思い出で心を埋めながら

三角海域

思い出で心を埋めながら

 電車を降り、深呼吸してみる。

 毎日のように感じていた潮の香りを懐かしいと思うのは、私がそれだけ東京になじんでしまったということなのかもしれない。

 改札を出て、少し周りを歩いてみた。

 変わったものもあるし、変わらないものもあった。

 利用していたバス停は小奇麗になっていたけど、変わらずそこにあった。

 学校帰りによく利用していた手作りサンドイッチの店はもうなくなっていた。

 私は自販機で紅茶を買い、ベンチに腰かけた。待ち合わせの時間には少し早い。余裕をもって出てきたはいいけど、余裕がありすぎるのも考え物だ。

「退屈」

 言葉が漏れた。昔、あの子が使った言葉。

 目を閉じ、もう一度深呼吸してみる。

 やっぱり、懐かしさが勝る。

 まるで、私がここで過ごしてきた日々が遠い過去のことなのだと拒絶されているように思えて、少しだけ悲しかった。



「久しぶりだねみさきちゃん」

 駅に着いてから三十分と少し。待ち合わせの時間ぴったりに、千歳はやってきた。

「久しぶり。元気そうでよかった」

 私がそう言うと、千歳はにっこりと笑った。昔からよく笑う子だった。自然な笑顔というのはこういうことなんだろうなって笑顔で、いつも千歳は私たちのムードメーカーだった。

「じゃあ行こうか」

 軽自動車の助手席から私は景色を眺めていた。どこか灰色に見える港町。学生時代に感じていた窮屈さは感じない。私が大人になったからなのかもしれないし、東京という息苦しい街を知っているからなのかもしれない。

「東京での暮らしはどう?」

「別に普通だよ」

「そうなの? でも東京でしょ?」

「東京っていっても同じ日本だよ。ここより色んな物があって、どこから溢れてくるんだろうってくらい人が多い。それだけだよ」

 そう。別に特別でもなんでもない。上京する時は少しばかり期待のようなものを抱いたし、東京駅から見る夜の街並みにときめいたりしたけれど、実際に暮らし始めるとひたすら忙しない街の流れに目が回るばかりで、ときめきなんてものはすぐに消えてしまった。

「だけど、みさきちゃんは東京って感じだよね。なんというか、昔からキリッとしててかっこよくてさ。変にかぶれておしゃれしてる人とかいたけど、みさきちゃんはそんな風に着飾らなくても、私たちとは違うオーラみたいなのを纏ってて」

「買いかぶりだよ」

「そんなことないよ。みんなそう思ってたよ」

 みんな。

 その中に、湊も入ってたの?

 そんな言葉を口にしかけた。でも、飲み込む。飲み下した言葉は胸のあたりをもやもやとさせた。

 両親はずっと海外で暮らしている。私が中学二年くらいの時に移住した。建築系の仕事をしていた父が、海外の開発事業に参加するため、母もついていくということだった。私はこちらに残りたいということを伝え、アパートで一人暮らしを始めた。その部屋も、東京に出てくるときに引き払ってしまっていた。なので、私はこちらにいる間、千歳の両親が経営する民宿にお世話になる。

 千歳のお父さんとお母さんは歳をとったけど変わりなく、自然と昔のように話をすることができた。

 部屋に荷物を置き、動きやすい服に着替える。部屋の窓を開け、外を見ると、海岸が見えた。

 いろんな事を思い出す。制服を着ていた私と千歳。そしてその少し後ろを歩いていた湊。

 強い風が吹いた。私は窓を閉めて、寝転がる。しばらく天井を眺めていたが、そのうちに瞼が重くなり、眠ってしまった。



「みさきちゃんは学校を卒業したらどうするの?」

 あの頃、千歳の部活が終わるまで、いつも私と湊は二人で本を読みながら教室で待っていた。

「東京に出るつもり」

「東京? どうして?」

「大学に行きたいんだ。ここから大学に通うってなると選択も限られちゃうし、それなら東京に出て興味のあることを勉強したいなって」

 湊は悲しそうに視線を落とす。

「別に永遠のさよならってわけじゃないよ」

「うん。でも、やっぱり悲しいな。ずっと一緒だと思ってたから」

「会いに来るよ。どこに行ってもここが私の故郷なことに変わりはないんだから」

 私がそう言うと、湊は顔をあげて笑った。だけど、その笑顔はやっぱり悲し気だった。


 

 目を覚ます。部屋は少し暗くなっていた。そこそこ長い時間眠っていたようだ。長旅で疲れたのかもしれない。

 起き上がり、伸びをする。部屋を出て、共同の洗面所で顔を洗い、外に出てみると、千歳が掃除をしていた。

「あ、みさきちゃん。お出かけ?」

「うん。ちょっと海岸を散歩しようかなって」

「夕飯まであと一時間と少しだから、それくらいには帰ってきてね。お父さんもお母さんも妙に張り切ってるから」

「わかった」

 海岸へと続く階段を下りて、砂浜をのんびり歩く。時折吹く海風が少し冷たい。

 昔はこうして三人でよく歩いていた。

 千歳の家で昼食を食べ、海岸に遊びに行く。休みの時はいつもそうだった。

「なにもないよね、この町」

 千歳が砂浜に寝転がりながらそう言っていたのを思い出す。私はそうだねと返した。けど、湊は、なにもないけど退屈ではないよと言った。私は、どういうことと訊いたのだと思う。どんな訊き方をしたのかは覚えていないけれど、意味を訊いたのは確かだ。

 湊はおだやかな海を見つめながら、こう言った。

「みさきちゃんや千歳ちゃんがいるし、好きな本も取り寄せてもらえる。私はそれで充分。いろんなものがあって不自由しなくても、心に穴があいてたら、たぶん何をしてても退屈だと思う」

 私と千歳は、少し驚いた。湊が強く自分の気持ちを言葉に出すことはほとんどなかったからだ。

「みーちゃんもちゃんと考えてるんだね」

「千歳、それ失礼」

「あ、馬鹿にしてるわけじゃなくて! 本当だよ? ただ、ちゃんと考えてるんだって。みさきちゃんもみーちゃんも、きちんと考えをもって生きてる。すごいなって。私は全然そんなこと考えたことなかったから」

「千歳は民宿を継ぐんでしょ? そのために色々頑張ってる。その方がすごいと思うよ」

 私がそう言うと、湊もそうだよと笑う。

 あの時はよくわかっていなかったけど、今は湊が言っていたことが分かる気がする。

 危険な退屈。満ち足りた場所で満たされない思いを抱える東京での暮らし。大学に通っていた時も、卒業して働き始めてからもそれは変わらなかった。

 立ち止まり、海の方を見る。

「湊」

 名前を口にしてみる。

「湊、今なら分かるよ、湊が言ってたこと。ちゃんと会って伝えたいよ」

 涙がこぼれる。私はその場に座り込み、しばらく泣き続けた。


 

 民宿に戻り、夕食を済ませると、すぐにお風呂に入った。たくさん泣いたせいか、身体が妙に重く感じた。湯船につかりながら、肩を揉んでみるが、たいして変わらなかった。

 部屋に戻るとすでに布団が敷いてあった。

 布団はふかふかしていて、上に転がるとすぐに睡魔がやってきた。

「湊」

 ふとその名を呼んだあと、私は眠った。

 その晩、夢を見た。それは卒業式の時の夢で、私と湊は式が終わった後、部活仲間に挨拶に行った千歳を待っていた。

「卒業式でも変わらないね」

「そうだね。でも、嫌いじゃないよ、こうして待つの。教室で待ってる時も、二人で本を読んで、時々お話して、そのうち千歳ちゃんが疲れた顔してお待たせって教室に来て」

 海風は穏やかで、暖かい。校庭には、別れを惜しむ声があふれていた。私たちはその光景をぼんやり見つめていた。

「好きだよ」

 唐突に、湊が言った。

「私もだよ」

 そう返した。

「千歳ちゃんに対する好きとは違うよ」

 湊が少しおかしそうに言った。

 どういうこと? と私が湊の方を向くと、湊は自分の唇に指先を乗せ、その指で私の唇をつつく。

「こういうこと」

 湊は今まで見たことのない悪戯っ子みたいな顔で笑う。

「みさきちゃんが東京に行く前に、きちんと思いを伝えたかったんだ。それだけ」

 私は何も言えず、ただ頬を赤くして湊から目をそらすことしかできなかった。そのうちに千歳が戻ってきて、赤くなっている私を見てなにかあったのかと聞いてきたのだけど、言えるはずもなく、私はあれやこれやとごまかしの言葉を並べ立てていた。

 そんな私たちの手を湊が握り、楽しいね。と言った。私たちは三人で笑い、そのまま手を繋いで帰った。

 大事な思い出。ただ楽しくて、満たされていた。

 手を繋ぎ歩いていく三人の背中が遠くなる。そこで私は、これが夢なんだと思いだし、目を覚ました。


 

 身支度を整え、千歳と千歳の両親と共に民宿を出た。

「昨日、卒業式の時の夢を見たよ」

 今日は運転を千歳のお父さんがしており、助手席には千歳のお母さんが乗っている。私と千歳は後部座席に並んで座っていた。

「懐かしいね」

「東京に出て、色々と得るものもあったけど、私はいつもよく分からない悲しさを感じてた。千歳は私には東京が似合うなんて言ってくれたけど、全然だよ。東京で学べることもあるけど、ここでも学べることはあったんじゃないかなって考えることもある。でも、それを認めるのは悔しいから、誤魔化してるだけ。カッコ悪いね」

 千歳は私の話を黙ってきいてくれていた。いつも通りの、昔と変わらない優しい笑顔で。

「心に穴が開くと、なにをしていても退屈に感じちゃうんだっけ。みーちゃんが言ってたよね」

「覚えてたんだ」

「印象的だったから。みーちゃんがはっきりと意見を言うって珍しかったし。だけど、みーちゃんはちゃんと考えてたんだよね。いつもちゃんと考えてた。今はそう思う」

「うん。私たちの中で一番大人だったのは、湊だったんだ」

 今まで私は故郷に帰らずにいた。帰ることが逃げることのように思えたからだ。でも、そうじゃない。一番大切なのは、自分の心なんだ。

 私は、帰るべきだった。

 湊に、ただいまと言って、手をとり微笑みを交わすべきだった。

 車が目的地にたどり着いた。記帳し、会場に入り、湊の両親に挨拶をした。メールでやりとりをしていたにも関わらず会いにこなかったことを詫びた。だが、湊の両親はそれを責めるようなことはせず、こうして最後に会いに来てくれただけで充分だと言ってくれた。

「湊」

 千歳と共に、棺の中の湊に話しかける。少しやせてはいたけれど、湊はあの頃とほとんど変わっていないように見えた。

 隣で千歳が泣いている。私の目からも涙があふれている。

「みーちゃん、いつもみさきちゃんのことを話してた。病気が悪化して、寝ている時間が増えた後も、みさきちゃんのことを話すときはいつもにこにこしてて」

 過去のことになってしまったけれど、あの頃の思い出はずっと心の中に残り続けている。

 数日後には、私はまた東京での暮らしに戻るだろう。落ち込むこともあるかもしれない。疲れた……もうイヤだ……と泣きだすこともあるかもしれない。

 それでも私は、歩いていく。

 大切な思い出で心の穴を少しずつふさぎながら、危険な退屈に立ち向かっていく。

 湊の分まで、生きていく。

 涙を拭い、私は湊へ笑顔を向ける。

「遅くなってごめんね、湊。ただいま」

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