ポーク卵と味噌スープ

由海(ゆうみ)

前編:おにぎり

 母は、まだ乳飲み子だった洋海ヒロウミを祖母に預けたまま、二度と戻らなかったという。


 未婚の娘が置き去りにした子でも、自分の孫には違いない。

 生粋の大阪人らしく、あり得ない状況を笑って受けとめた祖母は、ちょっとばかしの厳しさと、あらん限りの愛情を以ってヒロウミを育ててくれた。


『大阪の男やったら、世界中のどこでも生きてけるくらいつよおなりや、洋海! あんたが思うように生きたらエエ。けどな、どんなことがあっても負けたらアカン。絶対あきらめんと、しぶとく生きるんやで』


 まるで子守唄のように、幼い頃から何度も繰り返し耳にした祖母の言葉を思い出しながら、ヒロウミは大きなため息を吐いた──





 祖母が亡くなったのは、ヒロウミが商業高校を卒業する直前だった。

 制服姿の喪主として悲しみに暮れる間もなく、ヒロウミは必要な手続き全てをなんとか一人でやり遂げた。祖母以外に頼るべき大人など、誰も思いつかなかったからだ。


 高校卒業後、4年の歳月を費やして会計事務所での就業経験と社会人としての心構え、そして、アメリカで学士号を取るために必要な資金の半分を手に入れた。残り半分は祖母と暮らした家を売却すればなんとかなるはずだ。祖母がヒロウミ名義で遺してくれた定期預金を切り崩すことだけは、絶対にしたくなかった。


「ばあちゃん、俺、行ってくるわ」

 渡米の朝、『売物件』の看板が掲げられた古い家屋を前に、ヒロウミは深々と頭を下げた。



 アメリカでの始めの2年間は東海岸にあるコミュニティ・カレッジの「大学編入科」で学び、他の学生の何倍もの努力をして優秀な成績をキープし続けた。留学生も対象となる奨学金スカラーシップの複雑極まりない申請プロセスにも果敢に挑戦した。

 結果、バージニア州の大学から合格通知が届き、希望する専攻の3年次に奨学生として編入することが決まると、ヒロウミはようやく胸をなでおろした。がむしゃらに突き進んで、夢の残り半分を手に入れた。その喜びもあったけれど、何より、寡婦だった祖母が苦労を重ねながらコツコツと貯めたであろう預金に手を付けずに済んで、心底、ほっとした。


 

 折も折、世界各地で新型ウィルスが猛威を振るい始めた。

 世界規模の感染拡大、パンデミック、アメリカ国家非常事態宣言。そして、米政府が外国からの留学生を国外退去させる方針を明らかにしたことで、ヒロウミも「自分のツキも、これまでか」と観念しそうになった。

 が、ハーバード大やMIT、各地の大学や州の司法長官などが方針撤回を求めて政府を提訴。結果、ヒロウミのように不安を抱きながら米国内に留まっていた学生や、有効なビザを持ちながら母国での待機を余儀なくされていた留学生が救われた。

 アメリカもまだまだ捨てたもんじゃない、とヒロウミは心から感謝した。


  

 どれだけくじけそうになっても、『負けたらアカン』という祖母の柔らかな声がヒロウミを励まし奮い立たせた。


 それなのに──




「ばあちゃん、俺、負けそうやわ」

 思わず漏れ出た心の声に、ヒロウミは大きなため息を吐いた。



***


 

 初めて彼女と出逢ったのは、大学構内のカフェテリアだった。


 日当たりの良い窓際のソファに腰掛けて、テーブルの上に開いた本に視線を落としたまま大きな黒いかたまりを手にしている彼女から、ヒロウミは目が離せずにいた。

 


 爆弾……? 

 


 その場に居合わせた誰もが、そう思ったに違いない。

 個人主義と自己責任が徹底しているアメリカで育ち、赤の他人に干渉しないはずの若者達が、ギョッとした様子で彼女の手元を二度見する姿が、ヒロウミには滑稽でもあり、少し心配でもあり……


 学生ビザ規制の余波で留学生の入学辞退が相次いだこの大学で、アジアの食習慣に精通している人間など数えるほどしかいない。この場で、彼女が手にしているのがだと気付いたのは、おそらく、ヒロウミくらいだろう。

 そんな周りの視線など気にする素振りも見せず、彼女は大きく口を開けると、かぷり、と黒い塊にかぶり付いた。


「イヤだ、アリア! あんた、大学に来てまでそんなモノ食べてるの?」

 声の主は、ヒロウミと同じ寮に住む1年生フレッシュマンだった。レイチェルという名の彼女は、金髪碧眼、モデルと見紛うほどの容姿と色気の持ち主だが、気位プライドの高さでも有名だった。


 見事な腰のくびれに手を置いて仁王立ちになったレイチェルが、整った顔をくしゃりと歪めてみせる。そんなことなどお構いなしに、アリアは手にした黒い塊をずいっと差し出した。

「おにぎり、欲しいなら上げるよ。もう一つあるから」

「いらないわよ! 海藻なんて魚のエサじゃない!」

「長い付き合いだけど、相変わらず何も知らないんだねえ、レイチェル」

 唇の端についた海苔を摘まみ取った指先をぺろりとなめて、顔に掛かった黒い巻き毛をふわりと払い除けると、アリアは温かみのある声でやんわりと告げた。

「世界を見渡せば、海藻を食べる国はたくさんあるんだよ。鏡ばかりのぞいてないで、たまには世界の文化に目を向けても良いんじゃないかなあ」

 青い瞳をまん丸に見開いたレイチェルが、顔を真っ赤に染めて「信じられない!」と金切り声を上げた。


 くるりときびすを返してその場から立ち去る友人の後ろ姿を見送りながら、アリアはほんの少し肩をすくめると、また黒い爆弾のようなおにぎりを頬張り始めた。



「『おにぎり』なんて可愛いもんとちゃうやろ……」


 次の瞬間、アリアがひょいっと顔を上げた。驚いたような茶色の瞳がヒロウミをしっかりと捉えている。どうやら、思わず漏れ出てしまった日本語に反応したらしい。


(うっわ……アホか、俺! 聴こえとるやん、何しとんねん! けど、意味までは分かってへんよなあ)


 心の中で自分で自分にツッコミを入れながらも、このまま何も言わずに立ち去るのは礼儀に欠けるような気がして、ヒロウミは彼女の次の反応を待つことにした。


 気不味きまずそうに立ち尽くす青年を品定めするような視線を向けていたアリアが、突然、にやり、と不敵な笑みを浮かべる。

「おにぎりだよお。ポークタマゴおにぎり。ホシイ?」


 少しだけ英語の発音に引きずられた、甘ったるい日本語。

 彼女の声は、不思議なほどに、ヒロウミの耳に心地よく響いた。


「……どう見ても海苔を貼りたくった真っ黒けの爆弾にしか見えへんねんけどな、それ」

 照れ臭さを紛らわそうとしたら、妙に早口になった。

「もスコシ、ゆっくり」

 甘えるような声に、ヒロウミの全身に、ざわり、と鳥肌さぶいぼが立つ。

「それ、オーサカのコトバでしょ? フツーのニホンゴじゃないと、ムズカシイねえ」

「あ、そうなんや……えーと、爆弾みたいだなあと思って」

 あはっ、と大きな笑い声を立てて、アリアが満面の笑みを浮かべた。

「バクダン! そう、よくイワレル! バクダンおにぎり!」



***



 アリアの『バクダンおにぎり』は、見かけによらず、病みつきになりそうなくらい美味しかった。

 『ポーク卵』のポークが、本州ではスパムと呼ばれる豚ハム缶詰のことで、沖縄の家庭料理には欠かせない存在なのだと、アリアは教えてくれた。沖縄出身の母親から教わった料理の中でも、一番簡単で一番好きなのだ、とも。


「おにぎりの具に厚切りスパムと卵焼き入れるって……アメリカ人の好きそうな組み合わせやなあ」

「そう、パパもダイスキ! ママみたいにきれいにツクレナイ。だから、いつもオーキイ」

「確かにデカいけど、めっちゃウマいわ。味付けはマヨネーズだけなん?」

 大阪弁はムズカシイ、という言葉を思い出して、ヒロウミは咄嗟に「……ですか?」と付け足した。

「ダイジョーブだよお。わからないトキは、わからないっていう。だから、でハナシテ」

 嬉しそうに笑いながら、アリアが軽やかな声で告げた。 

 

 



 その日以来、カフェテリアで会う度に、どちらからともなく話し掛けるようになった。

 アリアのランチは、大抵、ポーク卵と砂糖たっぷりのカフェラテだった。祖母からみっちり家庭料理を仕込まれたヒロウミからすれば、「それって、栄養的にどうなん?」と首を傾げたくなる組み合わせだ。


 「もっと上手に日本語を話せるようになりたい」というアリアのために、二人きりの時の会話は日本語ですると決めた。

 はじめのうちは、出来るだけ大阪弁が出ないように頑張っていたヒロウミも、日々の他愛ないことをカッチリとした標準語でしゃべり続けるのが日に日に辛くなり、とうとう「アカン、しんどいわ」と根を上げた。

 「ヒロウミは、オーサカべんがカワイイよお」というアリアに、「俺の努力はなんやったんや」と返しながらも、悪い気はしなかった。



 寮内でアリアと鉢合わせすることも多くなった。どうやら、レイチェルの部屋を訪れているらしい。中学からの友人とは知っていたけれど、実家が隣同士で家族ぐるみの付き合いだということも判明した。カフェテリアでの一件も、気心が知れた仲だからこその戯れ合いだったようだ。


 カフェテリアの食事に飽きたヒロウミが寮のキッチンで自炊を始めると、いつの間にか、アリアとレイチェルも一緒に食事をするようになった。

 ヒロウミの作る惣菜と味噌汁、そして、アリアの作った爆弾のようなポーク卵おにぎりが並んだテーブルに、レイチェルが適当に選んだ飲み物とデザートを、これまた適当に並べていく。

 アリアが特に好んで食べるのが、野菜たっぷりの味噌汁だった。


 新鮮な野菜が手に入る韓国系スーパーマーケットまでは、大学から徒歩30分。

 ヒロウミが、アリアほど学業に身が入らず成績が低迷気味のレイチェルの勉強を見る代わりに、彼女の車を借りるようになったのは、「ヒロウミのミソスープ、ポークタマゴおにぎりとイッショだと、オイシイねえ」というアリアの言葉がきっかけだった。


 時折、美味しそうな匂いに釣られてキッチンに顔を出した寮生を、レイチェルが強引にテーブルに座らせることもあった。彼女の好みのタイプの男子学生に限るという傾向はあったけれど、ヒロウミにとっては同性の顔見知りが増えるという嬉しい誤算でもあった。

 


 

 幼い頃から祖母と二人きりの静かな食卓が当たり前だったヒロウミが、にぎやか過ぎる食事の時間を心地良いと感じるようになったのは、クリスマスを目前に控えた頃だった。

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