カット

七山月子



 のびっぱなしの茶髪がみすぼらしかったので、いっそ黒髪のショートヘアにしてしまった。鏡を見るたび、違和感と後悔交じりのため息をつく、9月下旬。

 ペロペロキャンディを一生懸命舐め回しながら、夜のライトアップされた東京駅を眺めていた。良い塩梅のカーブを作っている外壁が光に溢れて輪郭を失いかけている。舌がざらつき始めた。鞄をひっかけた左肩に骨張った手が触れた。

 山川さんは相変わらず猫背でメガネ姿のまま、笑いもせずに挨拶をする。

「こんばんわ、美鈴さん」

それで私もドウモコンバンワとペロペロキャンディでつい顔を隠しながら言う。では行きましょうかとやはり笑いもせずに山川さんが前へ進んだ。東京駅に吸い込まれていく私たちを誰もが気にしない。人混みに紛れて、この気持ちごと気にしないでいて欲しいからちょうど良かった。

 どうせ、私が髪の毛を切ったことなんか山川さんは気づかないだろう。全然なくならないペロペロキャンディのせいで、右手が埋まっていて改札を通るのに四苦八苦した。それでも山川さんが振り向いて待ってくれる気配なんてこれぽっちもない。気が、滅入る。

 山川さんと私が出会ったのは一年前の、今日みたいな秋晴れした夜だった。星が綺麗ダナ、なんて見えもしない星を語ったポエムを書いていた。ながら、私は一人で喫茶店に居た。ちょうど東京駅がライトアップされているのが見える喫茶店の窓際だ。チョコレイトとコーヒーを口に突っ込んで、しょうもないポエムを前に煙草を吸った。そうしたら涙が出て、困った。わけもなく泣いてしまうのはその頃、よくあった。何故か大きく不安で、何故か死にたくもなった。

 隣に座っていた山川さんが、やっぱり笑いもせずにハンカチを差し出してくれた。

「なんか、ね」

 一言、ふといため息をしたようなその声が、私の奥底にあった孤独にも似た不安を涙ごと拭ってくれた気が、した。

 ここでいい。訊いているのか決めたのか定かでないような声音で私を見つめた山川さんを、まだなくなる気配のないペロペロキャンディ片手に見つめ返した。黒縁メガネの奥の瞳は最初に出会った頃と変わらず、綺麗に死んだ獣のようだった。

 その店はただの立ち飲み屋に見えた。足元はパンプスでヒールは背の高い山川さんに近づきたくて7センチもあった。私は笑ってみせて、いいよと返事をした。

「美鈴さんは」

呼ばれたくて、下の名前だけ教えたら山川さんは上の名前しか私に教えてくれなかったのに、私の名前は下で呼んでくれるものだから、嬉しくない。嬉しくないのに、呼ばれるたびに胸の中はじわ、と滲む熱が止まらないんだから仕方ない。

「それ、どうするつもり」

指差された先にはペロペロキャンディがあって、アハハドウシヨウ、と言いながら恥ずかしくなってしまった。道すがら、友人に会ったのだ。大きくなったお腹と、幸せそうに長男の頭を撫でる彼女。おれ、あにきになったからみすずにこれ、やるよ。とペロペロキャンディを渡されて、ついその場で開けて舐めた。そんなきもちは恥ずかしいものでなんかないはずなのに、私は恥ずかしくなってしまった自分に情けなくなってしまった。

 項垂れていると山川さんがペロペロキャンディを奪い、どうするのかと見ていると備え付けの串入れに挿した。あとで食べたらいいよ。とネクタイを緩めた山川さんがやっぱり好きだと想った。

 その日は至極呑んだ。言い訳すれば、酔いが回っていた。ベッドに入り込んで、山川さんの上に跨って服を脱ぎ、困らせたことまでは覚えている。気づけば朝、見慣れない部屋で起きた。

「おはよう、美鈴さん」

ソファに腰掛けた山川さんのネクタイはしっかり結ばれていて、私との仲は進まなかったことを意味していた。

 駅で別れて家に帰ると、鏡の前でぼやけた自分にダメ出しをした。

「だいたい、黒髪ショートなんて似合う顔じゃない。それに、ヒールのせいで足首は靴ずれでボロボロ。誰がお前なんか、抱きたいって思うもんか」

 眠り直して吐き気も二日酔いも頭痛も気怠さもなくなってから、洗顔を念入りに行った。泡立てた香料付きのソープを丁寧に乗せて洗う。それからお気に入りの化粧水と乳液、美容液とクリームを塗り込んでついでにサプリを数粒のんだ。山川さんの、ばか。

 茄子が売っていたのでパプリカとプチトマト、しめじとひき肉を籠に入れた。あとはカレーのルウがあればキーマカレーもどきが作れる。料理は好きだ。特にストレス解消になる料理は好きだ。一人暮らしになっても時々やる程度には好きだけど、鍋物は一人じゃ食べきれない。だから雪島を呼ぶ。

 雪島は近所の唯一の友人だ。よく行くミックスバーで働いている。呑んだくれた私を介抱してくれたのでお礼にとポトフやすき焼きを一緒に食べるうちに段々「鍋物の時には雪島を呼ぶ」というのが習慣になっていた。雪島というのは彼の本名の苗字だ、リンという源氏名で呼んでいたがある時名乗ってくれたのが嬉しかったので、苗字で呼んでいる。

 今日はカレーに誘ったというのに上等な白いワンピースを着てきた雪島が、開口一番、あらショート似合うじゃない。と言った。私はそれで癒されたものだから、雪島に打ち明けてしまった。

 山川さんが好きなこと。知り合って一年間好きなこと。自分の気持ちを抑えきれずにいること。山川さんが全然私を好きじゃないということ。

 それで深く頷いて聞いてくれていた雪島が、

「美鈴のカレー、山川さんが食べたらきっと笑ってくれるよ」

と言ったので涙ながらにカレーを食べることになってしまった。味見はしていない。ワンピース、可愛いね。と私が笑うと、

「上品でいいでしょ?! ちょっとあとで金木犀撮りに行こうよ」

と、突然嬉しそうに手を一つ叩いた。

「金木犀って私、好きなの。良い匂い、するし。このワンピースにとっても似合うと思うの」

雪島は、いつでも自分と風景が絵になることを考えるような乙女である。

 冬は椿に合うからと赤いリップをひき、春は桜に合うからと黒いドレスを着て、夏は向日葵に合うと言って麦わら帽子をかぶり暑いと言いながら写真を撮る。それで今年の秋は金木犀と白い服、というわけだ。

 カメラを持って二人で外に出かけると、薄手のカーディガンではもう間に合わなかったのでストールを巻いてデニムジャケットを羽織った。今度、コートを買いに出かけなければ。私は対照的に、そういう雪島のような感覚を持ち合わせていないようだ。

「どこへ行けば金木犀が見られるの?」

訊けば雪島もわかっていなかったようで、とりあえず駅に向かいながらスマホを弄った。

私が見上げると、駅前の「阿佐ヶ谷」の看板の上に鳩が飛び乗って、ふん反りかえるように羽が膨らんでいたところだった。

「あぶない」

雪島の腕を引っ張ると、鳩の糞はちょうど私の髪に直撃した。

「なんでわかったの?」

髪の毛を駅構内のトイレで洗い流してハンカチで拭きながら出ると、訊かれた。鳥を飼っていたのはずいぶん昔だったが、糞をする直前の力んでいる姿はよく見ていた、と答えると雪島はため息を吐いた。

「美鈴って、なんか間抜けなくせに変なところで察しがいいよね」

「そうかな」

「そう。山川さんのこともよっく見てみたら何か変わるんじゃない?」

なんの気もなしという風に雪島はそう言ったけど、私はそれとなく心の奥にある孤独というやつが膨らんだことを自覚していた。雪島のことも、山川さんのことも、妊娠した女友達も、実は私はそんなに見ていないんじゃないか。興味が、ないのではないか。むくりと起き上がった化け物みたいなモノに目を瞑って、私は雪島に笑いかける。

 結局、金木犀は見られなかった。というのも小金井公園に行く途中の電車内で、雨が降り出したのだ。

 それは小雨だったが、私たちのやる気を削ぐには充分だった。それで喫茶店へと足を向けることになり、中野で下車する。

 地下に続く喫茶店を見つけて入り、電波が不安定なことに文句を言いながら、それでも楽しそうにケーキを頬張っている雪島を見ていたら、思いついた。思いついたまま、それを口にするのは子供のやることだ。なんて言葉が頭に過ぎって、私はそれでまた思いついて、それを口にした。

「私は大人なのかな」

雪島はカメオピンクの爪でフォークを操りながら、アイラインをしっかりひいた目を私に向けた。

「私は男なのかしら、っていうのと一緒じゃないの?」

なるほど、と頷いて私もモンブランを崩した。

 スマホを弄って、ハンカチというタイトルのポエムを開いた。ハンカチが全てを拭ってくれたという最後の一文が、どうしても伝えたいことのひとつだって入っていないと感じて、下書き保存したものだ。それを雪島に見せた。

「美鈴って詩人だったの」

「ただの趣味」

「へえ、初めて知った。だけどなんだか納得。そういう雰囲気よね、あんた。いつでもポヤーッとしちゃって。それで不意にさっきみたいなような、ふんわりした言葉、使う」

「雪島は、私のことよく知ってくれてるね」

「当たり前でしょ、友達なんだから」

「そんな当たり前が羨ましい」

「ん? どうしたの、なんだか美鈴、今日はやけにしおらしい」

「金木犀、やっぱり見ようよ」

雨だから嫌よ、と言われたが、そうじゃないよと返して、スマホで検索した画面を開く。金木犀の花が入った、透明なゼリーのレシピだ。

「きゃあ、かわいい」はしゃぐ雪島に、

「言うと、思った」心から微笑んだ。


 ショートにしてからひとつだけ得があると思ったこと。実用的だということ。シャンプーするのも乾かすのも時間が掛からないし、ラーメンを食べるにも髪ゴムが要らない。ワックスでヘアアレンジを覚えたら、なかなかそれなりに見えるし、風が強く吹いてもリップにくっ付いたりしない。楽だ。

 山川さんは、やはり前を行く。随分前を歩く。私がいることを知らないように歩く彼の後ろを、どうにかついていこうと頑張る。頑張るけれど、どうして頑張っているのか、それが山川さんにとって必要なことか、不必要なことか、わからなくなってくる。歩みを止めたらいいのか迷いながら歩くのは、なんだか私の人生そのもののようで、これが彼と私の間にある距離なんだと、足をようやく止める。そうすると山川さんは少し立ち止まる。やっと立ち止まった彼の姿がやっぱり愛おしくて、こちらを窺う彼の背中と横顔に向かってまた私は歩き始める。

 イチョウ並木を、山川さんと歩いている。石畳のレンガに積もり積もった落ち葉を蹴り上げると、スニーカーは泥でまみれてのろくなる。その分山川さんは押し黙る。黙ったまま、私のことを見てもくれない。だから私は蹴り上げた落ち葉を、また強く蹴り上げてスニーカーを泥で汚してのろくなる。疲れてきていた。

「山川さん」

呼ぶと、こちらを向く。私はそれでも、言おうと思った。それは、イチョウ並木に風が唸り上げてそれに紛れていつかは泣けるかもしれないと、また下手なポエムが浮かんだからだろうか。

「私、あなたのことが好きですよ」

雪島が食べてくれたカレーも、あの金木犀のゼリーも、私が七センチのヒールのせいで痛くなっていたことも、後ろ姿に疲れた今も、ハンカチに拭われた心があったことも、山川さんの芯には何も届かないことをわかりきっている。私は、もう疲れてきていた。

「私、山川さんのこと、大好きでした」

あとは。

「あの時、出会えて、なんだか舞い上がっちゃったみたいで」

それから。

「どうしてだろ、ごめんなさい。こんなこと、言うつもりなかったんです」

うそつき。

「もう、いいんです」

うそ。

「だから」

だから。


山川さんが、口を開いた。風の音で、良く聞こえない。髪が、揺れている。何を言っているの。想うと、歪む。ひどい妄想に食べられそうだ。なにを、言っているの。もう。風が、吹く。吹く。吹け。ずっと。


「髪、切ったんだね」


目が、合った。

 

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