殺戮ドール

frange

御伽話の始まり

0.プロローグ

 犠牲のない幸福なんて、誰が吐いた妄言だろうか。

 たった一人を幸せにする為だけに、何人と何万人とが死んだ。


「嗚呼、いい眺めですね。本当に、……」


 血の海に浮かぶ屍の玉座に――万人の不幸の上に鎮座した白い少女は、この上なく幸せそうに笑っている。他人の不幸は蜜の味とはよく言うが、これ程までに吐き気を覚える甘さの蜜は、この世に存在しないだろう。

 ゴウッと吠えるように渦巻く炎。緋色に腐敗した世界。空に落ちる人々の希望。全てが無へと帰っていく。


「……はぁ」


 幸福の味なんて、どんなに甘美な味付けでも、噛めば一瞬で薄れてしまうもの。それは、この玉座に鎮座する少女の幸福ものだって、例外ではない。

 不意にこぼれたため息が、熱風に交じり消える。猛る炎を横目に、少女はうつ伏せで地面に転がっている、どこか自分に似た風貌を持つ青年を睨んだ。青年の背中はざっくりと切り裂かれ、おびただしい量の血液が今でも流れ続けている。美しかったであろう白い髪も、今は鼠色にくすんでいた。


「もうそろそろ、このお話も終わりですかね。ふふっ、最期まで足掻くその姿……見ものでしたよ」


 青年を見下ろす、怒りとも悲しみとも言えぬ赤い目は、次第に愉悦を湛え始める。この青年は、自分が負けると確信したうえで少女へと刃先を向け続けた。その姿は、勇気と無謀の境を彷徨っているようにも見えた。実に愚かな青年だと、少女は思った。


 ガラリと、背後でナニかが崩れ落ちる。


「完全な消滅まで、後数歩」


 あらぬ方向にひしゃげた青年の右手。何かを掴もうとしているようなその右手の跡が、赤く染みついた黒のドレスを翻して、少女は玉座から腰を上げた。

 濁った血液をぶちまけたような空が、まるで蝋燭の火が蝋を溶かす様に消えていく。世界が、形を失っていく。

 それは次第に地面にまで広がり、荒れ狂う炎の雄叫びは容易く掻き消された。

崩落した家々や、焼けただれた草木、花、動物、人。全てが黒い蝋となって、虚空へと落ちる。


「さぁ、次の舞台に移りましょう。世にも儚い、喜劇ひげき舞台れきしへ」


 その言葉を合図に、少女が腰掛けていた玉座も黒に沈んだ。香しい花畑を進むように、悠然と歩く少女の背を追いかけて、世界は崩落していく。


 ――溶けだした蝋は冷え固まって、また新たな舞台れきしを作り上げていくのです。


「また次の公演で、お会いしましょう」


  ***


 ただ切に願った、たった一つの思い。未だに叶わぬその思いを胸に、”私”はその光景をただ見ていた。――その玉座の上から、確かに見ていた。

 もう動かない体。霞んだ視界。脳裏に焼き付いて離れない、皆が私の名前を必死に叫ぶ声。

 引き裂かれた様に痛む声帯を振るわせて、溶けていく意識の中で呟いた。せめてものこの祈りが、届きますようにと。初めて、自分の祈りを吐き出した。


『もしもの願いが、叶うなら――――』

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