何にご自分がお優しいか悦に入るつもりだったのか? 自己満足でクソみてえな同情心を向けられたこっちの身にもなってみろ! ホント、反吐が出るぜ!!!」

「んだとぉ! それ以上、兄様を侮辱してみろ! 今すぐ竜の御許に送ってやる!!!」

 ガッと両脇で立ち上がった二人の間で嘆息し、それから俺は好物である木の実の甘煮を左右の指で一粒ずつ摘まむと、リアムとラチカの口にそれぞれ無理やり押し込んだ。

「うぐっ?」

「むぐっ?」

 突然のことに目を白黒させているリアムとラチカを眺めながら、俺は貴重な甘露のついた左右の指を舐め、驚きと文句とその他様々な想いの籠った何とも言えない眼差しで口をモグモグさせている二人に言った。

「……まずはラチカ! 俺みたいなクソとは何だ! それから可哀そうな野良犬? 自分を卑下するようなことを口にするな! 例え本心じゃなく、相手を煽るためだとしてもな。そういうのは俺は嫌いだ」

 ハッとしたように目を見開いたラチカに小さく頷き、それから俺はリアムに目をやった。

「リアム、俺はお前の兄のことは知らない。けど、お前が二人の兄を慕っていることは知っているし、そのお前がそうやって本気で怒るということは、恐らく純粋に親切心から何か優しくしようとしたんだろう。俺は幸運にもラチカが経験してきたような過酷な路上生活をしたことはない。理不尽な暴力を受けたこともなければ、本当の飢えというものも知らない。だからこそ、お前の兄が発揮しようとした奉仕の精神には共感する」

「シルヴァ!」

 一瞬、笑顔になりかけたリアムを制するように、俺は厳しく言った。

「だが、それが純粋な善意であれ、打算的なものであれ、全く微塵も驕りがないとは俺には言い切れない。富を持っている者と何も持っていない者では、対等の立場には決してなり得ないのだから」

「……っ、それは……」

 唇を噛んでうつむいたリアムに、俺は心持ち優しく続けた。

「俺はな、あくまでも想像でしかないが、ラチカの気持ちも理解できる。リアム、お前は何日も食べ物にありつけないことがあったか? 今夜寝る場所がなくて、それどころか明日も明後日も行く当てがなくて、風の音に怯えながら野宿したことがあるか? 俺はない。幸運にもな。だからこうやって、想像しただけでわかった気になるのも、また俺の驕りだ。でも、想像する価値が全くないわけではない。例えばそんな何もない境遇の自分に、有り余っているからと何の苦労も知らない顔で誰かに食べ物を与えられたとする。もちろん有り難いと素直に、或いは何も考えずにその施しを受け取る者もいるだろう。けど、そこに反発を覚える者も一定数いるはずだ。そして反発を覚えながらも、表面上は感謝を述べてもらえるものはもらっておく者もいる。人それぞれで、別にいいも悪いもない。そしてラチカはたまたま反発を覚えて突っ返すタイプだったってだけだ。もちろん、そのやり方があまりにも暴力的なのはよくないが、さっきの俺も同じだからな。いくらイケメンでも、見知らぬ男にいきなり抱き着かれていつまでも放してもらえなかったら、押し付けられた好意はむしろ迷惑だし、全力で拒絶したくなるというものだ」

 なあ? と俺がオルカに悪戯っぽく目をやると、さすがに少しバツが悪そうに肩を竦めてみせた。

 その隙に、俺はラチカが落ち着きを取り戻したのをちらりと確認し、改めてリアムに尋ねた。

「まあ、話はちょっとずれたが、本題に戻そう。さっきのでも何があったのか大体わかったが、簡単でいいからもう少し具体的に教えてくれないか。お前にとって、どういう出来事だったのかも知りたいしな」

 リアムはまだ拳を強く握っていたが、気を静めるようにゆっくりと息を吐きだし、目を伏せたまま押し出すように言葉を紡いだ。

「……あの時、俺は七歳で、イスト兄様……兄さんが九歳、一番上のアウル兄さんが十二歳だった。強くて優しくて頭もいいアウル兄さんは剣士の館でもずっと首席で、俺はすごく尊敬していた。だから久しぶりにアウル兄さんに逢えて、俺とイスト兄さんはかなりはしゃいでいた」

「……うん」

「闇の宮殿での用事を済ませた父さんが屋敷に帰ってきたとき、俺はそれを窓から見ていたんだ。深緑のローブをまとった爺さんと、縄で縛られた汚い子供が竜馬の客車から一緒に降りてくるのを」

 覚悟を決めるように大きく息を吸い、リアムは言った。

「俺だけが、見ていたんだ。暴れる子供を、使用人が裏庭の物置に閉じ込めるところを!」

 ハッとした皆の視線を浴びながら、リアムは落とした声で口早に続けた。

「……俺は、見たことを兄さんたちに話した。そして三人で物置を見に行った。……そう、確かにその時は面白半分だった。普段ガラクタが置いてある物置は結構頑丈な造りに見えたのに、外まで暴れる音と喚く声が聞こえてた。最初は警戒して遠巻きに見てたけど、縄で縛られたまま逃げられるわけがない。少し静かになったのを見計らって、俺たちは物置に近づいた。そしたら、腹減ったって小さな声と、大きな腹の音が聞こえてきた。俺は怖いからやめようって言った。けど、アウル兄さんは気を付けるから大丈夫って言って……料理番に用意してもらった軽食を物置に差し入れようとした」

 握った拳にぐっと力を込め、それからリアムは押し殺したような声で続きを口にした。

「……まさか、自力で縄を切っているなんて、思いもしなかった。多分、暴れたときに物置に積んであった木箱が落ちてきて、中にしまってあった古い陶器の椀が割れたんだろう。アウル兄さんが物置の扉を開けた瞬間、鋭い陶器の破片で切り付けられた」

 息を呑んだ面々に構わず、リアムは憎しみの籠った眼差しでラチカを見据えた。

「アウル兄さんの顔には今でもその傷が残っている。頬を切り裂かれた醜い傷がな。アウル兄さんに一生消えない傷をつけたお前を、俺は絶対に許さない」

 単純な怒りだけではない様々な想いが入り混じったその眼差しを、ラチカは一見淡々と受け止めているようだった。けど、気づいたのは決して俺だけではないはずだ。無表情なラチカの拳が、実は何かに耐えるように強く握られたことを。

 俺は心密かに嘆息した。これは思ったよりずっと根が深そうだ。俺がさっきドヤ顔で長々と披露した演説も的外れがいいとこだし、そもそも関係ない奴が生半可に口を出して収まる問題ではない。さすがに俺の腐女子脳も反省して、余計な考えすら浮かばない。ここはファンタジーではなく、リアルだからな。一生消えない傷を顔につけたというのは、なかなかに重い。この二人に仲良くしろというのは普通に考えて酷な話だし、そうして欲しいと願うのは部外者である俺のただの我儘にすぎない。

 と、その時。リアムが視線を落とし、再び口を開いた。

「……けど、俺は今までお前の境遇をちゃんと考えたことはなかった。シルヴァの言う通り、俺は理不尽な暴力を受けたこともなければ、本当の意味での飢えも知らない。子供なりに、恵まれていた俺たちには驕りもあっただろう。お腹を空かせたまま閉じ込められているなんて、可哀そうな子供だってな。実際、兄さんたちもそう言ってたし、俺もそう思ってた。そんなことはないと、お前に手酷く教えられるまではな。そしてあの時、物置に閉じ込められていたお前が、殺されるかもしれないとまで思い詰めていたことを、俺は今日初めて知った。本当に、死に物狂いだったのだと。そもそも相手が誰であれ、俺たちは生半可な同情心で動くべきじゃなかった。何より、お前のことを兄さんたちに話したのは俺だ。俺が余計なことを言わなければ、アウル兄さんが傷つくことはなかった」

 リアムは顔を上げ、ラチカを真っすぐ見つめて言った。

「俺はお前を絶対に許さない。けど、だからこそ、今までみたいに悪戯にお前に突っかかるのはもうやめる。お前と仲良しごっこをするつもりはない。ただ、これからのお前を見張ってやる。二度と誰かを傷つけることがないようにな」

 ラチカもまたリアムを静かに見つめていたが、やがてふっと軽く息を吐きだし、言った。

「……俺も、あの時の傷がまだ残っていると、一生消えないと初めて知った」

 そうなの??? 俺がぐるりと首を回し、驚きの目でリアムを見やると、不貞腐れたように肩を竦めてみせた。

「何か、アウル兄さんがこいつに負けたみたいで、言いたくなかったんだよ。どっちみち、こいつは謝りもしないだろうし」

「そうだな。俺は謝らない。そうしないと生きてこれなかった自分を否定することになるからな。けど……俺ももう無駄にお前に突っかかるのはやめる。意味がないと気づいたからな」

「意味がないとは何だ! 意味がないとは!」

 早速リアムが喚いたが、ラチカが何か余計なことを口にするより早く、俺は二人の肩を押して半ば無理やり座らせると、立ったまま二人の頭にそっと手を乗せた。そのまま優しく撫で撫でする。

「……何かもう、お前ら最高だな! ホント、大好きだよ! 愛してるぜ!」

 うるうると感動の涙に噎せっていると、リアムとラチカが俺の左右から完璧なハーモニーを奏でた。

「ちょっ……子供扱いするな!」

「ちょっ……子供扱いするな!」

 赤い顔で下から睨みつけているものの、二人とも俺の手を振り払おうとはしていない。俺は緩みっぱなしの頬で二人をしばらく撫で続けた。


                *


 とまあ、何だかんだあったものの、最終的には歓談しながらみんなでおいしく夕飯をいただき、俺としては一安心といったところで口を開いた。

「それにしてもあの酢漬け、意外とうまかったな。今まで何となく食わず嫌いしてたけど、俺、結構好きかも。さすがに大皿半分は食えないけど、たまにちょっと摘まみたくなる感じ」

 酸っぱ過ぎず、スパイシーな紫蘇みたいな風味がなかなか新鮮な味だった。この隠れた逸品に気づくことができたのだから、リアムとラチカのいざこざも巡り巡って役に立つことがあるものだ。

 が、俺の感想にリアムが渋面になった。

「そぉかぁ? 俺はあんま好きじゃない。何か変な香りがするっていうか」

「あ~、でも、そこがいいんだけどなぁ」

 俺の言葉に、ラチカが頷いた。

「わかる。俺も初めて食べたけど、そこまで毛嫌いする必要なかったな。まあ、さすがに大皿半分は食えないけど」

 俺と同じことを言ったはずなのに、ラチカのは嫌味に聞こえたのか、リアムがムッとして口を開きかける。俺は慌ててなだめるように言った。

「まあ、味覚は人それぞれだしな! 時間と共に変化するし! 俺は昔きのこのぬるぬるした食感が大嫌いだったんだが、今は平気だし、むしろきのこ好きだしな!」

「……確かに、そういうことはあるかもな。俺も辛いのが好きになったのは割と最近だし」

 しぶしぶ引き下がったリアムに俺がほっとしていると、ラチカが俺の手にある椀を見ながら言った。

「っていうか、さっきから思ってたんだけど、お前のそれ何? 時々、匙で木の実みたいのすくって食ってるけど……飲み物、だよな?」

「ん? ああ、これね。これは……」

「それは黒豆茶に乳を入れて、木の実の甘煮をぶち込んだものだ。こいつの好物なんだよ!」

 ふふん、と得意げに横から口を挟んできたリアムに、俺は目をぱちくりさせた。

 どうした、リアム? お前さっきから……いや、最近やけに情緒不安定だな? 第一、お前はミルクティーを味見することすら拒絶してなかったか? そもそも俺の好物の説明をするのに、どうしてお前がそんなドヤ顔になるんだよ?

 が、ラチカは特に気にならなかったのか、瞬きを一つし、言った。

「へえ。そんなことしてる奴、初めて見た。……うまいのか?」

「おお! 気になる? 気になる? よかったら一口飲んでみるか? 今日のはリアムが作ってくれたせいか、いつもよりおいしいんだよ!」

 好物に興味を持ってくれたようなので、布教活動の一環として俺はミルクティーの椀を差し出した。と、ラチカは受け取るのを一瞬躊躇い、それからリアムに向かって尋ねた。

「……いいか?」

「…………?」

 何故? 何故、俺ではなくリアムに許可を求める?

 リアムはチッと舌打ちし、けれどこれまた当然のように答えた。

「一口だけだからな! あと、飲むときは椀を回せ!」

「わかってる」

「…………?」

 何故? 何故、俺抜きで話が進んでるの? 俺の、ミルクティーの話だよね? いや、まあ、確かに今日作ってくれたのはリアムだけど。

 そこで俺ははたと思い至った。あ、そうか、そういうこと? このミルクティーはリアムが俺のために用意してくれたものだから、ラチカは俺じゃなくリアムに許可を求めたのか。今まで罵詈雑言のやり取りばかりだったが、意外と礼儀正しいんだな。いや、逆に礼儀正しくしているのかもしれない。これからは無駄な争いをしないように。

 この短時間における二人の関係の変化に俺が感心している間に、ラチカはミルクティーを一口飲むと、軽く目を見開いた。

「へえ! うまいな」

「だろ~? 今度やってみろよ。その日の気分で乳を多めにしたり、木の実の甘煮を少なくしてみたり、それだけでもいろいろ変わってくるし。自分好みの配分を極めるのも楽しみの一つだ」

 ふっふっふ、と上級者ぶって進言し、俺はラチカから返してもらった椀にそのまま口をつけ、ミルクティーを飲んだ。瞬間、リアムが大きな声を上げる。

「てめっ、シルヴァ!」

「んぐっ? ……なっ、何だよ?」

 危うくミルクティーが気管に入るところだったじゃあないか! ケホケホと咳き込んでいる俺に、リアムが何とも言えない面持ちで指を突き付ける。

「何っでそのまま……っ! 口付ける奴があるか!!!」

「え? ……あ~……」

 なるほど。ようやく理解した。椀を回せとリアムがラチカに言っていたのは、間接キスを防ぐためか。けど、ラチカに返してもらった椀から俺が不用意に飲んだので、意味がなくなったという……。

 俺は唇をぺろりと舐め、肩を竦めてみせた。

「リアム。お前ってそういうの結構気にするよな」

 まあ、俺も腐女子時代はどんな相手でも絶対に嫌だったが、それはそもそも誰にも心を許してなかったからだしな。今は不思議とそれほど気にならない。少なくともこのメンバーなら、間接キスくらい特に問題を感じない程度には心を許しているということだろう。

「まあ、嫌だったら俺も最初からラチカに飲むのを勧めたりしないし。大体、俺がカノンにあ~んしてもらったときは、お前も特に何も言わなかったはず……」

 と、カノンと仲直りできていないことを自滅的に思い出し、例によって俺が落ち込んでいると、不意にオルカが口を開いた。

「カノン……そういえば、君はカノンと同室だったな。セレストが言っていた」

「……え。オルカ、カノンのこと知ってるんですか?」

「今日はまだ会っていない。だがセレストから、カノンは有望な竪琴の奏者だと聞いている」

 そしてオルカが続けて口にした言葉を耳にすると、俺はテーブルに手を叩きつけるように立ち上がり、椅子が倒れるのも構わず食堂を飛び出した。

 長い長い階段を駆け上がり、ようやく辿り着いた自分の部屋の扉を勢いよく開ける。そこには旅支度を済ませたカノンの姿があった。

 駄目だ!!! 行くな!!! 俺はそう口を開きかけ……息ができずに、その場に座り込んだ。膝が恐ろしいほどガクガクし、喉がヒューヒュー鳴っている。呼吸が浅く、手に負えないほど早い。何より肺が暴れているように痛い。

 しくじった。十一階までの階段を一気に駆け上がった挙句、息も整えずに叫ぼうとするとか、過呼吸になって当然だ。体に酸素が足りてない。涙目になりながら、何とか落ち着かせようと自分の体を抱きしめ、制御できない呼吸を繰り返す。

 と、不意に温かい手のひらが背中に触れ、ゆっくりと撫でられたのがわかった。深緑のローブと薄い金色の長い髭が目に入り、俺は強張っていた体から力が抜けるのを感じた。セレスト……。大丈夫、俺は大丈夫……。何とか自分に言い聞かせ、俺は緩やかに深い呼吸を取り戻すことに全力を尽くした。しばらくして普通に息ができるようになると、俺は滲んだ涙を拳で拭い、ため息をつくように言った。

「……セレスト……。すみません。もう、大丈夫です。ありがとうございます……」

「よし。ではベッドに移動しよう。腰を掛けて少し待っておれ。今、近くの談話室から香草水を持って来てやるからな。気分が悪かったら横になっているとよい」

「……あ……」

 ベッドに俺を座らせたあと、引き留めようとする間もなく、セレストは部屋から出て行ってしまった。

 俺は気まずい面持ちでのろのろと顔を上げ、部屋の隅で立ち竦んだままのカノンを見やった。大きな荷物にマント、すぐにでも出かけられるように、カノンの旅支度は整っていた。よく見ると部屋のあちこちにあったカノンの私物が消え、きれいに片付いている。カノンが竪琴の奏者の研修で今夜ここを旅立つという、オルカのあまりにも急な話が、唐突に現実として突き付けられたような気がした。

「……カノン……ごめん。もっと早く、来れたらよかったのに。今、聞いたんだ。カノンが今夜、研修で館を出るって」

「……………………」

 唇をきゅっと噛み、カノンは視線を床に落とした。

 先程はつい勢いで引き留めるようなことを口にしてしまうところだった。だが、研修が決まるのは実力が認められたということで、カノンにとってはすごいチャンスだ。いくら権限がないとはいえ、行かないでほしいと子供の我儘みたいなことは俺には言えない。いや、言ってはいけない。けれど、せめて仲直りをしてから旅立ってほしい。恐らく数ヶ月はカノンには逢えないのだから。

「カノン……クルスとギュスターから聞いたよ。俺がトリーと戦う前、二人が中庭に水を撒くのを一生懸命手伝ってくれたって。俺がトリーの攻撃から逃げ回っているときも、ずっと心配そうに見守っててくれたって。本当は俺たちが中庭を修復している間も、いつも様子を見に来てくれてたんだよな。気が付かなくてごめん。俺はもっとちゃんと、カノンと向き合うべきだった。カノンが優しいから、ずっとそばにいられると思ってたから、俺は甘えてたんだ。いつでもすぐに仲直りできると思ってた。でも、本当にそばにいたいなら、例え傷つくことがあったとしても、腹を割ってきちんと話をするべきだったよな」

 俺は深く息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。ベッドから立ち上がり、頑なにじっと床を見つめたままのカノンに近づくと、その手をそっと握り締めた。

「カノン、俺はカノンが好きだよ。カノンが奏でる優しい竪琴の音色も大好きだ。そして館の外には見たこともない綺麗な景色や、面白い出来事、素敵な人がきっとたくさんいる。だから、楽しんで研修に行っておいで。カノンが帰ってくるのを、俺はここで待ってるから。カノンが帰ってきたら、館の外でしたいろいろな経験を俺に教えてくれ。俺はカノンが無事に、元気で、何より笑って帰ってくるのをずっと心待ちにしている。だから、安心して……」

 バッと勢いよく手を振り払われ、俺は言葉を見失った。

「カノン……」

「……行かないでって、どうして言ってくれないの……?」

 その瞬間、俺は大きな間違いを犯していたことにようやく気づいた。俺にはカノンの研修を取りやめさせるような権限はない。ただの子供だ。そして今、ここにいるのは俺とカノンの二人きりだ。なればこそ、カノンの心に俺の気持ちを届けたいのなら、こんな大人目線で物分かりのいいことを口にするべきではなかった! 腹を割ってきちんと話をしようと、たった今、自分で口にしたはずなのに、本当に何もわかっていないのは俺のほうだ!!!

「カノン……ごめん! 違うんだ! 俺は、ただ……っ」

「僕がいなくても! シルヴァはいつも楽しそうに笑ってるくせに!!!」

 カノンから発せられた渾身の叫びに、俺は思わずよろめいた。

「……そんな、ことは……」

「嘘つき!!! リアムも、クルスも、ギュスターも、みんな早く仲直りしろって言うくせに、僕がいなくてもいつも楽しそうにシルヴァと一緒にいる!!! ずるい! ずるい! みんなずるい!!! 中庭の修復だって、本当は僕も手伝いたかった! でも、いつもいつもあの人が来ていて、全部全部あの人のせいなのに、みんな当たり前みたいにあの人と仲良くしていて、僕なんかいなくてもすごく楽しそうで、僕だって仲直りしたかったのに!!! 僕なんかいないほうが本当はいいくせに!!!」

 大泣きしているカノンをぎゅっと抱きしめ、俺は何とかなだめようと口を開いた。

「カノン、違う……! それは違うよ!」

「違く……っ、ない……!」

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら盛大にしゃくり上げているカノンの背を優しく擦りながら、俺はできるだけ穏やかに言い聞かせた。

「……カノン、俺はカノンが大好きだよ。リアムも、クルスも、ギュスターも、みんなだってそうだよ。本当は研修なんて行ってほしくない。カノンと仲直りして、ずっと一緒に楽しく過ごしたい。でも、研修が決まったってことは、カノンの竪琴の腕が認められたってことだ。俺の大好きなカノンの竪琴の音色が、いろいろな人にも聴いてもらえるなんて本当にすごいんだよ。カノンのこと、独り占めしたいのを俺は我慢してるんだ。だからカノンは研修中にあったこと、全部全部覚えてなきゃダメだよ。ここに帰ってきたら俺に全部全部聞かせてもらうから。俺がカノンからいろんな話を聞かせてもらうの大好きなの、よーく知ってるだろ? カノンが元気な顔を見るのを、俺は本当にすごーく楽しみに待ってるんだからな」

 よしよし、と何度も背中を撫でているうちに、カノンのしゃくる声が少しずつ小さくなっていき、俺はほっとしてその涙に濡れた顔を覗き込んだ。が、そのままポケットからハンカチを出そうとして、俺は思い出した。俺のポケットに今あるのは自分の汚れたハンカチと、ラチカから借りたハンカチだけだ。

「……ちょっと待ってて」

 俺はカノンから離れると、ベッドの下の引き出しから清潔なハンカチを出し、枕元に飾っていたそれにふと目を止めた。どうしようか、一瞬すごく迷った。けど、彼女ならきっと許してくれるはずだ。それに近い将来、もしかしたら二人が仲良くなるきっかけになってくれるかもしれない。俺はそれを手に取りながら、目に焼き付けるようにじっと見つめ、カノンのほうに振り返った。

「……カノン、これ。荷物になってしまうかもしれないけど、よかったら持ってってくれないか。俺とカノン、リアムとクルスとギュスター。また、みんなでこんなふうに逢えるように。お守り代わりにさ」

 それは昨夜、中庭修復完了祝いの親睦会でトリーからもらった絵だった。俺にとっては本当に大切な大切な絵だ。トリーが描いてくれた俺たちの姿。この世界には写真がないから、こういった絵はただでさえ本当に貴重なものなのだ。何より、トリーが俺に贈ってくれたものを手放すのはすごく辛い。けれど数ヶ月とはいえ、幼くして見知らぬ人と旅立たなければならないカノンの心の一助となればと、俺はそれを差し出した。

 が、手に取ったその絵を目にした瞬間、落ち着きを取り戻していたカノンの表情が一気に強張った。

「……これ……」

「……カノン?」

「……これ、もしかして、あの人が描いた絵?」

 俺は少しだけ眉をひそめた。できるだけ声が尖らないように嗜める。

「あの人、じゃない。トリーだ。俺の大切な友達の名前は、ちゃんと呼んでほしい」

「……大切な、友達……」

「そう、トリーは俺の大切な友達だ。カノンと同じようにね。カノンだって、トリーとちゃんと話せばきっと仲良くなれるよ。今度の光の降臨祭だって、カノンと一緒に行きたいってみんなで話してたんだ。もちろん今年は無理でも、来年がある。それに月鏡祭までには帰ってこれるだろ? トリーもカノンと一緒に行きたいって言って……」

「僕は行かない!!!」

 不意に、カノンは大きな声で叫んだ。

「あんな人殺しなんかと、お祭りになんて行かない!!! 話だってしないし、名前だって絶対に呼んだりしない!!! 僕は……っ」

 パァン……ッと乾いた音が高らかに部屋に響き渡り、カノンは信じられないような顔で赤くなった自分の頬にそっと触れた。俺はじんじんと痺れるように痛む手のひらをきつく握り締め、冷ややかな目でカノンに言い放った。

「……こっちから願い下げだ。いくら何でも言っていいことと悪いことがある。俺の大切な友人を人殺し呼ばわりするのは誰であろうと許さない」

 カノンはぽろぽろぽろぽろ大粒の涙をこぼしながら嗚咽を漏らしたかと思うと、不意に持っていた絵を一気に破り捨てた。

「シルヴァのバカ!!!!! 大っ嫌い!!!!!」

 投げつけるようにその言葉を言い捨て、カノンは部屋から飛び出した。

「……………………」

 俺はのろのろと身を屈めると、床に投げ捨てられた二枚の紙を丁寧に拾い上げた。体の中が空虚だ。隙間風が入り込んできたように、すうすうと冷える。

 ……本当に、子供の癇癪もいいところだ。どうしてこんなことになった? 俺はどうすればよかったんだ? わからない……どうしたら俺は……。

 最初一枚だったその絵は、ちょうど真ん中に描かれていたカノンが引き裂かれ、二つに分かれてしまっていた。二度と元には戻らないその絵をそっと胸に抱き、俺はゆらりと立ち上がった。開け放たれたままの扉へと顔を向けると、まるで光でも差しているかのように、その人の姿が俺の目に映る。

 体が重い。だが、逃げることはできない。これは俺の責任だ。俺は引きずるような足取りでその人のもとへと向かった。そして小さな人影の前で足を止め、破れた絵をぎゅっと胸に押し付ける。卑怯だとわかっていたけれど、どうしても顔を上げることができないまま、俺は口を開いた。

「……トリー、すみません。せっかくいただいた絵を、破いてしまいました。本当に、すごく、大切な……素敵な絵だったのに……。本当に、本当に、ごめんなさ……っ」

 ここで泣いてはいけないとわかっていたのに、涙が溢れてしまうのを、どうしても止めることができなかった。絵のことだけではない。酷い暴言を聞かせてトリーを傷つけてしまった。いくら謝っても破れた絵は元には戻らないし、聞かせてしまった言葉も取り消せない。はらはらととめどなく落ちる涙をどうすることもできず、ただただ立ち竦んでいると、不意にトリーが俺の頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。

「……そんな落書き、またすぐに描いてあげるから泣かないの」

「……ありがとうございます、トリー。でも、俺はこれじゃなきゃ嫌なんです……」

 珍しく駄々をこねた俺に苦笑すると、トリーは言った。

「だったら綺麗に修復してあげるの。完璧に元には戻らなくても、ちゃんと飾れるようにしてあげるの」

「トリー……」

 謝罪、感謝、後悔、いろいろな感情がぐちゃぐちゃにせめぎ合い、結局のところ何一つ口にできないまま、俺はトリーに破れた絵を差し出した。

「……よろしく、お願いします……」

「任せるの。 こういうのは得意なの。大丈夫だから、もう気にしなくていいの。……ね?」

「……はい、トリー」

 最後は何とか涙を拭き、辛うじてぎこちない微笑みを顔に張り付けると、俺はようやく周囲に目をやった。廊下にはトリーの他にリアム、ラチカ、クルス、ギュスター、オルカに、香草水の入った椀を持ったセレストもいた。恐らく俺とカノンのやり取りを聞いていたのだろう。皆、何とも言えない面持ちで見つめ返してきた。だがカノンの姿は当然ない。つまり、カノンは今も一人なのだ。

 俺は素早くリアムに目をやると、言った。

「リアム、悪い。すぐにカノンを追いかけてくれ」

「わかった」

 間髪入れずリアムが階段に向かうのを横目で見ながら、今度はクルスとギュスターに言う。

「クルス、部屋にカノンの荷物がある。悪いが持ってってやってくれ」

「了解」

「ギュスター、俺のこのハンカチ……その、できればカノンに渡してくれないか」

「必ず」

 二人がそれぞれカノンのもとに向かったのを見届けると、俺はセレストに顔を向けた。

「セレスト、香草水ありがとうございます。俺はもう大丈夫です。だから……カノンのことをお願いします」

 セレストはまだ涙の色が残る俺の顔をじっと見つめたあと、思案深げに頷いた。

「……ふむ。では、君との話は明日にでもしようかの。シルヴァ、今日はもうゆっくり休むとよい」

「はい。ありがとうございます」

 セレストは俺に香草水の椀を渡すと、ラチカのほうをちらりと見やり、それから階段へと足を運んだ。

 俺は一度部屋に戻り、椀を自分の机に置くと、心配そうに入り口までやって来たオルカに顔を向けた。オルカは少し気まずそうに視線を泳がせたけれど、俺がオルカの前に立つと、覚悟を決めたように真っすぐ見つめ返してきた。俺は右手を自分の胸に当て、深々とオルカに頭を下げた。

「……オルカ。カノンのことを、どうかよろしくお願いします。俺のせいで、何というか、いろいろと万全ではなくなってしまいましたが、本当はすごくいい子なんです。だから、カノンへのご指導のほど、どうぞよろしくお願いします」

「……怒らないのか?」

「何を、ですか?」

 俺が顔を上げると、オルカは再び視線を泳がせ、言った。

「いや、だから……もっと早く、言わなかったことをだ。俺がカノンを連れて、今夜旅立つと。俺は少しでも君と一緒に過ごしたかったが、君は俺よりあの子と一緒にいたかったはずだ。違うか?」

 俺は瞬きを一つし、それから思案するように首を傾げた。

「……そうですね。でも、どのみちこの一連の展開は変わらなかったと思います。俺は慌てて駆けつけて、すぐにケンカ別れして。変わるとしてもせいぜい、カノンの旅立つ時間が少し早まって、俺とあなたが一緒にいる時間がその分減るだけです。だからあなたが気にする必要は何もないですよ。いろいろありましたが、俺もあなたと話ができてよかったですし」

 まじまじと俺の顔を見つめていたオルカは、深々と息を吐きだし、何とも言えない面持ちで言った。

「……君は、本当に大人だな。少しはその、何ていうか、癇癪を起したりしてもいいんだぞ。実際、俺が誰よりも自分の気持ちを優先して動いたことに変わりはない」

 自嘲気味に苦笑し、俺は肩を竦めてみせた。

「俺は大人なんかじゃありませんよ。大人のふりをした、ただの子供です。今も、昔も、ずっとね。正直、俺は大人に会ったことすら一度もありません。いくら年を経ても、肉体が老化していくだけでは、大人になんてなれないんですよ。そう簡単にはね」

「実に耳が痛い話だ」

「ああ……いや。すみません。これは俺自身に向けた言葉というか……こういうところがね。いつまで経っても大人になり切れないというか。面倒臭くてすみません。できれば聞かなかったことにしていただけますか」

「いや。忘れないよ。君の言葉はどんなものでも、俺にとっては大切なものだ」

 大真面目に繰り出されたオルカの言葉に、俺は改めて首を傾げた。

「本当に、俺のどこがそんなに気に入ったんですか? 実際、まだまともに話もしていませんよね。単に俺の見た目が好きってわけでもないでしょう?」

「君の見た目も、もちろん好きだけどね。確かにそれだけではないし、言葉を交わすことが全てというわけでもない。もし、また君に逢うことができたら……その時に話をしよう。今度こそ、いろいろとね。本当は君とずっと一緒にいたい。だが、君を連れていくことは絶対にできないから」

「まあ……そうですね。俺の実力じゃあ、研修には連れていけませんよね。これからは本気で頑張ることにします。カノンに追いつけるように」

「そういう意味じゃあ……いや、そうだな。次に逢ったら、今度こそ君の歌を聞かせてもらう。だから、その時まで楽しみにしている」

「わかりました。では……」

 暇の言葉を告げようとした俺に、オルカはそわそわと両手を握り締め、言った。

「そ、その前に……最後に一つだけお願いがあるというか……」

「何ですか?」

「だから、その……最後にもう一度だけ……いや、やっぱいい!!! 君が嫌がることはしたくないんだ!!!」

 ぐっと拳を握り、懸命に言い放ったオルカの様子からお願いの内容に思い至り、俺は微苦笑した。

「別に、嫌ではないですよ。ちゃんと、節度を保ってくれるのであればね」

「……え。いや、でも……」

 躊躇しているオルカに向かって、俺は軽く腕を広げてみせた。

「どうぞ、オルカ。今度は暴れませんから」

「────────シルヴァ!!!」

 実際、この不審な英雄(仮)にどうしてそこまで気に入られたのかいまだに不明だが、今のところは大型犬に懐かれたようなもので特に実害はない。ガバッと大きな動作で抱き着かれた割には、オルカの長い腕がふわりと背中に回され、俺は風のように優しい抱擁を受けていた。

 温かい。さすがイケメンだ。先程はそれどころじゃなくて気づかなかったが、爽やかないい香りがする。俺がオルカの背に腕を回すと、その鼓動が少し早まるのが聞こえた。

「……オルカ、あなたに風の祝福がありますように。どうか無事に帰ってきてくださいね」

「……ああ、行ってくる」

 しばらくしてオルカがそっと体を離してくれたので、今度は俺から軽くぎゅっと抱きしめ、それからパッと離れた。自分から抱き着くのはやはりちょっと照れるな。さすがに予想外だったのか、オルカも少しあわあわしている。

 その間に俺は素早く自分の首にかけていたガラスの小瓶のペンダントを外すと、オルカに差し出した。

「オルカ、これをあなたに預けます。カノンの様子が落ち着いたら、これを渡してやってくれませんか」

「……これは?」

 小瓶の中に入っている水を覗き込みながら、オルカが尋ねた。

「このガラス瓶は、俺が村を出るときに、父が作って贈ってくれたものです。いつもお守り代わりに俺が身に着けていたんですが、旅の間だけでも、カノンに持っていてもらいたくて。でも、貸すだけですから。必ず返しに来てくださいね。それは俺にとって本当にとても大切なものなので」

「……………………わかった」

 思ったより長い沈黙のあと、オルカは重々しく頷き、俺からガラスの小瓶のペンダントを受け取った。そして改めて小瓶の水を眺める。

「……これは、水か?」

「はい。俺が村を出る前に、能力で空気中から集めた水です。水もそのまま返してくださいよ」

 口には出せないが、この水は俺と故郷との大切な繋がりだ。

「……わかってる」

 純粋な水の民ではないのでどこまで承知しているかは不明だが、俺より遥かに高い能力を持っているはずのオルカにはむしろ釈迦に説法かもしれない。オルカはペンダントを胸元のポケットに丁重にしまうと、不意に身を屈め、俺の額に軽く唇を触れさせた。

「……ふにゃっ?」

 思わず変な声を上げてしまった俺に悪戯っぽく微笑むと、オルカは片手を上げて背を向けた。

「じゃあな、シルヴァ。君に風の祝福がありますように」

「あう……」

 最後の最後でやってくれるではないか! これだからイケメンは! さては俺を惚れさせる気だな!

 俺が硬直している間にオルカは視界から姿を消し、何故かぶすっとした面持ちのトリーが言った。

「まったく、油断も隙もないの! とにかく、私も一度部屋に戻るの!」

「あ、はい。おやすみなさい、トリー」

 急にぷりぷりしながら去っていくトリーの後姿を取り敢えず見送り、それから俺は最後に一人残ったラチカに目をやった。

「ラチカもそろそろ部屋に戻りますか? 研修から帰ったばかりなのに、今日はいろいろあって疲れましたよね。あ、というか、ラチカもカノンの見送りに行きたいですよね! 俺はもう大丈夫ですから、気にせずに行っていいですよ」

 俺の言葉を聞くと、ラチカは呆れたように嘆息し、わしゃわしゃと俺の髪を乱暴に掻きまわした。

「ちょっ……もう! いきなり何するんですか!」

「何かムカついた」

「理不尽!」

「理不尽じゃない。大人じゃねえなら、大人のふりなんかするな。お前はまだ大丈夫じゃないし、俺は気にする」

 仏頂面で繰り出されたラチカの言葉に、俺は思わず目を見開いた。

「それは……」

「大体、今はみんなあいつのとこに行ってんだ。俺一人いなくても気づきもしねえだろ。つーか! それだと今度はお前が一人になっちまうだろーが! お前が……一人になりたいってんなら別だけど」

「……俺は……」

 どうしたいんだろう。一人になりたいのか? それとも……。

 ややトーンダウンしたラチカの声を聴きながら、俺が自問自答しかけた、その時。ラチカが半ばキレ気味に俺の呟きを遮った。

「いや、ちょっと待て! やっぱ今のはなしだ! お前が一人になりたかろうが、一人でも平気だろうが、関係ない! 俺がお前を一人にしたくないから、ここにいる! 俺が今、そう決めた!」

 俺は改めて目を見開き、その今にも噛みつきそうなラチカの顔を見つめた。瞬間、俺の中で何かが吹っ切れたような気がした。

「……ふ、……っはは! 何か、すごい、強引ですね。さすがラチカです」

 くすくす笑いながら俺が言うと、ラチカはむすっとして口を開いた。

「つーか、強引なくらいじゃなきゃ慰めることもできないとか、お前のほうこそ何なんだ。こんな時くらい、ちったぁしおらしくしてみろってんだ! いくら何でも可愛げがなさすぎるんだよ!」

「……え~っと……」

 何でいきなり俺が責められてんの? とはいえ、その勢いに俺がタジタジしていると、ラチカは指を突き付け、さらにまくし立てた。

「っていうかなぁ、言いたいことは他にもある! あれほど警戒しろと俺が言ったのに、お前は何ひょいひょいオルカの奴に抱き着いたりしてるんだ! おまけに隙だらけときた! クソっ! 能天気にも程がある! お前には危機意識ってもんがねえのか! ああ?」

「……あう……」

 言いたいことはわかるが、もっと言い方ってもんがあるはずだ。それにセレストがカノンを預けるくらいなのだから、少しは信用してもいいだろうとか、こちらとしてもいろいろ反論したいことがないわけではない。けど、ラチカが俺を心配してくれているのは確かだ。それに俺がまだ大丈夫じゃないのも間違いはない。しかし、ならば何故、今この時にネチネチと叱られねばならんのか。それこそ理不尽だ! お前のほうこそ俺をちゃんと慰めろよ!!!

 もはや支離滅裂ではあるが、俺は思いっきり膨れっ面になると、半ば八つ当たり気味にラチカにぎゅっと抱き着いた。ラチカも少しは動揺するかと思ったら、意外にもすぐに優しく抱きしめられ、俺は不覚にも頬が熱くなってしまうのを感じた。憎まれ口の一つや二つ、言われると思ったのに。というか、むしろ言ってくれたほうがよかった。

 何だかなぁ。いろいろと調子が狂う。それにラチカの匂いはどこか優しくて、懐かしい。俺のささくれ立った気持ちを否応なくなだめてしまう。俺はこの心地よさへの無駄な抵抗を放棄し、そっと目を閉じた。

 ……何かもう、今日は泣いたり泣いたり泣いたり、忙しくて頭がよく働かない。風呂だって……まだ入ってないのに。考えなきゃいけないこととか、たくさん……。それなのに、ラチカの温もりに包まれていると、安心して、体に力が入らなくなってくる。

 どうやら俺はラチカに抱き着いたまま、いつの間にかうとうとしていたらしい。不意に体がふわりと持ち上げられるのを感じた。

「……今日はもう寝ろ」

 ……でも、歯を磨かないと……風呂もまだ……。

 声に出したつもりなのに、体が重くて動けない。そのまま引きずり込まれるように、俺の意識は急速に闇へと沈んでいった。


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