第15話 例の件

 1570年6月の半ば、あるはずの無かった戦争が開戦した。姉川を舞台に、織田信長率いる織田・徳川連合軍に対するは浅井・朝倉連合軍。両者戦力は拮抗し、謀略が勝敗を分けた戦いとなったという。

 敵も味方も区別がつかなくなる程の激戦が繰り広げられるなか、徳川家康は浅井・朝倉連合軍の陣形に急所を見とめ、そこをつくように指示した。

 作戦は見事大成功。朝倉軍、浅井軍の順で敗走し、織田軍は姉川でめでたく勝利を飾った。

 しかし、結局織田軍は浅井・朝倉連合軍に勝利したものの、首を取るに至らなかったそうだ。

 姉川で矛を交えた両軍の混戦甚だしく、姉川は僅かな間に赤に染まった。


『まあ、良かったのかな? うん、良かったってことで』

『あなたが図ったんですから、あなたにとっては良かったでしょうね』


 芳子は、珍しくキッチンに立っていた。

 書斎の置き時計の短針が2を指す頃、哲男からメッセージが届いた。

 簡単に結果報告と、浅井長政、朝倉義景、足利義昭はやっぱり殺さない方向で考えたいという要望が添えてあった。

 最初からずっと史実にないことをだったので、芳子であっても強く窘めることのできない。どうすればいいか、正解がないからだ。

 最終的に、朝倉義景と浅井長政は深追いはせず泳がせている。足利義昭は、元々大した影響力は無く、幽閉したまま放置した。

 芳子は電子ポットに水を入れ、ポットを付属の台座に移動させながら返信を打っていた。


『最低でも足利義昭は殺さないといけないですよ。後の進行に関わってきます』

『何かあったっけ? それは追々話しますが、兎に角足利義昭を将軍位から外さなければならないです』

『将軍から外せば問題ないわけ?』

『最悪それでも構いませんが。そちらは今何年の何月ですか?』

『突然何を? えーっと、げんこう元年だって。あれ? 漢字変換出てこないんだけど、何でだろ? あっと、元気の元に亀って書くよ』

『それは「げんこう」ではなく「げんき」です。元亀元年ですね?』

『マジで? それげんきって読むんだ』

『逆に、どうすれば「げんこう」と読めるのかが疑問でなりません』


 芳子は電子ポットの台座にある電源ボタンを押して、ため息をつく。


『すみませんね、バカで。で、年号がどうしたの?』

『元号の問題ではありません。本来なら元亀元年で足利義昭は亡くなっているんです。それも6月初めには』

『ん? てことは、元亀は1年で終わったってこと?』

『つくづくバカですね。元号が変わるのは天皇が死んでからです。将軍が死んでも変わりません』

『あっ、そうでした。バカ質問した。ごめん。つうか、ついに直接的な言葉使ってきたな』


 芳子が右手でフリック入力をしていると、電子ポットがカチッと音を立ててお湯が沸いたことを知らせた。


『兄さん、これから用事がありますので、暫く対応できないと思います。いつものスパンと考えていただければ。それと、足利義昭は最低退位、最高処刑で』

『物騒だよ、芳子さんや。用事については了解するけど、俺は無闇な殺生はしないからね』


 電子ポットを台座から持ち上げたところで、メッセージと共に頬を膨らませて顔の赤いリスのスタンプが送られてきた。


 哲男からの着信が止んだので、芳子はスマホを食卓に置き、再びキッチンに戻る。

 芳子には、趣味がない訳ではない。休日、専ら何をしているかと言えば殆どは仕事だ。しかし、それでも時間が余った時、好んで行うことがある。

 大学に連絡も済み、やることのない芳子は紅茶を淹れていた。

 芳子はお気に入りの紅茶メーカーブランドのアールグレイを装飾の付いた缶から二さじすくいとり、透明なティーポットの茶こし部分に流し入れる。沸かしてあった熱湯をポットに上から一定のリズムで注ぎ、アールグレイの色を抽出する。湯を入れると茶葉がくるくると回りだし、いい香りが芳子の鼻孔を掠めた。8分目に差し掛かったところで注ぐのをやめて、3分蒸らす。

 3分経って透明なカップに出来上がった紅茶を注ぐと、冷蔵庫からポーションを取り出してカップに垂らした。白はみるみる赤茶と混ざり、最後には琥珀色に落ち着いた。

 カップを口に近づけただけでも美味しさが伝わる。落ち着きのある深い香り、スモーキーさもあるがポーションでうまく中和している。

 猫舌の芳子は、紅茶の表面を息で充分に撫でてから口をつける。舌触りは滑らかで、少し濃い目に入れたアールグレイとポーションで味の角を取り、さらりとしていながらも味わい深い仕上がりだ。

 芳子は食卓にティーポットと下敷き、紅茶を入れるカップを運ぶ。

 椅子に座って一息ついたところで、味を見るために少し注いだアールグレイミルクティーを呷る。

 紅茶と砂糖は、別々に口に入れるのが芳子のこだわりだ。角砂糖に飽きていたのでザラメ糖に中身を入れ替え、小皿を用意してシュガーポットがらスプーンで3すくいほどする。

 舌にザラメ糖を乗せ、すかさずミルクティーを注ぎ入れる。ほのかな甘さと時間を感じさせる深みのある苦味に、芳子の頬が僅かに緩んだ。

 自分で淹れた至高のアールグレイに好みの砂糖(ブドウ糖)、頭脳労働前の完璧な休息である。


 ティーブレイクを終え、食器の類を水で濯いで水切りの上に置く。キッチンのタオルで手を拭き、書斎で時間を確認すると、もう、15時近くなっていた。

 これから論文に着手しようとしていた芳子は、書斎に向いていた足で玄関に向かった。


 研究室のドアの前で生体認証を受け、開いたドアから暗い中を覗き込む。明かりは付いて居らず、当然ながら人もいなかった。

 明かりをつけて、県がいないことを確認して研究室を出た。

 事務に行って出入記録を見せてもらおうとエレベーターホールに向かう。下がってきたエレベーターに乗ろうと鈴の音と共に顔を上げると、芳子は正面の箱に目的の人物を見とめ、声を上げた。


「県教授、お疲れ様です」


 目の前の壮年の男性は手元の書類から視線を上げ、芳子の方に移した。


「おや、待たせてしまいましたかな? 申し訳ない、こちらから呼び出しておいて研究室に居なかったのだから驚かれたでしょう。緊急に呼び出しをくらいましてな、いやはや申し訳ない」


 県は相当に申し訳なさそうな表情を浮かべている。県は小麦色のセーターに長袖のYシャツ、黒のスラックスをはいている。シャツはピシッとアイロンがけがされてあるが、スラックスにはシワが数本入っているのが目立つ。長く座っていたのだろう。

 芳子は県の服装から、県が手にしていた書類に目を移した。


「立て込んでおられるようなら、引き返しますが」

「いや、大丈夫ですよ。学会を交代する件で軽くお叱りをいただいただけですから」


 県は自分のうなじを左手で撫でた。


「だから言ったじゃないですか」

「ははは、良いのですよ。イタリアには教授が行くことになっていますから、何ら変わりはありません」


 芳子は首を傾げた。県は、尚もニコニコしたままだ。


「どういうことでしょうか?」

「さて、どういうことでしょうか、林又教授?」


 県は含みのある声音で、芳子の反応を期待している顔だった。今にも「ワクワク」という効果音が聞こえてきそうなものだ。

 芳子は県の言わんとしていることを察し、何とも言えない顔を作った。


「そうですか。では、それほどお叱りは長くはなかったのですね。良かったです」


 県は年甲斐もなく不服そうに頬を膨らませた。


「もっと驚かれると思いましたが、残念ですね。でもまあ、改めまして教授就任おめでとうございます」

「有難う御座います。離任理由は老朽化ですか?」

「耳が痛いですね、その通りですが。でも、私も昇進です」


 県はネームプレートを持ち上げて、右端をシワのやった指で指し示した。県はシワの多い顔にさらにシワを作り、笑顔で芳子の方を見ている。

 そこには、氏名の上に小さく「名誉教授」とあった。


「という事は、仕事というのはネームプレートの取り替えですか?」

「うん。あと、その他諸々、かな?」

「了解しました」


 県が研究室に向かって歩いているのを見て、エレベーターに顔を向けた時、背後から柔らかな声がかかる。


「そうでした。もう一つ、林又さん。は、これからも協力を惜しみませんので、ご安心ください」


 県の表情は逆光で、芳子からは確認することができなかった。

 県が研究室に向かったことを見送って、芳子はエレベーターで1階に降りた。

 エレベーターからは、暖色が入り混じった空が見えた。




<途中経過>


日時:西暦2020年 9/15(火) 16:48現在


結果検証:以前、歴史の修正は成功していない。


考察:現状では修正は難しいと考える。修正に拘らずに問題解決をすることが理想だが、アドリブにも難点が多い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る