11.瓶詰めの幻想

 またもや、それは夢だった。同時に、現実でもある。


 まだ灯火が吹き消えたばかりのような。思わず温もりの残滓を掠め取ろうと手を伸ばしてしまいそうになる暗闇に、アルは佇んでいた。

 周囲を凝らす間もなく、乾いた拍手の音が闇の中で茫洋ぼうようと反響する。残響を辿り振り返れば、やはりそこには人型が佇んでいた。


 アルと同年齢ほどと思える華奢な輪郭からは、奇妙なほどに〝個〟が欠落していた。どんな顔をしていて、どんな服を着ているのか。場所のわからない唇から発せられる声音こそ男性のものだが、本当にその通りなのか。


 ――どちらにせよ、顔の区別をはっきりとつけることの出来ないアルからしたら、むしろ好都合とも呼べるだろうが。


『血の記憶、ようやく制御できるようになったんだね。おめでとう、アル』


 固い蕾が咲き綻んだ瞬間を目撃した日だまりのように、彼は鳴らしていた両手を重ね合わせた。穏やかな声音は、それだけで微笑んでいると理解できるほどだ。

 対照的に、アルは不機嫌に視線を落とす。


「そりゃどーも」


「素直じゃないね。ま、いいや。素直な君は、それはそれで気持ち悪いし」


 一聴するとただの悪口だが、アルはそれもそうだと納得する。

 無意識のうちに開閉を繰り返していた掌は、いつの間にか血に塗れていた。どうもこの空間は、自己という存在があやふやになりやすいらしい。

 アル・パーヘリオンという輪郭を繋ぎ止めることができるのは、痛覚だけ。現状では、散り散りに浮かぶ綿雲のような、掴めそうな形を保っているだけで精一杯だった。


「さて、君に言いそびれていた……というより、君が聞きそびれていた僕の目的について、話そうと思う」


 今ならば、話を進めても問題ないだろう。

 そう、手の甲を滑り雫を散らす紅血を眺めていた彼――人型は、閑話休題と手を打ち鳴らす。自然と、アルの視線もそちらへと動いた。


『僕の目的。それは、【血の洋墨インク】を集めること』


 ひいてはそれが、彼の語る世界の救済へと繋がるらしい。

 人型は腕らしきものをアルの方へと伸ばし、掌に納められた小瓶を掲げる。


 それは、赤く染まる前の、透明な心臓のようだった。


 白鳥のような、幻想に生きる妖精のような生き物の翼。それは雫を模り、中央にはガラスが抱かれていた。凹凸のある歪とも緻密ともとれる表面から、鳩の生き血を思わせる赤色が揺らめいているのが見える。

 冥界の主人の遺骸から持ち去られた心臓、その神秘を思わせる造形は、冒涜的なほどに美しく、醜悪で、芸術的だった。


 アルは、その鼓動を幻聴する。脈打つことのない無機物の煌めきは、玲瓏れいろうと彼の心の奥に響いていた。

 だが、それでも、過ぎるものはたった一つ。

 冒涜の末に待つ裁きですら断ち切れない偶像が、彼の魂の奥底に根付いては、爛れんばかりの熱を帯びていた。


「テメェがなんの血を集めてようが、俺には関係ねぇよ」

『……まぁ』


 そうだろうねと呟く彼の声を掻き消して、とろけるように執念く声が、暗闇に滴り落ちる。


「俺が求めんのは、天使サマの血。それだけだからなァ」


 自分がどんな表情をしているのか、アルには分からなかった。ただ、口端が引き攣るように痛い。片手で口元を抑えながら、アルは心から湧き出る感情の余波を大きく吐き出した。

 その表情を見ていた人型の表情もまた、当然と不明だ。落涙のような吐息だけを、彼は落とす。


『君はそれでいい。それがいい。それでこそ、僕が見込んだ血の主だ』


 ――だからどうか、僕との約束を覚えていて。

 曖昧な輪郭が、確かに微笑みを模った。それに毒でも含まれていたように、アルの視界がゆっくりと霞んでいく。熱された鉄板の上に転がされたような熱さが、体の端から湧き上がる。

 脳を掻き回されたような眩暈の後、夢の中の意識は、深く深く沈み込んでいった。


   ***


 早朝――七時の朝礼に、案の定アルの姿はなかった。

 だが、リーダーであり医療班であるラストの『昨夜は振り回してしまったので、休ませてあげてください』という温情の元、――本人は朝礼の存在を忘れていたが――叱咤は免れていた。


 また、ルクスも当然欠席である。実は精神科医であったラストの看病により、心身共に彼の容態は安定しつつある。しかし、どれだけ繕おうとも、傷付いた根は簡単に癒えやしない。

 それをラストにより見透かされたルクスは、いつも相対している患者の気持ちを理解しつつ、しばしの休暇を言い渡されたのだった。


 二人のいない朝礼は何事もなく終わりを迎えたが、後に言い伝えられたその内容は、平穏とは正反対に位置していた。


「ドールからの、宣戦布告だァ?」


「えぇ。明日の夜、『芸術都市 フィロメリア』の襲撃を行うと。避難勧告を出すようにと、都市長《としおさ》にも連絡したのですが……『我々の芸術を放棄するなら、死んだ方がマシだ』と言い出す始末で」


 アルの部屋へ報告に訪れたラストは、長いため息を吐いた。

 神妙な面持ちで口元を覆いながら、アルのベッドの縁に腰かける彼は、徹夜明けであろうと推測される。

 眼に鋭気こそ宿れど、目の下には隠しきれない疲労の影が滲んでいた。


 ミアの裏切り、ルクスの暗殺未遂。それの発覚に伴い露呈した、ルッケディーグ陥落のトリック。水面下で揺らめいていたドール達の計画が徐々に明らかになっていく中、これ以上の潜伏は不要であり、無意味であると判断したのだろう。

 まるで戯画的な犯行声明が、例の医院の受付に無造作に置かれていたのを、巡回帰りのネージュが拾ったらしい。


 甘ったるい柑橘の匂いがすると、彼女は半ば投げ捨てるように、声明の綴られたアンティーク紙をテーブルに広げていた。

 アルは手渡されたその紙に鼻を寄せ、染み込んだ芳香を辿る。


「違いねぇ。この匂い、サキアアイツのだ」


 ルクスの部屋に燻っていた、レモンキャンディーを思わせる人工的で甘ったるい芳香。それは、この声明をパフォーマンスに仕立て上げるための仕掛けの一つだったのだろう。

 思い出せば、あるはずのない香りが鼻腔を抜ける。思わず眉間に皺が寄る。


 ――『芸術都市 フィロメリア』

 瓦解した文明の〝美〟を追い求める芸術家達の寄す処。

 当初は芸術を通じて人々の精神を守り、豊かにする役割をになっていたその都市は、今や現実というキャンパスに広がる地獄絵図を目の当たりにし、精神を病み、もしくは芸術に溺れ、現実を直視できなくなり、幻想に耽溺した中毒者の巣窟化していた。

 人は美しいものに縋る。それはどうしようもない本能であり、防衛手段であり、娯楽である。

 だからこそ、神は死にえない。果てに生み出された偶像の産物こそ、アルの追い求める少女であることもまた事実だった。


「これを置いていったのが彼なのだとしたら……ルクスの暗殺も、宣戦布告をより印象付けるためのパフォーマンスであった、という可能性が高いですねぇ」


 不愉快さを包み隠すことなどなく、ラストはため息を吐いた。口元を覆う指の隙間から、どろどろと重い感情がこぼれ落ちていく様が幻視される。

 アルは気怠げに首筋へ手を当てると、無遠慮にベッドへ寝転んだ。伸ばされた足が、ラストの妙に硬い脇腹を蹴り上げる。


「おや、添い寝してほしいのですか?」

「んなわけあるか」


 それは残念と、彼は戯けた調子で肩をすくめた。


「私は今日にでも、フィロメリアに向かおうと考えています。彼らが布告通りに動くとは、限りませんから」


 無機物に、人間の法は通用しない。

 寝転がるアルを片腕で跨ぎ、上から被さるように視線を絡めた。左目の下で横並びになった黒子が、ゆるやかに曲がる。それはまるで、恋人を安心させるかのような微笑みだ。

 ラストにそのつもりはない。アルもまた、そんな風には見えていないのかもしれなかった。

 ただ整った顔立ちだと。人間の顔をうまく認識できないアルだったが、なぜかそんな風に思えていた。


「貴方には、ルクスを見ていてほしいのです」


「なんで俺なんだよ。アメリアにでも頼めばいいじゃねぇか」


 そこでふと、アルは不機嫌そうな唇を噤む。ラストは困ったように微笑んで、上体を起こした。

 濡羽色がさらりと揺れて、控えめな室内灯の光が、その上に複雑な色味を彩なす。無遠慮に、アルは掛け軸的な美しさの髪を引っ掴む。


「なんです、お別れのキスならしませ――」

「俺が行く」

「うん……?」


 ピンと張り詰める毛髪の痛みに耐えかねたラストが、アルの方へと傾いた。近づいた彼の背中に、アルは強く言葉をかける。


 アルが〝約束〟を抱く限り、血が諦めない限り、世界が繰り返されるのなら。血の一滴に至るまでを、結末へ賭すつもりでいた。

 誰の死に様にも、己の死に様にも興味はない。むしろどうでもいい。明日死のうとも、同じ日の違う自分が渡る橋の下に埋められようとも、本望とも言えた。


 なぜならエピローグに、恋の名を借りた一途な殺意を抱かせた天使が、待っているのだから。


 ラストは口を閉ざす。沈黙の中、彼の灰紫のシャツに染み込んだ煙草の煙たさだけが、けざやかに感覚を刺激した。

 今まさに紫煙を吐き出したかのように、ラストは苦笑する。髪を離されればアルの方を向いて、真剣でいて艶やかな眼差しと共に問う。


「任せて、いいのですね?」

「……あぁ」


 アルの返答は短かったが、磨かれた氷面鏡ひもかがみを傷付けずに渡るような、慎重さを孕んでいた。

 ラストは顎を引く。


「頼みましたよ、アル」


 微笑みの形を保ったままの唇が、そう告げた気がした。

 まだ日は高い位置にある。フィロメリアに到着しても、日を跨いでしまうことはないだろう。

 かくして、芸術とは無縁に生きてきた青年は、『芸術都市 フィロメリア』へと、赴くこととなったのだ。

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