第34話 雨上がりの陽光②
まだ授業が残っているとか、雨なのに傘を持ってくるのを忘れたとか、そんなものを全て無視して、文字通り一心不乱に、全速力で走る。
瞬く間に全身がずぶ濡れになってしまったが、そんなものは構うものか。
会いたい。今はただただ、俺の幼馴染に……陽菜に会いたい。
だから走れ。走れ。走れ。全てをかなぐり捨てて、ただ前に。あいつのもとに。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
母さんの話によると、陽菜の引っ越し先は京都だとか。幸いにして金はある。俺は駅に駆け込み、高校生にとって大金となる額を券売機に突っ込んで券を購入。ちょうど訪れた新幹線に飛び乗って京都を目指した。
到着まで時間がかかる。もどかしい気持ちを必死に抑えながら、俺は暇を潰すかのように雨粒が叩きつけられる窓の外を眺めて……。
「…………あれ? そういえば陽菜って、どこにいるんだ」
肝心なことを知らないということに、俺は今更になって気がついた。
この新幹線は京都へと向かっている。いずれは駅に到着するだろう。それで……その後は? 駅がゴールじゃない。そこに陽菜がいなければ、そこはただの通過点でしかないのだ。
「…………」
座席に座って待つことしかできない状態になり、冷静になって考える時間が生まれたせいだろう。次々と頭の中に自分の脊髄反射的な行動が入り込んできた。
……授業サボっちゃったな。たしか次は久木原先生の授業だったし……あとでひどいことになりそうだ。それになんか肌寒い。傘も持たずになにを全力疾走してんだ俺は。
いや待て。今は後悔する時じゃない。未来に目を向けようじゃないか。
今の俺が一番知りたいのは、陽菜の居場所。手にはスマホがある。多少濡れてはいるが、水没しているわけじゃない。防水加工もされているので使用はできる。
……母さんに聞いてみるか? でも詳しい場所は知らなさそうだ。
氷空もあの様子だと知らないだろう。そうなると残る選択肢は陽菜本人しかない。というかそれが一番手っ取り早い。
「…………」
何度も書いては消して書いては消してを繰り返してきたメッセージアプリを開く。
ここ最近、俺はあいつから避けられていて。拒絶されたらどうしよう、と。そんな怖さが込み上げてきて、逃げてばかりだった。
今でも怖い。あいつから拒絶されたらと思うと。
――――お前にとって、陽菜ちゃんは何なんだよ。
氷空の言葉が頭の中で蘇る。
……俺はあいつが大切だ。あいつは俺にとって、大切な人だ。
大切だからこそ……逃げずに向き合え、ということなのだろう。たとえそれが拒絶であっても、あいつが下した決断を俺は受け入れるべきなんだ。
「…………よし」
まずは深呼吸。意を決して、メッセージを打ち込む。
――――お前、今どこにいる?
シンプルな一章を何度も何度も見返して、もう一度だけ深呼吸――――よし……送信。
陽菜とのメッセージ画面に、たっぷり五分はかけたシンプルな一文。
既読マークはつかない。覚悟を決めたとはいっても、結果を見るのはやはり怖い。俺はすぐに既読マークがつかないことに少しの安堵感を覚えながら、座席に沈み込む。
どっと疲れが出てきた。駅まで信号以外はほぼノンストップかつ全速力で走った影響だろうか。加えて、精神的な疲労もあったのだろう。どうやら身体が休息を欲しているらしく、俺は大人しく意識を手放した。
☆
――――ピロン。
「…………ん」
不意に鳴り響いた簡素な通知音。それが意識を現実に引き戻す。
一瞬、乗り越したかという焦りに襲われるが……次の停車駅が京都であることを知らせる車内アナウンスが流れた。むしろベストなタイミングだったらしい。
ほっと一息ついたところで、通知音の原因……陽菜からの返信と向き合う時がきた。
心臓の鼓動がドキドキと早鐘を打っている。手も微かに震えていて、恐れていることが嫌でも分かった。だけどそんな恐れも迷いもねじ伏せて、スマホの画面に目を通す。
――――いま京都!
返ってきたメッセージは、あまりにもいつも通りで。
――――もう帰るから、駅に向かって歩いてるとこ!
そこには、『いつも通り』があって。
「あぁ……くそっ。なんだよ、こんなことで……」
どうしようもなく涙が溢れてきた。ポロポロと、外で降りしきる雨のように。
……居なくならなかった。陽菜はまだ、そばに居る。
それが嬉しくて。嬉しくてたまらなくて。またじわりと、胸の内に温かいものが込み上げてきた。手のひらの中で淡く輝く『いつも通り』という日常がとても愛おしく感じた。
「よかった…………」
なくなっていない。こぼれ落ちていない。失っていない。
俺の大切な日常は、ここにある。だけどそれはとても不安定で、儚くて。いつ無くなっても、おかしくないものなんだ。
目元の雫を拭うと同時に、新幹線が駅で停車した。そのまま下車して駅構内を進んでいく。俺はこの愛おしさを後生大事に抱き抱えて改札をくぐり、駅を飛び出した。
京都も外は大雨だったが、構わない。傘を買う時間すら惜しい。
さっきのメッセージが届いた時間を考えても、まだ駅の中にはいないはず。だが、駅の近くには来ているはずだ。
今すぐにでも会いたい人の姿を探して、駅周辺を走り回る。駅の中で張ってれば確実だし雨にも濡れないのだが、そんな考えは頭から吹き飛んでいた。待つことなどできない。そんな時間も耐えられない。このとめどなく溢れる愛おしさが体を動かしていた。
「――――ゆーくんっ!」
雨音の中に紛れていても、その聞き慣れた声を聞き逃すはずがない。
「あ…………」
居た。傘を持って佇む姿が、そこにあった。
「――――陽菜っ!」
呼び返す。叫ぶ。俺はたまらなく走り出して、陽菜のもとへと駆け寄った。
息を切らしてしゃがんでいると、雨が消えた。いや、陽菜が傘に入れてくれたのだ。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……やっと……会えた……」
「本当に、ゆーくんが来た……ただの幸せな夢かと思ったのに」
「は? 夢?」
「あ、こっちの話。ていうか、どーしたの? ゆーくん。ここ京都だよ?」
「知ってるよ。おかげで財布も空っぽだ」
「しかも濡れてるし……あーあ、もう。この前、風邪ひいたばっかりなのに。知らないよ、また風邪をひいても」
「……傘を買う時間も惜しかったんだよ」
「あはは。なにそれ。それじゃあまるで、傘を買う時間を惜しんでまで私に会いにきたみたいだよ?」
「…………そうだよ」
「なーんて…………えっ?」
「だから、そうだって言ってるんだよ!」
思わず叫んでいた。体の中からどんどん気持ちが溢れてきて、叫ばずにはいられなかったのだ。
「わざわざ授業をサボって! 傘も持たずに新幹線に乗って、お前に会いにきたんだよ! 傘を買うとか、そんなことしてる暇すら惜しかった! それぐらいお前に会いたかったって――――そう言ってんだ!!」
「ふぇっ!? ど、どどどどどどうしたの!?」
「どうしたもこうしたもあるか! ここ最近、お前はなんかそっけないし、おまけに勝手に学園を何日も休みやがって!」
「そ、そっけなかったのは、その……ちょっと事情があったっていうか……学園を休んだのは、こっちでやることがあって……」
「引っ越すんだろ」
「あ、知ってたんだ?」
「母さんから聞いた。お前が引っ越すって」
言いたいこと。そんなものは、既に決まっている。
「――――行くな!」
手を掴む。居なくなってしまわないように。繋ぎ止めるように。
「家の事情とか、そういうのがあるのは分かってる。家族と離れるのが、悲しいことも分かってる…………だけど行くな! 俺の目の前から居なくなるな!」
「……ゆーくん?」
陽菜が困惑している。無理もない。急にこんなことを言われたって困るだけだろう。
「お前がいないと毎日がつまらないんだよ! 部屋は無駄に広く感じるし、朝も静かで地味だし! 世界が灰色になってしまったみたいで……何もかもが、色褪せて見えて!」
母さんの言葉を今になって思い出す。
――――はあ……まったく。そんなんで大丈夫なのかしらねぇ、あんたは。陽菜ちゃんがいないと何にもできないんじゃない?
……ああ、そうだよ。
「俺はなぁ! もうお前がいないとダメな体になっちまったんだよ!」
「何を堂々と情けないことを言ってんのさ!?」
「やかましい!!」
「やかましい!?」
陽菜は困惑しながらも顔を真っ赤にしていて……かわいいなちくしょう!
「いいか!? 俺が女の子にモテたいと思ったのは、家族の時みたいに誰かに嫌われたくなかったからだ! 要らない子供だって、切り捨てられたくなかったからだ! 誰かに愛して欲しかったからだ! ……でもなぁ、そんなものはもうどうでもいいって気づいたんだ!」
「ど、どうでもいいって……」
「もうどうでもいい! 女の子にモテなくてもいいし、誰かから嫌われたっていい! 愛されなくたって構わない! 俺は……」
雨音がうるさい。だから負けじと叫んでやる。
「――――俺は、お前にさえ愛してもらえばそれでいい!」
「えっ、え……? えぇぇええええ――――!?
言った。言ってやった。陽菜はとても……とてもとても、驚いていたけれど。
そんなことは構うもんか。もういい。たたみかけてやる。
「俺はもうお前に骨抜きなんだよ! ぞっこんなんだよ! お前がたった数日居なくなるぐらいで人生が色褪せるぐらいなんだぞ!? お前がいなきゃダメな体っていうのはそういうことだ! だから責任とれ!」
「せ、責任? それって……」
「……俺なりの告白だよ。それで、返事は」
「ぴゃっ!? ち、ちょっと待って? いま、夢みたいな出来事が急に起こった上に大量の情報が流れ込んできて頭がショートしてて……」
「残念ながら現実だ」
「あっ……」
顔を逸らそうとした陽菜を逃すまいと、顎に手を添えて強制的に目線を合わせる。
「うぅ…………」
「……嫌なら拒絶しろよ」
「……嫌じゃなかったら?」
「……ちょっかい出しそうになる」
畳みかけるような告白にテンションが少しばかりおかしなことになっている、という自覚はある。
「……いいよ」
雨音の中でも、その声はハッキリと聞こえてきた。
「ゆーくんにどんなちょっかいを出されるのか……きょーみあるかも」
陽菜の手から傘がこぼれ落ち、互いの指が絡み合った。
互いの存在を近くに感じるために。そこに在ると確かめるために。
気づけばもう片方の手で陽菜を抱きしめ、瞳がどんどん近づいていく。吸い込まれるように……。
「――――んっ」
その距離はゼロになり、目を閉じた真っ暗な視界の中で、柔らかくも温かい、濡れた唇の感触を確かに感じ取る。
「……魔が刺したわけじゃないよね?」
「……試してみるか?」
「……うん」
こくり、と陽菜は真っ赤な顔で頷いて。
俺たちは二度目のキスを交わす。
気づけば雨は止んでいて、差し込む陽光のもとで虹の橋が輝いていた。
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