最初の疑い

歌子との勤務時間中の打ち合わせの時に,日本人市民と外国人市民が交流出来る常設の場が作りたいという話になった。中国語などの外国語で話したい人は,その実践の場にして,それ以外の人は,日本語で交流をすれば良いという方針だった。


しかし,場所を提供してもらえるかどうかが問題だった。市役所が場所を提供するには,市の事業ではないとダメだという規範があった。市の事業として成り立つためには,紙上,私が主を務めるということにしておかなければならない。でも,交流場は私の企画ではなく,歌子が昔からずっと思い描いてきた夢の一つだった。私が自分の企画であるかのように,紙上だけでも,主になってはいけない。そう思い,市役所の人には,そう伝え,歌子にも同じ旨を報告した。


町長とまで面談したが,残念ながら,私が紙上,主にならないと,場所を提供出来ないと言われた。歌子は,これが腑に落ちない様子だったし,私も不本意だったが,しょうがなかった。この点だけは,残念だったが,最終的に場所を提供してもらい,市民の交流の場を開設できることになったので,私も歌子も良しとした。


ところが,開設してみると,集まるのは,中国語好きな人ばかりで,私は不本意ながら,また中国語教師的な立場になっていた。どうしていつもこうなるのだろう?


「中国語を教えるために,日本に来たつもりはないのに,いつもそればかりで,何のために日本語を勉強してきたのか,わからない。」とメールで歌子に愚痴ると,またいきなり私の玄関に現れた。


「中国語を教えたくない。日本語が使いたいとはどう言うことだ?」と歌子に追求された。


説明すると,「あなたは,職種を間違えたね。」ときっぱりと言われた。


歌子のこの言葉がぐさっと来て,心に突き刺さった。ずっと歌子だけが,私は中国語教師ではないことをわかってくれていると思っていたのに,わかってもらっていなかったことがわかって,ガッカリしたし,傷ついた。心強い味方が一人いる状態から,一瞬で,四面楚歌な状態に戻ってしまった。


これまでの付き合いは,何だったのだろう?歌子が自分のことを良く理解してくれているといつ話しても感じていたあの手答えは何だったのだろう?これまでの全てが嘘だった!?私の勘違いだった!?ドギマギした。


疑心暗鬼になり、次々といろんな疑問が頭の中に浮上した。しかし,その疑問たちを認めたくなかった。歌子を信じたかった。彼女だけがわかってくれていると思いたかった。


歌子が話し続けた。

「中国語教師で,あなたより日本語が上手な人が一人いたの。あなたの発音は,日本人とは,少し違う。あの子は,本当に日本人みたいだった。でも,ある日,蒸発した。連絡も何もなく,ある日,突然居なくなっていた。あなたには,あの子を超えるような存在になってほしい。」


歌子がどうしてこの話をしようと思ったのか,理解に苦しんだ。過去にどう言う中国語教師がいたかは,私には関係のない話だ。そう思った。私より,日本語が上手だったことも,関係ない。私の発音が日本人とは違うという指摘の意図も,わからない。


そもそも,私は,自分の日本語は完璧だとなんて、思っていない。どちらかと言うと,自信がない。それなのに,過去の人と比較して,わざわざ私が劣っていることを指摘しようと思ったのだろう…。どう考えても,私にはよくわからなかった。


しかし,少しも,腹が立たなかった。腹が立たないのは,自分でも,不思議だった。かなり失礼なことを言われているのに…。


歌子の話は,まだ続く。

「私は,昔,奏とバンドを組んでいたの。二人じゃなくて,五人で。ボーカルは,私ともう一人,恵里という人ね。最初は,みんなで仲良くやっていたけど,ある時,奏にハモっていないと言われたの。親しい人にそう言われて,すごく嫌だったわ。そして,聴きに来てくれた人に,「恵里の声がいいわ。好きだ。」と言われたの。だから,私が抜けた。「こう言われたし,嫌だから。」と理由を言ってね。この話を知っているのは,奏だけだ。」


この話の目的も,わからなかった。あなたを信頼しているから,奏にしか話していないことを話してあげる的な意味?それとも,私がどう反応するのか,試している?何だろう…訳が分からなかったが,とりあえず相槌を打ちながら,最後まで話を聞いた。


ここまで話を聞いて,私は,歌子のことを思っていたほど知らない,知っているようで知らないことに気づいた。


歌子が話し終わり,「そろそろ帰る」と立ち上がった。


一方的に,訳の分からない話ばかり聞かされて,勝手に帰られては,困ると思った。訳がわかるまで話し続けたかった。このまま,訳がわからないまま,歌子と別れてしまうと,関係にヒビができる気がして,嫌だった。要するに,引き止めたかった。


最初に思いついた言葉をそのまま言ってみた。

「よく会っているけど…あまり知らないなぁ。」

と意味が通じるかどうかもわからずに,自分の感じていることをぶつけてみた。


すると,通じたようで,歌子は,すぐに話し始めた。

「下の娘は,二十歳の時に病気になって,今も治っていない。もう治らないみたい。息子も,献血ができないような大病を患っている。上の娘は,結婚していて,子供もいて,幸せ。」


歌子は,子供三人のことを話してから帰った。結局、自分のことを何も話してくれなかった。


しばらく呆然としていたが、真正面から向き合って,きちんと自分の気持ちを話してみれば,歌子のことだから,きっとわかってくれるだろうと気を取り直し,またじっくり話す機会を持つことにした。


ところが,歌子の「幸せ」だと述べた上の娘さんがそのすぐ後に産気づいて,歌子は一ヶ月ほど,娘のところで自分に出来ることを手伝ってくると告げて,町を一時的に離れることになった。


よりによって,自分が不甲斐ないと感じていた,ただの中国語好きな人の集まりと化してしまった大人の交流の場を丸一ヶ月間,一人で仕切る羽目になった。歌子が奏に頼んで,彼が毎回来てくれるようになったのだが,奏は挨拶程度の中国語ならわかるものの,あまり流暢に話せる訳ではないので,実質一人だった。


いろんな意味で,歌子の帰還が待ち遠しかった。胸のモヤモヤ感を早くなんとかしたくて,たまらなかった。


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