第24話 運命の一矢
馬蹄の響きが迫る。それを耳にしたネイルオスは腹に冷たいものを感じた。せめて夜になれば身を隠せるものを。そう悔やんでも意味はない。敵はもはや、顔を識別できるまでに接近しているのだから。
「セシル、ギーガン。そなたらは非戦闘民を勇気づけよ。決して群れを崩すな!」
「承知しましたの!」
「まかせて。ギーガン、みんなを守る」
「フアングは前方の確保、そして不測の事態に備えよ!」
「任されました!」
「よいか、決して陣を崩すなよ!」
ネイルオスはひとしきり指示を出すと、自身は速度を落とした。最後尾の中でも最も後ろ。矢面に立つ形となりながらも、浮遊することで後列との距離を保ち続ける。
それからは程よい表情を作り、気持ちもセットしてから振り返った。
「グワッハッハ! 愚かな人族どもめ。ワシをネイルオスと知っての狼藉(ろうぜき)か!」
「邪神ネイルオスだって!?」
さすがは大陸中に轟いた名だ。精鋭相手ですら大きな動揺を誘う。並の相手であれば、それだけでも逃げ出しただろう。しかし指揮官は優秀だった。
「騙されるな、邪神は聖者との激戦の末、深い傷を負ったと聞く。眼の前の魔族は偽物に違いない!」
ネイルオスは舌打ちした。まさか、かつての演技がこの局面で足を引っ張ろうとは。因果応報にしても巡りが悪い。
「全軍前進! 手始めに、コケ脅しの魔族を血祭りにあげよ!」
足を速めてジワジワと迫る騎馬隊。ネイルオスは正面を睨んだ。馬上で夕日を浴びる片刃の剣。それらが高く振り上げられた頃、彼は腹の底が膨らむほど、深く息を吸いこんだ。
「偽物とは失礼な。この力を全身で味わうが良い」
ネイルオスは騎馬隊に向かって雄叫びをあげた。大気が震えて風が生じるほどのものだ。これには団員も驚き、つい仰け反ってしまうのだが、狙いは別の所にある。
「うわぁ。落ち着けぃ!」
前列の馬は心底おびえ、棹立ちになるか、あるいは足を滑らせて大きく転んだ。それだけで騎馬隊の侵攻は遅れ、移民軍との距離が開いていく。
しかしそれも束の間のこと。小競り合いもなく引き揚げるような相手ではなかった。
「倒れた者は捨て置け、残った者だけ我に続け!」
倒れる団員を迂回して、騎馬隊の追撃は再開した。先程のように迫る馬群。ただし、それらは一定の距離から詰めようとしなかった。
「団長。馬が怖がって、これ以上近づけません!」
「ならば弓だ。矢をつがえよ。狙うべきは……」
騎士団長は移民軍を睨み、隊列を看破すると高らかに叫んだ。
「狙いは中央、非武装の魔族だ。急げ!」
騎士団は馬足を落とす事無く弓を構え、矢つがえ、そして放った。辺りの木々はまばらでしかなく、防壁の役割など期待できない。
ヒュン、ヒュンと細かい風切り音が数え切れぬほどに鳴った。それらはネイルオスの頭上を飛び越え、何ら戦う術を持たない人々に突き刺さろうと鋭く迫る。力の弱い子供などは、たったの一矢でも命を落としかねない。
ただしそれは、ネイルオスが通過を許せば、の話である。
「笑止な、ウインドストーム!」
天に向けて放たれたのは風魔法だ。遮るもののない大空には、突如として暴風の壁が生まれ、飛翔する矢の全てを弾き返した。そうして力を失った矢は、馬群の背後にポトリ、ポトリと落ちていく。
「どうだニンゲンどもよ。無駄な努力など諦め、さっさと引き返すがよい!」
「あれほどの矢をすべて撃ち落とすとは、化物め」
ネイルオスは眼光にさらなる威圧を籠めた。帰れ、このまま逃げてしまえと、祈るような気持ちも含ませながら。
だが、交戦はまだまだ続く。騎士団長がいくつか手振りをすると、騎馬隊は大きく旋回。逃げたのではない。移民軍を防備の薄い側面から攻めようというのだ。
「フン。このワシがいるかぎり、指一本触れさせんぞ」
ネイルオスは騎馬隊の動きに合わせ、位置取りを変えようとした。だが、彼の視界の端に異変を見つけ、あらぬ方へと飛んだ。
つまづいた子供が群れから置き去りにされてしまったのだ。ネイルオスは風よりも早く駆けつけ、泣きじゃくる少女を抱き上げた。
「大丈夫か、しっかりするのだ」
「ごめ、ごめんなさい、邪神さま。アンナはもう……もう……」
「泣かずともよい。そなたは実に良く頑張ってくれたぞ」
そうして慰める間にも、ひとりふたりと脱落者が増えていく。駆け足はもう限界だ。このままでは何人取り残されるか分かったものではない。
「フアング、全軍を率いて敵を撃退せよ! セシルは足並みを落とし、引き続き皆を遠くへ!」
「よっしゃぁ! ようやく出番だぜ!」
「お任せくださいですの!」
前後の魔人兵はフアングと共に牙を剥き、雪崩をうって騎士団に挑みかかった。隊列の無い乱戦は一進一退だ。
その隙にセシル達は進むのだが、速度は格段に落ちている。これでは逃げ切れるかどうか、せめて日暮れまで持ち堪えればと思うが、まだ空は赤い。
「リスケルよ、どこで油を売っておる!」
ネイルオスは、4人、5人と脱落者を救いつつも恨み節をつぶやいた。あと一枚手札が欲しい。だが、どこを見渡しても無いものは無い。
「騎馬が一騎抜けたぞ! 防ぐのだ!」
危機を目の当たりにして叫ぶ。しかし、逃れる移民の軍は歩みが遅く、みるみるうちに距離は縮められた。フアングはモーシンの相手、他の魔人兵も騎兵をあしらうのがやっとであり、動ける者は1人も居なかった。
やがてその騎兵は、非武装民の間を駆け抜け、幌馬車と並んだ。騎兵の男、もとい騎士団長はひらりと舞い、たやすく幌の中へと乗り込んだ。
「さぁフィーネ様。お助けに参上しましたぞ」
団長は、震えながら立ち塞がるエマを押しのけ、フィーネに手を差し伸べた。しかし、その手は毅然とした言葉によって拒絶されてしまう。
「下がりなさい。私は城には戻りません」
「……これはまた、童のようなお戯れを。冗談を愉しむ場面ではありますまい」
「聞こえなかったのですか。立ち去りなさい、私はフアングと共に生きてゆきます」
「そうですか。ならば死ね」
強く引絞られた矢は、迷いも無く飛んだ。それはフィーネの胸をえぐり、深々と突き刺さった。
力なく倒れるフィーネ。その様子を見届けた団長は、振り返りもせず自身の馬に乗り込んだ。
「だ、誰か! 姫様が矢で、矢で射たれました!」
エマの叫びは戦場の動きを止めた。魔族は困惑によって呆然とし、騎士団は作戦完遂を知って、戦場から離れようとする。
実は出立前に、騎士団はひとつの密命を受けていたのだ。もしフィーネが帰城を拒むようであれば、その場で討てと。使えない駒なら、ましてや魔族に肩入れするような娘だったなら、王は殺すべしと判断を下したのだ。だから騎士団には乱れがない。
しかし経緯を知らない者達の困惑は、衝撃には凄まじいものがあった。
「嘘だ……フィーネ、フィーネェェ!」
喉が張り裂けん程の絶叫とともに、フアングは馬車へ駆けつけた。それとは別に、騎士団長へと掴みかかったのはモーシンだ。
「団長殿、これは一体どういう訳か!」
モーシンの全身が筋肉で膨れ上がっている。キッカケ次第では殺戮も辞さない、そんな気配があった。
「じつに惜しい事だ。姫君は魔族によって殺されていたよ」
「貴殿が……お前がフィーネ殿を殺したのだ!」
「人聞きの悪い。私が手をかけたと言いたいのか?」
「とぼけるな、なぜフィーネ殿を殺したのかと聞いている!」
「手を離してもらおう。王より全権を授かる私への反抗は、ミッドグレイス王を侮辱する行為と変わらんのだぞ」
静かな恫喝には十分な効果があった。モーシンの顔は赤く、青くと繰り返し、やがて観念したように手を離した。王太子ほどの人物が、他国の王といさかいを起こすことなど許されないからだ。
「そう気を落とすなモーシン殿。陛下はきっと、別の貴女を授けてくださるだろう」
「私は……彼女の代わりなど……」
「ともかく城へ戻るぞ。女の喪失感なら酒で忘れてしまえば良い」
そこで団長は「進発せよ」と叫んだ。これまでとは違い、まるで行軍訓練のように、悠々と立ち去っていく騎士団。それを止めようとする者は、たったの1人すら居ない。
モーシンは馬を駆りながら何度も後ろを振り返った。遠のいていく馬車、フィーネ、愛に身を焦がした日々。その全てがいま、過去のものへと変わろうとしている。
(私には、最期を看取る権利など無い。ささやかな怒りさえ示せなかった、この私には……)
たった一矢だけで、どれほどの人が絶望の谷底へと突き落とされただろう。悲嘆に暮れる森は、ようやく夜の帳に包まれようとしていた。
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