28.決めた。

 翌日は晴れた。昨日の雨で田んぼの土が湿ったのがちょっと不安だったが、梅雨も近いので、早いほうがいいだろうとならしに取り掛かった。

 トンボに目印をつけてそれを水糸みずいとの高さに合わせて均していく。結果的には、頑張って水糸を張るまでの必要はなかった。自分たちの足跡やホースを引きずった跡を均すくらいで、ほぼ水平が確保できてしまった。考えれば、水を入れるだけでもきっとほぼ水平になるように思うし、去年までプロが作ってたんだから、そんなに急に狂うのもおかしい気がする。

「頑張ったのにね。」

「まぁ、いい勉強になったよ。」

 将来、小屋でも作るようなことになったら使える技だし、まぁいいかと思う。細かく言うと排水口のある辺りが若干低くなっていたけれど、これは多分わざとそうしてあるように思う。

 水糸は各田んぼに1本づつ残して残りは撤去した。残したのは、水を入れた後の水位を計るのにつかえるかもしれないと思ったから。

「んじゃ、種蒔きするか。」

 種まきには、結局2日かかった。途中で種まき機を1台追加することにしてホームセンターと農協を巡った時間も含めて。少し間隔をあけて植える種の量を減らしたし、作業そのものはたまにスーパー種まき機がつっかえたくらいで順調にすすんだので、充分な早さだったとは思うが、2人でやるには、やっぱりちょっと広すぎたような気がする。


 種まきが終わった次の日、通水のテストをするために池に行った。芽が出るまでにやれば良いことなので、急がなくても良いんだけれど、この間の雨であふれてたりしてないかと気が付いて、不安になったから。

「水音、この間よりおっきくなってない?」

「雨のせいだな、多分」

 幸いせきを少し超えるくらいで済んでいた。つつみを超えるほど増えてたら決壊しかねない。ずっとここにいるつもりなら水位の管理をちゃんとしていかないと、と反省した。

 ハンドルの南京錠をサンダーで切って堰を開ける。ほんとは水路の掃除をしてからのが良いんだろうけど、これ以上水位が増えるとあまりよくないと思う。主に精神的に。

 大きなハンドルを両手で持って、全身で力を掛けてグイッと回す。重たい。回すたびにダーッという水音が大きくなる。

「とりあえずこんなもんかな? 下のせきを閉じて、田んぼのほうにうまく流れるか試してみよう。」

 我等が田んぼへの分岐のところに奈美を残して、尚樹は、住宅地方面に流れ落ちる排水路の堰に向かう。

 排水路のハンドルも鎖から開放して、えいやっと閉めていく。散々回して、くたびれかけたところでやっと水位が上がってきた。

 無線機で奈美に連絡する。

「奈美さん、聞こえる? 」

『聞こえてるよー。ずいぶんかかったねぇ、大丈夫?』

「おう。やっと上がり始めたよ。」

『こっちはぜんぜん変わらないけど。』

「もうちょっとかかると思うよ。」

 迷ったけど、もう少し閉めておいてみる。

『あ、少しあがってきた。』

「気をつけてな。急に上がって溢れると危ない。」

『わかった。』

 少し開ける。

 距離があるので反応が遅れるから調整が難しい。

(だれかPID制御やってくれねぇかな?)

『もうちょっとで流れそう。』

「了解。」

 少しづつ開けて、こちらの水位が少し下がり始めるくらいにする。

『今流れ始めた。あ、でもちょっとあがり方が早い気がする。』

「こっちちょっと開けたから、下がってくると思う。ちゃんとけときなよ。」

『うん。あ、あがり方減ってきた。』

「了解。」

 少し閉める。

『今いい感じなんだけど、まだあがってる。あ、ちょっと多いかも』

 しまった、開けないといけなかったか。

「もちょっと開けるよ。」

 そんな感じで、いい具合に調整するのに結構な時間がかかった。池の水面が下がるとまた具合が変わっちゃうんだろうけど、仕方ない。

(思ったより面倒かも。)

 分岐のところで奈美と合流して、我等が田んぼに向かう用水路を辿たどる。 

 さらさらと流れる水を見ながら歩き、持ってきたくわで大きめの石や草や土を取り除く。

 我等が田んぼの手前に入れておいた仕切り板も問題はなく、水はちゃんと排水のほうに流れていた。

「大丈夫そうだな。」

「うん。あとはあぜね。」

「頭が痛い。」

「ちょっと休も。がんばりすぎると良くないよ。」

「そうかもな。風呂は?」

「急がなくていいよ。」

 そのあとは、そのまま休みにして、和室でビデオを見ながらごろごろした。


「ねぇ、カレー食べたい。」

 不意に奈美が言い出した。

「え? なんだよいきなり。えーと、カレールーなんてスーパーに残ってるかな? 具が魚しかないぞ?」

「いいよ。行ってみよ?」

「わかったわかった。あ。」

「なに?」

「スーパー、まだ、行った事ないよな?」

「地元では行ってたよ。」

「臭いが酷くなかった?」

「あー、そうだったね。そういえば、なるべく行かないようにしてた。」

「俺も塩探しに行って思い出した。」

「この際さ、使えそうなもの全部もらってこない?」

「そうだなぁ。あ、ホームセンターに防臭マスクとかあるかも。」

「え? そんなのまであるの?」

「工場とかで使うからな。寄ってから行こう。」

 結局、スーパーには、バックヤードを回っても、大したものは残ってなかった。

 さいわい、カレーのルーは少しだけ残っていた。丼の具みたいなものも。あとは味噌や醤油の類の調味料や香辛料と乾物、それから缶詰がほんの少し。多分味付きのアルファ米が割と早めに出回ったせいだろう。すぐに食べられるお菓子や乾麺、それから飲み物や酒類はもちろん空っぽ。

 贅沢にも白米が食べられるようになったせいで欲しくなったものが、わずかでも残っていたのはありがたかった。


 いざカレーを作ろうとした奈美が、米を研いでいた尚樹に言う。

「ねぇ、ガスが着かないんだけど。」

「あ、ボンベが空かな? 見てくる。」

「どうするの?」

「空なら交換する。」

「あるの?」

「予備を置いてある。」

「予備? え? それなくなったら?」

 不安気ふあんげにきく奈美。

「プロパンガスの販売店の基地があってね。そこにボンベに充填したのを置いてくれてるから、空のを持って行って、詰めてあるのをもらってくる。」

「あー、良かった。」

 奈美は、あからさまにほっとする。

「シャワー使いすぎたかと思ってドキドキしちゃったよ。」

「節約するに越したことはないけどね。」

 公民館で手伝いをしてるうちに仲良くなったガスの配達のあんちゃんが「空のボンベばっかり溜まるし、供給もいつ止まるか判んねぇから。」と、そうしておいてくれたものだ。

 その店であんちゃんが最後の一人になったときに、「覚えといて損はないぞ」と、ボンベにガスを詰めるやり方も教えてくれたが、充填してあるボンベがまだたくさんあるので、その技を使うには至ってない。その店のタンクにあとどのくらい残ってるかもわからないが、仮にタンクが空になっても、他の販売店に残ってれば、その技が使える。そういうことを考えてくれていたらしい。

 ボンベの交換を奈美に見せながら説明する。 空のボンベは、そのうちガス屋で充填済みのと交換してくる。

「ありがたいなぁ。」

「まったくね。」

「でも、いつまでもあるわけじゃないんだよね?」

「そりゃあね。海沿いの工場のでっかいタンクにはあるかも知れないけど、それをどうこうするのは怖いし。」

「怖いの?」

「漏れてたら、酸欠とか引火とか。」

「わ、それは、怖い。」

「あと、外房のほうだと、田んぼからガスが沸いてるらしいけど、そこに引っ越すかどうかは、よく考えないと。」

「え、ガスが湧き出してるの? 田んぼから?」

「そうらしい。見たことはないけど。」

「引っ越そうよ。ガスあると便利でしょ?」

「土地勘がないのと、山から海までが割と平らで距離があるから、津波と釣りとのバランスがとれるようないい高台がうまくあるかどうか。で、そこにうまくいい具合にガスが出てるかどうか、とか考えるとちょっとどうかなって思ってた。」

「そっか、津波は怖いよね。なんかいろいろ考えてるんだね。」

「釣りしてると、他にすることないしな。」

「昔の人はどうしてたんだろう?」

まきか炭じゃないかな?」

「山から取ってくるの?」

「切り出してきて、薪割りして、たしか1年くらい乾燥させないといけないんじゃなかったかな? その辺に生えてる木を切り出せば良いと思うけど、電動のノコギリとかエンジンのチェーンソーが使えるうちに集めといたほうがいいかも。」

「やること山積みだね。」

「うーん……。」

 魚と、申しわけ程度の缶詰の具しか入ってないカレーは、懐かしくはあったが、物足りなさが欲求を募らせた。

「お肉と野菜が欲しいよねぇ。」

「肉は無理だが、せめて野菜は欲しいな。」

「畑作りもがんばりますか。」

「そうだなぁ。」

「でもさ、何日かお休みしよ? あぜももう少し後でもいいと思うし。」

「そうするか。」


「もう6月だねぇ。」

 カレンダーに×を書きながら奈美がつぶやく。朝の日課のひとつだ。

「梅雨が来るなぁ。」

「雨、多くなってきてるしね。」

「芽はまだ出ない?」

「昨日の夕方は見えなかったよ。もちょっとだと思うんだけど。」

「大雨降る前にそこそこ伸びてたほうがいいんだよな。」

「多分ね。10センチくらい伸びれば水入れてもいいらしいから、そこまで持ってくれればいいなぁ。」

言いながら、カレンダーを一枚めくる。

「あ、7月も、もうすぐだねー。」

「なんかあるのか?」

「んー、まぁ、うれしいような、そうでもないような」

「なんだそれ?」

「わたしのお誕生日。」

「おぉ、そっか、7月か。」

「うん。7月3日。なみちゃんの日。」

「え? それが名前の由来?」

「そ。ちなみに、妹は9月3日で久美ちゃん。」

「安易だなぁ。」

「夏だから、海っぽいし良いんじゃない? ってなったらしいよ。」

「11月3日とかだとどうしたんだろう?」

「さぁねぇ?」

「ともかく、なんかしないとな。」

「なんかしてくれるの?」

「そりゃあ、聞いちゃったらなぁ。」

「期待しとく。」

「ハードル上げに来るなぁ……。」


「あのさぁ、奈美さん。」

 オセロに飽きてビデオをセットし始めた奈美に、尚樹が声を掛ける。

「なに?」

「これから、どうしたい?」

「え? どうって、お米の芽が伸びたら水入れるでしょ?」

「いや、そういう話じゃなくて、もうちょっと先の話。」

「先って?」

 ビデオのディスクを入れ替えた奈美がテーブルに戻ってきて、米せんべいをつまみながら首をかしげる。

「考えてたんだけどさ、」

「うん。」

「いくつか選択肢があると思う。」

「ん?」

 水割りをひとくち。

「ひとつは、ここにずっといて、米とか作りながらだらだらすごす。」

「あぁ、そういう話ね。うん。」

「もうひとつは、このあたりを食べつくしたら、他の町に行って宝探しして日本の遺産を食い潰して生きる。」

「うん。」

「あと、ね。」

「うん。」

「奈美さんが俺を気に入ってくれたとして、なんだけどね。」

「ん?」

「ずっと一緒に過ごすかどうか。」

(来たっ?!)

「前に言ったみたいに、俺はまだいろいろ自信がなくて、その……、なんというか……」

「お嫁さんの話?」

「あー、うん……、そう。」

「私は、まだちゃんと、その気はあるよ?」

「ありがと。いや、それで、時間が経って、おれもその気になったとして、なんだけど……」

(なによ、その気になったのかと思ったじゃない。)

「いや、気が早いのはわかってるんだけど……、」

「なに?」

「子供をね、どうするか。」

(なにっ!? いきなりそれっ!?)

 目を丸くする奈美。しかし、見ない振りをして尚樹は続ける。

「仮にね、いろんな難関をくぐり抜けて、ちゃんと生まれたとして、ね。その子はアレに罹らないで生きられるかな?」

(なっ!?)

 さらに目を丸くする奈美。尚樹は今度は奈美の驚いた顔をちらっと見てから話を続ける。

「だよね? おれもこの間まで気がついてなくて。いや、どちらにせよひとりで生きていくより、たぶん、奈美さんと一緒に過ごしたほうが、労働力としても、精神的にも良いとは思うんだ。実際、一時いっときは俺もちょっと自棄やけになってたし。でも、これは、ね、リスクが高いのは、どうしたって奈美さんだし。」

 奈美は上を向いて、しばらく天井を見ながら黙って考える。

「そんなところまで、考えてなかったよ。大体、なおきくんにその気があるかも良くわかんなかったし。」

 それに気がついてから、奈美に考えさせないため、忙しくなるように仕向けたことは言わない。

「ごめん。」

 奈美の頭の中を、看護婦としての知識が巡る。

「……可能性としては、どっちもありうると思う。そもそも二人だけで出産するリスクでさえ、なおきくんが言うように、相当高いと思う……。」

「だよね。すぐには結論出ないと思う。でも、それを視野に入れておかないと、これからの準備の仕方がずいぶん変わってくると思う。」

「準備?」

「僕たちが死んだあとの準備をするかどうか。」

「え? あぁ。」

「正直、田んぼ作るのでさえ、二人でこれだけ時間がかかったでしょ? それも、ガソリンや電気が使えて。」

「そうよね。」

「この先、何年かすれば、ガスも車も使えなくなる。そうなる前に、今のうちに、準備をしておかなくちゃいけない。それが出来る時間はそんなに残されてない。」

「うん。」

「ここに定住するにせよ、放浪して歩くにせよ、後継者のことを考えるかそうじゃないかで、優先順位ややるべきことが変わってくると思う。」

「うん。」

「とは言っても、そんなにすぐ結論は出ないとも思う。」

「うん。難しすぎる。」

「うん。奈美さんひとりに決めてもらおうとは思ってないけど、頭の片隅に置いておいて欲しいんだ。急ぐといっても、少なくとも1年くらいなら、なんとかしのげそうな気がするから、そのくらいの感じで。」

「うん。」

「あと、これも言いにくいんだけど、別々に生きる道もある。」

「え?」

「だって、まだ、初めて会ってから、それほど経ってないんだよ? お互いに知らないこともいっぱいある。なにかが合わなくて一緒にいられなくなることもないとは言えないと思う。別の町に行って残されたもので一人生きていくのは、今の奈美さんでも、もう、ある程度は出来ると思う。燃料と発電機とか少しの道具があれば。」

「それは、嫌。」

「わかってる。でも、事故や病気で俺がいなくなっても同じことだよ?」

「それは、もっと嫌。」

「わかってる。でも、お互いに代わりがいないのは事実だし、何かあっても、残ったほうは諦めないで生きていくべきだと思う。だから、その覚悟は、心のどこかでしておかないといけない。」

 眉をひそめて尚樹を見ていた奈美が、うつむいて机の上に置いた手を握り締める。

 しばらくして、顔を上げ、真剣な目をして言う。

「なおきくん。」

「ん?」

「決めた。」

「え?」

「私は、ずっとなおきくんといる。」

「え?」

「で、子供も作る。」

「え?」

「だから、その準備をしよう?」

「え?」

「わたしね。もう、だれかがいなくなるのを見るのは嫌なの。ひとりぼっちになるのも。そりゃあ、寿命がくれば仕方がないけど、うまく子供が育てば、なおきくんがいなくなってもきっと耐えられる。だから……。」

「いや、でもそれは……。」

「いや?」

「そうじゃないけど……。」

「苦労して産んで、その子が死んじゃうかもしれない。でも、何にもしないでいるのも嫌なの。もちろんわたしも死んじゃうかもしれない。そのときは、なおきくんには申し訳ないけど、でも、挑戦だけはしたい。」

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