ep.67 マリーレ

「愚かなだけか。それとも本物か」

「――打って弾けよ」


 語り途中で不意を突いてしなやかな雷鞭らいべんが宙を穿った。気づいたハザンの前に現れた黒い影が受け止める。


「しくじったか」クロハが素早く鞭を引き戻す。

「……黒い影。やっぱりお前たちだったんだな。あの日、マリーレを連れ戻し、近寄れなくしたのは」


 忘れもしない悪夢。その日から全てが変わってしまった。


「計画の進行を妨げる者は許されない。ただそれだけの話だ」


 揺らめく黒の影。以前よりも薄くなっているのは、そこに労力を割く必要がなくなったという証か。あるいはセンリの力を受けたことで弱体化しているからか。


 影の尻尾を残して再びハザンが消える。


「――捉えた」


 そして背後から心臓を一突きにすべく現れた。


「あえてな」


 が、ルキは華麗な足捌きでひらりとかわし、圧縮した風の弾丸を死角から放った。


「――ぐッ」


 肩を突き抜けて黒色の蒸気交じりに血が噴き出す。傷口はすぐに塞がったが、クロハの両手から追撃が飛ぶ。槍ごと絡め取って身動きを封じ、その隙にルキが止めを刺しにいく。


 一歩目、風に乗り。二歩目、流れに乗り。三歩目、飛竜ひりょう雲に乗る。


「マリーレの仇ッ!」


 風刃を纏った拳が体幹ごと振りかぶって相手の心臓部に入る。斬り裂きながら骨肉を抉って向こう側へ突き抜けた。


「ぶふッ……」


 口から大量の血を吐くハザン。だがまだ終わりでないと言いたげにその腕を掴む。


「この身はすでに捧げた。私が死ぬ時はすなわち我らの悲願が潰える時だ」


 全身が黒に侵蝕されていく。ルキごと影に取り込もうというのだ。腕を引き抜こうにも傷口が塞がっていて逃げられない。


「――迅雷の翔破しょうは


 横から雷の槍が一閃。ハザンの頭を貫いてそのまま吹き飛ばした。残った胴体から力が抜けるや否やルキは足蹴にして強引に腕を引き抜いた。


「嬢ちゃん。助かった」

「気にするでない。しかしどうやらまだ終わりというわけにはいかぬみたいぞ」


 ぬるりと這い出た黒い影が地面に転がった頭部と胴体を繋げて結合した。指先がピクリと反応したあとに男は再び立ち上がった。


「もはや人ではないな……」


 苦虫を噛み潰したような顔でクロハが言う。ルキも同様の顔をしていた。


「なんとでも言うがいい」


 口腔に溜まった血を吐き捨ててハザンが炎上した。


燎原りょうげんの火。果てるは死命しめいさかれ、炎子えんし傀儡かいらい


 分身を使わず自身を豪炎の中に放って薪とする危険な魔術。センリに見せた炎纏いよりも勢いが格段に強く瞬く間に燃え尽きてしまいそうである。


 隙を突いてセレネを連れ戻すつもりが、相手が想定よりも手強く、強引な方法に頼らざるを得ない状況に追い込まれたのだ。


「これで貴様らを殺す以外に術はなくなった」


 黒い蒸気交じりの真っ赤な炎。自ら消火することができず近づけば延焼する。それは奪還対象のセレネにも触れられなくなるということ。


「風の精霊よ。つんざ疾風はやてじんとなりて我に従え」


 ルキは本気の顔で風を身に纏う。本来は防御用の魔術を攻撃用に転化する彼特有のやり方。踊るような身のこなしで接近する。


 炎と風のぶつかり合い。互いにかき消そうとせめぎ合う。


 実力、地形効果、強大な魔の後ろ盾。


 やはりルキのほうが形勢は不利だった。


「……くそがッ……」


 防ぐのがやっとで勢いを増す邪悪な炎に呑み込まれようとしている。弾けた火の粉が不意に風の鎧を突破して片目を焼いた。


「ぐあああッ!」

「援護するッ!」


 不得意な水魔術を使って防護し火中に飛び込むクロハ。雷霆らいていの球を放って相手を押しのける。すかさずルキを横へ弾き飛ばして、


「――去ね」


 得意の雷魔術を詠唱破棄で行使。横ざまに雷の柱を落とした。術者自身も怯むほどの驚異的な魔力の放出がハザンを襲う。黄金の滝が轟音を上げて周囲ごと焼き焦がしていく。


 燃え盛る雷炎、飛沫の中から黒化した腕が伸びてきた。


「――ッ」


 クロハの首を掴んで地面に押し倒す。魔術障壁を表面に張っていても徐々に皮膚が焼け爛れていく。呼吸ができなくなっていく。


 不味いと彼女が思った矢先、ルキが動いた。前面に魔力を集中。そのまま体当たり気味にぶつかって解放した。


「ゴホッ……ゴホッ……」


 咳とともに口端から垂れる唾液をぬぐって後退するクロハ。良くないものを吸い込んでしまったと治癒魔術で応急処置をしている。


 一方で片目を灼かれたルキは応急処置が間に合わず服の一部をちぎり取って眼帯代わりにしていた。


 燦々と輝く炎の中に炭色に染まった人の影。一歩踏み出すだけで周囲の木々が焼け落ちていく。魔術障壁なしには生存を許されぬ領域。


「我らの悲願のために。そして、みなと変わらぬ暮らしを手に入れるために」


 人の形をしているだけの魔物が黒い涙を流しながら喋る。かたわら燃えかすの魂で誰にも話せなかった本当の思いを語る。


「…………」


 隠れて様子を窺うセレネは痛いほどに共感し深く同情した。


 自分の存在を認めてもらいたかった。みんなと同じように生きてみたかった。ただそれだけなのにどうしてこの世界はそれを許してくれないのだろう、と。


「嬢ちゃん。まだいけるか」

「……どうにか」


 クロハは瘴気の毒が回って意識が朦朧としていた。急いで治癒しているが解毒に時間がかかっているようだ。


「――ッ!」


 そうはさせまいと放たれた毒交じりの火炎弾が障壁を貫通してクロハに直撃。肉を焼け焦がしながら横腹を突き抜けた。


 歪むクロハの顔。片膝をついたところで意識を失い、その場に倒れた。


「これで残るのはお前だけだ」

「上等だ、こら」


 ルキは言いながら風でクロハを持ち上げ遠くへ飛ばした。その近くにいたセレネが慌てて駆け寄り傷口に手を当てる。


「力を使い果たさねば火が消えぬ。その身をもって鎮火させてもらうぞ」

「燃料が足りるといいがな」

「……やはり本物ではなく愚かなだけだったか」


 おどけるルキを見てハザンは確信。せめてすぐには燃え尽きてくれるなよ、と願いながら掌を差し向けた。


 真紅と漆黒が渦を巻く。奇奇怪怪の運命とたもとを分かつために全身全霊の奔流ほんりゅうを今、相手めがけて解き放った。空を焦がし、地面を抉っていく。


「――嵐となりて我を護れ」


 ルキは嵐の舞踏と呼ばれるきっかけになった最上級の風魔術を重ねがけ。鼓膜が破れるほどに吹き荒ぶ。暴風同士がかち合って激しい舞のように鳴り響く。


 一瞬にして周りの景色が赤と黒に呑み込まれた。


「……くッ、化け物が……ッ!」


 嵐の鉄壁が揺らいで軋む。わずかでも気を抜けば焼き尽くされる。だがこのままでは消耗するだけで埒が明かない。


 ここから抜け出して急襲に転じるか。否。格下がやっても結局は追尾されるだけ。むしろ流れ弾が巫女に当たりかねない。火が消えるまで待ってもクロハがいない状況は圧倒的に不利となる。


 だからルキは茨の道をゆく。できる限り前方に魔力を集中させて、一歩一歩、前進していこうと決めた。


 唯一の光を失ってからは後悔だらけの人生。後戻りすらせずに立ち止まっていた時間。あの甘酸っぱい日々はもう二度と帰ってこないと分かっている。


「この俺を、舐めるなよ……ッ!」


 障壁の薄い部分から黒煙が上がる。皮膚が、肉が、燃えて爛れていく。


 けれど男は立ち向かう。与えられた最後の機会を全うするために。


 最愛の人はいないけれど、彼女に捧げた『守り通す』という言葉をやり遂げるために。


「――っ!」


 物陰でクロハの治療をしながらセレネはルキの魔力が弱まっていくことに気づいた。


「燃え尽きろ……!」


 相手が下手に動かないことを知っていてハザンは軸足をきつく踏み締めていた。


「マリーレ……!」


 手を伸ばすルキ。指先から皮膚が剥がれ落ちて真っ黒に焦げていく。


「マ……レ……」


 あともう少しで届くのに息が苦しい。喉が乾いて焼けていく。


「…………」


 言葉がほとんど出てこない。目もかすれていく。


 その中で光り輝く女の幻影を見た。これまでの人生が走馬灯のように走る。そのほとんどが愛した幼馴染との幸せな記憶だった。


 ありふれた温かい思い出とともに意識が過ぎ去った。


「――よく耐え切った。愚かと言ったことは訂正しよう」


 炎の放出が終わった跡には黒焦げで地面に横たわる男がいた。あと一歩のところまで迫っていたがそこで力尽きたように見える。


「さらばだ」


 全身を黒い影に覆われたハザンは巫女のもとへ向かう。


「――ッ」


 しかしながら途中で足首を掴まれた。黒焦げの手が動いたのだ。


 驚くハザンをよそにルキはか細い声で唱える。


「……ま……れ」


 巫女を護る最後の魔術。ほのかに光る体から発せられた無数の風刃が浄化色の輝きを纏ってハザンに取りついた。


「あ……がッ……」


 刃が触れるたびに拒絶反応を示して黒い蒸気が上がる。魔の染み込んだその身体が斬り刻まれて崩壊していく。再生が間に合わない。


「ま、さか……」


 持ち上げた両腕がずるりと崩れ落ちた。これはまさしく退魔の力。だが勇者のものとは違う、もっと純粋で温かみすら感じてしまう不思議な何か。


 次の言葉すら紡ぐことができずにハザンの頭部がどろりと崩れた。黒の骨肉がぼとぼと流れ落ちてその場が黒い影の水溜りと化した。


 そこに横たわる男のまぶたがゆっくり閉じていく。


 何も見えなくなった暗闇の向こう側に彼女が待っている。近づくことはおろか声をかけることすらできずに遠くから見守っていた日々とは違って、今なら会いにいける。


 ありし日の気持ちで気恥ずかしそうに片手を上げて彼女のもとへ。


 目の前までやってくると彼女はうしろに手を組んで意地悪そうに笑った。


 男は彼女を強く抱き締めてずっと伝えたかった思いを口にした。


『マリーレ。愛してる』

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