私は小説家

それは明け方眠りの時間

 私は小説家。


 ただいま絶賛執筆中。


 締切は明日の朝八時。


 つまり超絶修羅場中である。



 いっこうに進まないカーソルを眺めながら、私はぼんやりと珈琲を口にした。ここまで来るともはや悟りの境地に達する。

 ボツにした作品たちを横目に、「なぜこんな職種を選んだのだろう」と毎回お決まりの自問自答をする。



 年代によって、好まれる作風は変わるものだ。

 十数年前から、もっぱら奇をてらったものが注目を集め、物語はそのように進化してきた。

 ところが、どんでん返しに次ぐ大どんでん返し、予想もできないエンディングなど、趣向を凝らせば凝らすほど、書籍の売上は減少しだした。


 理由は簡単、読者がついていけなくなったのだ。


 小説に限らず漫画もそうで、可愛い絵柄のほのぼの漫画かと思ったら、突然ドロドロの愛憎劇が始まるなどの"予想のつかない演出"を数多く出した結果、「完結したら読む」という読者が増えてしまった。


 飽きさせないための目の回るような展開は、すでに度を超しトラウマ製造機となり、推したキャラはすごくいいとこでだいたい死ぬ。もしくは寝返る。もしくは消える。エトセトラ。

 打ち切りもなく無事にエンディングを迎え、レビューで「ハッピーエンドです!」と高評価を得たものじゃないと安心して読めない。そんなユーザーが増えてしまった。


 要は、書籍はすっかり読者からの信用をなくしてしまったのである。


 かと言って大昔の王道ストーリーがヒットするかというとそうでもなく、困り果てた業界は、「タイトルをあらすじにしてしまう」という手段に出た。こうする事で、ある程度読む前から内容を読者が予想できるようにしたのである。

 このアイデアは時代にマッチし、(─例えば児童書から文芸書にステップアップした学生が、ヒューマンドラマだと思って買ったらグロめホラーだったというショックで本から遠退いてしまうなど─)は格段に減った。

 投稿サイトから紙媒体の本になる場合もこの形式が取られ、ほとんどの作者は、シンプルなタイトルから背表紙ニ列に渡る長いタイトル変更に好意的だったものの、全ての作者がこれに同意するわけではなかった。


 "タイトル過激派"の登場である。


 彼らは口を揃えて「タイトルは店なら看板、玄関にあたるものだ。本の顔であるものを変更されるのは苦痛」と言い、タイトルをあらすじ代わりに使うことを拒んだ。これに対し業界側は「メニュー表が玄関に出してある店は入りやすいでしょう。洋食か和食かさえわからない店は新規にはハードルが高い」と反論した。

 ならばあらすじを見やすく工夫すべきで、タイトルに手を加えるのはどうなのか‥‥といった具合で話が続き、両者ともいっこうに着地点を見いだせなかった。

 その結果、過激派が強硬手段に出る。


 小説の短編化である。


 あらすじを書くとネタバレになってしまうというほど、ストーリーを短くしてしまったのだ。

 それはちょうど読者が長編を読む体力を無くしていた時期で、SNSとほとんど変わらない情報量の小説は歓迎された。

 需要がある以上、これらを業界もぞんざいに扱うわけにいかず、むしろ主力作品となっていく。

 書籍化の際は、短編集や作品集として数点の作品をまとめた形になり、タイトルはその中の話題作がそのまま使われるようになった。


 私はそんな時代にデビューした作家だ。


 小説家を目指した当初の理由は単純、簡単そうだったからである。

 最新の小説は基本的に一行しかない。

 次の行には続編が書かれており、その次には三作目が‥‥といった具合で、一頁でシリーズが完結するのがよくあるスタイルだ。

 一つの小説を書くのに何ヶ月もかかるなんて、過去の話。

 最新の小説家は数行をぱぱっと書いて、あとは悠々自適の生活。




 ──と思っていたのが甘かった。



 一行で完結する、と言うことは、単純に使える文字数が少ないということだ。

 つまり何行にも渡って詳しく説明するという事ができないわけで、ありとあらゆる状況を簡潔に書かなければならない。

 こういうのを書きたいんだけど短くまとめるにはどうしたら‥‥?と頭を悩ませ、結局デビュー前よりたくさんの辞書を買い込み勉強する羽目になった。

 たった一行を書くために、十万文字書くのとそう変わらないだけの時間をかけることもあった。

 何度も何度も書き直し、頭を抱え、流行りの小説を読み、時に全く関係のない美術館に出かけ、音楽を聞き、突然違うテーマで新しいものを作り、また頭を抱え、ホコリをかぶっていたなわとびを持ち出し何年かぶりに飛び跳ね、そしてふて寝し、また推敲を重ねるなど、執筆中の自分は笑ってしまうほど支離滅裂である。


 そして今日。

 もう一度言うが締切は明日、いや数時間後である。


 カーソルは最初の位置から動いていない。

 椅子に座ったまま窓辺を眺める。

 外はすでに白々と明るんでいて、夜はグラデーションを描きながら撤退の最中だった。

 美しい絶望の色である。


 あー‥‥なんでこの職業選んだかな。

 もうずっとこの調子で、無限ループしている。


 次々と色を変える空を眺めながら、ぼんやりとその下にいる人々の生活を夢想する。

 要は現実逃避だ。


 この時間、殆どの人は寝ているのだろうが、中にはこの明け方の時間こそ忙しい職種もあるだろう。


 薄暗い病棟の片隅で息を潜めるナースステーション。

 ゆっくりと発酵を待つパンの種。

 冷たい水中の豆腐を撫でるシワだらけの手。

 ゆるゆると動き始める始発列車。

 県境を幾度も超える長距離トラック。

 名も知らぬ誰かの、どこにも記録されない日々の営み‥‥。


 思考はさらに飛躍する。


 みな眠りにつく時間の隙間に、街灯だけは起きている。それはきっと、空から見れば星空と大差がないに違いない。


 幾億の暮らしを見守る人工の光。


 それを取り囲む幾兆の星々。


 太陽の光が地球に届くまで約8分。


 シリウスの光は約8年。


 プロキオンは11年。


 ベテルギウスは500年。


 もう無いかもしれない星々に名前をつけ、繋いで物語が作られるようになってから、5000年。


 今も昔も、人々はあるかないかもわからないものに想いを馳せる。

 そしてそれを書き記し、残してきた。

 長い長い時間、人はずっと物語の中で夢を見てきた。

 銀河を指でかき混ぜるような誇大妄想も、物語の中でなら叶う‥‥。



 ─ああ。そうだ。そうだった。


 そういったものを遺したいから、この仕事を続けているんだった。







 ─ようやく太陽が顔を出す頃、キーボードの音が響く。



 送信ボタンを押して、私の仕事は完了する。



 ─────



 宛先:編集


 件名:今回の原稿です


 本文


 デタラメな星座を作る神さまだ雨粒繋ぐ窓辺の子らは




 ─────








 私は小説家。



 古くは歌人と言うらしい。







 了




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