勝負如此ニ御座候(しょうぶかくのごとくにござそうろう)
奇水
勝負如此ニ御座候(しょうぶかくのごとくにござそうろう) (一)
宮本武蔵がなごやへ来りしを召され、於御前兵法つかひ仕合せし時、相手すつと立合と、武蔵くみたる二刀のまゝ、大の切先を相手の鼻のさきへつけて、一間のうちを一ぺんまわしあるきて、勝負如此ニ御座候と申上し。又一人立合しも、これにも手もなく勝ちぬ。此仕合の御座席、さだかならず。虎の間共云。
近松茂矩著 『昔咄』より。
一.
「少し、早く来すぎたか」
柳生兵庫厳延は自身の吐いた白い息を見て、小さく
言葉にするまでもなく解っていたことだ。
出掛けるに際して家人にも言われていたし、自身でも刻限のことは解っていた。
時は元禄十年の正月、場所は名古屋城。二之丸南側。
正月恒例の稽古始の日、剣術指南役であった厳延はいつもより早くに出て、当然のようにいつもより早くに城にたどり着いていた。
雪こそは降っていないが、冬の早朝の空気は冷たく、乾燥している。髭を剃ったばかりの肌には痛いほどだった。
(ゆっくりきてもよかったな)
頬を撫でながら、そんなことを思う。
出仕してから今まで、ここに来るまでの道のりは何百回と繰り返していたのだ。いつ頃に出ていけばどう辿り着くのかくらい、兵法者として不出来と言われている彼であっても見誤ることはない。
……そうでありながらも早出をしていつもどおりの調子で来たのは、近頃の彼が抱えなければならない問題の多さのあまりか、すっかり眠りが浅くなってしまったせいだ。
(家にいても手持ち無沙汰であるからな)
かといって稽古にやってきたとしても、やることがないのには違いない。
厳延が予定の刻限よりも早く家を出たのは、早起きしたということもあるが、できるだけ雑務のことから遠ざかりたかったからだ。
早くに来すぎて、何をするかできるかということは考えてなかった。
(さて、どうしたものか……)
冷えた身体を動かしたい気分だった。
こういう時、打太刀を任せられる相手がいれば三学、燕飛を打つところであるが、生憎と今連れてきている従僕たちは若く、打太刀を任せられるほどの腕前はない。
そもそもからして、打太刀は上位者が務めるものだ。世に不出来の評ありといえど、今の柳生家に形式上、彼の上位者はいない。せめて叔父たる
いや、見回せばぽつぽつと人の姿は見える。二之丸は北側に『御城』と言われる藩主の住居兼藩庁機能があるので、早朝でも人の出入りはあるのだ。
二之丸の南側では馬場や弓道場があり、正月はこの馬場で稽古始をするのが毎年のことだった。
だが、人がいないことには始まらぬ。
「御城に顔を出しておくか……」
そう呟くと、従僕たちも安堵したかのような顔をしたのが見えた。
このまま稽古始めまで寒さの中で立ち尽くすよりも、御城の何処かで火鉢でも囲んで暖を取りながら待っていた方がよいに決まっている。
(身体がかじかんだままでは、稽古にもならんからな)
厳延はそうと決めると、足早に北側の『御城』に向かった。
ほどなくして幾人もの武士たちとすれ違いになった。その都度軽く新年の挨拶などを交わしつつ離れていくのであるが、ふと足を止めた。
「うん…………?」
見慣れぬ老人だ――と思ってから、厳延は眉をひそめる。
老人であるのは間違いない。その顔を見れば明らかだ。面貌は老齢であることを示す皺が深く刻まれ、染みも多い。髭も、薄くなった頭にある髪の毛も白かった。
だが、よく見るとその頬にはまだ張りがある部分があり、冬の乾いた空気の中でも照りがみてとれたし、皺の重ねられた瞼の隙間から見える眼差しは炯々と鋭い光をたたえているようだ。
そして何よりも。
(大きい)
丸に三つ柏の家紋を入れた裃に包まれた体は見るからに肉厚で、高い。恐らくは五尺六、七寸はある。厳延よりも目の位置が高く、若い頃ならばさらにもう二寸ほどは背丈はあったに違いない。堂々たる体躯だ。そしてそうでありながらも歩む様は流水の如きであった。
かなりの使い手だと、直観した。
さらによく見ると、身体から湯気が沸き立つが如く白いものがあった。暖かい息を白くするように、この老人より発する体温を冬の寒さ冷やしているのだろう。
(何処かで兵法の稽古をしていたのか?)
だが、見た限りは老人は『御城』の方から歩いてきたはずだった。
どうにもよく解らない。
「………………」
「………………」
立ち止まり、お互いに僅かに頷き、目礼を交わした。
視線が交差した刹那に、老人は微かに目を細めていた。
厳延は訝るのをかろうじて顔に出さなかった。
(何か値踏みをされたかの、ような……)
もしかすると、剣士としての腕前を量られたのかもしれない。柳生家の者であるのは、裃の家紋を見れば知れることだ。兵法使いであることもその運足からは容易に解るだろう。
尾張の地で兵法に関わるのならば、自分に興味を持つのは当然である。
もしかすると、今の老人は何処かの高名な兵法者で、殿に召されて上覧の栄誉を賜って――
(……こんな早くに?)
ありえるのだろうか。
とはいえ、当代の尾張藩主、徳川綱誠公は精力絶倫にして大食漢として世に知られてはいるが、好奇心旺盛で興味の幅は広い。諸学を学び、推奨し、尾張の地誌編纂を命じられたりもされている。そして新陰流七世を先代の藩主である光友公……大曽根のご隠居様より学び譲られたという兵法の達者でもある。
よくわからぬ食材を試したりするように、何やら興味がでれば知らない兵法者を密かに招き、一手二手と業前のほどを見てやろうなどと考えることも、ありえることだ。その時が、予定が詰まっていたせいで正月のこんな時刻だった――
などと、辻褄が合うように話を捻り出すが、どうにも厳延はしっくりこなかった。
(まあ、俺にはどうでもいいことだ)
決して軽んじられているわけではないが、殿にとっては自分は興味がある兵法者ではない。
その程度の自覚はある。
仮に、一時何処かの兵法上手を招いたとしても、柳生家の、自分の指南役としての立場が危うくなるようなこともない。
他に考えなければならぬことは多いのだ。
厳延は頭を振った。
「…………いかがなされました?」
従僕の一人に、心配そうに声をかけられた。
「いや、今のご老人、只者ではなさそうだったのでな」
「はあ」
「確かに――」
もう一人が、声を継いだ。
「我らでも、解ります。相当に使う方ですね」
「うむ」
一応は柳生家に仕える者達だ。当主である厳延の護衛でもある。それなりの者たちではあるのだ。
「しかし、あのような御方は、まるで聞いたことがありません。いずれのご家中の方なのでございましょうな」
「新陰流に連なる者ならば、聞こえてくるはず」
「すると、八田家が招いた外部の兵法者か――」
「あるいは、猪谷家か福留家か」
彼らも気になっていたのか、口々に囁きあう。
八田にしても、猪谷、福留も、尾張徳川家中にあって柳生家の新陰流とは異なる剣流を伝え、栄える者たちだ。
彼らの勢力の台頭は近頃の厳延を悩ませていたが、それらともあの老人は関わりがないということも、彼には解っていた。
(殿に覚えめでたくしようと思えば、自らの技を磨くはず。わざわざ、よその兵法者を招くこともないだろう)
縁あって招いて滞在した者の話聞き及び、殿が呼び出したなどということはあるかもしれないが。
気にするまいとしているのに、どうしてもあの老人のことを考えてしまう。
(何が引っかかっているのだ、俺は……)
もどかしい。
言葉にならない何かが胸の奥にあった。喉元にまで出てきているのに、上手く吐出すことができないものがあった。
従僕たちも、彼ほどではないがやはり気になっているようだった。
「しかし、あの丸に三つ柏の御家紋は――」
「あれは確か、――」
「丸に、三つ柏……?」
足を止め、厳延は振り返る。遠くに老人の背中が見え、曲がり角で消えたところだった。
(いや、あの老人は――――)
唐突に、思い出した。
何かが繋がった、という感覚だった。
「お前たちだけで、御城に行っておれ!」
駆け出し、振り向きもせずに厳延はそう言い捨てる。
従僕たちは何か答えたはずであるが、それはもう彼の耳には届かなかった。
(そうだ、あの老人は、叔父御の葬儀の時に……!)
見覚えがあったのだ。
二.
『――――心の十文字を持て』
厳延の脳裏には、いつも右片手の雷刀(上段)に脇差を持った叔父の姿がある。
あれはいつのことであったか。
確か叔父御は還暦に達したばかりの頃であったか。庭園の手入れの途中に突然に何やら
牡丹の花が咲き誇っていと記憶している。
とすれば四月あたりであったか。
ふふん、と口元に笑みが浮かんだ。
あの時の自分は、叔父のあまりの心魂の迫力に打たれ、どう言われて叱咤されようとも動けなかった。
『動けません』
『勘弁してくださいませ』
『無理です』
『叔父御……』
みっともない言葉ばかりを使った気がする。どうにか刀を抜くまではできたが、それ以上はただただ首を振り、拒絶した。涙ながら懇願した。
どれほどの時間、叔父は脇差を掲げていたかは解らなかったが、やがて一息つき。
『すまなんだ。許せ』
とだけ言った。
その日はそれ以上の言葉を交わすことはなかったが、翌日にはいつもどおりに戻っていた。
あの日のことは、厳延の心に強く刻まれている。
(叔父御は、剣の達者であったが、不器用な方であった)
あるいは、病弱な甥を相手にどうすればいいのか、解らなかったのかもしれない。
浦連也――それは隠居してからの号であり、世に新陰流五世として知られる
だから厳延は入門してからしばらくは、実はほとんど叔父の指導を受けていない。
素振りでの身体作りを中心にして、時折に三学円太刀の打太刀をしてくれていたが、その程度だ。
少し身体ができてからは他の門弟たち同様に激しく稽古をつけられたが、正直、あの頃は本当に辛かった。
兵法の家の者としての決意はあったが、それでも稽古を続けるのは彼にとって大変な負担だった。
何度となく柳生家の道場の床の上に倒れ、幾度となく叔父御の庭園で倒れた。
叔父御は優しい人であったが、それでも剣に妥協は許さなかった。
『ゆるゆると鍛えればよい』
と言いながら、毎日稽古をつけた。病に倒れた日には枕元で兵法書を諳んじることを求めた。
仕方がなかったことだと思う。
叔父御はそのような人であり、自分が生まれたのは兵法指南の柳生家なのだ。
(よくも自分の如き者が、残ったものだ)
とすら思う。
事実、厳しく妥協を許さない指導には、幾人もの素質ある門下生が脱落、あるいは離反していったものだった。
今や一派を立てている猪谷家も、そして福留家も、叔父御の厳しさに反発して去っていった者たちだ。
辛い日々であったが、思い返せば、それらもすでに懐かしい。
何年もかけて肉体は壮健に至り、なんとか叔父御、そして父の指導についていけるようになっていったが。
やはり素質という点では他の者たちに比して見劣りしていたのは否めない。
(本当に、ギリギリまで俺に免許を出されなんだが)
それだけ、彼の技倆には不安を覚えていたのだろう。
牡丹の中で以外でも、叔父達の要求に応えられないことは多くあった。その都度、叔父は黙り込んでしまい。翌日からはまた何事もなかったかのように振る舞う……ということを繰り返していた。
(あの時だけは、違っていた)
道場では他の門弟たちの目もあって、弱音を歯を食いしばって飲み込んでいたが、あの時は他の者の目もなく、また脇差とはいえ、真剣の刃に袋撓ではあり得ぬ恐怖を感じ、ついつい情けない言葉を吐いてしまった。
そして、叔父御が「すまなかった」などと言ったのも初めてだった。
それだけに強く印象に残っているのだろう。
その後も稽古は続けたが、叔父御が良しとして免状を発行したのは十年後、彼が三十二歳にもなってだった。
それも自身が亡くなる直前になって、ようやくのことだ。
そのような有様であったから、世間では柳生家の総領である甥のために、あの浦連也ですらも妥協したのだとか言われる始末だった。
真意のほどは、今となっては解らない。
あの厳しい叔父御も、亡くなってからすでに三年も経っている。
今やあの牡丹咲き乱れていた浦屋敷には、主人はいない。
ただ庭数奇の叔父御の作り上げた庭園を惜しみ、藩主綱誠公直々に管理するための庭職人が遣わされているだけだ。
時折に掃除はされているが、主の居ない屋敷というのは寂しいものだ。そして浦屋敷が如き壮麗な庭のある場所がそのようになると、奇妙な噂が立つようになる。
先日も裃を着た男が屋敷に出たとか、そのような話が世間を騒がせているという報告があった。
少し前にも、柳生家の家老同士が刃傷沙汰を起こしていた。
他にも表に出ていない不祥事は多くあり、世間もそれに乗じて陰口を叩いているようだった。
(叔父御が生きていれば……いや、いつまでも、叔父御に頼っているわけにもいかないのだ……)
そうは思いながらも、日々ごとにかつて抱いていた憧憬と、そしてもういないのだという諦観、反発が胸の中でかき混ぜられ、自分がどうしたいのかも解らなくなっていき――
今では夜もろくに眠れぬことも多い。
そして時折に、厳延は考えることをまとめるために、熱田へと行く。
遺言により、浦連也の骨は火葬され、熱田の海の沖へと撒かれたからだった。
正直、手間のかかることであったが、師であり、柳生家の長老たる叔父御の遺言ならば守らなくてはならず、その際には少し船酔いし、気分が悪くなった記憶があったが。
そしてその、三年前の葬儀の時、散骨した後にあの老人を見たのだ。
(忘れていた)
あの老人は、無地の白い裃姿で、海へと向かって座して酒を飲んでいた。
夕暮れの色の中にその姿は、一幅の絵のようだと思った。
そしてそれは、叔父御を悼んでいるのだとぼんやりと直感していた。あの時も誰だろうと訝しんだような記憶がある。
思い切って声をかけようとも思ったが、葬儀の忙しさやら気分の悪さやらが重なり、それきりになっていた。
そのまま三年が過ぎて、すっかりその日のことを思い出さなくなっていたが――
(あの時は、叔父御の古い友人か何かだと思っていた)
だが、今すれ違った時に見た、あの家紋は。
丸に三つ柏は。
「もし――」
足早に進む老人に追いつけたのは、三之丸への門へと差し掛かった頃であった。
息を整えぬままに呼び止めた厳延の声に、老人は足を止め。
「それがし、柳生兵庫と申す者でございますが、卒爾ながら御老人は、嶋家に……私たちの曽祖父であられる、
老人はようやく振り返った。
三.
それは通称であり、正しくは
しかしその名は、柳生家にとってはまた別の意味を持っていた。
老人は
「――早朝とはいえ、あまり、立ち話で話せることではない」
それ以上のことは、とりあえずは人目のつかぬところで……ということになり、三之丸にある
先行する清秀老の背中を眺めながら、厳延は思う。
(なるほど、この背中、歩き方、叔父御によく似ている)
剣術の達者は、強靭な足腰もあってか肩がほとんど上下することなく流れるように進む運足をする。
この清秀老もそうであり、彼の叔父御である浦連也もそうであった。
しかしそのような剣の境地などよりも、その背中の形……雰囲気と言った方がよいのだろうか。何か上手く言葉に言えないものが叔父御に似ているような気がした。
それはもしかしたら、錯覚なのかもしれないが。
(嶋家の者ならば)
嶋左近は、尾張の柳生家にとって特別な意味を持つ。
それは左近の娘である珠は、厳延にとっての祖父、柳生如雲斎――柳生兵庫助利厳の妻であり――つまり、義父に当たる人物なのだ。
父である利方、叔父である厳包にとっては祖父であり、特に叔父は嶋家の跡取りとして育てられ、十六歳まで柳生ではなく、嶋を名乗っていたと聞く。
もしかすれば、この嶋清秀老は自分のまだ知らぬ親戚であるかもしれないのだ。
ただの剣士であるのならまだしも、叔父御に関わりがあったかもしれぬ、血族とも言える者であるのならば捨て置けることはできなかった。
そのような人物がいたとして、なんで父も叔父も教えてくれなかったのかは不審であるが、一族の総領たる身としては把握して置かねばならぬ。
いや、そのようなことも言い訳でしかないのかもしれない。
厳延はこの老人について、今、知りたいと思ったのだ。
それは腹の底から吹き上がってくる衝動のようなものであった。
果たして清秀老は杜の中に入ってから立ち止まり、周囲を軽く見渡してから。
「嶋左近は、儂の祖父だ」
と答えた。
「すると、御老人は……」
「嶋左近の末の娘で、お主のご祖母であられる珠殿の妹、幸の子……兵庫殿のお父上である如流斎殿、連也斎殿とは従兄弟に当たる」
「なんと」
まったく、聞いたことがなかった。
祖母に妹がいることも含めて、父と叔父の従兄弟などというような近い親戚がいたという話を、彼は知らなかった。
そもそも、嶋左近に自分の祖母以外の娘は――確か、
「庶子であったようだ」
「なるほど……」
とりあえず納得はした。
しかし、それはそれとして、どうしてあなたは自分たちと親戚づきあいをしていないのか――と思った。
嶋家については叔父御のみならず、彼の父である利方も思い入れが強かったようで、晩年は嶋姓を名乗っていた。その辺りのことを直接聞いたこともあるが、はぐらかされてしまっていた。
厳延自身は父たちほど何か拘りがあるわけではないが、自分たちと関わりがあることには違いなく、その上で一瞥で解るほどの使い手となれば、気にならないはずがないのだ。
そのような考えが顔に出ていたのか。
「そうだの……」
清秀老は顎を撫でてから。
「少し、長くなるが――」
まずは、儂の父母の話をせねばなるまい、と語りだした。
清秀の母は祖父が近江国にいた頃、縁あって越前から同じく石田家に仕えた同僚の
この人は織田信長の面前で自害したことで知られる越前朝倉家の猛将、
清秀は父が大坂の陣に参加していた渦中、慶長二十年(1615年)に母は父の親族である印牧一族の元に預けられ、そこで生まれた。
父の記憶はまったくない。
母と師の語る思い出話の中でしか父はいない。
師は
清秀はこの一刀斎に剣術を学び、寛永九年(1632年)に免状を貰った。
「まってください。外他一刀斎とは、かの一刀流の開祖として知られる名人のことですか!?」
「儂は、外他流として免状を貰ったがな。一刀斎流、一刀流とは、師父一刀斎の弟子以降での
後世に流祖開祖と仰れる人間が、その流派の名を使用していなかったということはままあることである。流派名が一定しないということもよくあることだ。
一刀流も外他一刀斎の弟子としてもっとも高名であり、将軍家指南役をも努めていたという小野忠明の代からの名乗りであるが、忠明は一刀流の他、一刀斎流で免状の発行をしていた。彼の息子の小野忠常の代になってから、一刀流を正式の名乗りとしたと言う。
厳延は一刀流についてはその知見がなかったのだが、言われるとそのようなこともあるかと納得した。
(しかしそれにしても、その一刀斎に十代にして認められるとは……)
あり得ぬ話ではないが。
「お主と同じよ」
と、清秀老は薄く笑った。
厳延は訝る。
「同じ、とは?」
「……余計なことを言った。忘れられよ」
そう言ってから瞼を閉じた清秀老は、僅かに逡巡し。
「その後、母は師という
(話を変えられたか)
いや、元に戻したとも言う方が正確だろう。先程の言葉は気にならなくもないが、本来聞きたいと思っていたのはそちらだ。
厳延は黙って頷き。
「それで、今度は嶋一族である私の祖母と、柳生家を頼って尾張に来られたと――」
「そういうことだ。一時、師の伝手で江戸の小野忠常様の元にもいたりはしたが」
先代である小野忠明は一刀斎からあらかじめ書状を交わし合い、清秀の親子の世話を頼まれていたそうである。
とはいえ、子である忠常も快く自分たちの世話をしてくれてはいたが、関係としては間接的なものだ。小野家に世話になるに当たって、改めて一刀流門下として入門することも考えたが、自分は開祖たる一刀斎に直接の免状を受けた最後の人間だ……という矜持が、それを許さなかった。
どのみち、長くは小野家の世話も受けられぬと思ってはいたが、数年して尾張に母を連れて行った時、母は姉である珠殿と再会し、たいそう喜びあった。それを見て、清秀はこの地で仕官することを決めた。
当然のことながら、下心がなかったわけではない。
珠の夫の柳生利厳は、遠方からの妻の親族たちの来訪を歓迎し、甥の望みに応えようとしてくれた。
「如雲斎様は、見知らぬ甥である儂に、よくしてくださった」
「お祖父様が……」
「今から思えば、先年に儂と似たような歳であったご長男を有馬の乱にて失っておられていたのも、関係しておったのかもしれぬ」
(清厳伯父か)
柳生清厳――柳生如雲斎の長子であり、若くして剣に詩にと多くの才覚を示していたが、病を得てよりは職務を辞し、蟄居して部屋に籠もりきりであったと伝えられている。
その後、有馬の島原で起きた大乱が何ヶ月と平定されないのを聞き、参戦した。死に場所を求めていたのだろうとは父の利方の言葉であるが、そうであったのかもしれない。
有馬の乱――後世に云う島原の乱で遂に戦死した。
この老人は、その清厳伯父と似たような歳であるというが、もしかすれば、体格や顔立ちも似ていたのかもしれない。
(よく見れば、顔も、叔父御にも少し、なんとなく、似ている……)
そんな、気がする。
「如雲斎様は、先々代の藩主の義直様に、大曽根のご隠居様……いや、考えれば、あの頃は如雲斎様も、ご隠居も、まだ今の名ではなかったが……ふむ。言い直すのも面倒だ。とにかく、大曽根のご隠居様のお側仕えできるようにと、取り計らってくだされた」
それで、万事が上手くいくはずであった。
時の藩主、徳川義直公も、その息子である徳川光義公(後の光友、大曽根のご隠居)も、柳生兵庫助利厳に剣を学び、公務とは別に師と仰ぐ間柄だ。滅多なことで公私混同することはない利厳が、わざわざ推挙する若者を悪く扱うはずもない。
素性も、印牧能信の係累にして、かの嶋左近の孫であり、柳生兵庫助の甥ときている。
この上に、若くして外他一刀斎に免状を貰ったという剣の腕前。
これ以上ない人材だった。
厳延は話を聞いていてそう思ったし、少なくとも、先代、先々代の藩主様たちがそれほどの者を、仮にそうでないにしても、祖父の推薦を無下にするとは考えにくいことだった。
しかし。
この清秀老が先代の大曽根のご隠居様に仕えていたなどという話は聞かない。父も叔父御もこの老人についてはまったく触れることはなかった。
(どういうことだ?)
肝心なことが、まだ解らない。
いや、今から遂にそれが解ることなのだ。
清秀老はまだこの期に及んでいても躊躇っていたようであったが。
やがて。
「ご隠居が――」
と言った。
「大曽根のご隠居様も、まだ若い頃であってな。兵庫助が推挙するのなら問題なかろうが、新陰流ならまだしも、外他流……一刀流というのがどうにも解せぬと仰られて」
徳川光義公は、当時、新陰流を学び始めた頃でもあった。
一刀流の高名を知らぬわけではない。一刀斎の名も承知している。しかし、新陰流が尾張徳川家の流儀だ。父もそうであったし、師である兵庫助もそうである。
他流の力を認めないわけではない。ただ、自分が信頼する者たちが側仕えとして推薦した剣士が一刀流であるのが、どうにも当人にも上手く言えないようだったが……つまるところは面白くない――ということだったのだろう。
他に、どうとも言いようがないことだ。
子どもの言い分だ、と厳延は思った。恐らく、清秀老もそう思っていたに違いないが、それについてはおくびにもだすことはない。
そうして、腕前を見せてみよ――と言う話になった。
そのこと自体については誰にも否やはない。兵庫助の推薦があったからには側仕えすることは既定路線ではあるが、仮にも剣士であるからには、どの程度のものかを示すのはむしろ当然のことだ。
だが、と光義公はさらに言う。
『吾は若輩ゆえ、吾を相手にしては勝てて当然。かと言って、兵庫助もその門人も手心を加えるとも限らぬ』
それは師に対する侮辱とも言える言葉であったが、若い光義公は憤りのままに言葉を吐き出していて、そのことには気づかない。
義直公は注意しようとしたし、その場にいた利方も眉をひそめていたのであるが。
続けての言葉に、全員が――柳生利厳ですらも、息を飲んだ。
『ちょうど、尾張に立ち寄った他国の高名な兵法者がいるではないか。小笠原家の筆頭家老の、御父上の、』
『あの、宮本武蔵が』
四.
「宮本武蔵――!」
あるいは、新免武蔵藤原玄信。
厳延の祖父である柳生兵庫助利厳と同世代の剣豪であり、二刀流の使い手として世に知られている。世情では武蔵をこそ天下無双であるという者も多い。この尾張の地にも何年か滞在し、その弟子筋である八田家、左右田家、林家は師範家として多くの弟子を育て上げ、現在、大きく勢力を持ち始めていた。
新陰流の師家であり、柳生家の総領である彼にすれば、その名は頭痛の原因でもあったが。
しかし、同時に憧憬の的でもあった。
それは厳延だけに限った話ではない。
おおよそ剣の道を志した者として、その名に対して何の感情も抱かない者などいるはずもなかった。
宮本武蔵とは、そのような名だ。
思いもかけず出たその名前に、ついつい詰め寄ってしまった。
「ですが、有馬の大乱の直後といえば……寛永十五年か、十六年――その頃、宮本武蔵が尾張にいたという話は聞いたことがない」
島原で起きたかの争乱には、九州の大名は多く参戦したと聞く。当時の宮本武蔵といえば、小倉の小笠原家の食客となっていたはずだ。
清秀老は微かに首を傾げる。何か記憶を探っている様子だ。
「確か……有馬の大乱の後、小笠原候に同道して江戸に下って、所用を済ませたので先に小倉に帰る道すがら、尾張に立ち寄った――とか、そういう話であったかな」
実際にいたのは、二日三日であった。
先んじて、交流があった尾張の弟子や知人たちに書状を送ってあったようで、その一人である家老である寺尾長政は義直公、そして光義公へとそのこと報告していた。
「寺尾直政様は、筆頭同心から家老へと引き立てられ……その先年に八千石に加増されたばかりであった――」
(ふむ……?)
そのようなことは、厳延も知っていることだ。むしろ尾張徳川家中で、その話を知らぬ者などいないはずだ。
今、そのようなことを語ることに違和感があった。
いや。
まだ何か躊躇っている。
この先のことを語ることを、この老人は躊躇っているのだ。
厳延は肚から息を吐き。
「それで、武蔵殿と立ち会われたのですか?」
と、深く踏み込んだ。
清秀老は難しげに眉根を寄せると、口を閉じたままに鼻から息を吐く。溜息を噛み潰したようだった。
「お主は、そんなに武蔵の話が好きか?」
「――――そのように、言われると」
恥ずかしくなる。
殊更に、好きの嫌いのというのではない。
ただとにかく、気になるのだ。
嶋左近から始まり、外他一刀斎、小野忠常、そして彼自身の祖父である柳生利厳……先程から、この老人の話は刺激的な名前があまりにも出すぎている。それらの挙げ句が、宮本武蔵だ。
気にならないはずもない。
「それに……あなたは、何やら話したがっておられぬ様でもある」
「それが解るのなら、察せよ」
「すると……」
清秀老は、苦虫を噛み潰したかのような顔をした。
「聞いたことはないか? かの宮本武蔵が、義直公の御前で仕合した話」
「それは、」
聞いたことがある。
ごくごく、断片的な話だ。
かつて宮本武蔵が尾張に来た折り、御前仕合で二人の兵法者と立ち合ったが、最初の相手は十字に組み合わせた二刀を相手に突きつけ、仕合の場を一周歩き回らせ、
「
勝負とは、このようなものでございます――と述べたのだという。
もう一人にも同様に勝った。
そのような話だ。
この話がいつ頃から伝わるのかは厳延も知らない。そもそも、本当にあったとも思っていなかった。
仕合の内容がおかしい。
(あり得ぬ話だ)
と思う。
若輩に達者が切っ先を突きつけ、間合いの妙で何もさせずに追い詰めること、それ自体はある。彼にもできる。ただしそれは、相手の弱さが条件だ。
一枚二枚の上手というだけでそんなことはできない。
よほどに隔絶した技倆の差がないと、とても不可能である。
相手が武蔵とはいえ、仮にも御前仕合に抜擢される者がそのような無様なことになってしまうなど――
そう一息に話してから。
「それで、その、清秀殿は実際にどのような……、」
「お主の聞いたままだ」
「その話と寸分違わぬ。武蔵殿の二刀に、何もできないままに追い回され、負けた」
つづく。
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