第⁇話 その頃とその後の誰かの会話

 薄暗いが、やたらとだだっ広い室内で恰幅の良い女性が一人カステラを頬張っていた。 

 壮年の男が近づいて声を掛けると、女性は両手を胸の近くで合わせて嬉しそうに声を上げる。


「県先生! 帰ってこられたんですね。ご無事で何よりです」

「藤村さん、有り難うございます。ところで、林又さんからお呼びがかかっておられますが、何かおやりになりましたか?」

「ぎくっ! え、本当ですか?」


 にこにこと表情を崩さない壮年の男・県と明らかに目を泳がせて動揺している女性・藤村、一見すると悪戯をした生徒を叱る先生の図である。

 県はメモリーチップを起動して操作し、芳子が送ったレポートを見せる。


考察:講師、そのまま地下で待機。


「うわぁー、逃げていいですかね?」


 藤村は助けを求めて県を見遣る。県は少し思案して、口を開いた。


「この老ぼれには、若人わこうどの行動を正確に予想できませんが、私が思いますに余計怒らせてしまうのではないかと」

「うっ! そうですよね」


 藤村は肩を落としてため息をついた。県は藤村の様子を見て、顎に手を当てた。


「内容に寄っては変わるかもしれませんが、はて、林又さんは何でお怒りになっておられるのでしょうか」

「あー、えー、すみません、思い当たる節が多々ございます」

「それは...何と言いますか、ご愁傷様ですね」


 「あー、どうしよう」と藤村は頭を抱えて座り込んだ。微笑ましく眺めていた県だったが、中年の研究員の報告で事態は一変した。


「た、たい、大変です!」


 入り口からドサッと音がして、中年のほっそりとした男が這いずるようにして藤村達の方に向かっていく。


「鈴木くん、どうかなさいましたか?」

「あ、県先生、ちょうどよかった。大変なんです」

「鈴木くん、落ち着いて下さい。さあ、水をどうぞ」

「すみません!」


 中年の男・鈴木は県から手渡された水を一気に呷った。切れた息を整えるように深呼吸を繰り返し、ちょうど10回目で意を決したように口を開いた。


「林又教授が、コーヒーに大量の砂糖を、入れていたんです!」


 県は目を見張り、藤村は凍りついたように動かない。一瞬で重苦しい空気が立ち込める。反応が無いことを心配して、鈴木は続けた。


「これって、藤村さんが子どもを研究室に連れて来た時以来ですよね。林又先生、とてもイラついた様子で、いつも頑なにブラックなのにシュガーポットが無くなるまで砂糖を投入されて。麻生さんと二人、睨み合ってたんですが」

「私、今から国外に逃亡しますので、止めないでください」

「ははは、分かりました。この老人めがしっかりと殿しんがりを務めましょう」

「ちょ、県先生、林又教授が更に怒るだけですって」

「鈴木くん、犠牲になってくれてありがとう。この恩は忘れない!」

「藤村さん、僕まだ何も言ってません!」


 鈴木の悲壮な悲鳴をよそに藤村が駆け出した。部屋に一つしかない出口に向かって全力疾走し、ドアを開けた。

 ダンッと音がして、すらりと伸びた長い足が退路を塞ぐ。

 藤村が恐る恐る顔を上げると、目と鼻の先に無表情でよく整った若い女性の顔があった。

 藤村は後退り、数歩引いたところで膝を折り、床に手をついた。


「すみませんでした!!!」


 藤村は少し離れた女性の前髪を浮かせる勢いで頭を下げた。整った容姿の女性・芳子は表情を変えず首を傾げる。右手にはブックカバーが着いた文庫本があった。


「それは、何に対する謝罪でしょうか?」

「紗良たんい...紗良さんから送られてきた先生の仮眠中の御尊顔があまりに平和て...美しかったのでこればぜひふきょ...共有せねばと思い立ちまして、学内に女性限定で拡散してしまいました」

「は?」

「ひっ! あ、あの、でもですね、学外に漏れないようにしっかりデータ自体に組み込んでおきましたし、複製不可の制限もちゃんとつけましたから、その、すみませんでした」


 言い募る藤村に、しかし芳子の表情は動かない。


「肖像権侵害ですよね、分かってます。後でお金払います。回収もしますので」


 芳子は、なおも言葉を発しない。


「紗良さんにも、勝手に撮らないよう言っておきますので...」


 応答がない芳子に焦れて、藤村が顔を上げようとした時、目線の端に見覚えのあるものが映った。


「そ、それ、何故先生が持って...」


 藤村は驚いて勢いよく顔を上げた。芳子は手にしていた本を掲げて喋り始める。


「話というのは、実験のほうです」

「ふぇ?」

「因みに、先程の話は初耳です。なるほど、准教授がいきなり笑い出した原因はそれですか」

「もしかして、私、墓穴掘りました?」


 藤村は右を向いて県らに同意を求める。案の定県は微笑みを湛えて、鈴木は必死に肯首している


「その件は後で聞きます。本題ですが、明智珠子の婚姻を止めたのは何故ですか?」


 藤村は対象が上手く動かなかった時の補助役として明智光秀を定期的に誘導・操作していた。

 明智光秀の意思は藤村によって操作可能であり、過去の調査などにも使われているチップを媒介しているのでバグというのも考え難い。

 哲男の意識を織田信長に置き換えた時のように、その脳みそ単体のデータを転送するのではなく、脳にチップだけを埋め込み、本人に知られずに誘導する。藤村が使用している装置は、端的に言えばそういうものだ。

 数年前に開発されたが、とある企業幹部が装置により操られ、倒産にまで追い込まれた。現代においては使用禁止の危険物として国に指定され、特定の場所で保管されている。その場所は明かされておらず、知る者も限られる。そして、その数少ない保管場所の一つに当たるのが翠学園工学部の地下研究室なのである。


「まさか、これが原因とは言いませんよね?」


 芳子は本をひらひらと揺らして藤村を軽く睨みつけた。

 ブックカバーが取れて露出した表紙には"戦国アンソロジー"と書かれ、表紙には十字架のペンダントを提げた美しい女性と、それを見守るように傍らに立つ美丈夫。帯の目次の一番最初は"細川珠子と細川忠興の純愛"と銘打ってある。

 細川夫婦は離婚理由がはっきりしておらず、小説などでよくネタにされている。というのも、専らが本当は愛し合っていたものの別れなければならなかったという説を取り上げるものが多く、今現在は暗黙の了解で不仲説は唱えられない。

 藤村は、こう言った王道ラブストーリーを好んでいて、特に細川夫婦の話を気に入っていた。


「そうなんですよ〜、やっぱり、結婚はしてもらいたいなと、ファン的には」


 藤村は誇らしげ胸を張り照れて見せた。予想はできたであろうに、当然芳子の機嫌は急降下、同時に部屋の体感温度も急降下する。


「は?」

「...すみませんすみません、冗談です。いや、本当に冗談ですって! 疑わしいものを見る目で見ないでください」


 藤村は身震いしながら手を左右に振って必死に弁解する。

 芳子は暫く胡乱気に藤村を凝視していたが、ため息を一つついて掲げていた本を降ろした。


「怪しいところではありますが、言い訳でも一応聞きましょう。理由は?」

「政略結婚は可哀想だなと、思っただけです。当時の日本にとって外国人なんて、まだまだ鬼とかの類なんですから尚更です。今の価値観に当て嵌めてはいけないと思うんです。あれでは明智珠子があまりに不憫です」


 藤村は表情に翳りを見せて俯いたまま釈明した。ともすれば、突然、藤村は顔を上げてあっけらかんと言い放つ。


「あっ、言い訳じゃないですよ! 後付けなどではなく、本心で、リアルタイムにそう思ったので行動に移しました!」


 芳子は再びため息をついて傍聴にまわっている県の方に目を向けた。


「良いのですか?」

「ええ、私は問題無いと考えました。林又さんは、何か憂慮ゆうりょする事でも?」

「...いえ、名誉教授がよろしいのであれば問題はありません」


狐狸こりの類が)


 芳子は心の中で盛大な舌打ちをして苛立った心を立て直す。


「県名誉教授、お暇ですね」

「いえいえ、全くもってそのようなことはありませんよ。とても忙しいです」

「そうですか、暇ですか。でしたら、どうか施設管理にまわっていただけますよね。私は講師に一から指導をしなければならないようですので、是非にお願い致します」


 県はにこにこと微笑んだままデスクに向き直り、高速でメモリーチップを操作し始めた。鈴木も県に従って、デスクワークを片付け始める。

 仕方なしに正面を向いた芳子は、視界の端に匍匐前進ほふくぜんしんで出口に向かう藤村を認めた。


「講師」

「はいぃぃ!」


 芳子は指を天井に向けて、口元に弧を描く。


「少し、お話ししましょうか」

「はい...」


 地下はどこまでも暗く、ブラックホールの黒に似ている。

 全てを飲み込むそれは、他の存在を許すことはない。ましてや一度それに染まったら、何を塗ったところで、それは黒なのだ。

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