第9話 腐女子、英雄(仮)に溺愛される

「……で、お前が昔好きだった人ってのは、一体どんな奴なんだ?」

 午後の授業終了の鐘が鳴って間もなく、俺とラチカのいる裏庭にリアムたち三人とトリーがやって来ると、どんな話をしていたのかラチカに根掘り葉掘り問い詰め、最終的に何故か俺が仏頂面のリアムから詰問される羽目になっていた。

「っていうか前に聞いた話だと、お前の村は辺境にあって、セレストに会うまで水の民以外見たことがないって言ってたよなあ? で、お前が好きだった人の弟にラチカが似ていて、そのラチカの髪は水の民の銀色だ。けど、髪の色が全然違うから最初気づかなかったってのはどういうことだ。弟が水の民じゃないなら、お前が好きだった奴も当然、水の民じゃなかったことになるよなあ? 混じり者を見るのはトリーが初めてだって言ってたし。そこらへんのところ、頭の悪い俺にもわかるようにちゃんと説明してくれよ。なあ、シルヴァ?」

「あう……リアム、近い。っていうか、怖い……」

 何ということでしょう! 全て本当のことだが、一部この世界に全く関係ない、そもそも実在すらしてない人物が混ざってるからな……。同列に語るとどうしても矛盾が生じてしまうことになる。だがこの程度の矛盾、うまく誤魔化せなくてどうします! 伊達にあの世は見てねぇぜ! もっとも厳密には、俺はあの世を見る間もなく異世界転生してしまったわけだが、取り敢えずいいことにしよう。

 俺は軽く咳ばらいをし、雁首揃えて説明を待っている友人たちをぐるりと見回した。リアムたち三人とトリーは新たな矛盾を見逃すまいとするように、じっとりと俺を睨んでいる。ラチカはそんな俺たちの様子を呆れた目で眺めながらも、俺がどう言い逃れるのかと一応は聞き耳を立てているようだ。

 降参したように肩を竦め、俺は言った。

「わぁかった! ちゃんと説明する! けど……いいか、お前ら笑うなよ。本当はあまり言いたくないというか……ちょっと恥ずかしいというか……」

「いいぜ。笑わない。約束する」

 即答したリアムの顔をじっと見つめ、それから俺はようやく口を開いた。

「……俺が昔好きだった人ってのは、この世界にはいない」

「…………は?」

 意味がわからない、といった面持ちになった友人たちに、俺は続けて言った。

「いや、いるかもしれないが、俺は会ったことがない。伝説の英雄……オルカミルの話はお前らも聞いたことあるだろ? あの銀の悪夢をやっつけたという……」

 リアムたちは顔を見合わせ、確かめるように言った。

「恐ろしくデカい銀色の怪鳥を倒したって話だろ? 数あるオルカミルの伝説の中でも、特に有名なヤツだ」

 思わず笑顔になると、俺は拳を握り締め、力強く頷いた。

「そう! それだよ! 人を惑わし、家畜を食い荒らし、大きな街を壊滅させた巨大な鳥を、たった一人で倒した混じり者の英雄! 怪鳥と相打ちになって一度は死んだと思われていたけど、数年後に見事復活したという、まさに英雄の中の英雄だ。滅茶苦茶格好いい!!!」

 一人で興奮している俺に、周囲からの冷ややかな眼差しが否応なく刺さったが、構わず続けた。

「さっきリアムも言ったように、オルカミルの伝説は時代を超え、この世界の各地に数多く残っている。まだ風の民がいた創世の頃から、割と最近では五十年ほど前にも伝説を作っているんだ。そして常に語られるその姿は、漆黒の長い髪に青い瞳の美青年、つまり不老不死の可能性すらあるんだよ!」

「……おう、そうだな。聞いたことある」

 淡々と繰り出された相槌にもめげず、俺はとっておきの情報を口にした。

「ふっふっふ。実はあまり知られていないが、俺の村にも遥か昔にオルカミルが立ち寄ったという伝説が残ってるんだ。彼は村の近くにある森で竪琴を掻き鳴らし、その美しい音色で視界を遮る濃い霧を払った。そして奪われた封印の星屑を魂の誘い人から取り返したんだ。その時の記録として、村にはオルカミルの絵がたくさん残されている。そこには同行していたオルカミルの弟も描かれているんだ。他の伝説にも、たまにオルカミルの弟が出てくるだろ? もっとも、弟のほうは髪も瞳も漆黒の闇の民だし、片親違いみたいだけど。で、そのオルカミルの弟がラチカに似ているんだよ! 髪の色は違うけど」

 じっと耐え忍ぶような面持ちで俺の話を聞いていたリアムは、ハイライトの消えた眼差しで言った。

「……つまり、お前の昔好きだった人ってのは伝説の英雄、オルカミルのことか?」

「そうだね! まあ、今でも好きだけどね! 以前ほどじゃないけど。やっぱオルカミル格好いいよね! 伝説の英雄とか、最高! 本当は村を出るとき、一枚くらいオルカミルの絵を持ってきたかったんだけど、駄目だった。村の宝だから仕方ないよね~っ!」

「いやいやいや、お前、村の宝をさらっと外に持ち出そうとしてんじゃねえよ!」

 笑っている俺に鋭いツッコミを披露したあと、リアムは深々とため息をついた。

「……そういうことなら、納得はするけど。オルカミルの絵はともかく、弟の絵も残ってるとか珍しいよな。俺も弟の話は聞いたことあるけど、絵は見たことない」

「ああ、でも数はすごく少ないよ。弟は風景の一部みたいに、オルカミルの隣に描いてあるだけだし」

「そんなのよく見てたな。お前が好きなのは弟じゃなくてオルカミルのほうだろ? たまに弟が出てくる話でも、別にそんな活躍するわけでもないし」

「いやいや! そこがかえって妄想のはかどるところというか! 禁断の兄弟愛とか! 知られざる兄と弟の葛藤とか! あるでしょ!!!」

「知らねえよ! つーか結局、それだとお前が好きなのって人より伝説だよな? オルカミルが不老不死なら、お前だって本人に会えるかもしれないんだぞ? 兄弟の関係とかどうでもいいだろ! 本物のオルカミルと話をしてみたいとか、そういうのはないのかよ?」

「……興味ない」

 すっと表情の消えた俺を見ると、リアムは全力で喚いた。

「興味持てよ!!!」

「え~……」

「え~……っじゃない!」

「いやいや、ちょっと待て。冷静に考えてみろ。みんなが知るあの輝かしい伝説の真相がとてつもなく貧相なものだったらどうする? 品行方正だと信じていた英雄が、実はただの犯罪者だったとしたら?」

「え、いや、そんなことが……」

「あるんだよ。というか、現実とは得てしてそういうものであることが多い。だから俺は何も知りたくない。理想は理想のまま、オルカミルには綺麗な姿のまま俺の中にいてほしいんだよ。大切で、大好きだからこそ、俺はオルカミルには絶対に逢いたくない」

 恭しく天を仰いだ俺に白けた目を向けながら、リアムたち三人とトリーは肩を竦め、口々にぼやいた。

「何だかなぁ……」

「肩透かしなの」

「もっとこう……」

「可愛い女の子とか……」

 ……ん? あれ? みんな俺の話の矛盾点が気になってたんじゃないの? もしかして本当に知りたかったのは、俺の好みのタイプだった……? ……いや、まさかね。

 と、不意に視線を感じ、俺が顔を向けると、少し離れたところにいたラチカが意味深に肩を竦めてみせた。おう……こやつ、本当に油断ならないな。

 俺がそっとそばによると、ラチカは小さく鼻で笑い、落とした声で言った。

「お前、本当に尻尾を出さないよな」

「何のことですか?」

 すました顔で答えたが、ラチカは俺に構わず続けた。

「まあ、一応及第点なんじゃね? 取り敢えずリアムの奴もこれ以上は突っ込めないみたいだし。完全に納得したかはわからないけどな」

「リアムはああ見えて結構、頭いいんですよね……。っていうか、ラチカはさっきの俺の話、何か引っかかることでもありました?」

「いや? ないよ。全く、微塵もあるわけがない。だろ?」

 ……あるんだな?

 わかりやすく煽ってきたラチカを反射的に睨んだものの、俺はすぐに肩を竦めてみせた。

「ま、いいですよ。どうせあいつらに言うつもりはないでしょう? それなら別に構わないです」

「お前のそういうとこな。ホント、むかつく」

「お褒めにあずかり、恐悦至極です」

 全力の笑顔を向けた俺に呆れた顔をしつつも、ラチカは言った。

「……ま、嘘はついてないよな。けど、質問と答えの好きな人は、同一人物じゃない。違うか?」

 ……正解。ま、俺にとってはどちらも二次元の存在だから、大して違いはないんだが。

「まったく、敵には回したくない人ですよね」

「そりゃ光栄だな」

 俺とラチカが静かに牽制し合っていると、リアムがムッとした面持ちでズカズカ近づいてきた。

「お前ら、さっきから何こそこそやってんだよ? つーか、ラチカてめえ、俺はまだ認めてないからな! 勝手に友達面してんじゃねえ!」

「ああ? てめえこそ関係ねえだろうが! 余計な口挟んでくるんじゃねえ。嫌ならてめえがどっかよそに行け。このクソ貴族が」

「んだとぉっ?」

 わちゃわちゃと楽しい会話が繰り広げられるのを耳にしながら、俺は中庭に向かって歩き出した。

「あ~、腹減った。夕飯は何食おうかな……」

「あ、シルヴァ! 何事もなかったように逃げるな!」

「ふぉっふぉっふぉっ。ここは若い者たちに任せて、年寄りは退散しようじゃあなぁ~いか!」

「お前が一番若いくせに何言ってんだ! ホント、時々わけわからないこと言うよな……」

 さっさと戦線離脱した俺を追い、リアムとラチカ、それにクルスとギュスター、トリーが加わって、ぞろぞろと中庭に戻る。光の季節は、竜の息吹が天にとどまる時間が少し長い。橙色の夕暮れの中、いつの間にか増えた仲間たちの声が耳に心地よく響く。こんな日がいつまでも続くといい。そんなセンチメンタルな気分に浸っていると、渡り廊下を歩くセレストの姿が俺の目に飛び込んできた。

「セレスト! やばい! 久しぶり過ぎて嬉しい!」

 残念ながら声が届く距離ではなかったので、俺はセレストに向かって大きく手を振ってみせた。セレストは旅支度姿の背の高い黒髪の男と話をしているようだったが、俺に気づくと笑顔で手を振り返してくれた。セレストが一人だったら駆け寄って僅かでも言葉を交わしたいところだが、客人が一緒のようだから今回は断念しよう。俺は大人の気遣いができる子供だからな。

 とはいうものの、せっかくの御尊顔なので、遠目からでもしっかり焼き付けようと、俺はキラキラした眼差しでセレストを見つめた。ああ……やはり良い。侘びと寂びにも通じる枯れた色気が堪らんな。

 念のために言っておくが、俺は決して枯れ専ではない。枯れ専ではない……が、若くて美しいだけのものにはない独特の良さが、そこにはあるのだ。ただ年を取って汚くなるのは簡単だが、セレストには凛とした精神が宿っているのが一目でわかる。アンチエイジングとかいって見た目だけ若作りしても、セレストの年季の入った皺の美しさには敵うまい。そういう意味では先程話題に出た不老不死も、それに伴う精神が宿っていなければ、それほど価値を感じる代物ではない。まあ、あくまでも個人的な意見だが。

 うっとりとセレストを眺めている俺に気づくと、リアムが何とも言えない面持ちで嘆息した。

「……お前、ホント、セレストのこと好きだよな。確かにお前をこの館に入れてくれた恩人みたいなものだし、優しくていい人なんだろうけどさぁ。はっきり言って爺さんだろ? どこがそんなにいいんだよ」

「全部」

 即答した俺にちらりと目をやり、ラチカがリアムに向かって鼻で笑ってみせた。

「祖父と孫みたいな感情だろ? お前のほうこそ、こいつに執着しすぎなんじゃないか? 男のやきもちはみっともないぜ」

 ラチカの煽りすらスルーし、リアムは顔を曇らせた。

「いや……本当にそれならいいんだけどさ。俺も最初は、孫が爺さんに懐いてるみたいなもんだと思ってたんだ。けど、しばらく様子を見ているうちに、何かそうじゃない気がして……」

「少なくともシルヴァがこの館で一番好きなのは、セレストで間違いないの」

 不意にトリーが深刻な面持ちで口を挟み、クルスとギュスターがうんうんと頷いた。

「そうですよね」

「俺もそう思います」

「それのどこが問題なんだ?」

 首を傾げたラチカに、皆が口々に言った。

「問題だろ!」

「むしろ問題しかないの!」

「そうだぞ!」

「この面子で敵う奴が一人もいないじゃないか!」

 ギュスターが口にした決定打にそれぞれ黙り込み、ラチカがああ……と呆れた顔をした。

「そもそもカノンならともかく、セレストが相手とか話にならないだろ!」

「年齢が違い過ぎるの!」

「っていうか、普通にやばいでしょ!」

「っていうか、意味がわからない!」

 詰めかけた面々に取り敢えず頷き、ラチカは言った。

「……まあ、そうだな。けどお前らさっき、シルヴァはカノンを溺愛してるって言ってなかったか?」

「溺愛はしてる。今はカノンのほうがやきもちを拗らせて、完全にシルヴァを無視してるけどな」

 リアムが答え、トリーが付け加えた。

「カノンはお子様なの。セレストとは正反対なの。もしかしたらカノンと仲直りできれば、変な道に足を踏み外したシルヴァを救えるかもしれないの!」

「おお!」

「さすがトリー!」

 いい加減、外野の騒音を放置しているわけにもいかなくなり、俺は貴重なセレストの御姿から渋々視線を外した。わちゃわちゃと楽しそうなやり取りをしている友人たちに目をやり、深々と嘆息する。

「変な道って何ですか、トリー。俺は別にそんなんじゃないですよ。セレストに何かしようとか、そんな不埒なことは考えてません」

「いやいやいや! お前のその発想が怖いんだよ!」

「普通はそんなこと思いつきもしないの!」

「何かしようって何っ?」

「ホント何っ?」

 ドン引きしている友人たちを眺めていたラチカは俺を横目で見ると、同じく少し青ざめた顔で言った。

「悪い……。ちょっと勘違いしてた。やっぱ、こいつやべーわ。お前らがマジで心配するわけだ」

「わかってくれて嬉しいの。シルヴァのことは好きだけど、それ以上に心配なの」

「この際お前で我慢してやるから、こいつを何とかするのに協力しろ!」

 おお、あのリアムがラチカに頼みごとをするほど、俺はやばいと思われているのか。まあ、確かに十一歳のショタが祖父ほど年齢の離れた相手に熱い眼差しを送っているとか、普通に考えたらちょっと……いや、かなり……いや、ものすごくやばい絵面だな?

 何てこった! 俺は友人たちに変態だと思われていたらしい。恥ずかしながら、俺もラチカと同じ勘違いをしていた。いよいよハーレム展開キター! と思っていたら、本気で超絶心配されていただけだった。うわあ、恥ずかしいことこの上ない。

 と、俺が目を離していた隙に用事が済んだのか、渡り廊下で立ち話をしていたセレストが一人で導きの塔へと戻っていくのが見えた。いつもなら盛大にがっかりするところだが、さすがに今ははばかられたので、小さく嘆息するにとどめる。もっとも、それでも心配そうな視線は飛んできたが、そこはおいおい何とかすることにしよう。

「まあまあ、取り敢えずそれは置いといて、夕飯を食いに……」

 ふと、こちらを向いている友人たちの視線が俺の背後に集中していることに気づき、言葉を切った。そのまま何気なく振り返った俺の目に飛び込んできたのは、先程セレストと話をしていた旅支度姿の男だ。中庭を真っすぐ突っ切って来る男を訝しげに見やった俺は、友人たちが彼を凝視している理由に気づき、思わず声を上げるところだった。

 何か……すごくオルカミルっぽい!!!

 漆黒の長い髪は遠目からでも当然わかっていたが、ここまで近づいたことで彼の瞳が青いのがよく見える。さすがに散々言われたところだったので、瞳の色とその意味に注意していたのが功を奏した。

 というか、ただでさえ珍しい闇と水の混じり者、年齢は二十代後半あたり、そして何より伝説通りの超絶美形!!! 何このタイミング!!! あり得ないだろ!!! え、本物? 本物なの? そもそも何でここに……いや、こっちに向かってきてるわけ?

 伝説の英雄によく似た外見を持つその男の標的が、この俺自身だと気づいたときには遅かった。

「やっと逢えた! ずっと逢いたかった!」

 ぎゅっと抱きしめられ、男の引き締まった胸から直接響いたその声は、俺が昔好きだった人、の中の人と同じだった。

 スダケンさん────────っ????? 何、何なの????? この究極のコラボみたいな組み合わせはっ????? もはや世界の意志すら感じるよ?????

 ……とはいえ。これは一体どういう状況? 幾度か貴重な声と遭遇してきた今までとは著しく異なり、俺は興奮する間もなくすっと目を眇めた。

 見た目や声に対する俺の個人的な好みはともかく、俺にとってこの男が見知らぬ成人男性であることに変わりはない。いきなり抱き着くとか、俺が腐女子アバター装着時なら普通にセクハラだし、まして今のアバターはショタだ。はっきり言って、どう考えても事案でしょ。

 いくらイケメンに限る、とかいう謎の免罪符が世間に横行しているとはいえ、これはないわ~。健全な腐女子の精神を宿す俺としては、完全にアウトだ。ショタ時代からゆっくりとプラトニックに愛を育て、やがて時を経て結ばれる純愛展開なら大好きだが、性欲を持て余した小児愛者とかただの犯罪者でしかない。

 だがまあ、早計は禁物だ。誰か知り合いと勘違いしているだけかもしれないし、親しい知り合いなら挨拶の範疇であろう。ここは一応屋外で、周りには俺の友人たちがおり、少なくともこの男はセレストと知り合いのようだ。これらを鑑みた俺は冷静さを保ちつつ、何とか礼儀正しく口を開いた。

「……すみません。ちょっと離れていただけますか?」

 離れてはくれなかったが、抱きしめる腕を少しだけ緩めてくれたので、俺は顔を上げ、改めてまじまじと男の顔を見やった。できるだけ不信感を出さないように問う。

「えっと……どちら様ですか? 俺はあなたに会ったことはないんですが」

 男は意外なことを耳にしたように瞬きを一つし、それからようやく気づいたように言った。

「……確かに、君とちゃんとこうして逢うのは初めてだ。君が俺のことを知らないのも無理はない。でも、俺はずっと君に逢いたかった。今、こうして君に逢えて、君に触れて、君の声を聴くことができて、本当に嬉しい。ずっと……ずっと君とこうして話がしたかった」

 一見無表情で口調も淡々としていたが、俺に向けられる男の眼差しには熱が感じられる。一方的な想いが籠った言葉といい、俺はぞわっと怖気立った。何それ、普通に超怖い。ストーカー? ストーカーなの? が、下手に刺激して危害を加えられる事態は避けたいので、取り敢えず丁重にお願いした。

「なるほど。では、そこらへんの事情も詳しく伺いたいので、一度ちゃんと俺から離れていただけますか? 適切な距離を保ってお話ししましょう」

 事務的な口調で俺の解放を促したものの、男は反対にぎゅっと強く抱きしめた。

「もう少し、このままでいたい」

 最愛の恋人ならいざ知らず、見知らぬ成人男性が初対面のショタを抱きしめて口にしてよいセリフではない。が、俺は極めて辛抱強く言い聞かせた。

「いや……本当に申し訳ないんですが、一度ちゃんと離れてください。俺としても、知らない人にいきなりこんなことをされても、非常に困ります」

 一応は丁寧な言葉を選びつつも、俺は男の抱擁をぐっと押し返そうとした。が、恐ろしいほどにびくともしない。遠慮している場合ではないので、これでもかと全力を振りぼっているのに、男はまるで何も感じていないかのようだ。むしろ愛しげに俺を見つめて微笑んだ。

「大丈夫。君を怖がらせるようなことは何もしない」

「いえ、もう十分怖いです。まずは俺を放してください。それから、あなたが俺を知っている理由を聞かせてください。そのほうがより友好的に話を進められるでしょう」

 間違えたフリをして俺は思い切り男の足をぐいぐい踏みつけたが、うんともすんとも言わないどころか、改めて強く抱きしめられ……いや、拘束されてしまった。

「話なら、このままでもできる。ずっと……ずっとこうしたかった。叶うことならいつまでも、こうして君の温もりを感じていたい……」

 ぞわぁっと恐怖に怖気立ち、俺ははっきりきっぱり言い放った。

「俺が、このままでは嫌なんです! とにかく一度、俺を放してください!」

「恥ずかしがらなくても大丈夫。誰も気にしない」

 違えぇえぇえ…………っ!!!!! 何っだ、このクソほど言葉の通じねえ死ぬほどクソみたいなクソ野郎はっ!!!!! マジでクソだな!!!!!

 俺の中で何かがブチっと音を立てて切れるのがわかった。

「……いい加減にしろ。さっさと俺から離れろって言ってんだ!」

 男はちょっと驚いた顔をして首を傾げたものの、どんなに言葉を尽くしたところで俺を放すつもりはないようだ。第一、これ以上抵抗しようにも、あまりにも力の差がありすぎる。俺が全力で腕を突っ張って足を踏みつけようとも、男はどこ吹く風といった様子で、この檻から抜け出せる気が全くしない。

 ちらりと周囲に目をやると、俺の友人たちもとっくに戦闘態勢で男を取り囲んでいた。だが、俺が人質状態になっているせいで、いつもなら直情型のリアムやトリー、ラチカも手を出しかねている。隠密行動に長け、状況判断が得意なクルスとギュスターも、今はどう動くべきか迷っているようだ。確かにこの男には隙がない。

 が、ただでさえ非力で、しかも皆の足を引っ張ったままでいるとか、これでは俺が友人たちに顔向けできないではないか。俺は一つ覚悟を決め、言った。

「最後の警告だ。今すぐ俺を放せ」

「……何故?」

 何故、とな?

「てめえが嫌だからに決まってんだろ!!!」

 瞬間、俺は男の腹に当てた手に意識を集中し、男の体内にある水分を一気に動かした。

「っ────────ぐはっ……………………!!!!!」

 俺を突き放すように離れると、男は腹を折るように後ろに数歩下がり、口元を抑えながら地面に膝をついた。胃液を吐瀉している男と俺の間に、左右からリアムとラチカが素早く立ち塞がる。己の技量以上の能力を無理に使った反動でよろめいた俺を、クルスとギュスターが後ろから支えてくれた。そして真打登場とばかりにトリーが男の前に立つ。

「……さて。私の大切な友人に手を出した報いを受けてもらうの」

 トリーの手のひらでバチバチと青白い静電気が大きく爆ぜる。

「ちょ……待て。俺は怪しい者じゃない」

「怪しいかどうかはこちらが決めることなの」

 静電気がさらに大きくなり、トリーが放つ構えをすると、男が慌てたように口を開いた。

「待て、待て待て待て! 話を聞いてくれ!」

「お前のほうこそ、こちらの話を聞くべきだったの。何度も離れろと言ったはずなの。話を聞かなかったのはお前のほうなの」

「わかった! 悪かった! 誰かと話をするのは久しぶりで、つい……」

「そ。じゃあ、お前が誰かと話をするのはこれが最後なの」

 トリーが静電気を放とうとした瞬間、男が叫んだ。

「セレスト! セレストを呼んでくれ! 俺は竪琴の奏者で、セレストの古い知り合いだ! そうでもなきゃ、部外者が館の中庭にまで入れない。そもそも俺がセレストと一緒にいるところは見てただろ!」

「大丈夫、お前はちょっと気絶するだけなの。セレストには後でちゃんと謝っておくの」

 トリーを懐柔するのは無理と悟ったのか、男は俺に向かって必死に言った。

「俺はただ、君に礼を言いたかっただけだ! できれば、君の歌をもう一度聞きたかった! それだけなんだ!」

「……歌?」

 訝しげな顔をした俺に気づくと、男はトリーを気にしつつも軽く咳ばらいをし、記憶を辿るようにそれを口にした。

「……にずぃ~にょ~、やくーしょーうく~……って歌、あっただろ? あれをもう一度、君の声で聞きたかった!」

 瞬間、俺はその歌にはたと思い至り、同時にいくつもの疑問点や確認すべき事柄ができてしまったことに気づいた。音程が少し外れているのと、日本語の発音があやふやで一瞬わからなかったが、間違いない! 男が耳にしたという歌はアニソン『虹の約束』だ! しかしこの世界の歌ではないので、人前で歌ったことはない。唯一、セレストを除いては。俺は大きく息を吐きだすと、言った。

「トリー、非常に残念ですが、少し話を聞く必要ができてしまいました。申し訳ありませんが、それはまた今度にしましょう」

 トリーは俺の顔をちらりと確認し、バチバチと凶悪に爆ぜる静電気の塊を消した。

「お前がそう言うなら今は仕方ないの。でも、続きをしてほしかったら、いつでも遠慮せずに言ってくれて構わないの」

「ありがとうございます、トリー! その時は是非お願いしますね!」

 にこやかにトリーとやり取りしている俺を見ると、男は地面に座り込んだまま深々とため息をついた。

「俺にもその笑顔を向けてほしかったなぁ……」

「嫌です」

「身の程を知るの」

「この不審者が」

「変態」

「最悪」

 最後にラチカがチッと盛大に舌打ちし、男は大きく肩を落とした。

「……やべー。最近の子供って怖い。今の教育はどうなってんだ……」

「みんなで力を合わせて不審者から仲間を助け出したのですから、むしろ優秀なのでは?」

 警戒を怠らぬようにしつつも、俺はぼやく男に接近し、適度な距離を保って立ち止まった。ここでまた捕まったら元も子もない。体のふらつきは治まったが、さっきの能力はしばらく使えないだろう。他者の体内という、物理的に完全支配下にある不純物の多い水分に意識を乗せ、操るとか、一瞬とはいえ並大抵のことではない。

 ちなみに男が妙な動きをしたら、今度はすぐにクルスが導きの塔に、ギュスターが伝えの塔に救援要請をしに駆け込むことになっている。リアムとラチカが男から十分距離を置いて左右を陣取り、俺のすぐ隣にはトリーがいる。こちらの戦力をフル活用する布陣としては最善のはずだが、それはあくまでもこの男が伝説の英雄でなければ、という話である。何しろこの世界はリアルにファンタジーが実現してしまうわけで、全く油断ならないからだ。

 男は自分を取り囲む面々を見ると、やれやれと肩を竦めてみせた。

「そんなに警戒しなくても何もしない……って言っても、信じないだろうな。当然だ。それで? 今から尋問開始というわけか?」

 わざと煽るような口調の男に首を傾げ、俺は言った。

「適切な距離を保ってお話ししましょうって言ったじゃないですか。まあ、あなたがそう思いたいのなら、別に尋問でも構いませんが」

「発言が大人げないの」

「格好悪ぅ……」

 さすがに男がしゅんとしてしまったので、俺は取り成すように口を開いた。

「まあまあ、面倒臭いので普通に話しましょう。取り敢えず……」

「面倒臭いって言ったぞ」

「さすがシルヴァ」

「あいつが一番酷いのは最初からわかってることだろ」

「確かに」

 外野からとばっちりを受け、俺は八つ当たり気味に男を睨んだ。

「ちょっ……待て! 俺は何も言ってない!」

「わかってます!」

 内心チッと舌打ちし、ようやく気持ちを落ち着けると、俺は改めて男に尋ねた。

「まず、あなたの名前を伺っても?」

 男は俺を真っすぐ見つめ、答えた。

「俺はオルカだ。さっきも言ったが、竪琴の奏者で……」

 瞬間、全く同じ疑問を抱いたであろう仲間たちと目を合わせ、俺は代表として質問を繰り出した。

「あなたは伝説の英雄オルカミルなんですか?」

「うん?」

 オルカは何を言っているのかわからない、といったふうに首を傾げ、僅かに沈黙したあと、ああ……と理解したように頷いた。

「いや、まさか。そもそも風の民がいた時代の人間が、今まで生きているわけないだろう。俺はただのオルカだ。まだ三十年も生きてない。辺境の地をふらふらしてることが多いから、世情には少し疎い。それだけだ」

「辺境の地……俺の歌を聞いたのはいつ、どこでですか?」

「いつ……だったかな。数ヶ月……いや、一年くらい前だったか? あれは水の……夢見人の島にある森の湖畔で聞いたんだ。君はいつも一人で、よく歌を口ずさんでいた。湖の水を霧状にしたり、あと、何かいろいろとこう……」

「わあ-っ!!! わっかりました!!!」

 オルカの身振りで、その何かいろいろの内容に思い至り、俺は慌てて遮った。まさか俺の俺による俺のためだけのワンマンライブをセレスト以外にも見られていたとか、マジで恥ずか死ぬ!!! 友人たちの視線が一気に興味津々になったことに恐怖すら感じながら、俺はオルカに厳しく言い渡した。

「オルカ! その何かいろいろは俺とオルカだけの秘密です! いいですね!」

「俺と君だけの……わかった。誰にも言わない」

 嬉しそうに頷いたオルカとは裏腹に、友人たちの眼差しが険しさを増す。

「シルヴァ! 何かいろいろって何だ?」

「私にも言えないことなの?」

「すごい気になる!」

「俺たちも知りたい!」

 唯一どうでもよさそうな顔をしているラチカに、俺は救いを求めるような視線を投げたものの、軽く肩を竦めてそっぽを向かれた。

「ラチカ!」

「俺は興味ない」

「それはどうも! って、そうじゃなくて~!」

「俺は知らん。勝手にやってろ」

「ラチカ! 冷たい!」

 ラチカは面倒臭そうに俺たちを見たあと、チッと軽く舌打ちし、言った。

「……そいつ、もうそんなに警戒しなくても大丈夫じゃね? つーか、天が暗くなってきた。そろそろ食堂に移ろうぜ。あっちのほうが明るいし、人目もあるからここより安全だろ」

「確かに! というわけでオルカ、食堂に行きましょう! 具合はもう大丈夫ですか?」

 俺の変わり身の早さに苦笑しつつも、オルカは頷いた。

「問題ない」

「よし! じゃあ、張り切って食堂に移動だ!」

 とまあ、無駄に元気よく宣言したものの、完全に警戒を解くわけにもいかないので、オルカを取り囲むようにしながら俺たちは移動を始めた。オルカを先頭に、クルスとギュスターがそれぞれ左右の斜め後ろを固め、リアムとトリーが並んで真後ろに控えている。今回に限り、俺はめでたくお姫様ポジを認定されたので、ラチカと一緒に最後尾を歩いていた。

「……お前のほうはもう大丈夫なのか? 具合、さっきちょっと悪そうだったろ」

「ああ、取り敢えず大丈夫です。ありがとうございます、ラチカ」

「別に。念のため聞いただけだ」

 実のところ、能力を使った直後はかなり気持ちが悪かった。己の技量に見合わない使い方をしたのだから当然だ。が、予想以上に反動が大きかった。水の民の授業で、最後の自衛手段の一つとして話には聞いてはいたが、生半可な覚悟でやってはいけない代物だ。

 実際、能力の使い方としては一般のそれじゃない。空気中をふよふよと自由に漂っている微細な水分に意識を乗せ、操るのとは次元が違う。血管の中で絶え間なく体中ぐるぐる巡ったり、内臓やら筋肉の収縮やらの影響を受けたりと、ただでさえ目まぐるしく動いており、しかも純粋な水ではない。他者の体内の水分に干渉するなど、恐らく医療従事者にも相当する領域だ。下手をすると自滅する。

 しかし水の宮殿に併設された医療の館では、多分きっと絶対こんな乱暴な使い方はしていないはず。何故なら患者にも医者自身にも負担が大きすぎるからだ。経験がないのでこの例えでいいか自信はないが、俺がさっきやったのは信号待ちをしている乗用車の横っ腹に、同型の乗用車で勢いよく突っ込んだみたいな感じだろうか。こちらにも衝撃は来るが、相手ほどではない。つまり患者のほうがダメージが大きい。

 さすがに俺程度の能力では交通事故に匹敵するほどの攻撃力はないが、対象が人体であるだけに、タイミングや発動部位などによっては相手をうっかり殺しかねない危険性をはらんでいるのも確かだ。今後、使いどころは慎重にすべきだろう。

 中庭から渡り廊下を通って伝えの塔に入ると、俺たちはぞろぞろと隊列を保ったまま水場に寄った。オルカの見張りを交代しながら手洗いうがいをし、改めて食堂に向かう。先程からこういった指揮はリアムに一任しているが、さすが剣士の館にいただけあって指示に迷いがなく、実に安心だ。素人目ではあるが、時折ラチカにもわかる手信号を使って無言で調整し、少ない人員で適材適所に配置する手腕などを見ると、やはりリアムは優秀なのだと感嘆せざるを得ない。

 それにしても……と、俺は隣を歩くラチカをちらりと見上げ、そのままオルカの後姿に視線を移した。何という奇跡。兄弟が揃った。しかも俺的にはこの一組で実質二組分である。

 と、俺の視線に気づいたのか、ラチカがため息をついた。

「……お前、どうせろくでもないこと考えてんだろ」

 ラチカの言葉に、オルカから視線を外さないままリアムが言う。

「いや、でもさっきの話のすぐ後だからな。ここにいる奴は全員そう思ってるだろ」

「伝説の英雄オルカミルにそっくりの外見の男と、その弟に似ているラチカ。ま、髪の色は違うけどね」

 そして俺の本音としては、腐女子時代最後の推しキャラ、スダケンさんボイスのヤクザな兄とその弟。ラチカが似ているのは、本当はこちらの弟だ。一方オルカの外見はヤクザな兄には全く似てないが、声はスダケンさんなので十分満足だ。

「俺がオルカミルの弟に似てるって言ってんのはこいつだけだろ。大体、辺境の村にある絵なんか確かめようがないしな」

 ラチカの言葉に俺は肩を竦めてみせた。その通り。全て織り込み済みだ。

 実際、村の絵に描かれているオルカミルの弟は、誰かに似ていると断言できるほど鮮明ではない。ラチカもだが、リアムもそのことは当然わかっている。口や態度には出さないが、クルスとギュスター、トリーも気づいているだろう。

 それでも何も言わないのは、俺が正規品の十一歳男児としては一味も二味も違うことを十二分に承知したうえで、下手につついても決して口を割らないのを理解しているからだ。つまり彼らは俺を見逃してくれているに過ぎない。それも今のところは。

 時として、子供のほうが大人より大人であることが往々にしてあるからなぁ。成人済みの魂を持つ者としては、まことにかたじけない限りである。

「オルカミル……伝説の英雄に弟なんかいたか? 俺は聞いたことない……忘れてるだけか?」

 不意にオルカが話に加わってきたので、俺は言った。

「たまに伝説に出てきますよ。弟は漆黒の髪と瞳を持つ闇の民ですけど。俺のいた村に二人の絵が残ってるんです」

「へえ……ああ、うん。なるほど。確かにそんなこともあったな」

「ちなみにオルカには兄弟とかいるんですか?」

「俺にはいない。君はどうなんだ? いつも一人でいるところしか見たことがなかったが」

 おお、ここでまさかのぼっちバレ……いや、そういやさっきもみんなの前でさらっとバラしてくれてたな。まあ、いいか。今更だ。

「兄弟はいます。でも、俺は家族や村にあまり馴染めなかったので。あの森にある湖は誰も来ないから、俺にとって唯一の憩いの場所だったんですよ。まさか見られているとは、ちょっと油断してました」

 意外そうな眼差しが一斉に突き刺さるが、これは事実である。そもそも腐女子時代から、俺はどこにも馴染めていなかったからなぁ。むしろ友人たちに囲まれている今のほうが、俺としては意外だ。周囲の目を気にする必要がなくなって、自由に振舞えるようになったからかもしれない。セレストにこの館に連れてきてもらってから、俺は自分の居場所を見つけられるようになった。自分が異物であると感じなくなった。ここにいるみんなとカノンのおかげだ。

 そしてふとオルカに目をやり、俺は思った。スダケンさんボイスといえば……かつてリアルの友人にもいたな。似たような声を持つ超絶イケメンが。

 さすがにオルカほどそっくりではなかったが、ぼそぼそと陰キャ声で話しているときは結構似ていた。俺の推しである例のヤクザな兄への造詣も深く、余命宣告される前に知り合っていたら、彼とはもっとアニメの話で盛り上がることができたかもしれない。

 ちなみに俺は彼のことを勝手に王様と呼んでいたのだが、王様にはジミーという男の恋人がいて、萌えという貴重な糧を俺に提供してくれる類稀な存在でもあった。一緒に過ごした時間は短いが、あの二人といるときは俺も自分が異物だと感じることはなかったと、今更ながら気づく。実際には恋人同士の甘い時間を邪魔していたはずなのに、おかしなものだ。あの二人の優しい空気のおかげだろう。

 懐かしいな……。王様とジミーは今どうしているだろうか。時間軸的にこの世界と向こうの世界がどうなっているか知りようもないが、いまだにイチャイチャしてくれているといい。俺が最後に贈ったペアリングはまだしてくれているかな。王様とジミーには心から、いつまでも元気にラブラブしていてほしい。でも……もう逢えないんだよな。

 そう思ったら、突然、涙が溢れた。今まで、腐女子時代に想いを馳せたことは何度もある。両親のことも考えた。だが、数ヶ月ではあるが身の回りの整理をすでに済ませ、ずっと心の準備をしてきたうえで病死し、異世界に転生した。思い残すことが全くないとは言えないが、涙が出ることはなかった。まあ、病床では辛いこともあったし、体が苦痛から解放されて楽になったこともある。それに新たな言葉の習得や、五つ年上の兄ティモとの秘かな攻防とか、いろいろ忙しかったこともあろう。

 でも……それだけではないのかもしれない。あの二人のことを思い出し、俺は腐女子時代に残してきた自分の居場所、大切な友人たちの存在にやっと気づいた。そしてそこにはもう二度と戻れないことを、ようやく悟った。心から。頭ではとっくに自分の死を受け入れたつもりだったのに、感情として納得できない未練が俺にもまだ、かつての世界にあったのだと今更ながら思い知った。涙の意味はそれだ。俺は転生して十一年経って、初めて腐女子時代にちゃんと別れを告げることができたのだ。まったく、我ながら鈍いにも程がある。

 ぽろぽろぽろぽろ涙をこぼしている俺に気づくと、友人たちはぎょっとしたように目を見開き、それからオルカのほうを一斉に睨んだ。

「てめえ、一体こいつに何をした!」

「今すぐ丸焼きにしてやるの!」

「寄るな!」

「触るな!」

「このクソが!」

 いわれなき敵意の集中砲火を浴び、さすがのオルカも情けない顔になった。それを見て申し訳なく思いつつも、俺は友人たちに恵まれた今生のありがたみに少しだけ感じ入ってしまった。しかしまあ、このままではちょっといたたまれない。咄嗟に袖口で泣き顔を隠すようにしながら、言葉を振り絞った。

「ちょっ……違う。オルカのせいじゃないんだ。本当に。ただ昔のことを少し思い出して、それで……。俺、水場に戻って顔洗ってくる! みんなは先に食堂に行って席を取っといてくれ。俺もすぐ行く!」

 言うだけ言ってパッと身をひるがえすと、俺は友人たちに背を向けて走り出した。

「あっ、てめ……シルヴァ!」

 リアムの声に、ラチカの声が被さる。

「お前らは先行ってろ! 俺が追いかける!」

「てめっ、クソっ、ラチカ!」

 廊下を駆け抜け、水場に飛び込むと、俺は隅のほうでしゃがみ込んだ。幸い、それほど人はいない。まったく、やれやれだ。我ながら世話の焼ける……。

「……世話の焼ける奴だな、お前は」

「ふにゃっ?」

 思わず変な声を上げて顔を向けると、そこには息を切らしたラチカが立っていた。

「ほんっと面倒臭ぇなぁ、お前。つーか、今度こそ欠伸じゃねえだろうな。また欠伸だったらしばくぞ」

「ああ……ホント、それな。すげーよくわかる。でも、大丈夫。これはそういうんじゃない……っていうか、本気のヤツだから」

 ぽろぽろ涙をこぼしながら笑った俺を見ると、ラチカは深々とため息をついた。

「そういうのは全然大丈夫って言わねえんだよ」

「いや、まあ、そうなんだけど。別に悲しいわけじゃなくて。ただ……何かちょっと涙が止まらないだけっていうか。本当にそれだけなんだよね」

 実際、俺は腐女子時代からこういうことがよくあった。表層意識においては、本当に全く悲しくない。感情としては凪いでいるといってもよいほどに冷静だ。ただ、涙だけが止まらない。本当は体のほうが正直なんだろうと知ってはいる。だが、どうしても心と体がうまくリンクしないのだ。転生しても変わらないのだから、これはきっと俺の魂に不具合があるのだろう。

 ラチカは俺を見下ろしたまま再び大きく嘆息し、言った。

「お前は大馬鹿だとわかってたけど、ホントそれ以上だな。けど……」

 俺のすぐ横にすっとしゃがみ込むと、ラチカは俺の頭をひょいと胸に抱きよせた。

「今ならこうやって慰めてもいいわけだ」

 瞬間、俺は顔から火が出るというのはこういうことなのだな、と実感した。

「ちょっ……うえっ? ラチカ?」

「やり直しだよ。ただのやり直し。昼間の失敗を、俺が取り返したいだけ」

「ああ……うん、なるほど?」

 わかったような、わからなかったような、曖昧な返事をしたあと、俺はぽろぽろこぼれる涙はそのままに、少しだけそっと目を閉じた。何だろう、この温もり。懐かしくて、すごく安心できる感じ。ああ……知ってる。これはかつて俺が溺愛していた愛犬のそれと同じだ。腐女子時代、俺が本当に気を許していたのはあの子だけだった。俺が余命宣告を受ける何年も前に他界していたが、いつもあの子は俺の心の拠り所であった。ああ、我が愛しのシャルロット……。

 改めて涙が溢れてきたが、ラチカが辛抱強く待っていてくれたおかげで、俺の体も少しずつ通常運転に戻るのを感じた。しばらくしてぐしゃぐしゃのハンカチで涙と鼻水を拭い、ゆっくりと一つ息を吐く。

「……ラチカ、ありがとうございます。もう大丈夫です、本当に」

「……そりゃ残念」

 ラチカがぼそっと何か呟いたが、盛大に鼻を啜っていたせいでよく聞き取れず、俺は聞き返した。

「はい? すみません。何ですか?」

「足がもうすぐ痺れるところだったって言ったんだよ!」

「え、いや、何かもっと短い言葉でしたよね」

「忘れた! いいからさっさと顔を洗え!」

 ガッと勢いよく立ち上がったラチカの乱暴な様子を見上げた俺は、まだ涙腺が緩んでいたこともあり、思わず涙目になった。

「あう……我が心のシャルロットが……」

「ああ? 誰だそいつは?」

 ガラの悪いヤンキーのように睨みつけてきたラチカに、俺は慌てて微笑んだ。

「あ……いや、えっと、アレです。精霊の愛し子みたいなアレですよ。ふわふわで、ぬくぬくで、心優しい、最愛の……」

「最愛の……何だよ?」

「……昔、飼ってた犬です……」

「………………………………チッ!!!!!」

 凶悪な顔でそれだけ口にすると、ラチカは俺に背を向け、ずんずん歩き出した。その腰に大急ぎで縋りつきながら、俺はまくし立てた。

「いやいやいや、ちょっと待っ……待って! 違うんです! 俺の話を聞いてください!」

「……俺を犬扱い……いや、犬代わりにするとは、ホントいい度胸だなぁ、てめえ!」

「シャルの代わりになるわけないでしょう!!!」

 瞬間、ピタリと立ち止まったラチカの体が強張っているのに気づき、俺は大いに焦った。

「いや、違うんです! 本当に! そういう意味じゃなくて!」

「黙れ!!!」

 ガッと俺の手を振りほどき、足早に歩き出したラチカの背に何とか飛びつき、俺は叫んだ。

「ラチカの代わりになれる奴なんかどこにもいないでしょう! それと同じです!」

 再び立ち止まったラチカの体はやはり強張っていたけれど、俺を無理やり振りほどく気配はなかったので、俺は少し落ち着いた声で続けた。

「……ラチカの代わりになれる奴なんか、どこにもいない。それと同じように、シャルの代わりになれるものもどこにもない。それだけです。それに……俺にとってシャルは本当に、何よりも大切で、大好きで、唯一無二の存在だったので。犬とか人間とか、そういうのはホント、クソほどどうでもいいことなんですよ。だからむしろ、そんなシャルを俺に思い出させてくれたラチカは、本当にすごいです。何というか……俺は多分、甘えるのがあまり得意ではないというか……どうしたらいいかわからないので」

 ラチカの服をつかむ手にきゅっと力を込め、俺はそれを口にした。

「だからその……あ、ありがとうございます。俺を、追いかけてきてくれて。俺を、ちゃんと慰めてくれて。ラチカが今ここにいてくれて、俺はすごく嬉しいです」

 あ~、もう、恥ずかしいったらないな。多分きっと絶対、顔から火が出ている。とはいうものの、強張っていたラチカの背中がゆるゆると弛緩していくのに気づき、俺はひとまず安堵した。そして自分がまだラチカに抱き着いたままであることを思い出し、慌ててパッと飛びのいた。

「あう……すみまっ……えっと、顔! 洗うので! ちょっと待っ……いや、先に行っててくださ……っ」

「……今、水を汲んできてやる。待ってろ」

 さっと俺の横を通り抜けると、ラチカは無言で奥にある半室内井戸から水を汲み始めた。

「……は、はい……」

 人のことは言えないが、確かに今、ラチカの顔、赤かかっ……いやいや、うん。俺が恥ずかしいこと言っちゃったからね! 仕方ないよね! むしろすまん……いや、感謝だ!

 テンパりつつも、俺はラチカが親切に水を汲んできてくれたことに礼を言い、顔を洗った。水道が整備されていないのはいまだに不便を感じるが、暑い光の季節でも冷たい井戸の水はやはり格別だ。瞼や目元の腫れはさすがにそう簡単には引かないが、気分は大分すっきりした。自分のものとはいえ、涙と鼻水で汚れたハンカチでせっかく洗った顔を拭くわけにもいかず、俺が水を滴らせていると、ラチカが仕方なさそうに自分のハンカチを差し出してくれた。

「あ……いや、でも」

「洗って返せ。それで許してやる」

 見習い候補たちの洗濯は基本、糸で部屋番号を記した服と下着だけは担当の対価労働従事者たちが洗ってくれることになっている。毎日、風呂場にある回収用の籠に入れると、次の日の夕方には部屋に届くというシステムだ。風呂上がりに使う手拭いは共同使用で、こちらも使ったらすぐ専用の籠に入れればよい。だがハンカチのような小物は自分で洗い、各自部屋の窓辺に干すことになっている。

 まあ、俺は水の民なので、実は顔の表面にある水分を軽く飛ばすことくらい簡単なのだが、今回はありがたくラチカからハンカチを貸してもらうことにした。

「ありがとうございます。ラチカ」

「……おう」

 ラチカから借りたハンカチで顔を拭い、それを自分のポケットにしまうと、俺はラチカと並んで歩き出した。水場を出て、再び食堂に向かいながら、俺は隣のラチカをちらりと見上げた。

 ラチカは十五歳だから、今年十六になる俺の兄ティモと同じ年頃だ。けど、ティモは五歳児の頃の印象が強く残っているせいか、俺としては全く兄という感じがしない。まあ、ティモも妹と一緒にいるときはしっかり兄の顔をしていたし、年齢のせいというより気の持ちようが違うのだろう。一番の問題は、俺が弟としてあまりにも役不足であることが大きい。

 その点、ラチカは成長してから出逢ったせいか、ティモより言動が大人びている気もするし、何だかちょっと本当のお兄ちゃんみたいだ。何だかんだ言いながら、俺のことを年下として扱ってくれるからだろう。意外と面倒見もよく、もともと一人っ子だった俺としては新鮮な感覚だ。まあ、余計なことを言うとまた面倒なことになりそうなので、絶対に口には出さないが。

 それに泣いているところを慰められるとか、各所制御不能な赤ん坊の頃はともかく、転生してからは初めてだ。正規の幼少期を過ごした腐女子時代でも、物心ついてからはほとんどない。そもそも人前では泣かないので、必然的に俺を慰める機会が誰かに与えられることはなかった。唯一、俺が心を許したシャルロット以外には。

 ……あれ? 今更ながら、腐女子時代の俺ってぼっちを極めすぎていてやばいな? 犬にしか心を開けないとか、どんだけ人間不信なんだ。……まあ、いいや! 全て終わったことだ。俺は今、ここで生きている。大事な居場所、大切な時間がかつての俺にもちゃんとあったのだと、認めることができてよかった。これで俺はまた、この先を進むことができる。

「……何、にやにやしてるんだよ?」

 不意に、仏頂面のラチカに問われ、俺は瞬きを一つした。

「俺……にやにやしてました?」

「すげーしてた。自覚ないのかよ?」

「あ~……、はい。でも、そうですね。おかげさまで、いろいろと吹っ切ることができたので。多分、それでですかね」

「……ふ~ん」

 気のないふうに鼻を鳴らしてみせたけれど、ここまで俺を追ってきてくれた以上、本心から全く興味がないということはないだろう。それでも敢えて余計なことは聞かないのが、如何にもラチカらしい気の使い方だなぁ、と俺は思った。さすがに本当のことを全て話すのは残念ながらまだできないが、代わりにほんの少しだけ、俺の思い出話に付き合ってもらうことにした。

「……以前、ものすごく大きな地震があったんですけど、俺はその時、家にシャルと二人きりで。安普請だったせいか恐ろしく揺れて、本当に初めて命の危険を感じるほど怖かったんですが、ガタガタ震えているシャルを抱っこしながら思ったんですよ。この子だけは絶対、命に代えても守りたいって。でも、結局はやっぱり俺のほうがシャルに助けられてたんだなって、今では思います。俺一人だったら、ただパニックに陥っただけでしたけど、シャルのおかげで何とか冷静でいられたので」

「……シャルはお前にとって、本当に大切な奴なんだな」

「はい!」

「ところで地震とか言ってたけど、家は大丈夫だったのか?」

「ああ、俺が住んでいる地域は大きな被害もなく、みんな無事でした」

 本当のことではあるが、そもそもこの世界の出来事ではないしね。できるだけ余計なことは言わないに限る。

 にっこりと俺が笑ってみせると、ラチカは真面目な顔で頷いた。

「そうか。それはよかった。繋ぎ手の島でもこの十年くらい、頻繁に大きな地震が起こってるらしいし、時々心配になるよな。小さい地震なんかは日常茶飯事だったし。この館は頑丈な石造りだけど、崩れたら一巻の終わりだしな」

「え……この十年くらい? 頻繁に大きな地震、ですか?」

 初耳なんだが。というか、ここに来て少し経つけど、日常茶飯事だという小さな地震すら一度も感じたことがない。きょとんとした俺を見て、ラチカが勘違いに気づいたように訂正した。

「ああ……夢見人の島はそんなにしょっちゅう地震があったわけじゃないのか。っていうか、この繋ぎ手の島でもここ数ヶ月は珍しくずっと息をひそめているけどな。あれはいつ頃だったかな……確か、そうだ。お前がいた夢見人の島の方角からこの繋ぎ手の島に向かって、ものすごく大きな虹が架かったのを見たあたりから、地震が起こってない気がするんだよな……」

 …………ええ~、何その驚きの新情報。それ、その虹、俺が作ったヤツだよね? 何かこう、湖から飛び去った片翼の闇の鳥みたいのは関係してる? 地震が止まったってことは、よくわかんないけどむしろ問題が解決したってことでいいんだよね? いいってことにしてほしい!!! 切実に!!!

 つーか、そういやすっかり忘れてたけど、多分あの闇の鳥が落ちてきたせいで俺の村の近くにある森が乾燥していく異変が起こって、確かそれも十年ほど前だった気が……。

 一応、闇の鳥が飛び去ったおかげで森の異変は収まりそうだったけど、そもそもあの闇の鳥って何だったの? 虹の先に飛んでいったとして、到着先はこの繋ぎ手の島であってる? 俺の見た闇の鳥は片翼だったし、もしかしたら十年前に半身がこの繋ぎ手の島に落ちて、それがここでは地震という形の異変として表れていたのかも。それだと時期的にも合致するんだよなぁ。

 その場合、虹と同時期に地震が収まったことを考え合わせても、闇の鳥が完全体を取り戻したと推測するのが妥当であろう。その後どこに行ったのかとか、もうこれで問題は全て解決したのかとか、疑問は多々残るが、俺に知る術はないのだ。俺は一美少年として、新たに得たこの貴重な生をのんびりと平和に全うしたい。望むのはただそれだけである。汗と泥に塗れた冒険とか、世界の命運をかけた壮大な戦いとか、そういうのは二次元だけでいい。

 取り敢えず現状、繋ぎ手の島で起こっていた地震は収まっているようなので、俺はそれだけで十分満足である。と思っていた矢先、不意にラチカが立ち止まると、周囲に人気がないことを確認し、少し声を潜めて言った。

「……どうするか迷ったんだが、やっぱお前にだけは言っておく」

 ……うわあ、何この口上。愛の告白ならいざ知らず、面倒事が待ち受けてる予感しかない。とはいえ、ここで聞かないという選択肢はないだろう。情報は時に恐ろしいほどの価値を持つ。

 俺は瞬きを一つし、ラチカに頷いてみせた。

「……聞きましょう」

「あいつ……さっきオルカと名乗っていた男によく似た奴を、俺は見たことがある。数ヶ月前、俺はパユの爺さんと研修中で、都から離れた砂漠地帯にいた。ちょうど今話した、大きな虹を見た何日か後のことだ。漆黒の長い髪と青い瞳を持つ、闇と水の混じり者だった」

「それは……本人だったんですか?」

「さあな。確かめてない。確かめるつもりもない」

「どうしてですか?」

「否定するか、誤魔化すか、どのみち本当のことは答えないからだ」

「その確信はどこから来るんです?」

 ラチカはじっと俺を見つめると言った。

「あいつは何もない灼熱の砂漠の真ん中から、突然出てきた。地面にいきなり手が生えたかと思うと、砂を掻き分け、欠伸をしながら悪態をつき、ずっと独り言を喋り続けてた」

「つまり……それまで全身、砂漠に埋まってたってことですか?」

「ああ、そうだ。どのくらいの時間、埋まってたのかは知らないけどな。服もボロボロで、かなり酷い有様だった」

「それで?」

「それが……最初、爺さんのすぐ足元で手が生えたから、すげーびっくりして。けど、爺さんが腰を抜かして動けなくなっちまったもんだから、急いで引っ張って距離を取った。それからずっと様子を見てたんだけど、腰のあたりまで出てきたところで、そいつがやっと俺たちに気づいて」

「ああ……夢中で砂を掻き分けていたからね」

「で、その瞬間、奴はうわっと叫んで地面に潜って消えた」

「……地面に潜って消えた……?」

 さすがに俺が首を傾げると、ラチカは大真面目な顔で頷いた。

「そうだ。地面に潜って消えた。少しして、奴がいるはずの砂の窪みを覗き込んだら、底の浅い穴があるだけで、何もなかった」

「ほう……何も?」

「何も。ちょうど天幕を張るときに使ってた長めの杭があったから、その辺りの砂にできるだけ深くまで刺してみたんだが、一滴の血すらつかなかった」

「おう……人が埋まっているかもしれないところに躊躇なく杭を刺しまくるとは、さすがラチカ! 想像以上に鬼畜ですね」

「いや……だって怖いだろ。砂の中に人間が消えるとか」

「それは……確かに。というか、えっ? そんな異常なレベルの不審者だと思ってたのに、よくオルカと普通に接してましたね?」

「まあ……あいつかもしれないと気づいたときは一瞬、肝が冷えたけど。少なくともセレストの知り合いなのは確かみたいだしな。それに人目もある。多分、ここでは手を出してこない」

「ここでは……ね」

 意味深に俺が目をやると、それを受けてラチカが眉を上げてみせた。

「多分、な。実際、あいつが本気で何かしようと思ったら、恐らく誰にも止められない。俺たちにできるのは、せいぜい油断しないであいつを見張ることくらいだ」

「なるほど。確かにその通りですね」

「それにあいつが俺に気づいているかわからないし。取り敢えず、このことはまだ他の奴らには言うな。変に警戒しているのがバレると、逆に危ない可能性もある。けど、お前は最初からあいつに狙われているみたいだったから、一応話しておくことにした。今のところ悪い奴じゃなさそうだが、そう見えるように振舞っているだけかもしれない。あまり気を許し過ぎるな」

「わかりました。でも、そうなると彼が本物のオルカミルである可能性も大きくなったってことですかね。砂の中に消えるとか、少なくとも普通の人間にはできないわけですから」

「けど、お前も言ってただろ?」

「ああ……品行方正だと信じていた英雄が、実はただの犯罪者だったとしたら……ってヤツですね。肝に銘じますよ。ご忠告、痛み入ります」

 静かに、だが警戒を怠らない覚悟で俺が頷いてみせると、ラチカは何とも言えない面持ちで深々と嘆息した。

「お前のそういうとこな。ホント、さっきまで泣いてた奴とは思えないよな」

 瞬きを一つし、俺はパッと微笑んだ。

「それが俺のいいところ、ですよ」

「自分で言うな」

「じゃあ、ラチカが言ってください」

「誰が言うか」

 わちゃわちゃと言い合いながら、俺とラチカは再び食堂に向かって歩き出した。俺の大切な友人たちと、得体の知れない英雄(仮)の待つ食堂に向かって……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る