第37話 予感

 静まり返る一室。芳子は一人、部屋の作り付けである茶室に鎮座していた。朱の帛紗ふくさを盆の左縁にかけ、体を戻して腰を直角に正座したまま微動だにしない。

 部屋は一面畳張りで、広さは四畳半。北向きに構える床の間とこのまと、対するように設けられた丸窓。窓の障子は少し開いており、奥には蕾も多いが美しい桜が見える。勿論、ここはビルの高層階なので桜は映像だ。

 西は丸窓寄りに襖障子ふすましょうじがあり、芳子は部屋の中央にある瓶掛けと鉄瓶に向かい合って座っている。

 傍には盆に乗せた楽茶碗らくぢゃわん朱漆長棗しゅうるしながなつめ茶杓ちゃしゃく茶筅ちゃせん茶巾ちゃきん建水けんすい

 湯の入った茶碗を上から左手で押さえて、茶筅を湯に潜らせる。湯を建水に捨てると、茶碗を茶巾で拭き取り、棗から茶を二灼すくう。再び湯を注ぎ、茶を点てる。

 芳子は、できたものは縁外に置かず、自身の左後ろに置いておいた最中を引き寄せて食べ始める。

 手を懐紙で拭い、先程点てた茶を呷る。

 ししおどしだけが空気を揺らす空間に警戒音が響き渡る。

 芳子は綺麗な所作で立ち上がり障子を引いた。

 一段小高い茶室から降りて、コーヒーテーブルに置いていたスマホを覗き込む。


『ハゲがブチギレた』


 芳子は首を傾げてスマホを手に持った。


『ハゲとはどなたのことでしょうか? その時代は誰しもハゲ...といいますか丁髷ちょんまげなのでそう見えると思うのですが』

『それもそうか∑(゚Д゚) えー、明智光秀さんっす』

『そうですか、理解しました。それで、明智光秀を何故怒らせたのですか?』

『他人事と思うなよ、半分芳子のせいっちゃせいなんだから(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎)』

『何のことですか?』


 芳子は眉間に皺を寄せた。


『珠子ちゃんをさ、結婚させろっていったじゃん。だから俺、打診したのよ。だけど、相手がポルトガル人だって言った途端に激昂されちゃって。もう大変だったんだから_:(´ཀ`」 ∠):』

『馬鹿正直に言ってはそうでしょう。言い方を工夫するくらい、思いつきませんでしたか?』

『さーせんさーせん、なんせバカなもんで。でも、だけどさー、うまく言っても、それって結局騙してるってことじゃん』

『嘘は言わず、しかし本当のことも言わない。交渉の鉄則です。メリットをより伝え、デメリットはそれを引き立てるほどの少しの量で入れるのです』

『それは...ずるくねぇ?』

『戦略です』

『えー、そうかね?』

『説き伏せてください、何としても。国内ならいざ知らず、スペインと言えど、私の調べられる情報は限られてきます。万が一戦争になっても、私は恐らくアドバイスできません』


 ポルトガルやスペインは今なお日本の主要な交易相手だ。昔から交友があったこともあり、関係はとても良い。

 しかし、いくら交流があると言えども、情報を集めるのには制限がかかる。今や、ダイヤモンドよりも高いと言われる情報を簡単に開示する国は無い。


『あー、まあ、そうだね。えー、でも、ハゲ...じゃなくて、明智さん、激おこだよ』

『そこを何とかして治めてください』

『無理無理無理、マジで無理!』

『では、そういうことで』

『えっ、そうゆうってどういうか分かんないんだけど! ちょっと、芳子さん!』

『それくらいご自分でお考えになってください』

『無理だから言ってんだろ』


 文字は所詮文字でしかなく、感情を読み取るには不向きだ。だが、哲男の場合は案外分かりやすい。文章に絵文字が入らない時は、大体哲男は頭にきているという事だ。


『私にキレないでください』

『キレてねーし』

『では、何故それほどイライラなさっているのですか?』

『イライラなんてしてねー』

『主観でしか物を見れないとは憐れですね』

『妹よ、それを世間では煽りと言う。俺を怒らせてーの?』

『貴方の感情に関して、私は特に興味がありません』

『そうですね。俺が機嫌損ねたところで、お前は痛くも痒くもねーのな』


 芳子は最中の包みを保冷庫に入れて、ため息をついた。


『もう一度聞きます。二度目はありません。どうしてそれ程までにフラストレーションが蓄積しておられるのですか?』

『...そんなに、俺、イライラしてる?』

『私に聞かないでください』

『そりゃそうだo(`ω´ )o』


 どうやら、哲男はやっと落ち着きを取り戻したようだ。


『それで、原因は何ですか?』

『んー、簡単に言うと、コールセンターの人の大変さを痛感した?みたいな』

『中間管理職ならまだしも、何故大人しくクレームを聞いているのですか?』

『おっ、通じた! お兄ちゃん感激』


 一昔前までは、インターネットテクノロジーの未発達により、クレーム対応などの臨機応変な行動が要求される場ではまだまだ人の需要があった。

 現在はモラル法の中で規定が作成され、そういった意見を直接伝える事自体が禁止された。

 そのため、クレーム対応は文面でのやり取りでのみ行われ、その対応に人は必要とされない。


『明智光秀はそれ程しつこいですか?』

『んーん、そんなんじゃなくて。なんつうか、訴えが悲痛すぎて困るっつうか。理解できるから感じる無力感って感じっす』

『仰ると思いますので先に申し上げておくと、元を辿れば兄さんが原因ですから』

『へいへい、分かってますよー(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎)』


 芳子は書斎に向かい、机上に置いておいた和綴じ本をペラペラとめくった。


『明智光秀は、明智珠子を可愛がっていたと伝えられています』

『うん、実際そうみたいよ。結婚の打診をした時、すんごい悲惨そうな顔してた。めっちゃくちゃ俺に頼み込んできたもん、他のことなら何でもするからって』

『しかし、スペインが攻めてきてはその娘すら息絶えます』

『うん、そのことも説明した。そのまま言うわけにいかないから所々ぼやかしてだけど。それに関しては何とか納得してくれた。でも、娘は結婚できないって一点張り』

『何か、策を練ってきそうですね』


 芳子には、理由を話さずに"結婚できない"とだけ話した明智光秀が、何か考えているように思えてならなかった。


『んー、俺的にはその方が嬉しかったり』

『本当に学習しませんね』

『なにが?』

『いえ。恐らくスペインに攻め込まれてポルトガルからの援助もなく、苦しみ悶えて死ぬまで貴方が現実を見る事はないのでしょう』

『ひでぇのなw でもま、理想論だっつうのは分かってる。でも、他に方法はなかったのかなーとも思う』

『無いですよ。いくら攻めてこない可能性が高くても、攻めてくる可能性が少しでもある場合、備えていて悪い事はありません。そして、逆はあり得ません』


 One for all, all for one. そう言うけど、つまるところは前者が強い。支配階層に立つ者が考えるべきとされているのは、個の利益より全体の利益。個の命より多数の命だ。


『分かってる。言ってみただけ^_^』

『分かってるなら言わないで下さい。疲れます』

『そんな、だりぃみたいな感じに言うなよ』

『正にそういった感情です』

『はいはい、与太話は切り上げますよ。とりあえず、気長にってわけにはいかないけど粘り強く説得してみるよ』

『はい、お願いします』


 竹が、また一つ石を打つ。束の間水が流れ、また竹が石を穿つ。

 芳子は、果てしないループに静かに耳を澄ませた。




<途中経過>


日時:西暦2021年 3/4(木) 14:48現在


結果検証:明智光秀が娘の政略結婚に難色を示している。


考察:政略結婚の方向で進めるのは困難に思える。

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