ep.92 誰も愛せない

「――色々ありましたね」


 中央区への帰路でセズナが静かに語りかけた。


「森での生活はもっと穏やかだったか?」

「ええ、まあ。ヒトの生活は時に目まぐるしいです」


 おそらくそれは寿命の差から来る体感的なもの。エルフの彼女には短時間で多くの出来事が起こったように感じられたはずだ。


「私が聞くのも変ですけど、今日は本当にこのまま帰るつもりですか?」

「ああ。一度持ち帰って頭の中を整理したい。それに、どう考えても今日明日で逃げるようなやつじゃないだろ」


 青年団の反応を見る限り関係性は長く、その間ずっと何かを隠し続けていた。


「そうですね。すぐにでも逃げだすような雰囲気はありませんでした」

「だから少しくらい間を置いたところで遅くはない。それよりも今は呪いをかけたやつのほうが気になる」


 得体の知れない魔術師。複雑な呪いをかける時点で相当の腕利きであることは明らか。それでいて対象に死を与えるとなれば段違いの実力差が必須となる。そのことから名のある人物である可能性が無きにしもあらず。


 すぐに浮かんだのは七賢者のビザール。しかし彼がわざわざそんなこすい手法を使うだろうか、とセンリは首を捻った。


 ###


 宿舎に戻ると、だらけた格好のクロハに出会った。寝起きのような顔であくびをしながら控えめに手を振っている。


「元気そうじゃのう」

「お前もな。ずいぶんくつろいでるじゃないか」

ぬしほどではない。街の散策は楽しいかえ?」

「まあ、悪くないな。同じ眺めで飽きてきたが」

「くふふっ」


 クロハは頬を緩めて笑いだす。つられてセンリもふっと笑った。


「おっ、そうじゃ。離れに我ら専用の大浴場があるから主たちも来るとよい。まあ、本物の温泉には敵わんがのう」

「ないよりはマシだ。気休め程度にはなる」


 クロハもセンリも、この場にいないエスカも、かつて訪れた国の天然温泉を大層気に入っていた。けれども残念ながらここに1人、話題についていけない者がいる。


「あの、温泉とは何ですか?」とセズナが頭巾から顔を出した。

「知らぬのか。温泉とはのう、こう、自然に湯がぶわっと湧き出るのじゃ。それで溜まったところへ浸かれば、気分はまさに極楽。水浴やただの風呂とは比べ物にならん」

「……へえ。いつか、行ってみたいですね」


 クロハの熱意に押されたせいかセズナは興味を抱いた。森暮らしの彼女にとっては新鮮に感じる魅力的な話題だったようだ。


「それじゃ、またあとでのう」


 そう言ってクロハはすれ違う際に紙切れを渡した。センリはそれを開いて見る。


『うまくいってる』


 それだけ記してあった。読んだらすぐに畳んで調査手帳に挟んだ。


「どうしました?」とセズナ。

「気にするな。ただのおふざけだ」


 センリは彼女にそう返して自分の部屋へと向かった。


 部屋に到着してしばらく。情報を整理していたセンリは手帳をパタンと閉じて横に置いた。流れで上着も脱いでベッドから下りる。


「汗を流しに行ってくる」

「大浴場ですか?」

「ああ。……そういえば一度も見たことないな。お前が沐浴もくよくに行くところは」


 森を出てからというもの彼女が髪や体を洗いにいくところを誰も目撃していない。


「誤解です。ちゃんと洗ってますよ。誰もいない場所でこっそりと」


 不潔扱いされるのは嫌なようでセズナはすぐにその疑念を晴らした。


「そうか。まあ、多少臭ったところで気にしないが。これから行く大浴場はあいつの言う通りお前も好きに使えばいい」


 センリはそう言い残して部屋を後にした。ベッドに残された上着。そして普段持ち歩いている手帳がセズナの目に留まる。


 彼女はおもむろに立ち上がって、ベッドの上から紙片の挟まれた手帳を手に取った。


 ###


 久しぶりの湯浴み。これまでは水槽からおけで汲んで頭から流していた。旅暮らしではお湯に浸かるどころか水で流すことも頻繁にできない。そのため設備が簡素でも誰も文句は言えなかった。


 切り出した石材で造られた湯殿の内部は宗教美術で飾られていた。ドゥルージ教にまつわる石像が四方からじっと見つめている。それに居心地の悪さを感じつつも肩口まで浸かってくつろぐセンリ。


 ほどなくして彼以外誰もいなかったそこへ来訪者が。


「おっ、さっそく来ておるではないか」


 全裸のクロハが悠然と立ち入ってきた。裸の付き合いも慣れたのか照れを残しつつも恥ずかしがる様子はない。


「あーあー、いちいち言わんでも分かっておる。飛び込みはせん」


 口を開きかけたセンリに向けて彼女は先手を打った。つま先からゆっくりと入って肩まで浸かり、


「……ふう。はあー……」


 男勝りに腕を広げて浴槽の壁にもたれかかった。


「首尾はどうだ?」

「紙に書いた通り。今のところうまくいっておる。気づかれた様子はない」

「そうか。ならいい」

「おかげで生活がやや不規則になっておるがのう。主の頼みとあらば仕方あるまい。完遂したあかつきにはたっぷりと褒めたたえよ」

「それくらいはやってやる。ただ気を良くして迫ってくるなよ」


 接吻せっぷんなり夜伽よとぎなりこれまで何事にもかこつけて関係を迫っていたクロハ。しかし今回は違っていた。神妙な顔で想い人を見据える。


「主よ。我は今後そういうのはやらないことにした。働きに対する報酬のような取り交わしで、その、愛を要求しても結局はちっとも満たされぬ」

「…………」

「我は無償の愛がほしい。そこへ至る如何なる行為にも見返りを求めぬ。期待もせぬ。すなわち対等でいたい。して、これからはひとえに愛しにゆく。雇い人ではない、女として振り向いてもらうために」


 誓いを立てるかのようにしてクロハが言った。心の底から寄り道もせずに真っ直ぐと。その告白に対して、


「……愛してもらいたいなら他をあたったほうがいい。なぜなら俺は、誰も愛せない」


 センリははっきりと返事をした。


「そうなるのは分かっておった。だからこそ我は、一生を賭けて主を振り向かす」


 彼女は落ち込むどころか今度は宣戦布告ふうに伝えた。そこからにやりと笑って、


「というわけで、宣言通り我は愛しにゆくぞー!」


 真剣な雰囲気も何のその、お構いなしにセンリのほうへ泳いでいった。


「真面目に答えた挙句がこれだ。いい加減にしろ」

「まあまあ、よいではないかー。我とて真剣な話がしたい時があるのだ」

「近寄るな」

「そんなにつんけんするでない」

「言ったはずだ」

「むぐぐっ」


 センリはすり寄ってきたへらへら顔を鷲掴みにして動きを封じた。そのままどうしたものかと頭を悩ませていると、予想外の訪れがあった。


「あっ……。セっ、センリさん、ですか……?」


 煙の向こうから現れたのはエスカだった。混浴でも普段は遠慮している。


「ぬっ。誰かと思えばエスカか」


 拘束から抜け出してクロハが見やる。視線が集まると彼女は恥ずかしそうにその身体を手で隠した。


「あっ、あまり見つめないでください」

「恥ずかしがらずに早うこっちへ来い。一度湯に浸かってしまえばあとは気にならぬ」


 もはや親友に近い関係性の彼女からの助言にエスカは頬を赤らめながら従った。しずしずと浴槽の縁へ、そろりと足先から入湯。肩口よりも深く沈んで首から上だけを残した。


「ほれ。もっと近う寄れ」


 手招いて恥ずかしがり屋を近くに寄せるクロハ。エスカは縮こまったまま少しずつ距離を詰めた。いつもは逸らしたりしない目をセンリから逸らして落ち着かない雰囲気を見せている。


「……てっきり今日はクロハさんだけだと……」

「我がついさっき伝えたのだ。まさかこんなにすぐとは思わなかったがのう」

「色々とあったからな、この日は」


 センリは首を鳴らしてため息をつく。


「いったい何があったんですか……?」


 さすがに気になったエスカが下からゆっくり見上げて聞く。


「そういえば主のことはまだ何も聞いてなかったのう」


 2人に聞かれて、センリは報告として今日一日のことをかい摘んで話した。

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