2. Vergine delle Rocce




 ローゼンベルク特別刑務所は、東京湾に浮かぶ人口島だ。


 十年前、新文化保護法の制定と同時に建てられた、シュールレアリスムの監獄悪夢。重罪を犯した芸術家たちが収監され、見学ツアーは一大産業にもなっている。キャッチコピーはこうだった——

 『芸術に生き、芸術に』。


「囚人番号628番、入れ」


 到着してすぐ、有名アーティストがデザインしたサイケデリックな囚人服に着替えさせられる。そのあと看守に促されて、部屋に入れられた。ここが独房なのか? と思ったが、見るからに豪華で、どちらかといえば応接間のように見える。

「お前には今から、お前を担当して下さるアーティストの方と顔を合わせてもらう」

「担当?」

「何の価値もない人殺しの死体を、崇高な芸術作品にして下さるお方ってことだよ」

 壮年の看守はニヤニヤとそんなことを言う。怯える暇さえ与えられず、応接間じみた部屋に男がやってくる。その人物を見て、僕はあっと声を上げた。知っている顔だ。

「も、もしかして、草形ヨウスケさん?」

「あ、知ってます? 草形です。どうも」

 テレビやSNSでよく見かける、新進気鋭の若手芸術家。最近は歌手デビューもしていたはずだ。彼は整った顔に照れ笑いを浮かべ、会釈さえしてみせる。僕はただただ慣習の力で「あ、こちらこそどうも……」などと会釈を返したものの、そのあとからじわじわと『この人が僕の死体を使うのだ』という冷たい事実が頭をもたげてくる。

「あ、あの」と僕は顔を上げて言う。

「はい?」

「僕は、その、冤罪なんです。誰も殺してなんか、ないんです」

 自分で言っていても滑稽に感じるくらい、その言葉にはおそろしく意味がなかった。この部屋においてそれは『空気の読めない人の発言』でしかないことが、皮膚からひしひしと伝わってくる。

 草形は僕の手をそっと両手で包み込み、微笑みを称えながら、こちらの目を覗き込む。


「キミが罪を犯したのか……それとも本当は犯していないのか、ということについては、ボクには全くわかりません。というか、ボクはそのことについて知るべきではないし、知る必要もないんじゃないかな。大切なのは、キミ自身が歴史に残る芸術作品となれるということだと思います。ボクにできるのは、キミを最高のアートにしてあげる手助けだけ。法律や政治のことは、馬鹿なボクにはわからないけれど。その一点にかけては、ボクは最善を尽くさせてもらうつもりです」


 吐き気と眩暈で思わずくらくらした。彼が何を言っているのか一ミリもわからないのは、僕がショック状態だからか? 麗殺刑のことは前から知っていた。残酷すぎるが、犯罪抑制には必要なのかもしれない、とは思っていた。けれど、ここまでずさんな制度だとは思わなかった。目の前の草形は、二十歳をゆうに超えていた。でも彼の目には彼自身しか映っていない。

 草形の手が、僕の掌から手首へ、そして前腕へと移動する。まるで形と質感を測るかのようなその手つき——トマトの皮の張りを確かめるシェフのような撫で方に、僕はようやく目が覚める。


「触るな!」


 吠えるように叫び、嫌悪感に任せて草形の美しい横顔を手錠で殴りつける。若手アーティストは倒れ伏す時まで気取った仕草で、大袈裟な声をあげながら遠くの床まで吹っ飛んだ。息を荒げて襲い掛かろうとする僕を、看守がすぐさま取り押さえる。

「離せよ! 離せ!」

「黙れ628番。これ以上罪を重ねるつもりなら、今すぐ執行してもいいんだぞ」

「僕は罪なんて犯してない!」

 首に鋭い痛みが走る。いつの間にか、看守の手には注射器があった。鎮静剤。そう気づいた時にはもう遅く、体に力が入らない。倒れ伏した僕の上に、激しい罵声と拳の雨が降ってくる。

「お前みたいな、無価値なクソガキ……自己満のゴミ絵しか描けない、気持ち悪いオナニー野郎にはな! はなから発言権なんてないんだよ! ゴミが国家権力に盾ついてんじゃねえ! オラッ死ね! 死なねえ程度に死ね!」

 苦しみと痛みが、全身を襲う。

 意識が薄れていき、やがて完全に暗くなった。










 ——静かな。


 とても、静かな。




 凍てつく空気と、冷たいシーツの感触で目が覚める。あれから、どれだけの時間が経ったのか? それすらわからないまま、僕は薄く目を開ける。


 鳥。

 いや、これは、魚だろうか?


 どちらなのか判然としない不思議な絵が、目の前をちらちらと移動する。ほどなくして、「気がついたか?」と声がする。

「あ、あの。あなたは……?」

 掠れた声で尋ねると、声の主は、寝ている僕の枕元で軽やかに笑った。

「俺のことは、ダヴィンチって呼んでくれ。そうさ、万能の人だ。いい名だろ?」

 数度目を瞬いて、再びその男を見る。白シャツの上に黒いジャンバーを羽織り、白髪混じりの黒髪で、べっ甲眼鏡をかけている。

「お前は、カラヴァッジオだな。うん。そんな顔をしてる。はい、決定」

「から……何ですか、それ?」

「やれやれ。カラヴァッジオを知らないとは。先が思いやられるな」

 言いながら、ダヴィンチと名乗る彼は、パチンと何かの箱を閉める。救急箱のように見えた。

「あなたが、僕の手当を? あなたはこの刑務所の医者?」

「いいや。俺も囚人さ」

「え……? いや、だって」

 ケバい囚人服も着てないし、何より檻に閉じ込められるでもなく、こんなところで呑気にお喋りをしているのに? 

 そう言いたげな僕の顔を見て、ダヴィンチはせせら笑う。

ここローゼンベルクの見学ツアーが一大産業なのは知ってるだろ? 全ては金なんだよ、若きカラヴァッジオくん。ここにはツアー以外にも『公然の裏ビジネス』があって、つまり囚人のつくった作品を高値で販売してるのさ。金のなる木は伐採処刑しない。多少の自由も認めてやる。そういう仕組みさ」

 言葉もない。彼は続けた。

「さて、まず最初に聞いておこうか、カラヴァッジオくん。君は潔白か?」

「は、はい。殺人なんかしてません」

「さて、それはどうかな。殺人がすべて直接的なものとは限らない。君はこの麗殺刑——つまり死刑囚の遺体を使って作品を組み立て衆目に晒す、という残虐極まりないシステムが娯楽と同列に存在するこの社会を、今まで許容して生きてきた。そうだろ? いくら他人が酷い目に遭おうが、それが自分でないなら、どうでもいい。無実の芸術家が死後何年にも渡って尊厳を踏み躙られることになろうが、知ったことじゃない。そう思って生きてきたんじゃないのか?」

 う、と言葉に詰まる。

「僕は……世の中は、もっとまともなものだと思ってました。新文化保護法は酷すぎるけど、大人が決めたのならそれなりの意義と必要性があるんだろう、僕が子供だからわからないだけだろうって」

「でももう十八だろ」

 タバコを取り出して火をつけるダヴィンチに、僕は泣きたくなるのを堪えて訴えた。

「こっちだって……生きるのに必死だったんです。周りは世の中に何の疑問も持たず、どうすれば自分の作品が認められるかってことしか頭にない。保護者は精神不安定で攻撃的。そんな中で孤独に生き延びなきゃならない辛さが、あなたにわかるっていうんですか? あなただって、見て見ぬ振りをしてたんじゃないですか。世の中がめちゃくちゃになっていくのを見ながら、何にもしなかった。自分には関係ないと思ったからだ。違いますか?」

 彼は答える代わりに、ふう、と紫煙を吐いて言う。

「モナリザを見たことあるか? 実物のを」

「ありません」

「計画があるんだ。ステップ1、ここを出る。ステップ2、ルーブルでモナリザのご尊顔を拝む。名付けてモナリザ計画プロジェクト・モナリザだ。君も参加してくれたら嬉しい」

 握手を求められ、半身を起こしてそれに応じた。それ以外に道はないように思えた。僕の才能の凡庸さと、さっき担当に暴力を振るったことを考えれば、一週間足らずでなのは目に見えていた。








 


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