7.自宅

 朝起きてミネストローネを掻き込んだ奈美は、自転車で実家に向かった。

 そっと玄関を開け、リビングに入ると、炬燵に引っかかったような母の服が黒い粉にまみれていた。何週間か前に帰ったときには、まだ母の形をしていた黒いものは、くずれて黒い粉の山になっていた。

(おかあさん…)

 あの時はそれを見たとたん逃げ出してしまった。驚いたことと、染み付いた感染の恐怖と、何もできなかった後悔とが、向き合うことを拒否したのだと思う。逃げこんだ親友の部屋で幾晩も思い返し、防護服を着るのもやめ、黒い粉の遺体を沢山見るうちに、いつの間にか諦めがついたようだ。そして、あの明かりを見たことで、ようやく戻ってくることが出来た。


 涙を手の甲で拭きつつ、足を忍ばせて二階に上がると、妹の部屋の扉が開いている。覗くと、ベッドにやはり黒い粉が乗っている。頭と腕のあとだろうか、枕と掛け布団の上に。

(くみちゃん…)

 ちからが抜けて座り込む。呆然として、それから涙がこぼれてくる。

 優しかった彼女は、病院関係者の宿舎になっていたホテルの受付に、よく差し入れを預けては電話をくれた。

「おねえちゃん、ちゃんと食べてる? ちゃんと寝てる? わたしたちは大丈夫だからね。お仕事がんばりすぎちゃ駄目だからね。」

 眠ったまま逝ったのだろうか。苦しまなかったのなら少し気持ちが救われる。

 ひとしきり泣いてから、意を決して立ち上がった。

「くみちゃん、そのままは嫌だよね?」

 ひとりで生きていても仕方がないと思うと、黒い粉も怖くなくなった。

 庭に埋めようかとも思ったが、それも違う気がして、思案した挙句、白い花瓶を2つ探してくると、妹と母だった黒い粉をその中に納めることにした。


 母の遺体を片付けているときに、炬燵の上に手紙を見つけた。


『なみちゃんへ。


 がんばってると思うから、くみちゃんと相談して、熱が出てもなみちゃんには連絡しないことにしました。怒るかも知れないけど、なみちゃんの邪魔になると思ったから。

 私たちのことは良いから、他の人を助けてあげてね。

 一昨日、くみちゃんが亡くなりました。朝、起きてこないから見に行ったら、もう。

 ほんとは役所に言わないといけないんでしょうけど、もうそんな感じでもないようだし、さわると、くずれてきちゃてかわいそうだからそのままにしてあります。

 さっき、お母さんの指も黒くなってきたから、今のうちにと思って、これを書いてます。

 なみちゃん、お父さんのこと、ありがとうね。なみちゃんにみてもらって、喜んでたと思います。しおりちゃんもメールでそんなことを言ってくれてたし、お母さんもてきぱき仕事をしていたなみちゃんを見て誇りに思いました。自信を持ってね。

 なんだか、さっきから、なみちゃんやくみちゃんが小さかったころのことばかり思い出してしまいます。母さんが亡くなる前にそんなことを言ってた時は、やめて欲しいって思ったけど、親ってそういうものなのね。

 なみちゃん。生きのびて、何十年かしたら、孫の話を聞かせてね? さきにいってまってるから。

 いろいろかんがえてたら、ゆびがうごかなくなってきちゃった、もっといろんなこといおうとおもってたんだけど、

 なみちゃんとくみちゃんは、おとうさんとおかあさんにしあわせをくれました、ほんとうにありがとう、

 がんばりすζηπ@、зゞ………』

 

 最後のほうは、もう判別できなかった。

 

 奈美はまた泣き崩れる。

 

 妹のベッドを整えなおし、母の服をハンガーで鴨居にかけて、ざっと掃除をする。

 水が出ないし、電気もないから、布団や服を庭ではたいて箒で床を掃くくらいしか出来ない。

 母と妹を納めた花瓶に半紙と小綺麗な紐で蓋をし、仏壇に父の骨壷と一緒に並べる。

 父の骨壷には予備のメガネと車の免許しか入っていない。感染が恐れられていた当時は、身に着けていたものは何ひとつ返してもらえなかった。全て高温の焼却炉で燃やすという話だった。なので形だけ壷を用意し、空っぽなのも味気ないのでみんなで相談して、それらを入れ、家族だけで式を上げた。

 みんなで映った写真をその前に供えて、線香を上げて手を合わせた。

(明かりの探検から戻ったら、こっちに住もうかな?)

 冷静になると、あの明かりにもそれほど期待できない気がしてきた。見るだけ見てきて、何もなければここに戻って来たいと思った。

「それがいいよね? そうするよ。」

 写真の中の笑顔にそう笑いかけた。

 

 少し遅い昼食は、台所の棚に残っていたサバ缶をいただいた。ミネストローネ以外の味は久しぶりだった。

(お父さんの車、動くかな?)

 動かないなら明かりの探検にも行けない。自転車で、という手もなくはないが、少し熱の冷めた今は、そこまでする気はない。

 しかし、日本が誇るハイブリッド車は、無事に電源が入った。ガソリンも満タンみたいで、パネルに表示されている航続距離は、1300kmを越えていた。さすがものづくりの国。そしてお父さんに感謝。

 

 試運転代わりに市役所まで乗り付け、ミネストローネをトランクいっぱい詰め込み、しおりのマンションでビデオと空のペットボトルと地図を回収、体育館でシャワーを浴びて水を補給し、ビデオ屋で、車のカーナビで見るつもりで続きを余分に借りた。

 ねんのため、病院にも寄って医療道具と薬を少し調達してきた。

 

 自宅に戻って、着替えと毛布と缶詰を少し詰め込んでおく。

 夕食は、棚の奥に見つけたカニ缶とパン。出陣の景気づけだ。贅沢な味に涙がこぼれる。おまけに、お父さんのウィスキーも見つけた。久しぶりのアルコールが喉に染みる。仏壇に、お父さんのお気に入りのグラスに入れて供えて、いっしょに呑んだ。

 冷たいカニと常温の水割りを堪能していて、そういえば、カセットコンロがあったはず、と思い出したので玄関の納戸を探すと、数本のボンベと一緒に出てきた。

 ありがたい。

 

 その日は、何ヶ月かぶりに自分のベッドで眠った。

 ビデオを見なくても、アルコールとベッドのせいもあったのか、すぐに眠りに落ちた。少しだけ気持ちに区切りがついたせいもあったかもしれない。




---あとがき-------------

呑めるクチなのか?

(2020/10/26 01:00)

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